第0話 まだ鳴っている
――帝国暦三四六年・春初め サザ子爵家邸――
クロウは、壊れたものを見つけるのがうまかった。
誰かがもう使えないと思ったもの。
誰かが邪魔だと思ったもの。
誰かが捨ててもいいと決めたもの。
そういうものが、まだほんの少しだけ動いていることに、クロウはよく気づいた。
音の遅れる玩具。
針の進み方がおかしい小さな時計。
蓋の閉まりが悪い木箱。
大人たちは、それを壊れていると言う。
けれどクロウには、少し違って見えた。
壊れている。
でも、終わってはいない。
クロウが初めて壊れたオルゴールを拾ったのは、六歳の春だった。
それは、庭の隅に置かれていた。
花壇の手入れをする庭師が、古い道具や割れた鉢をまとめていた場所。
その端に、小さな木箱が混じっていた。
蓋の金具は曲がっている。
角も少し欠けている。
表面の飾りは、長い時間を置かれたせいで色が褪せていた。
けれど、クロウは足を止めた。
「それはもう壊れておりますよ」
庭師が、申し訳なさそうに言った。
「ずいぶん昔からあったものでして。音も、うまく鳴りません」
クロウは返事をしなかった。
小さな手で、そっと木箱を持ち上げる。
思ったより軽かった。
けれど、蓋を開くと、中から小さな金属の匂いがした。
クロウはゼンマイを巻いた。
ぎ、ぎ、と、硬い音がする。
それから、旋律が流れた。
音は鳴った。
けれど、途中でつまずいた。
高い音が少し遅れて、低い音だけが先に行く。
同じ曲のはずなのに、どこか揃わない。
楽しそうな曲なのに、少しだけ泣いているようにも聞こえた。
「……まだ鳴ってる」
クロウは小さく呟いた。
庭師は困ったように笑う。
「はい。ですが、もう古いものですから。危なくないように処分しようかと」
「捨てるの?」
「そのつもりでございました」
クロウはオルゴールを胸に抱えた。
庭師が、少しだけ目を丸くする。
「クロウ様?」
「もらってもいい?」
「それは構いませんが……」
庭師は、屋敷の方をちらりと見た。
壊れたものを、子爵家の子息が持つ。
それが良いことなのか悪いことなのか、判断に迷っている顔だった。
クロウには、それがよく分からなかった。
壊れている、でも鳴っている。
それなら、まだ捨てなくてもいいと思った。
「クロウ!」
屋敷の方から、明るい声がした。
金色の髪を揺らして、レオエナが走ってくる。
クロウより年上の姉で、クロウだけがエナ姉と呼んでいる人だった。
「そんなところにいたのね。探したのよ」
レオエナはクロウの前で立ち止まり、彼が抱えているものを見た。
「それ、どうしたの?」
「もらった」
「オルゴール?」
「うん」
「でも……」
レオエナは蓋の曲がった木箱を見て、少し眉を下げた。
「壊れているの?」
「少し」
「じゃあ、新しいものを持ってこさせましょう? もっと綺麗で、ちゃんと鳴るものがあるわ」
クロウは首を横に振った。
「これがいい」
「どうして?」
「まだ鳴ってるから」
レオエナは黙った。
困ったような顔をしている。
けれど、怒ってはいない。
むしろ、少しだけ泣きそうにも見えた。
「クロウは、優しいのね」
クロウは答えなかった。
優しいからではない。
ただ、鳴っているものを、鳴っていないことにしたくなかった。
止まっていないものを、もう終わりだと決めてしまうのが、嫌だった。
「じゃあ、私も手伝うわ」
レオエナがそう言って、クロウに近づいた。
そして、いつものように抱きしめようとする。
クロウは慌ててオルゴールを横に避けた。
「エナ姉、だめ」
「えっ」
「強くしたら、もっとずれる」
レオエナの腕が止まった。
それから、自分の手を見て、少しだけしゅんとする。
「私、そんなに強い?」
「少し」
「少し?」
「うん」
クロウは迷ったあと、正直に言った。
「エナ姉の少しは、少し大きい」
レオエナは目を瞬かせた。
後ろで庭師が、咳払いをして顔をそらす。
レオエナは頬をふくらませるでもなく、怒るでもなく、ただ真剣な顔で頷いた。
「分かったわ。じゃあ、今日は抱きしめない」
「少しならいい」
「本当?」
「うん。でも、オルゴールを置いてから」
「分かった」
レオエナは嬉しそうに笑った。
クロウは少しだけ安心した。
エナ姉は、時々強い。
けれど、ちゃんと止まってくれる。
止まるまでに少し時間がかかるだけだった。
その日の午後、クロウは窓際の机にオルゴールを置いた。
小さな工具を並べる。
どれを使えばいいのか、まだ全部は分からない。
分からないけれど、蓋を開けて、中をじっと見る。
小さな歯車。
細い軸。
ずれた金具。
壊れているというより、少し疲れているように見えた。
「直せるのか」
低い声がした。
顔を上げると、兄のテッドが扉のところに立っていた。
クロウは首を傾げる。
「分からない」
「分からないのにやるのか」
「うん」
「どうして」
「まだ鳴ってるから」
テッドは少し黙った。
それから、机の上のオルゴールを見た。
「なら、壊すなよ」
「うん」
「分からないところは聞け」
「兄さま、分かるの?」
「分からん」
「じゃあ、誰に?」
「父上か、職人だ」
それだけ言うと、テッドは部屋を出ていった。
冷たいようで、少しだけ優しい。
クロウは、そう思った。
夕方になると、屋敷の奥からチェロの音が聞こえた。
父、ケインの音だった。
低くて、静かで、ゆっくりと部屋の空気をほどいていく音。
クロウはオルゴールを膝に置いたまま、その音を聞いていた。
途中で、レオエナが部屋に入ってきた。
今度は走ってこなかった。
扉の前で一度止まり、そっと尋ねる。
「クロウ、入ってもいい?」
「うん」
レオエナは静かに歩いてきて、隣に座った。
そして、クロウの膝の上のオルゴールを見る。
「まだ直らない?」
「うん」
「難しい?」
「少し」
「手伝える?」
クロウは考えた。
レオエナは、真剣な顔をしている。
手伝いたいのだと分かった。
でも、触るとたぶん、少し強い。
「見てて」
「見るだけ?」
「うん」
「分かったわ」
レオエナは、少し寂しそうに笑った。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
見るだけ。
それも手伝いなのだと、クロウは思った。
屋敷の奥で、チェロの音が続いている。
膝の上のオルゴールは、まだ直っていない。
けれど、クロウはゼンマイを少しだけ巻いた。
つまずいた旋律が、部屋の中に流れる。
高い音が遅れて、低い音が先に行く。
綺麗ではない。
でも、鳴っている。
レオエナは黙って聞いていた。
クロウも黙って聞いていた。
父のチェロと、壊れかけのオルゴール。
二つの音は、少しも合っていなかった。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
「クロウ」
レオエナが小さく呼んだ。
「なに?」
「直ったら、私にも聞かせてね」
「うん」
「直らなくても、聞かせてね」
クロウは顔を上げた。
レオエナは少し照れたように笑っていた。
「まだ鳴っているのでしょう?」
クロウは、ゆっくり頷いた。
「うん」
まだ鳴っている。
だから、捨てなくていい。
クロウは小さな工具を握り直した。
その音がいつか綺麗に繋がるかどうかは、まだ分からない。
けれど、今はそれでよかった。
壊れかけた音は、まだ、この部屋に残っていた。
そして四年後。
その音は、まだクロウの机の上で鳴っている。




