第50話 絵の相談に巻き込まれました
――帝国暦三五〇年・夏初め サザ子爵家邸――
皇太子殿下とエルナリアの絵を描く。
それは、テッドにとっても簡単な話ではなかったらしい。
街から帰宅して。
クロウは、テッドと一緒に応接室へ向かっていた。
テッドは眠そうだった。
いつものことではある。
けれど、今日は眠そうなだけではなく、少しだけ面倒そうでもあった。
「兄様」
「なんだ」
「嫌?」
「嫌ではない」
「面倒?」
「かなり」
正直だった。
「皇太子殿下と母様の絵だから?」
「ああ」
テッドは短く答えた。
「普通の姿絵とは違う。描く相手の立場もある。関係もある。構図を間違えれば、絵ではなく問題になる」
「問題」
「かなり面倒な問題だ」
クロウは少しだけ想像した。
皇太子殿下が母様を抱きかかえて回した姿。
それを見て硬くなっていた父様の顔。
乱れていたチェロの音。
絵の中で皇太子殿下と母様が近すぎたら、たぶん父様の音がまた乱れる。
でも、遠すぎたら皇太子殿下が納得しない。
かなり難しい。
「兄様、描ける?」
「描けるかどうかなら描ける」
「じゃあ大丈夫?」
「大丈夫かどうかは別だ」
テッドはそう言って、応接室の扉の前で足を止めた。
クロウも止まる。
扉の横にはシドがいた。
クロウの護衛としてついてきたらしい。
ただ、部屋の中へ入るかどうか迷っている顔をしている。
「シド」
「おう」
「入るの?」
「護衛だからな」
「絵の相談だよ」
「外で待ってる」
シドはそう言った。
たぶん、絵の相談には興味がない。
いや、レオエナの絵なら興味があるかもしれない。
でも、今日は皇太子殿下と母様の絵だった。
そこには近づかない方がいいと思っているのだろう。
クロウは少し分かった。
扉が開く。
中には皇太子殿下とエルナリアがいた。
ケインもいた。
ただ、父様は長く同席する気はなさそうだった。
必要な挨拶だけを済ませ、絵の相談そのものはエルナリアと皇太子殿下に任せるつもりらしい。
「来たか、クロウ。テッドも」
皇太子殿下は機嫌がよさそうだった。
テッドは深く礼をする。
「改めてご挨拶申し上げます、殿下。テッド・サザでございます」
「ああ、テッド。姿絵を見たよ。見事だった」
「恐れ入ります」
テッドの声は落ち着いていた。
けれど、クロウには少しだけ分かった。
褒められて、悪い気はしていない。
たぶん、少し嬉しい。
ただ、表情にはあまり出さない。
皇太子殿下は、部屋の外に控えるシドにちらりと目を向けた。
「プラムの息子か」
シドが背筋を伸ばした。
「はい。シドと申します」
「よく似ている」
皇太子殿下は少しだけ笑った。
「目つきが真面目すぎるところなど、特に」
シドは返答に困ったようだった。
クロウも少し困った。
プラムに似ていると言われるのは、褒め言葉なのか、警告なのか、少し分かりにくい。
ケインは静かに口を開いた。
「殿下。絵の件につきましては、エルナリアの意向もございます。私は、テッドとエルナリアに任せようと思います」
「そうか」
皇太子殿下は穏やかに頷いた。
「君がそう言うなら、そうしよう」
ケインは軽く礼をした。
別に嫉妬しているわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、皇太子殿下と長く向き合うのが少し疲れるのだろう。
クロウには、なんとなく分かった。
父様は皇太子殿下を嫌っているわけではない。
でも、できればあまり接触したくない。
だから、テッドやクロウが皇太子殿下の相手をするなら、それはそれで安心なのかもしれない。
ケインはエルナリアへ目を向ける。
「エルナリア。無理のないように」
「ええ。ありがとう、ケイン」
エルナリアが微笑む。
ケインは少しだけ表情をやわらげてから、部屋を出ていった。
クロウはその背中を見送った。
父様は逃げた。
たぶん。
でも、上手に逃げた。
「さて」
皇太子殿下は楽しそうに言った。
「では、どのような絵にするか相談しよう」
テッドはすぐに姿勢を整えた。
眠そうだった顔が、少しだけ仕事の顔になる。
「まず、大きさからお伺いしてもよろしいでしょうか」
「大きさか」
「はい。半身の姿絵なのか、全身を入れるのか。部屋に飾るものか、持ち運びも考えるものかで、描き方が変わります」
「なるほど」
皇太子殿下はエルナリアを見る。
「私は大きくても構わないが、エルナリアはどうだい?」
「兄様が持ち帰るのでしょう?」
「できればね」
「では、大きすぎると困るのではありませんか」
「飾る場所はいくらでもある」
「兄様」
エルナリアは少し困ったように笑った。
「ほどほどになさってください」
「ほどほどか」
皇太子殿下は少し残念そうだった。
テッドは冷静に言う。
「滞在中に完成まで進めるのであれば、大きさは抑えた方がよろしいかと思います。ただ、完成を後日にしてよいのであれば、ある程度大きなものも可能です」
「後日でもよい。急ぎではない」
「では、下描きと構図をこちらで固め、仕上げは後日でもよろしいでしょうか」
「それで構わない」
皇太子殿下はすぐに頷いた。
嬉しそうだった。
絵の話をしている時の皇太子殿下は、少し子どもっぽい。
エルナリアと一緒に描かれることが、かなり嬉しいらしい。
クロウは横で聞いていた。
基本的に、見ているだけだった。
というより、話に入る場所がない。
テッドは続ける。
「構図についてですが、立ち姿にするか、座った姿にするか。並ぶのか、少し角度をつけるのか。背景を入れるかどうかも決める必要があります」
「私は、エルナリアと並んでいるものがいい」
「兄様」
エルナリアが少しだけたしなめる。
「自然な形がよろしいのでは?」
「自然に並べばいい」
「兄様の自然は、時々自然ではありません」
皇太子殿下は楽しそうに笑った。
「そうかな」
「そうです」
テッドはそのやり取りを見ても表情を崩さなかった。
ただ、少しだけ目元が動いた。
たぶん、構図が難しくなったのだと思う。
「でしたら、一度、簡単なデッサンを取らせていただきたいと思います」
「いつがいい」
「可能であれば、本日中に一度。大きな絵にするなら、早めに姿勢と位置を決めておかないと、滞在中に十分な下描きが取れません」
「今日か」
皇太子殿下は嬉しそうにエルナリアを見る。
「エルナリア、構わないかい?」
「ええ。私は構いません」
クロウは母様を見た。
「母様」
「なあに?」
「絵に描かれるの、嫌じゃないの?」
エルナリアは少しだけ目を丸くした。
それから、やわらかく笑う。
「昔は散々描かれたもの。今さら嫌ではないわ」
「散々」
「ええ。兄様が何かと絵師を呼ぶから」
「それは必要だった」
皇太子殿下が言う。
「エルナリアは可愛かったからね」
「兄様」
「今も可愛い」
「兄様」
エルナリアは困ったように笑っていた。
クロウは、やはりこの人は母様のことになると少し大変だと思った。
「でも」
エルナリアはテッドへ視線を向ける。
「テッドに描いてもらうのは久しぶりだから、少し嬉しいわね」
テッドがわずかに止まった。
「恐れ入ります」
声は落ち着いていた。
けれど、たぶん少し照れている。
クロウには、なんとなく分かった。
皇太子殿下に褒められるより、母様にそう言われる方が、兄様には効いている気がした。
「では、本日の午後に一度、お時間をいただければ」
テッドが言う。
「場所は光の入る部屋がよいです。窓が大きく、長く座っていても負担が少ない場所が望ましいかと」
「なら、南側の小応接室がよいかしら」
エルナリアが言った。
「あそこなら光も入るし、椅子も楽です」
「では、そちらでお願いいたします」
話が進んでいく。
かなり具体的に進んでいく。
大きさ。
構図。
姿勢。
背景。
下描き。
場所。
時間。
クロウは横で聞きながら、少しだけ思った。
早く時計を見たい。
作業小屋へ行きたい。
昨日買った研磨剤も、ウエスも、ヤスリも、ピンセットも、油もまだちゃんと使えていない。
旧館から持ち帰った部品も、まだ全部は確かめていない。
でも、今日の午後は下描きになるらしい。
その間なら、作業小屋へ行けるかもしれない。
昨日買った道具も使いたい。
旧館から持ち帰った部品も、まだ全部は確かめていない。
「クロウ」
皇太子殿下に声をかけられて、クロウは少しだけ顔を上げた。
「はい」
「セフィーとティナとは、うまくやれているかい?」
急だった。
クロウは少しだけ固まった。
セフィリア。
ティナリア。
剣。
町。
旧館。
寝台。
距離。
手を握られたこと。
色々なものが頭を通った。
「……セフィリア様は、落ち着いています」
「うん」
「ティナリア様は……近いです」
皇太子殿下は一瞬黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「ティナは近いか。そうだろうね」
「かなり近い」
「かなりか」
「はい」
エルナリアも横で微笑んでいる。
笑っている。
クロウは少しだけ困った。
自分は本当に困っているのに、大人たちは少し楽しそうだった。
「できれば、二人ともっと仲良くしてやってほしい」
皇太子殿下は言った。
「仲良く」
「あの子たちは、同じ年頃の相手と普通に過ごす機会が少ない。君のように、あまり遠慮しすぎない相手は貴重だ」
「遠慮」
「していないだろう?」
「少しは、してます」
「少しは、か」
皇太子殿下はまた笑った。
「それくらいでいい」
クロウは少しだけ目を伏せた。
普通に。
そう言われても、普通が難しい。
ティナリアは近い。
セフィリアは真面目で、剣の話になると目が変わる。
二人とも悪い人ではない。
でも、落ち着くかどうかは別だった。
「普通に、ですか」
「そう。できれば普通に」
「普通が難しいです」
「そこからでいい」
皇太子殿下は軽く言った。
軽く言われても、クロウには少し重かった。
エルナリアは、そんな二人を見てやわらかく笑っている。
「クロウなら、大丈夫よ」
「母様」
「無理に背伸びしなくていいの。困った時は困ると言えばいいわ」
「言ってる」
「ええ。よく言えているわ」
それでいいのだろうか。
クロウには少し分からなかった。
テッドはその横で、すでに紙に簡単な線を引いていた。
皇太子殿下とエルナリアの位置。
椅子。
窓。
光の向き。
話しながら、もう考えているらしい。
兄様はすごい。
そして、かなり早い。
テッドはクロウへ目を向けた。
「クロウ。午後は来なくていい」
「いいの?」
「ああ。今日は構図と姿勢を決めるだけだ。お前がいてもすることがない」
「分かった」
クロウはすぐに頷いた。
それなら、午後は作業小屋へ行ける。
昨日買った道具も使える。
止まっていた時計の続きを見られる。
少しだけ気分が軽くなった。
母様を見る。
エルナリアは少しだけ楽しそうに笑っていた。
「では、本日の午後。南側の小応接室で」
テッドがまとめた。
「最初は簡単なデッサンです。長時間にはしません。ただし、構図が決まらない場合は、何度か取らせていただくことになるかもしれません」
「構わない」
皇太子殿下は即答した。
「エルナリアと並ぶ時間なら、何度でも構わない」
「兄様」
エルナリアがまた困ったように呼ぶ。
テッドは表情を動かさなかった。
すごい。
クロウなら、たぶん少し顔に出る。
話し合いはそこで終わった。
部屋を出ると、シドが待っていた。
「終わったのか」
「たぶん」
「長かったな」
「長かった」
「絵の話って、そんなに決めることがあるのか」
「あるみたい」
「大変だな」
「うん」
クロウは廊下を歩きながら、窓の外を見た。
明日は学校がある。
行きたい。
ぜひ行きたい。
学校に行けば、シドがついてくるかもしれない。
それはそれで目立つ。
でも、屋敷にいるよりは落ち着くかもしれない。
ただ、この様子だと、明日もどうなるか分からない。
皇太子殿下の絵。
ティナリアとセフィリア。
シド。
時計の部品。
作業小屋。
学校。
全部が少しずつ、クロウの中で揺れていた。
早く時計を直したい。
学校にも行きたい。
クロウは小さく息を吐いた。
歯車は、まだ噛み合っていない。
時計も。
屋敷も。
たぶん、自分の予定も。




