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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 連句貢茶


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第2話 ほどけない調べ

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸 音楽室――


 夜は、音を薄くする。


 昼のあいだ屋敷の中に残っていた声も、足音も、扉の開く音も、夜になると少しずつ遠くなる。


 長い廊下に、月明かりが淡く落ちていた。

 白い石の床が、わずかに光を返している。


 開けられた窓から、風が細く入り込んでいた。


 クロウは、廊下を歩いていた。


 背中には、まだ少しだけ重さが残っている。


 エナ姉の腕の重さ。

 ミアの言葉の軽さ。

 テッドの短い声。


 それから、父様のチェロの音。

 低く、静かで、屋敷の空気をほどく音。


 いつもなら、その音を聞くと少し楽になる。


 強すぎるものも、近すぎるものも、騒がしいものも、父様の音に触れると、少しずつ同じ場所へ戻っていく。


 けれど今日の音は、最後のところでほんの少しだけ遅れていた。


 オルゴールの高い音が遅れる時と、よく似ていた。


「……気のせい」


 クロウは小さく呟いた。

 誰に聞かせるためでもない。


 ただ、言葉にしておくと、少しだけ位置が戻る気がした。


 気のせい。

 そう思おうとした。


 けれど、廊下の奥からもう一度、チェロの音が流れてきた。


 低く、長く伸びる音。

 空気を撫でるような音。

 その最後の端が、ほんのわずかに揺れた。


 クロウの足が止まる。

 やっぱり、少し違う。


 大きく乱れているわけではない。

 誰かが聞いても、たぶん分からない。

 けれどクロウには分かった。


 父様の音が、いつもより少しだけ遅れている。


 クロウは向きを変えた。

 音の方へ。


 音楽室の扉の前で立ち止まる。

 扉は、わずかに開いていた。

 隙間から、中を覗く。


 父がいた。

 ケイン・ザザ。

 クロウの父。


 チェロを抱え、静かに弓を動かしている。


 月明かりとランプの光が、部屋の中で薄く重なっていた。


 譜面台には楽譜が置かれている。

 けれど、父はほとんど見ていない。


 弓が弦に触れる。

 音が生まれる。


 部屋の空気が、ゆっくり揃っていく。

 それは、いつもの父様の音だった。


 押しつけない。

 急がない。


 乱れているものを叱るのではなく、ただ座る場所を示すような音。


 けれど、やはり最後の一音だけが、わずかに遅れる。


 クロウは扉にもたれた。


 少し前まで、背中の奥に引っかかっていたものが、音に触れるたび、ほどけていく。


 完全になくなるわけではない。

 でも、気にしなくてもいいくらいになる。

 それだけで、十分だった。


「聴いているの?」


 やわらかな声がした。

 クロウは顔を上げる。


 窓際に、母様――エルナリアが立っていた。


 月の光を受けて、金の髪が淡く揺れている。


 澄んだ青い瞳が、静かにこちらを見ていた。


 小柄な姿は、夜の中だと少しだけ少女のようにも見える。


「母様」

「入らないの?」


「ここでいい」

 クロウは少しだけ首を振る。


 近づきすぎると、音が変わる。

 少し離れていた方が、今はいい。

 エルナリアは何も言わずに頷いた。


 そして同じように、距離を保ったまま音を受けている。


 けれど、その視線はずっとケインへ向いていた。


 音が、少しだけ強くなる。

 クロウは息を整える。

 エルナリアは動かない。

 でも、指先だけが、ほんの少し揺れた。


「……強いね」

 クロウがぽつりと言う。


「ええ」

 エルナリアは微笑む。


「ケインの音だもの」

 それ以上は言わない。


 言わなくても、伝わっている気がした。

 クロウは父の手を見る。


 弓の角度。

 指の置き方。

 止めない。

 押さえつけない。


 ただ、続けられるところへ戻していく。

 全部を揃えると、音は死ぬ。


 いつか父が言った言葉を、クロウは思い出す。


 きっちり揃えればいいわけではない。

 歯車の音も、食器の位置も、人の声も。


 少し残る揺れが、ものを生きたままにしている。


 父はそういうことを、言葉少なに教えた。


 だから父の音には、少しだけ揺れが残っている。


 残っているのに、苦しくない。


 けれど今日の揺れは、いつもの揺れとは違った。


 必要な揺れではなく、少しだけ置き場所を間違えたような揺れ。


 クロウは、扉の縁に指を添えた。

 曲は、やがて静かに落ちていった。

 最後の音が、部屋の奥に沈む。

 少し遅れて、消えた。


「聴いていたか」

 ケインは振り向かないまま言った。


「ええ」


 エルナリアが応じる。

 声が、少しだけ嬉しそうだった。


「とても」


 ケインはそれ以上、何も言わない。

 エルナリアも、それ以上を求めない。

 クロウはそのやり取りを見る。


 言葉は少ない。

 けれど、ずれていない。

 少しだけ目を伏せる。


「……いいな」

「なにが?」


 エルナリアがこちらを見る。

 クロウは少しだけ考えた。


「こういうの」


 それだけ言う。

 エルナリアは、やわらかく笑った。


「クロウも、聴こえているのね」


 クロウは答えない。

 代わりに、もう一度、音楽室の中を見た。

 父はチェロを膝の横へ静かに置いていた。


 弓を拭き、弦を確かめる。

 動きは丁寧だった。

 焦ってはいない。


 けれど、ほんの少しだけ、指が止まる時間が長い。


「父様」


 クロウは呼んだ。

 ケインが、ようやくこちらを見る。

 静かな目だった。

 低い音に似た目。


「どうした」


「さっき」

「うん」

「最後の音、少し遅れた」


 エルナリアが目を細める。

 ケインは少しだけ黙った。


 怒らない。

 驚きもしない。

 ただ、クロウを見る。


「分かったのか」


「うん」


「そうか」


 ケインはチェロの弦に触れた。

 軽く弾く。

 低い音が、短く鳴った。


「悪い音ではなかっただろう」

「うん」


「でも、気になった」

「うん」


 ケインはわずかに笑った。


 それは、笑ったと言えるほど大きなものではない。


 ただ、口元がほんの少し緩んだだけだった。


「全部が揃っていれば、良い音になるわけじゃない」


「うん」

「だが、遅れ方には種類がある」

 クロウは黙って聞く。


「残していい揺れと、直した方がいい揺れがある」


「今日のは?」

「直した方がいい方だな」


 ケインは静かに言った。

 エルナリアが、少しだけケインを見る。


「疲れているの?」

「少し」


 ケインは短く答えた。


 エルナリアはそれ以上、深く聞かなかった。


 ただ、少しだけ歩み寄る。

 近づきすぎない距離で、立ち止まる。


「なら、今日はもう終わりにしましょう」

「ああ」


 ケインは頷いた。

 それだけだった。


 それだけなのに、部屋の空気がまた少し整った気がした。


 クロウはそれを見る。

 母様は、父様の音を急がせない。

 父様も、母様の言葉を押し返さない。


 近すぎない。

 離れすぎない。

 その距離が、少し不思議だった。


 エナ姉の腕は近い。

 ミアの言葉は軽い。

 テッドの声は短い。


 父様と母様は、静かだった。


 でも、その静けさは、何もない静けさではなかった。


「クロウ」

 ケインが呼んだ。


「はい」

「オルゴールは、まだ直しているのか」

「うん」


「強く押さえるなよ」

「うん」


「音が遅れる時は、遅れている場所だけを見るな」


 クロウは首を傾げる。


「どういうこと?」


「先に行きすぎている音があるかもしれない」


 クロウは黙った。

 高い音が遅れている。

 そう思っていた。


 けれど、もしかしたら低い音が先に行きすぎているのかもしれない。


 遅れているものだけを直そうとすると、別のところが歪む。


「オルゴールも?」

「人もだ」


 ケインは淡々と言った。

 クロウは、少しだけ目を伏せる。

 人も。


 それはたぶん、エナ姉のことでもある。

 ミアのことでもある。

 自分のことでもある。


「難しい」

「難しいな」

 ケインはあっさり認めた。


「だから、すぐに直そうとするな」

「じゃあ、どうするの?」


「聴く」

「聴く?」


「ああ。どこが遅れて、どこが先に行きすぎているのか。まず聴く」


 クロウは小さく頷いた。

 直す前に、聴く。


 それなら、少し分かる気がした。

 エルナリアが静かに微笑んでいる。


「ケインは、説明が少し難しいわね」

「そうか」


「ええ」

「クロウには分かるだろう」

 クロウは少し考えた。


「少し」

「それでいい」


 ケインは頷いた。

 それもまた、父様らしかった。

 全部分かれとは言わない。


 分かるところまででいいと言う。

 クロウは目を閉じる。


 さっきより、少しだけ軽い。

 まだ全部は揃っていない。

 でも、歩くには十分だった。


「クロウ」

 今度はエルナリアが呼んだ。


「なに?」


「そのオルゴール、まだ机の上に置いてあるのね」


「うん」

「直したい?」


 クロウは少しだけ黙った。

 直したい。

 けれど、壊したくない。


 その二つが、胸の中で同じ場所に置かれている。


「……直したい。でも、強く触ったら壊れる」


「そうね」

 エルナリアは静かに頷いた。


「今の工具では、届かないところがあるのかしら」


「うん。たぶん」


「それなら、レナ様の部屋に行ってみるとい

 いかもしれないわ」


「レナ様の部屋?」

「ええ」


 エルナリアは少し考えるように、指先を顎の近くへ添えた。


「昔、細工物をしまっていた箱があったはずよ。小さな道具や、古い部品もいくつか残っているかもしれない」


 クロウは顔を上げた。

 古い道具。

 細工物。


 小さな歯車や、細い軸を触れるもの。


 今の工具では届かない場所に、届くものがあるかもしれない。


「見てもいいの?」

「レナ様に聞いてからね」

「うん」


「それに、あの部屋は勝手に入っていい場所ではないわ」


 クロウは頷いた。

 レナ様の部屋。


 屋敷の中にあるのに、あまり入らない場所。


 扉の前を通ることはある。

 けれど、中に入ったことはほとんどない。

 いつも少しだけ、甘い香りがする。


 布。

 古い木箱。

 香草。


 それから、何か分からない金属の匂い。

 クロウは、その匂いを思い出した。


 自分の作業机とは違う。

 でも、少しだけ似ている。


 何かをしまい込んだまま、まだ捨てていな

 い部屋。


 そんな気がする。

 ケインが、チェロの弦を軽く弾いた。

 低い音が、小さく鳴る。


「道具は、足りないものを補うためにある」

 父様は静かに言った。


「だが、道具が増えると、触りたくなる場所も増える」


「うん」

「触らなくていい場所まで触るな」

 クロウは少しだけ目を伏せた。


 それは、オルゴールの話だけではない気がした。


 エナ姉の腕。

 ミアの言葉。


 テッドのため息。

 父様の遅れた音。


 直せそうに見えるものほど、触りすぎると別の場所がずれる。


「まず聴く」

 クロウは小さく言った。

 ケインは頷いた。


「ああ」

 エルナリアが、少しだけ笑った。


「では、明日、レナ様にお願いしてみましょう」


「うん」


 クロウは頷いた。

 廊下へ戻る。

 足音が、前よりも静かだった。


 音楽室の中で、ケインがもう一度だけ弦に触れる。


 低い音が、小さく鳴った。

 今度は、遅れなかった。

 クロウは振り返らずに、その音を聞いた。


 直ったわけではない。

 ただ、少し整っただけ。

 それでいい。


 今は、それでいい。

 廊下の先には、クロウの部屋がある。


 机の上には、壊れかけのオルゴールがある。


 そして明日、レナ様の部屋へ行く。


 そこには、まだクロウの知らない道具があるかもしれない。


 まだ捨てられていない部品があるかもしれない。


 まだ名前の分からない音が、残っているかもしれない。


 クロウは歩きながら、父様の言葉を思い出していた。遅れている音だけを見るな。


 先に行きすぎている音があるかもしれない。


 それが何を指しているのか、まだ全部は分からない。


 けれど、まずは聴く。

 触る前に。

 直す前に。


 壊してしまう前に。

 クロウは、静かな廊下を歩いていった。

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