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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 連句貢茶


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第1話 壊れかけの音

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸――


 四年前、庭の隅で拾ったオルゴールは、まだクロウの机の上にあった。


 蓋の金具は、少し曲がったまま。

 角も、欠けたまま。

 表面の飾りも、色褪せたまま。


 それでも、まだ鳴っている。

 だから、捨てていない。


 サザ子爵家の屋敷は、森の縁に寄り添うように建っていた。


 白い石壁は春の光をやわらかく受け、大きな窓から風と光がゆるやかに流れ込んでいる。


 庭には整えられた花壇と、細い水路。その向こうで、木々と川が静かに揺れていた。


 窓際の机に、小さなオルゴールが置かれている。


 クロウは、その前に座っていた。

 蓋を開ける。

 音は出る。


 けれど、少しだけ遅れる。高い音があとから追いかけて、低い音が先に行く。


 同じ旋律なのに、どこか揃わない。

 クロウは耳を近づけた。

 歯車が欠けているわけではない。

 軸が折れているわけでもない。


 ただ、噛み合う位置が少しだけ違う。

 そのままでも鳴る。けれど、続けて聴いていると、胸の奥が少しざわつく。


 クロウは指先で軸を押さえた。

 力は入れない。

 強く押せば、別のところが歪む。


 ほんの少し。

 角度を戻す。

 もう一度、巻く。


 音が、繋がった。

 完璧ではない。

 けれど、止まらない。


 クロウは小さく息を吐く。

 少しだけ、それでいい。


「クロウ!」


 扉が勢いよく開いた。

 次の瞬間、そのまま抱きしめられる。


「エナ姉……!」


 金の髪が揺れる。

 澄んだ青い瞳が、すぐ近くにあった。

 レオエナ・サザ。

 クロウだけが、エナ姉と呼ぶ姉だった。


「大丈夫? 無理してない? 危ないことしてない?」


 やわらかい声。

 明るい笑顔。


 それから、少しだけ強すぎる腕。

 抱きしめられた背中に、鈍い重みが乗る。


 それでもクロウは、まず机へ手を伸ばした。

 抱きしめられた勢いで、小さなオルゴールが傾いている。


 指先で、そっと押さえる。


「……そっち?」


 軽い声がした。

 末の妹、レーミアが扉にもたれている。

 腕の中では、黒猫が小さく鳴いた。


「にゃあ」


 クロウはオルゴールを見たまま答える。


「さっき直したばかりだから」

「お兄様より大事?」

「今は」


 レーミア――ミアが楽しそうに目を細める。


「ひどい」

「倒れたら、また遅れる」


「クロウ」

 レオエナの声が近い。


「本当に大丈夫?」

「うん」

「痛くない?」

 顔がさらに近づく。


「大丈夫、ちゃんとやってるから」

 そう言うと、さらに距離が詰まった。

 背中が、少しきしむ。


「エナ姉、それ……」

「大丈夫よ」

 レオエナは微笑む。


「優しくしてるもの」


 悪気はない。

 本当に、そう思っている。

 クロウは少しだけ眉を寄せた。


「エナ姉の優しいは、少し重い」


 一瞬、空気が止まる。

 レオエナの瞳が、ほんの少し揺れた。


「……重いのは、嫌?」


 声だけが、少し弱い。

 クロウはすぐには答えなかった。

 レオエナの腕は強い。

 でも、今は少しだけ緩んでいる。


「嫌じゃない」

 クロウは小さく言う。


「でも、少しだけでいい」

 レオエナは瞬きをした。

 それから、ゆっくり頷く。


「……少しだけ」

「うん」

「なら、少しだけ」


 レオエナは離れた。

 ほんの少しだけ。


「少しって難しいわね」

「うん」

 クロウは正直に頷く。


「エナ姉は、特に」

 ミアが吹き出した。


「それ、わかる」

「ミア、静かに」

 レオエナは言う。


「クロウが疲れるでしょう?」

「それ、誰のせい?」


 ミアの声に、また空気が止まる。

 クロウは机の上に手を伸ばす。

 オルゴールの角度を戻す。


 工具の位置も、ついでに少しだけ揃えた。

 小さなドライバー。

 細いピンセット。

 巻き鍵。


 どれも、少し斜めになっていた。

 直す。

 まっすぐにする。


 それだけで、少し息がしやすくなる。

 ミアがそれを見て、くすっと笑う。


「お兄様、そこも気になるんだ」


「斜めだった」

「斜めだとだめ?」

「見てると、気になる」


「ふうん」

 ミアは黒猫の背を撫でる。


「じゃあ、お兄様はまだ大丈夫なんだ」

 クロウの手が止まる。


「……どうして?」


「本当にだめなら、工具の向きなんて見ないでしょ」


 ミアはにこりと笑う。

 明るくて、かわいい顔。


 そのまま、空気のひびを指でなぞるような声だった。


「お兄様って、父様に似てるよね」

 ミアは黒猫の背を撫でながら言った。


「静かな顔をして、ちゃんと見てるところ」

 それから、楽しそうに笑う。


「だから、少し困らせたくなる」


 クロウは黙ってミアを見る。

 ミアは目を細めた。


 止められるのを、少し待っている顔だった。


「……ミア」

「はい」


「今は、少し多い」

 ミアは一度だけ瞬きをする。

 それから、あっさり黒猫を抱き直した。


「じゃあ、やめる」

 少し間を置いて、笑う。


「今は」

「よかったね、エナ姉」

 レオエナは少し困ったようにミアを見る。


「そういうことを言うのは、よくないわ」

「ほんとのことでも?」

「ほんとのことでも」


「じゃあ、半分だけにする」

「ミア」

「半分なら優しいでしょ?」


 クロウは小さく息を吐いた。

 ミアは楽しそうに笑っている。


 やっぱり、止められるのを待っている顔だった。


「騒がしいな」

 低い声が落ちた。


 テッドが扉に立っていた。

 一歩、部屋に入る。

 視線が一度で状況をなぞる。


 クロウ。

 レオエナ。

 ミア。

 机の上のオルゴール。


「またか」

「違うわ」

「違わない」

 短く言って、テッドはクロウを見る。


「大丈夫か?」

「うん」


 クロウが頷くと、テッドの視線は姉妹へ向いた。


「いいか」

「はい」


 レオエナが少し背筋を伸ばす。

 ミアは黒猫の背に顔を埋めた。


「少し強い」

 テッドはそれだけ言った。


 レオエナが目を逸らす。

 ミアがくすっと笑う。


「兄様が止められるなら、ね」


 テッドは何も言わない。

 ただ、視線だけが残る。

 ミアはそこで口を閉じた。


 クロウはもう一度、机を見る。

 回り続ける歯車。

 さっきより、ほんの少しだけ遅れている。


 抱きしめられた時に、やっぱり少しずれたらしい。


 クロウは小さく息を吐く。


「……まただ」

「壊れた?」

 ミアが覗き込む。


「まだ」

 クロウは指先で軸に触れる。


「少しだけ」


 力を入れずに戻す。

 もう一度、巻く。

 音が繋がる。


 部屋の空気も、ほんの少しだけ静かになる。


 クロウはその音を聞きながら思った。

 オルゴールなら、直せる。

 少しずれても、また戻せる。


 歯車の位置を見て、軸を押さえて、力を抜けばいい。


 けれど、エナ姉の優しさは、どこを直せばいいのか分からない。


 ミアの言葉も。

 テッドのため息も。

 自分が何も言えなくなる瞬間も。


 全部、鳴ってはいる。

 でも少しずつ、遅れている。


 その時。

 廊下の奥から、チェロの音が流れてきた。

 低く、静かに。


 父様の音だった。

 屋敷の空気が、わずかにほどける。


 レオエナの肩から力が抜ける。

 ミアの黒猫が、目を細める。

 テッドが小さく息を吐く。

 クロウは目を閉じた。


 父様のチェロは、いつも屋敷の音を整える。


 強すぎる声も。

 近すぎる距離も。

 言いすぎた言葉も。


 少しずつほどいて、同じ空気の中に戻していく。


 だからクロウは、その音が好きだった。

 オルゴールの音とは違う。

 歯車も、軸も、ばねもない。


 それでも、父様の音は、屋敷のどこかにある見えないずれを、そっと撫でるように鳴っていた。


 少し前より、静かになっている。

 それだけでよかった。


 けれど、クロウの指先はまだ、オルゴールの軸に触れたままだった。


 チェロの音が、もう一度流れる。

 低く。

 静かに。

 長く。


 その音に重なるように、オルゴールの旋律が小さく鳴った。


 二つの音は、完全には合わない。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 クロウは、もう一度だけゼンマイを巻いた。


 すると。


 廊下の奥で、チェロの音がほんの少しだけ揺れた。


 いつもなら真っ直ぐに伸びる低い音が、最後のところでわずかに遅れる。


 クロウは顔を上げた。

 オルゴールではない。

 今、少しずれたのは父様の音だった。


 レオエナも、ミアも、テッドも気づいていない。


 けれど、クロウには分かった。


 屋敷を整えるはずの音が、ほんの少しだけ乱れていた。


 クロウは指先を止めた。


 机の上で、壊れかけのオルゴールが小さく鳴っている。


 廊下の奥では、父様のチェロが続いている。


 二つの音は、まだ止まっていない。

 けれど、どちらも少しだけ遅れていた。

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