第4話 ふれたもの
――帝国暦三五〇年・春初め 帝国人民学校・地方分校――
朝の空気はやわらかかった。
校舎の白い壁が、静かに光を受けている。
クロウは校門をくぐった。
ここは、軽い。
足音も、声も、流れも、引っかからない。
屋敷の廊下とは違う。
誰かの足音を聞いて、すぐ身構える必要もない。
誰かの腕が、急に背中へ回ることもない。
靴箱の前で、少しだけ足を止める。
一足だけ、奥へずれていた。
クロウは指先で、そっと戻す。
それだけで、通りやすくなった気がした。
教室に入る。
机に触れる。
冷たく、均一で、余計な重さがない。
それだけで、息が楽になる。
「おはよう、クロウ」
「おはよう」
短い挨拶。
それで足りる距離。
クロウは席に座り、机の上に教科書を置いた。
端をそろえる。
鉛筆を右側に置く。
少しだけ斜めだったので、直す。
ここでは、それだけでよかった。
「今日、見学が来るらしいよ」
前の席から声がした。
クロウは顔を上げる。
「見学?」
「家庭教師がついてる良家の子女が、学校の授業を見に来るんだって」
「へえ」
軽い会話。
それだけ。
けれど、クロウは少しだけ目を伏せた。
学校の外から来る。
それだけで、わずかに空気が揺れる気がした。
「良家の子女って、どんな人だろ」
「貴族かな」
「先生、朝から少し落ち着かない感じだったよ」
声は小さい。
けれど、教室の端から端へ、小さな波のように広がっていく。
授業が始まる。
チョークの音。
ページをめくる音。
椅子のきしむ音。
教師の声。
一定の流れ。
クロウはそれを聞いていた。
ここは、揃っている。
家よりも。
少しだけ。
教師の声も、窓から入る風も、誰かが小さく咳をする音も、ひとつの流れの中にある。
そのまま、続くはずだった。
けれど、休み時間になるたびに、誰かが廊下を覗いた。
「まだかな」
「ほんとに来るのかな」
「見学ってどんな子だろ」
声は軽い。
悪いものではない。
それでも、少しだけ机の位置がずれていくような感じがした。
クロウは鉛筆を置き直す。
斜めになっていたから。
「クロウ」
横から声がする。
ガイだった。
「今日の見学って、知ってる?」
「……知らない」
「そっか」
ガイは少し残念そうに言った。
「なんかさ、すごい子が来る気がするんだよな」
「どうして?」
「なんとなく」
その言葉は、軽い。
でも、ガイの目は少しだけ期待していた。
クロウは答えない。
期待は、少し強い。
強いものは、触れると残る。
授業は続く。
チョークの音。
紙の音。
声。
それでも、朝より少しだけ、空気が軽く跳ねている。
昼前。
廊下の向こうで、足音がした。
クロウの指が、止まる。
軽くもない。
重くもない。
けれど、迷いがない。
教師が一度だけ扉を見る。
教室の声が、自然に小さくなる。
足音は近づいてくる。
ひとつ。
また、ひとつ。
扉の前で、止まった。
「見学の方です」
教師が言う。
間を置いて、少しだけ声を整えた。
「今日は授業の様子を見に来ています。皆さん、普段通りに」
扉が開く。
光が差し込む。
その横に、少女が立っていた。
金の髪。
小柄な体。
澄んだ青い瞳。
空気が、やわらぐ。
白に近い淡い色のワンピース。
袖はやわらかく膨らみ、細かなレースが手首のあたりで揺れていた。
まるで、朝の光をそのまま布にしたようだった。
「……綺麗」
誰かが小さく呟いた。
ざわめきが、静かに広がる。
クロウは動かない。
まだ距離はある。
それでも、近い。
「レオエナと申します」
やわらかな声。
それだけで、場がほどける。
ガイが息を呑む音がした。
エドが小さく笑う。
「やばくね」
「すごいな……」
小さな熱が、教室に広がっていく。
レオエナはゆっくり教室を見回した。
その視線が、クロウの方でほんの少しだけ止まる。
ほんの少しだけ。
普通なら気づかないくらいの短い間。
けれど、クロウには分かった。
見つかった。
そう思った。
レオエナの瞳が、わずかに明るくなる。
クロウは机の端に指を置いた。
呼ばないで。
来ないで。
今は、ここでは。
声には出さない。
でも、指先に力が入る。
レオエナは小さく瞬きをした。
それから、何事もなかったように視線を教室全体へ戻す。
クロウは小さく息を吐いた。
少しだけ、助かった。
けれど、それで終わりではなかった。
教師がレオエナを空いている椅子へ案内する。
教室の後ろの方。
見学用の席。
そこに座るだけで、教室の空気が変わった。
誰も大きな声は出さない。
先生も授業を続けている。
でも、皆が少しずつ後ろを意識している。
ページをめくる音が、いつもより小さい。
椅子を引く音も、少しだけ控えめになる。
誰かが背筋を伸ばす。
誰かが髪を直す。
誰かが、いつもより丁寧に文字を書く。
クロウは鉛筆を見る。
さっきまでと同じ鉛筆。
同じ机。
同じ教室。
でも、同じではない。
授業が終わるまで、その空気は戻らなかった。
休み時間になると、教室は小さく揺れた。
レオエナの周りへ、すぐに人が集まるわけではない。
教師の目もある。
見学者に失礼があってはいけないという空気もある。
それでも、視線だけは集まっている。
ガイはまだ、レオエナの立っていた場所を見ていた。
エドは隣の席の生徒と小声で何かを話している。
ルークは真面目な顔で、見学という制度について考えていそうだった。
サムは何度か後ろを見て、そのたびに目を伏せていた。
女子の何人かも、小さく囁いている。
「本当に綺麗」
「声もやわらかいね」
「どこの家の人だろう」
軽い声。
けれど、朝とは違う。
クロウは机に手を置いた。
朝と同じ冷たさなのに、少しだけ違っていた。
この机は、屋敷のものではない。
エナ姉の腕もない。
ミアの黒猫もいない。
父様のチェロも、レナ様の針もない。
だから、ここは少しだけ楽だった。
触れられない場所。
壊れない場所。
そう思っていた。
けれど、今は違う。
教室の中に、レオエナの声が残っている。
金の髪を見た時の、小さな息を呑む音が残っている。
誰かが呟いた「綺麗」という言葉が、まだ机と机の間に落ちている。
クロウは鉛筆をそっと置き直した。
斜めになっていたから。
けれど、置き直しても、教室の空気は元には戻らなかった。
「なあ、クロウ」
ガイが、まだ少し上ずった声で言った。
「今の人ってさ」
クロウは、すぐには答えなかった。
答える前に、教室のあちこちで小さな声が動いているのが分かった。
綺麗だった。
すごかった。
誰なんだろう。
クロウと知り合いなのかな。
その声は、悪いものではなかった。
でも、朝より少しだけ速い。
先に行きすぎている音に似ていた。
クロウは、レナ様の言葉を思い出す。
全部ほどかなくても、戻る。
続くようにするの。
それから、父様の言葉も。
まず聴く。
「……見学の人」
クロウは、小さく言った。
嘘ではない。
でも、全部ではない。
ガイが目を瞬かせる。
「いや、それは分かるけど」
「うん」
「知り合い?」
クロウは鉛筆の先を見た。
少し丸くなっている。
削れば、また尖る。
でも、今削ると音が出る。
だから削らない。
「……少し」
「少しって何だよ」
エドが笑う。
ルークが首を傾げる。
「少し知り合い、ということか?」
クロウは答えない。
サムが小さく言った。
「無理に聞くの、よくないんじゃない?」
その言葉で、教室の音が少しだけ止まった。
止まりきらない。
でも、少しだけ遅くなる。
クロウは机の縁に指を置いた。
まだ壊れてはいない。
けれど、もう朝と同じではなかった。
学校は、壊れない場所だと思っていた。
触れられない場所だと思っていた。
でも、金色の髪が一度通っただけで、空気は少し変わってしまった。
クロウは目を伏せる。
父様は言った。
まず聴く。
レナ様は言った。
全部ほどかなくても、戻る。
けれど、この教室で何を聴けばいいのか。
何をほどかずに置けばいいのか。
クロウには、まだ分からなかった。
けれど、ガイたちの方では、もう少しだけ話が先へ進んでいた。
綺麗だった。
すごかった。
どこの家の人だろう。
その小さな声は、授業が終わっても消えなかった。
クロウは机の上の鉛筆をまっすぐに戻した。
でも、教室の空気はもう、朝と同じ場所には戻らなかった。




