第48話 レオエナがいないと困りました
――帝国暦三五〇年・夏初め サザ子爵家邸――
稽古を終えたクロウは、作業小屋へ行こうとした。
行こうとして、やめた。
ティナリアがこちらを見ていた。
かなり見ている。
クロウが作業小屋へ向かえば、当然のようについてくるだろう。
シドも護衛として同行するはずだ。
ティナリアが行くのなら、セフィリアも来るかもしれない。
作業小屋へ行けば、作業を見られる。
質問をされる。
そのうちティナリアが飽きて、また別の場所へ行きたがる。
そうなる気がした。
クロウは少し考え、別の用事を済ませることにした。
町へ行く。
旧館から持ち帰った部品を扱うには、足りないものがいくつかあった。
研磨剤。
ウエス。
ヤスリ。
細いピンセット。
機械油。
できれば、小さな刷毛も欲しい。
作業小屋にある道具だけでは足りない。
町へ買いに行けばいい。
買い物なら、作業しているところを見られるよりはましだろう。
そう思い、クロウは屋敷の裏手へ向かった。
歩いて町まで行くつもりだった。
だが、すぐにモーリスに止められた。
「クロウ様、町へ行かれるのでしたら、馬車をご用意いたします」
「歩く」
「現在は殿下方も滞在されております。外出の際は、馬車をお使いください」
「一人で買いに行くだけ」
「一人ではございませんでしょう」
モーリスの視線が、クロウの後ろへ向けられた。
クロウも振り返った。
いた。
シドがいる。
ティナリアもいる。
セフィリアまでいた。
いつの間にか、三人に増えている。
「……どうして」
「クロウが町へ行くと聞きました」
ティナリアが嬉しそうに答えた。
「聞いたの?」
「聞きました」
「誰から?」
「廊下で」
廊下は危ない。
クロウはそう思った。
シドは腕を組みながら言う。
「馬車に乗った方がいい。町まで歩くと時間もかかるし、護衛もしにくい」
「シドも来るの?」
「俺は護衛だからな」
「誰の?」
「……お前の」
答えるまでに、少し間があった。
どうやら、そこは覚えたらしい。
セフィリアが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ご迷惑でなければ、同行してよろしいでしょうか。ティナが町を見たいと言っておりまして」
「お姉様も見たいと言っていました」
「ティナ」
「言っていました」
「……少しだけです」
最近、この姉妹はこういうやり取りが増えている。
クロウは空を見上げた。
今日は晴れていた。
素晴らしく青い空だった。
町へ行くには、とてもよい天気だった。
そして、とても断りにくそうだった。
「……買い物だけ」
「はい」
ティナリアが即答する。
「案内じゃない」
「買い物についていきます」
「町を見るだけ?」
「町も見ます」
「増えてる」
セフィリアが妹を軽くたしなめた。
「ティナ。クロウ様の目的は買い物です。邪魔をしないように」
「はい、お姉様」
ティナリアは素直に返事をした。
返事だけは。
クロウは少し不安になった。
結局、馬車で町へ向かうことになった。
レオエナは来なかった。
リトリーと話があるらしい。
テッドの描いた姿絵についてなのか、皇太子からの依頼についてなのか。
あるいは、まったく別の話なのか。
クロウには分からない。
ただ、レオエナがいないことだけは分かった。
それが少し不安だった。
馬車に乗ったのは、クロウ、ティナリア、セフィリア、シドの四人だった。
最初は、クロウとティナリアとシドだけだと思っていた。
セフィリアは遠慮するのかと思っていた。
けれど、いつの間にかセフィリアも増えていた。
ティナリアが行くのなら、セフィリアも来る。
それは分かる。
分かるが、人数は増える。
馬車が動き出すと、ティナリアはすぐに窓の外へ目を向けた。
青い瞳が輝いている。
「町へ行くのは初めてです」
「そうなの?」
「はい。父上と外へ出ることはありましたが、町を歩くのは初めてです」
セフィリアも窓の外を眺めていた。
「私も、あまりありません」
「あまり?」
「皇宮の外へ出る時は、あらかじめ目的地が決められています。町を普通に見ることは、ほとんどありませんでした」
「そう」
クロウは少し困った。
自分は、町を案内するために出かけるわけではない。
研磨剤とウエスとヤスリとピンセットと機械油を買いに行くだけである。
だが、皇女二人にとっては、初めてに近い町らしい。
ただ道具を買って帰るだけでは、済まないかもしれない。
シドは窓の外の景色ではなく、周囲の様子を鋭い目で見ていた。
護衛としては正しい。
だが、町の案内には向いていなさそうだった。
それに、少し圧がありすぎる。
あれでは、知らない人まで睨みつけているように見えてしまう。
そもそも、シドもこの町には詳しくない。
道も店も、ほとんど知らないだろう。
つまり、案内をするのはクロウになる。
クロウは馬車の中で、静かに悟った。
こういう状況は、もう作らない方がいい。
作業小屋へ行けないから、町へ行く。
最初はよい考えに思えた。
だが、町へ行けば、町の案内が増える。
ティナリアが増える。
ティナリアが増えれば、セフィリアも増える。
そしてシドは、護衛として増える。
結局、増えている。
「クロウ」
ティナリアが窓から顔を戻した。
「町には、何がありますか?」
「店」
「どのようなお店ですか」
「色々」
「色々とは?」
「食べ物とか、道具とか、布とか、本とか」
「全部見たいです」
「全部は無理」
「では、見られるところだけ」
「買い物が先」
「はい」
ティナリアは頷いた。
頷いたが、その目は完全に町を見て回るつもりだった。
セフィリアが申し訳なさそうに言う。
「クロウ様。ティナがご迷惑をおかけすると思います」
「もうしてる」
「クロウ様」
「少し」
ティナリアが首を傾げた。
「少しなら大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
馬車の中に、小さな沈黙が落ちた。
それから、セフィリアがわずかに笑った。
彼女が笑う姿を見るのは、珍しい気がした。
「クロウ様は、はっきりおっしゃるのですね」
「言わないと増える」
「増える?」
「色々」
セフィリアは少し考えたあと、納得したように頷いた。
「たしかに、ティナは放っておくと増やします」
「お姉様」
「事実です」
ティナリアは頬を少しふくらませた。
シドは外を警戒したまま、ぼそりと言う。
「お前も増やしてる気がするけどな」
「僕?」
「旧館とか、姿絵とか、時計とか」
「……少し」
「少しじゃないだろ」
シドの話し方は、以前よりもずっと普通になっていた。
クロウは気にならなかった。
むしろ、その方が話しやすい。
ただ、プラムが近くにいなくてよかったと思う。
もし聞かれていたら、シドは今頃、無言のままどこかへ連れていかれていただろう。
馬車が町へ近づくにつれ、外の音が少しずつ増えていった。
人の声。
車輪の音。
店先から聞こえる呼び声。
町で暮らす人々の日常の音。
クロウにとっては、何度か来たことのある町だった。
だが、ティナリアとセフィリアにとっては違うらしい。
二人とも、窓の外を真剣に眺めている。
その姿を見ながら、クロウは少しだけ思った。
レオエナがいればよかった。
レオエナなら、ティナリアの相手をしながら、セフィリアとも自然に話せる。
リトリーもいれば、もっと楽だったかもしれない。
二人なら町について明るく説明し、クロウが黙っていても場を持たせてくれたはずだ。
今は、どちらもいない。
これまでで一番、レオエナがいないことを不安に感じた。
ただし、本人には言えない。
言えば、絶対に喜ぶ。
そして、たぶん抱きしめられる。
それはそれで、背骨が危ない。
クロウは窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
今日は買い物をするだけだ。
それだけのはずだった。
けれど、馬車の中には皇女が二人と護衛が一人いる。
町は、もうすぐそこだった。
買い物だけで終わる気は、あまりしなかった。




