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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 小径つむぎ
第一章 日常編

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第4話 ふれたもの

――帝国暦三五〇年・春初め 帝国人民学校・地方分校――


 朝の空気はやわらかかった。


 校舎の白い壁が春の光を受けている。


 門の向こうでは、何人もの生徒が同じ方向へ歩いていた。


 話しながら歩く人。


 少し急いでいる人。


 鞄を持ち直す人。


 足音の間隔はばらばらだった。


 でも、それで困ることはない。


 クロウは校門をくぐった。


 ここは、屋敷より少し軽い。


 足音も、声も、人の流れも、あまり引っかからない。


 廊下では誰かが友達を呼んでいる。


 教室から椅子を引く音がする。


 窓の近くでは、朝の風に紙が一枚だけ揺れていた。


 誰かの足音を聞いて身構える必要もないし、急に背中へ腕が回ってくることもない。


 それがいい。


 靴箱の前まで来たところで、クロウは足を止めた。


 一足だけ、ほかより奥へずれている靴がある。


「……」


 指先で少し戻す。


 隣と同じくらいの位置。


 これでいい。


 それだけで通りやすくなった気がした。


 教室に入る。


「おはよう、クロウ」


「おはよう」


 短い挨拶。


 それで終わる。


 窓際では二人が昨日の話をしていた。


 後ろでは誰かが机の中を探している。


 ガイは前の席で椅子を少し引き、エドはまだ鞄の留め具を外していた。


 みんな自分のことをしている。


 クロウは自分の席に座った。


 教科書を机の上へ置く。


 端を揃える。


 鉛筆を右側へ置く。


 少し斜めだったので直した。


 教科書。


 鉛筆。


 机の端。


 三つがほぼ同じ向きになった。


 ここでは、それだけでよかった。


「今日、見学が来るらしいよ」


 前の席から声がした。


 ガイが椅子の背に片腕を乗せ、振り向いている。


「見学?」


「家庭教師がついてるような良家の子が、学校の授業を見に来るんだって」


「へえ」


「貴族かな」


 エドも話に入ってきた。


「先生も朝からちょっと落ち着かないし」


 クロウは教室の前を見る。


 教師はまだいない。


 でも、黒板はいつもよりきれいに消されていた。


 教卓の上にも、紙が揃えて置かれている。


 いつもそうだったかもしれない。


 今日は、そこに気づいただけかもしれない。


 周りでも似たような話が始まっていた。


 誰が来るのか。


 どこの家なのか。


 どうして学校を見に来るのか。


「王都からだったりして」


「そんな遠くから来るか?」


「でも、すごい人かもしれないじゃん」


 声がいくつも重なる。


 別に悪い話ではない。


 でも、教室の空気がいつもより少しだけ浮いている。


 まだ何も来ていないのに、みんな少し先の方を見ている。


 クロウは鉛筆をもう一度まっすぐに置いた。


◇ ◇ ◇


 授業が始まった。


 チョークの音。


 ページをめくる音。


 椅子のきしむ音。


 教師の声。


 窓の外から、ときどき鳥の声が入ってくる。


 いつもの流れに戻る。


 教師が黒板へ文字を書く。


 生徒たちがそれを写す。


 誰かが消しゴムを落とす。


 拾う。


 また鉛筆の音が続く。


 クロウはこういう時間が好きだった。


 何をするのか決まっている。


 教師が話す。


 黒板を見る。


 必要なら書く。


 分からなければ聞く。


 誰かが急にクロウを抱きしめたりしない。


 何かを言わなくても、ただ授業を受けていればいい。


 けれど、休み時間になるたびに誰かが廊下を覗いた。


「まだかな」


「ほんとに来るのかな」


「どんな人だろう」


 扉の近くまで行って外を見る者もいる。


 窓から校門の方を見ようとしている者もいた。


 期待しているらしい。


 その気持ちは分からなくもない。


 知らないものが来るなら、少し気になる。


 ただ、クロウはそこまでではなかった。


「クロウ」


 横から声をかけられる。


 ガイだった。


 机の横へ来ている。


「今日の見学のこと、何か知ってる?」


「知らない」


「そっか」


 ガイの肩が少し下がる。


 本当に何か知っていると思っていたらしい。


「なんか、すごい人が来そうな気がするんだよな」


「どうして?」


「なんとなく」


「そう」


「なんとなくってあるだろ?」


「分からない」


「あるんだよ」


 ガイはそう言って、自分の席へ戻った。


 クロウにはよく分からなかった。


 でも、楽しみにしていることだけは分かった。


◇ ◇ ◇


 昼前。


 廊下の向こうから足音が聞こえた。


 クロウの指が止まる。


 軽すぎず、重すぎず。


 何人かいる。


 教師の歩幅とは違う音も混じっていた。


 その中に、一つ。


 迷わず近づいてくる足音。


 クロウは顔を上げた。


 教師も一度だけ扉を見る。


 教室の声が自然に小さくなった。


 さっきまで小声で話していた二人も口を閉じる。


 椅子の脚が床を擦る音が一度して、それも止まった。


 足音が扉の前で止まる。


「見学の方です」


 教師が言った。


「今日は授業の様子を見に来ています。皆さん、普段通りにしてください」


 普段通り。


 クロウは教室を見る。


 もう、少し普段通りではない。


 扉が開いた。


 そこに立っていた人を見て、クロウは固まった。


「……」


 金色の髪。


 澄んだ青い瞳。


 白に近い淡い色の服。


 柔らかな袖と、細かなレース。


 見間違えるはずがなかった。


 レオエナだった。


「……綺麗」


 誰かが小さく呟いた。


 その声をきっかけに、教室のあちこちで小さなざわめきが起こる。


 ほんの少しだけ。


 すぐに止まる。


「レオエナと申します」


 エナ姉がやわらかく挨拶した。


 屋敷でクロウを探して走っている時とは、少し声が違った。


 速くない。


 大きすぎない。


 きれいに整っている。


 ガイが息を呑む。


 エドも小さな声で、


「すごいな……」


 と呟いた。


 クロウは動かなかった。


 どうしてエナ姉がここにいるのか。


 聞いていない。


 来るとも言っていなかった。


 それより先に考えたことがあった。


 見つからないでほしい。


 でも、その願いはすぐに終わった。


 エナ姉が教室を見回す。


 前から後ろへ。


 一人ずつ見るように視線が動く。


 その視線がクロウのところで止まった。


 ほんの一瞬。


 でも、分かった。


 見つかった。


 エナ姉の目が少しだけ明るくなる。


 口元も動きかける。


 クロウは机の端に指を置いた。


 今は来ないで。


 呼ばないで。


 ここでは。


 声には出していない。


 動いてもいない。


 ただ、エナ姉を見る。


 それでも、エナ姉は一度だけ瞬きをすると、何事もなかったように視線を外した。


「……」


 クロウは小さく息を吐いた。


 分かってくれたらしい。


 少し意外だった。


 でも、助かった。


 教師に案内され、エナ姉は教室の後ろに用意された席へ座った。


 椅子を引く音も小さい。


 服の裾を整え、静かに腰掛ける。


 それだけだった。


 でも、教室はいつもと同じではなくなった。


◇ ◇ ◇


 先生は普通に授業を続けている。


 黒板へ文字を書く。


 質問をする。


 生徒が答える。


 何も変わっていない。


 はずだった。


 でも、みんな少しずつ後ろを気にしていた。


 ページをめくる音が小さい。


 椅子を動かす音も控えめになっている。


 誰かが背筋を伸ばす。


 誰かが髪を直す。


 さっきまで机に肘をついていた生徒が、両手をきちんと机の上へ置いている。


 いつもより丁寧に文字を書いている人までいた。


 クロウは鉛筆を見る。


 机も同じ。


 教科書も同じ。


 教師も同じ。


 窓の外の春の光も、さっきと大きく変わらない。


 でも、空気だけが違う。


 エナ姉は何もしていない。


 座っているだけ。


 それでも、人が一人増えただけで、こんなに変わる。


 クロウには少し不思議だった。


 そのまま授業が終わった。


 教師が教科書を閉じる。


 教室のあちこちで、ほとんど同時に息を吐く音がした。


 休み時間になる。


 さすがにエナ姉の周りへ一斉に人が集まることはなかった。


 先生も近くにいるし、見学に来た人を囲むのは失礼だと思っているらしい。


 ただ、視線はずっと集まっていた。


 エナ姉が教師と話せば、何人かが見る。


 少し笑えば、また誰かが見る。


「本当に綺麗だったね」


「どこの家なんだろう」


「声もすごく上品だった」


 女子たちの声も聞こえる。


 ガイはまだ後ろを気にしていた。


 エドも隣の席と小声で話している。


 サムは一度振り向く。


 すぐ前を向く。


 少しして、また見る。


 クロウは机に手を置いた。


 ここは屋敷ではない。


 エナ姉も普段はいない。


 ミアもいない。


 父様のチェロも聞こえない。


 レナ様の作業室のように、布と糸の匂いもしない。


 学校には学校の音がある。


 チョーク。


 紙。


 机。


 椅子。


 友達の声。


 だから、今までは少し気楽だった。


 でも今日、一度エナ姉が来ただけで、その空気に少し触れてしまった。


 クロウは鉛筆を置き直した。


 まっすぐになった。


 でも、それで周りまで戻るわけではない。


「なあ、クロウ」


 ガイが声をかけてきた。


「何?」


 ガイは一度だけ教室の後ろを見る。


 それから、少し声を落とした。


「今の人さ」


「うん」


「お前、知ってる?」


 クロウはすぐには答えなかった。


 教室のあちこちから、まだ声が聞こえている。


 綺麗だった。


 すごかった。


 どこの家だろう。


 悪い声ではない。


 エナ姉を嫌がっている人はいない。


 ただ、少しだけ話が先へ進み始めている。


 父様の言葉を思い出した。


 まず聴く。


 クロウは少しだけ周りの声を聞いた。


 それからガイを見る。


「……見学の人」


「いや、それは分かってるよ」


 ガイが苦笑する。


「知り合いなのかって聞いてるんだ」


「……少し」


「少し?」


 エドがこちらを見る。


 椅子ごと少し近づいた。


「少し知り合いって何だよ」


「そのまま」


「余計分からないだろ」


 ルークも首を傾げた。


「以前に会ったことがある、という意味か?」


 クロウは答えなかった。


 全部を話す必要はないと思った。


 エナ姉だと言えば、それで終わるかもしれない。


 でも、たぶん終わらない。


 その先に、また別の質問が来る。


 どこの家なのか。


 どうして姉が学校へ来たのか。


 家ではどうなのか。


 そこまで話す必要があるのかは、まだ分からない。


「無理に聞くの、よくないんじゃない?」


 サムが小さく言った。


「ああ、まあ……そうだけど」


 ガイが少し引く。


 エドも椅子を元の位置へ戻した。


 それで話は一度止まった。


 完全には止まっていない。


 たぶん、また誰かが聞いてくる。


 でも、今はそれでいい。


 クロウは鉛筆の先を見る。


 少し丸くなっていた。


 削れば戻る。


 でも、今は授業の途中だ。


 急いで削る必要はない。


 レナ様が言っていた。


 全部ほどかなくても、続くようにすればいい。


 クロウは鉛筆を机の右側へ置いた。


 朝と同じ位置。


 まっすぐに。


 でも、学校の空気は朝と同じではなかった。


 エナ姉はただ見学に来ただけだ。


 クロウを呼んでもいない。


 近づいてもいない。


 抱きしめてもいない。


 ただ、教室の後ろに座っただけ。


 それでも、一度触れたものは少しだけ形を変える。


 布も。


 音も。


 人のいる場所も。


 クロウは教室の後ろを見なかった。


 今はまだ、何もしなくていい。


 まず聴く。


 それから見る。


 触るのは、そのあとでいい。


 クロウは次の授業の教科書を机の上へ出した。


 端を揃える。


 鉛筆をその横へ置く。


 教室では、まだ小さな声が続いていた。


 でも授業が始まれば、たぶん少し静かになる。


 クロウは、その先がどうなるのか、もう少し見ていようと思った。


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