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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 連句貢茶
第一章 日常編

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第2話 ほどけない調べ

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸 音楽室――


 夜は、音を薄くする。


 昼のあいだ屋敷に残っていた声も足音も、夜になると少しずつ遠くなる。


 クロウは月明かりの落ちる廊下を歩いていた。


 背中には、まだ少しだけエナ姉に抱きしめられた感触が残っている。


 その時、廊下の奥から父様のチェロが聞こえてきた。


 低く、静かな音。


 いつもなら、それを聞いているだけで屋敷の騒がしさが少しずつほどけていく。


 でも、今日は少し違った。


「……?」


 最後の音が、ほんの少しだけ遅れた気がした。


 気のせいかと思ったけれど、次の音も同じだった。


 誰かが聞いても気づかないくらいの小さな違いだと思う。


 でも、クロウには気になった。


 オルゴールの音がずれた時と似ている。


 クロウは足を止め、そのまま音楽室へ向かった。


 扉は少し開いていた。


 中では父様がチェロを弾いている。


 ランプと月明かりの中で、弓がゆっくりと弦の上を動いていた。


 譜面台に楽譜は置かれているけれど、父様はほとんど見ていない。


 いつもの音だった。


 急がず、押しつけず、ばらばらだったものを少しずつ同じ場所へ戻していくような音。


 それなのに、やっぱり最後だけが少し遅れる。


「聴いているの?」


 声をかけられて振り向くと、母様がいた。


「母様」


「入らないの?」


「ここでいい」


 今は少し離れて聴きたかった。


 母様はそれ以上何も言わず、クロウの隣に立った。


 二人でしばらく父様の音を聴く。


 やがて曲が終わった。


 最後の音が静かに消えていく。


「聴いていたか」


 父様が言った。


「ええ。とても」


 母様が答える。


 クロウは父様を見る。


「父様」


「どうした」


「最後の音、少し遅れてた」


 父様がクロウを見る。


「分かったのか」


「うん」


「そうか」


 父様はチェロの弦を軽く弾いた。


「悪い音ではなかっただろう」


「うん。でも気になった」


 父様は少しだけ笑った。


「全部が揃っていれば、いい音になるわけじゃない」


「うん」


「だが、遅れ方には種類がある。残していい揺れと、直した方がいい揺れだ」


「今日のは?」


「直した方がいい方だな」


 母様が父様を見る。


「疲れているの?」


「少し」


「なら、今日はもう終わりにしましょう」


「ああ」


 父様は素直に頷いた。


 それだけで、部屋の空気が少し静かになった気がした。


 クロウは父様と母様を見る。


 二人とも言葉は少ない。


 でも、それで困っているようには見えなかった。


「クロウ」


 父様がクロウを呼ぶ。


「なに?」


「オルゴールは、まだ直しているのか」


「うん」


「強く押さえるなよ」


「分かってる」


「音が遅れる時は、遅れている場所だけを見るな」


 クロウは首を傾げた。


「どういうこと?」


「先に行きすぎている音があるかもしれない」


「……先に?」


「ああ。遅れている方だけを直そうとすれば、別の場所がずれることもある」


 クロウは少し考えた。


 ずっと、高い音が遅れていると思っていた。


 でも、低い音の方が先に行きすぎている可能性もある。


「じゃあ、どうすればいいの?」


「まず聴く」


「聴く?」


「どこが遅れて、どこが先に行っているのか。それを確かめてから触る」


 クロウは小さく頷いた。


「難しい」


「難しいな」


 父様はあっさり認めた。


「だから、急いで直す必要はない」


「うん」


 母様が少し笑った。


「ケインは説明が難しいわね」


「クロウには分かるだろう」


「少し」


「それでいい」


 父様らしい答えだった。


 全部分からなくてもいい。


 今分かるところまででいい。


 それならクロウにもできそうだった。


「クロウ」


 今度は母様がクロウを呼んだ。


「なに?」


「今の工具では、オルゴールの細かいところまで届かないのでしょう?」


「うん」


「それなら、レナ様に聞いてみるといいかもしれないわ」


「レナ様?」


「昔使っていた細工物の道具が、まだ残っていたと思うの。小さな道具や古い部品もあったはずよ」


 クロウは顔を上げた。


 今持っている工具では届かない場所へ届くものがあるかもしれない。


「見てもいいの?」


「レナ様に聞いてからね」


「うん」


 父様がチェロを片づけながら言った。


「道具が増えれば、触れる場所も増える」


「うん」


「だから、触らなくていい場所まで触るな」


 クロウはさっきの言葉を思い出した。


「まず聴く」


「ああ」


 父様が頷く。


 触る前に、確かめる。


 直そうとして、別のところを壊さないように。


「じゃあ明日、レナ様に聞いてみる」


「そうするといいわ」


 母様が微笑んだ。


 クロウは音楽室を出た。


 その後ろで、父様がもう一度だけチェロの弦を弾いた。


 低い音が、小さく響く。


 今度は遅れなかった。


 直ったわけではない。


 少し整っただけだ。


 でも、今はそれでいい。


 クロウは自分の部屋へ向かいながら、父様の言葉をもう一度思い出した。


 遅れている音だけを見るな。


 先に行きすぎている音があるかもしれない。


 まず聴く。


 触るのは、それからでいい。


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