ほどく人(修正版)
――帝国暦三五〇年・春初め 作業室――
午後の作業室は静かだった。
布と糸が整然と並び、柔らかな光が机の上に落ちている。触れなくても、整っているとわかる空間。
その中心に、レナがいた。
サザ子爵家の第二夫人。
金の髪をまとめ、針を動かしている。
動きは小さい、けれど迷いがない。
クロウは扉の前で足を止める。
「入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
顔を上げ、やわらかく微笑む。
「クロウ、いいところに来たわ」
自然な調子。
クロウは少しだけ首を傾げる。
「……何か?」
「手伝ってくれるでしょう?」
やわらかい。
けれど、前提が決まっている声。
クロウは少しだけ考える。
「……何を?」
「これ」
差し出された布。
縫い目が、ほんの少しだけ歪んでいる。
クロウはそれを見る。
「そのままでも、使えるよ」
「ええ」
レナは頷く。
「でも、少し引っかかるでしょう?」
クロウは黙る、否定はしない。
「ほら」
針を差し出される。
「やってみて」
クロウは座り、針を持つ。
少しぎこちなく糸を通す。
レナは何も言わない。
ただ、見ている。
糸を引く、少しだけ歪む。
「……もう少しだけ」
やわらかな声。
「力を抜いて」
クロウは息を整え、やり直す。
今度は、引っかからない。
「そう」
レナが小さく頷く。
それ以上は言わない。
クロウはもう一針進める。
レナがそっと手を添える。
強くない。
でも、位置が決まる。
「ね」
それだけ。
クロウは頷く。
少しだけ、軽い。
レナは手を離し、元の作業に戻る。
クロウも、そのまま続きを始める。
静かな時間。
糸の通る音だけが、かすかに残る。
「……レナ様って」
クロウが小さく言う。
「うん?」
「気づいたら、やってるよね」
レナは少しだけ笑う。
「そうかしら」
それ以上は言わない。
クロウは針を動かす。
さっきより、引っかからない。
そのとき。
「クロウー!」
廊下の向こうから声が響いた。
「どこにいるの?」
近づいてくる、迷いのない足音。
クロウの肩がわずかに動く。
「……来た」
レナはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「ふふ」
「愛されているわね」
クロウは少しだけ困った顔をする。
「……ちょっと強い」
「そうね」
レナは静かに頷く。
「加減が、まだ難しいのね」
声が、さらに近づく。
「クロウ!」
クロウは立ち上がる。
「……行くね」
「ええ」
「今度は、一言くらい残していきなさい」
やわらかい声。
少しだけ、逃がさない響き。
クロウは苦笑する。
「……努力する」
扉へ向かう。
廊下に出る。
「クロウ!」
すぐ近く。
クロウは一瞬だけ立ち止まり――
反対へ、静かに走った。
レナはその気配を感じながら、針を止める。
小さく息を吐く。
整った布に目を落とし、また針を動かす。




