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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 連句貢茶


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第3話 ほどく人

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸 作業室――


 午後の作業室は静かだった。


 布と糸が整然と並び、柔らかな光が机の上に落ちている。


 触れなくても、整っていると分かる空間だった。


 クロウは、扉の前で足を止めた。


 作業室には、独特の匂いがある。


 布。


 糸。


 古い木箱。


 針をしまう小さな金属の匂い。


 それから、乾いた香草の匂い。


 クロウの部屋にある工具やオルゴールの匂いとは違う。


 でも、少しだけ似ている。


 何かをしまい込み、捨てずに残している場所の匂いだった。


 その中心に、レナがいた。


 サザ子爵家の第二夫人。


 黒の髪をまとめ、静かに針を動かしている。


 動きは小さい。


 けれど、迷いがない。


 布の端を押さえる指も、糸を引く手も、強すぎない。


 それなのに、少しずつ形が整っていく。


「入ってもいい?」


「ええ、どうぞ」


 顔を上げ、レナがやわらかく微笑んだ。


「クロウ、いいところに来たわ」


 自然な調子だった。


 クロウは少しだけ首を傾げる。


「……何か?」


「手伝ってくれるでしょう?」


 やわらかい。


 けれど、もう決まっている声。


 クロウは一瞬だけ考えた。


 逃げる理由は、まだない。


「……何を?」


「これ」


 レナが差し出した布を見る。


 縫い目が、ほんの少しだけ歪んでいた。


 大きな失敗ではない。


 そのままでも使える。


 遠くから見れば、気づかないかもしれない。


 けれど、近くで見ていると、指先が落ち着かない。


「……少し、ずれてる」


「ええ」


 レナは頷いた。


「でも、ほどくほどではないわ」


 クロウは布を見る。


 縫い目は、確かに繋がっている。


 切れてはいない。


 破れてもいない。


 けれど、続きが少し引っかかる。


 オルゴールの音が遅れる時と、少し似ていた。


「ほら」


 針を差し出される。


「やってみて」


 クロウは椅子に座り、針を持った。


 少しぎこちなく糸を通す。


 レナは何も言わない。


 ただ、見ている。


 急がせない。


 止めもしない。


 でも、見逃さない。


 糸を引く。


 少しだけ歪む。


「……もう少しだけ」


 やわらかな声。


「力を抜いて」


 クロウは息を整えた。


 もう一度、針を通す。


 今度は、引っかからない。


「そう」


 レナが小さく頷く。


 それ以上は言わない。


 クロウはもう一針進める。


 レナがそっと手を添えた。


 強くない。


 けれど、位置が決まる。


「ね」


 それだけ。


 クロウは頷く。


 少しだけ、軽い。


「全部ほどかなくても、戻るでしょう?」


 レナは穏やかに言う。


「……うん」


「ほどきすぎると、布が弱るの」


 クロウは布を見る。


 残っている歪み。


 でも、さっきより引っかからない線。


 全部をほどいたわけではない。


 全部を直したわけでもない。


 ただ、続けられるようになっている。


「全部、直すんじゃないんだね」


「ええ」


 レナは微笑む。


「続くようにするの」


 クロウは黙って、針を動かした。


 さっきより、手が静かだった。


 父様は、まず聴けと言った。


 レナ様は、ほどきすぎるなと言う。


 どちらも、似ている気がした。


 遅れている音だけを見ない。


 歪んでいる縫い目だけをほどかない。


 強く押さえすぎない。


 ほどきすぎない。


 少しだけ、続けられる場所を探す。


 レナは手を離し、元の作業に戻る。


 クロウも、そのまま続きを始める。


 静かな時間だった。


 糸の通る音だけが、かすかに残る。


「……レナ様って」


 クロウが小さく言う。


「うん?」


「気づいたら、やってるよね」


 レナは少しだけ笑った。


「そうかしら」


 否定しない。


 肯定もしない。


 ただ、針を動かす。


 クロウは少しだけ目を伏せた。


 逃げ道はあったはずなのに。


 気づいたら、座っていた。


 気づいたら、針を持っていた。


 気づいたら、糸は前より通りやすくなっていた。


 レナは何も押していない。


 でも、ちゃんと動かされている。


 不思議と、嫌ではなかった。


「押さないのに、動く」


 クロウが言うと、レナは針を止めずに答えた。


「押すと、逃げたくなるもの」


「うん」


「でも、置いてあると、少し触ってみたくなるでしょう?」


 クロウは、机の上に並んだ糸巻きを見た。


 赤。


 青。


 白。


 薄い金色。


 全部、決まった場所に置かれている。


 けれど、触るなとは言われていない。


「……うん」


「人も、少し似ているわ」


 レナの声は、穏やかだった。


「呼びすぎると逃げる。離しすぎると迷う。だから、戻ってこられる場所を作っておくの」


 クロウは針を持ったまま黙った。


 エナ姉の腕。


 ミアの言葉。


 テッドの短い声。


 父様のチェロ。


 母様の静かな微笑み。


 それぞれ違う。


 でも、みんなクロウの近くにある。


「難しい」


「ええ」


 レナはあっさり頷いた。


「難しいわ」


「レナ様でも?」


「もちろん」


 レナは小さく笑った。


「だから、ほどきすぎないようにするの」


 クロウは布を見る。


 ほどきすぎると、布が弱る。


 触りすぎると、音が壊れる。


 直そうとしすぎると、別の場所がずれる。


 それは、少し分かる気がした。


 そのとき。


「クロウー!」


 廊下の向こうから声が響いた。


「どこにいるの?」


 近づいてくる。


 迷いのない足音。


 クロウの肩がわずかに動く。


「……来た」


 レナはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「ふふ」


「愛されているわね」


 クロウは少しだけ困った顔をする。


「……ちょっと強い」


「そうね」


 レナは静かに頷く。


「加減が、まだ難しいのね」


 声が、さらに近づく。


「クロウ!」


 クロウは立ち上がった。


「……行くね」


「ええ」


 レナは針を置かずに言う。


「今度は、一言くらい残していきなさい」


 やわらかい声。


 少しだけ、逃がさない響き。


 クロウは苦笑する。


「……努力する」


「努力だけ?」


 レナが微笑む。


 クロウは一瞬、黙る。


「……次は、言う」


「ええ」


 満足そうに頷く。


 それだけで、話は終わった。


 クロウは扉へ向かう。


 廊下に出る。


「クロウ!」


 すぐ近く。


 クロウは一瞬だけ立ち止まった。


 それから、反対へ静かに走った。


 レナはその気配を感じながら、針を止める。


 小さく息を吐いた。


「……今のは、一言に入るのかしら」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、整った布に目を落とす。


 それから、また針を動かした。



 廊下の角を曲がったところで、クロウは足を緩めた。


 背後から、エナ姉の声がまだ聞こえる。


 けれど、少し遠い。


 クロウは壁に手を添え、小さく息を吐いた。


 逃げた。


 でも、完全には逃げていない。


 レナ様に言われた通り、一言は残せなかった。


 けれど、あとで戻ればいい。


 戻って、布の続きを縫えばいい。


 全部ほどかなくても、戻れる。


 それは少し、助かる考え方だった。


 明日は学校だった。


 屋敷とは違う音のする場所。


 エナ姉の腕も、レナ様の針も、父様のチェロもない。


 そこには、トムがいる。


 リラがいる。


 ガイがいて、エドがいて、ルークがいて、サムがいる。


 声は多い。


 足音も多い。


 話も、時々あちこちへ飛ぶ。


 学校のずれは、屋敷のずれより分かりにくい。


 誰かが強く抱きしめるわけではない。


 誰かが針を持たせるわけでもない。


 それでも、言葉が少し斜めに刺さることはある。


 笑い声が先に行きすぎることもある。


 誰かの返事が、少し遅れることもある。


 クロウは、レナ様の言葉を思い出した。


 全部ほどかなくても、戻る。


 続くようにするの。


 学校でも、そういうふうにできるだろうか。


 クロウには、まだ分からない。


 けれど明日、まずは聴いてみようと思った。


 父様が言ったように。


 レナ様が見ていたように。


 触る前に。


 ほどく前に。


 直そうとする前に。


 クロウは廊下の先へ歩いていった。


 背後では、まだエナ姉の声がしている。


 少し強くて、少し近い声。


 でも、今はまだ、ほどかなくてもいい。


 クロウはそう思った。

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