第51話 こちら生まれではありませんでした
――帝国暦三五〇年・夏中頃 サザ子爵家邸――
昼食の食堂は、いつもより少し賑やかだった。
皇太子殿下。
エルナリア。
ケイン。
レナ。
テッド。
レオエナ。
ミア。
リトリー。
セフィリア。
ティナリア。
そしてクロウ。
人数が多い。
食器も多い。
会話も多い。
クロウは、自分の席に座る前に、皿の位置を一度だけ見た。
乱れてはいない。
それだけで、少しだけ安心する。
今日は、町で買ってきたものがあった。
工具屋「俺の鋼」で買った研磨剤やウエス、ヤスリ、ピンセット、時計用の油は、もう作業小屋へ置いてある。
菓子屋「ミッドナイト」で買った焼き菓子もある。
そして、ジャム屋「ダンジュ」で買ったジャム。
花蜜入りのジャムと、苺のジャム。
昼食が始まる前に、クロウは包みを持って立った。
「母様」
「あら、なあに?」
エルナリアが顔を上げる。
クロウは、花蜜入りのジャムを差し出した。
「町で買った。ダンジュの新作。母様が好きそうだったから」
エルナリアの顔が、ぱっと明るくなった。
それだけで、食堂の空気が少しやわらかくなる。
「まあ……ありがとう、クロウ」
「うん」
「とても嬉しいわ」
エルナリアは両手で瓶を受け取った。
そのままクロウを抱きしめるように手を伸ばしかけて、ふと食卓を見た。
皇太子殿下がいる。
セフィリアとティナリアもいる。
リトリーもいる。
使用人も控えている。
エルナリアは、少しだけ微笑んで手を止めた。
「あとで、大切にいただくわね」
「うん」
クロウは少しだけ安心した。
母様は、たぶん今は我慢してくれた。
問題は、もう一人だった。
「エナ姉」
「なあに?」
レオエナが嬉しそうにこちらを見る。
まだ何も渡していないのに、もう期待している顔だった。
クロウは苺のジャムを差し出した。
「エナ姉には、これ」
「私に?」
「うん。苺。甘いやつ」
レオエナは瓶を受け取った。
次の瞬間、目が潤んだ。
「クロウ……」
危ない。
クロウはすぐにそう思った。
レオエナは椅子から立ち上がりかけた。
完全に抱きしめに来る動きだった。
「レオエナ」
リトリーが横から、さっとレオエナの袖をつまんだ。
「食堂よ」
「分かっているわ」
「分かっている顔じゃないわ」
レオエナは瓶を抱えたまま、少しだけ困った顔をした。
「でも、クロウが私のために選んでくれたのよ」
「ええ。だからこそ、今は落ち着きましょう」
エルナリアも、やわらかく笑った。
「レオエナ、昼食の前よ」
「……はい」
レオエナは、名残惜しそうに席へ戻った。
けれど、視線はずっとクロウに向いている。
クロウは少しだけ背中を伸ばした。
あとで来る。
たぶん。
かなりの確率で。
「クロウ」
レオエナは、瓶を大事そうに抱えながら微笑んだ。
「ありがとう。あとで、一緒に食べましょうね」
「うん」
一緒に食べるだけで済むかは分からない。
だが、今はそれでよかった。
リトリーはくすくす笑っている。
「よかったわね、レオエナ」
「ええ。とても」
「あとでちゃんとお礼を言えばいいわ」
「もう言ったわ」
「抱きしめる以外のお礼もあるでしょう?」
クロウは、リトリーを見た。
リトリーは悪びれずに笑っている。
助けてくれたのか、余計に増やしたのか、少し分からない。
たぶん両方だった。
■
昼食が始まると、食堂の会話は自然に広がった。
町の話。
菓子屋の話。
工具屋の妙な店名の話。
ジャム屋の新作の話。
ティナリアは「俺の鋼」という名前がまだ気になるらしく、時々小さく繰り返していた。
「俺の鋼……」
「ティナ」
セフィリアが静かに呼ぶ。
「気に入ったの?」
「不思議な名前です」
「忘れなさい」
「でも、忘れにくいです」
それはそうだと、クロウも思った。
忘れにくい店名である。
エルナリアは、花蜜入りのジャムの瓶を見てから、皇太子殿下へ視線を向けた。
「兄様」
「なんだい、エルナリア」
「父上と母上は、お元気ですか」
「ああ、元気だよ」
皇太子殿下は、嬉しそうに答えた。
「二人とも、お前に会いたがっている。もちろん、クロウにもね」
クロウは少しだけ顔を上げた。
「僕?」
「ああ。かなり会いたがっている」
「かなり」
「かなりだ」
皇太子殿下は楽しそうに頷いた。
「近いうちに、一度帝都へ来るといい。父上も母上も喜ぶ」
帝都。
クロウはその言葉を、少し遠い場所のように聞いた。
皇宮。
大きな通り。
人の多い場所。
たぶん、とても整っていて、同時にとても騒がしい場所。
クロウにはあまり想像がつかない。
「僕は、こちら生まれの田舎育ちなので」
クロウは真面目に言った。
「帝都は、少し」
食卓が止まった。
止まった、気がした。
エルナリアが目を丸くしている。
レオエナも、テッドも、レナも、ミアもクロウを見た。
リトリーも、セフィリアも、ティナリアも見ている。
ケインまで、少しだけ驚いた顔をした。
「何?」
クロウは聞いた。
ケインが静かに口を開く。
「クロウ」
「うん」
「お前は、こちら生まれではない」
クロウは止まった。
「え?」
「帝都生まれだ」
「僕が?」
「ああ」
クロウは母様を見た。
エルナリアは少し困ったように、それでも優しく微笑んでいた。
「そうよ、クロウ」
「母様」
「ミアはこの屋敷で生まれたけれど、テッドもレオエナも、あなたも帝都生まれなの」
「……僕も?」
「ええ。私があなたを身ごもっていた頃から、あなたが少し大きくなるまでは、帝都で暮らしていたのよ」
クロウは黙った。
自分は、ずっとこちらの屋敷で生まれたと思っていた。
サザ子爵領生まれ。
田舎育ち。
屋敷と森と町と学校。
それが自分の場所だと思っていた。
帝都は、母様や皇太子殿下や、もっと上の人たちの場所だと思っていた。
自分もそこにいたらしい。
まったく覚えていない。
「知らなかった」
クロウが言うと、テッドが少し呆れたように水を飲んだ。
「知らなかったのか」
「うん」
「俺は十歳くらいまで帝都にいた」
「兄様が?」
「ああ」
「知らなかった」
「お前、本当に自分の興味のないことは知らないな」
「うん」
自覚はある。
でも、自分の生まれた場所まで知らないとは思わなかった。
皇太子殿下は、テッドへ視線を向けた。
「テッドは、今も官僚になるための勉強をしているのだったね」
「はい。アランと共に学んでおります」
テッドは静かに答えた。
クロウは、少しだけ兄を見る。
兄様がアランと一緒に勉強していることは知っている。
知っているが、官僚になるための勉強と言われると、少しだけ遠いものに聞こえた。
「兄様、官僚になるの?」
「選択肢の一つだ」
「どうして?」
テッドは少しだけ水を飲んだ。
「帝都で官僚になれば、制度も、税も、物資の流れも、領地経営に必要なものを実地で学べる。いずれこの領地へ戻るなら、その知識は無駄にならない」
「兄様らしい」
「そうか?」
「うん」
クロウは素直に頷いた。
兄様は絵も描けるし、眠そうだし、面倒くさがるけれど、考えていることはかなり先まで伸びている。
自分とは少し違う。
皇太子殿下は、今度はクロウへ視線を向けた。
「では、クロウはどうだい?」
「僕?」
「ああ。テッドは帝都で官僚となる道も考えている。では、君は将来、何をしてみたい?」
クロウは少し考えた。
将来。
まだはっきり決めているわけではない。
でも、最近少し考えていることはある。
工具。
時計。
部品。
仕入れ。
修理。
町の店。
そして、あの看板。
「俺の鋼で、丁稚をしたいです」
食卓が、また止まった。
皇太子殿下も止まった。
エルナリアは目を丸くした。
ケインは一瞬だけ黙った。
テッドは頭を押さえた。
レオエナは、なぜか少し嬉しそうだった。
ミアは黒猫を撫でながら、にこにこしている。
ティナリアが首を傾げた。
「俺の鋼?」
「工具屋さん」
クロウは真面目に答えた。
「町の工具屋です。仕入れとか、品物の管理とか、道具を見る仕事をしてみたいです」
しばらくの沈黙のあと、ケインが笑った。
小さく。
けれど、確かに笑った。
それにつられるように、エルナリアも笑った。
レナも口元を押さえている。
リトリーは肩を震わせていた。
テッドはため息をつきながらも、少し笑っている。
皇太子殿下は、少し遅れて笑った。
「工具屋か」
「はい」
「それはまた、思っていたものと違うな」
「そうですか?」
「ああ。かなり違う」
クロウは首を傾げた。
自分では、かなり真面目に答えたつもりだった。
俺の鋼は良い店である。
店主も道具に詳しい。
細かい工具もある。
仕入れのことを覚えれば、部品を探すのに役立つかもしれない。
領地経営にも、物の流れを知ることは役に立つかもしれない。
「でも、仕入れを覚えれば、領地の物の流れも分かると思います」
クロウは言った。
「道具の質も見られるようになりますし、どこから何を買うのかも分かります。いずれこの土地で、役に立つかもしれない」
笑いが少し静かになった。
テッドがちらりとクロウを見る。
ケインも、少しだけ目を細めた。
皇太子殿下は、今度は少し真面目に頷いた。
「なるほど。ただ工具屋で働きたいというだけではないのだね」
「工具も見たいです」
「そこは外さないのか」
「はい」
皇太子殿下はまた笑った。
「いい。とても君らしい」
クロウは、自分らしいと言われてもよく分からなかった。
ただ、馬鹿にされた感じではなかった。
それは少しだけ分かった。
「ただし」
皇太子殿下は、少し声をやわらげた。
「君の祖父母が、君に会いたがっているのは本当だ。一度くらいは帝都へ来てほしい」
「……はい」
「工具屋の前に、祖父母孝行だね」
「祖父母孝行」
「そうだ」
クロウは少しだけ考えた。
帝都。
知らないはずだった場所。
でも、自分が生まれたらしい場所。
祖父母がいて、自分に会いたがっている場所。
行かなければならないのかもしれない。
でも、すぐには心が追いつかない。
「考えます」
「それでいい」
皇太子殿下は満足そうに頷いた。
食卓の空気は、少しずつ戻っていった。
ティナリアはまだ「俺の鋼」という名前が気になるらしく、小さく繰り返している。
セフィリアは、クロウの将来の話を意外そうに受け止めている。
リトリーはレオエナに何か小声で言って、二人で少し笑っていた。
クロウは、目の前の皿を見た。
こちら生まれではなかった。
帝都生まれだった。
祖父母が会いたがっているらしい。
テッドは今も、官僚になるために学んでいる。
自分は、俺の鋼で丁稚をしたいと言った。
笑われた。
でも、完全には否定されなかった。
今日もまた、思っていなかったことが増えた。
作業小屋の歯車より先に、自分のことが少し動いた気がした。
クロウは静かに水を飲んだ。
帝都。
俺の鋼。
祖父母。
工具。
官僚。
どれもまだ、うまく噛み合っていなかった。




