第44話 腐っていた鉄柵
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家領 森の奥・旧館――
レオエナが開けた扉の奥には、小さな部屋があった。
部屋、と言っても、家具らしい家具はほとんどない。
壊れた棚。
倒れた椅子。
壁際に寄せられた古い箱。
そして、奥へ続く細い廊下。
天井の一部には染みが広がり、壁の漆喰もところどころ剥がれていた。
クロウは、天井を見上げた。
「崩れそう」
「ああ。長居はしない方がいいな」
先頭を歩くシドが、真面目な顔で頷いた。
さっきまでレオエナに扉を壊されて呆然としていたのに、もう立ち直っている。
護衛として見られたいのかもしれない。
ただ、シドが今、誰の護衛をしているつもりなのかは、まだよく分からない。
五人は、壁沿いの廊下を進んだ。
先頭はシド。
その後ろにセフィリア。
ティナリア。
レオエナ。
最後にクロウ。
……になるはずだったが、ティナリアがすぐにクロウの近くへ来た。
「クロウ、後ろでは見えにくくありませんか」
「見えにくい」
「では、前へ」
「でも前へ行くと、ティナリアが近い」
「近い方が安心です」
「僕は安心しない」
セフィリアが静かに妹を見る。
「ティナ。廊下ではふざけないように」
「ふざけていません」
「クロウ様が困っています」
「では、少しだけ離れます」
ティナリアは半歩だけ離れた。
やはり、少しだけだった。
レオエナはクロウの横に並び、そっと手を伸ばしかけて、途中で止めた。
さっき右手を握っていたから、今は我慢しているらしい。
その我慢はありがたかった。
けれど、我慢していることが分かるのも、少し落ち着かない。
廊下は長くはなかった。
まっすぐ進むと、やがて少し広い場所に出た。
そこは、作業小屋に似ていた。
ただし、クロウの知っている作業小屋よりもずっと古く、ずっと埃っぽい。
そして、奥には鉄柵があった。
鉄柵の向こう側に、何かが置かれている。
クロウは、思わず一歩前へ出た。
機械類だった。
古い機械。
壊れた時計らしきもの。
金属の箱。
歯車。
細い軸。
工具。
棚の上には、見たことのない形の部品もある。
錆びているものも多い。
壊れているものもある。
けれど、そこには確かに、クロウが欲しかったものがあった。
「あそこ」
クロウは小さく言った。
「あそこに、ある」
「時計ですか?」
セフィリアが聞く。
「時計じゃないものもある。でも、部品がある。工具もある。歯車も、軸も、たぶんゼンマイも」
クロウは鉄柵に近づいた。
近づいて、すぐに止まった。
鉄柵は古かった。
かなり錆びている。
けれど、太い。
錠前もついている。
鍵は見当たらない。
シドが横から確認する。
「開かないな」
「うん」
「錠も古いけど、無理に開けるのは危ない。柵も太いし、さすがにこれは無理だろ」
危険。
無理。
それは分かる。
分かるけれど、目の前に部品がある。
欲しかったものがある。
時計を直せるかもしれないものがある。
クロウは鉄柵の向こうを見た。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
とてもよくない。
すごくよくない。
クロウは少しだけ迷った。
そして、レオエナを見た。
「エナ姉」
「なあに?」
「あの柵、なんとかならないかな」
レオエナの顔が、ぱっと明るくなった。
クロウは少しだけ後悔した。
でも、もう遅かった。
「もちろんよ。クロウのお姉ちゃんに任せて」
レオエナはとても嬉しそうだった。
頼られたことが、相当嬉しいらしい。
鉄柵の前に立つ。
白く細い手が、柵の中心に触れる。
シドが慌てた。
「あの、レオエナ様。無理に触れるのは危険です」
クロウに向ける声とは、明らかに違った。
かなり丁寧だった。
「大丈夫よ。壊れているか見るだけだから」
その言い方は、もう少し信用できない。
クロウはそう思った。
レオエナは左右の鉄棒を握った。
そして、少しだけ力を込めた。
ぎぎ、と音がした。
それから、鉄柵が動いた。
曲がった。
広がった。
まるで飴細工のように。
太い鉄棒が、左右へ押し広げられていく。
錆びた音が廊下に響き、鉄柵の中央に人が通れるほどの隙間ができた。
「これで入れるわ」
レオエナは嬉しそうに振り返った。
「少し腐っていたみたいね」
シドは完全に固まっていた。
口が少し開いている。
セフィリアも、言葉を失っている。
ティナリアは目を輝かせていた。
「すごいです、レオエナさん」
「そんなことないわ。たぶん、古かっただけよ」
「古かっただけで、ああはなりません」
セフィリアが静かに言った。
かなり正直だった。
シドは、小さく呟いた。
「……すげえ」
その声には、さっきまでの困惑とは違うものが混じっていた。
尊敬。
たぶん、そういうものだった。
シドは強い人が好きなのかもしれない。
クロウは、鉄柵を見た。
それから、レオエナを見た。
この人は、取っ手を壊し、扉を壊し、鉄柵も広げた。
そして全部、壊れていたことになる。
自分はこの人に抱きしめられてきた。
背骨が痛いのは、やっぱり当然だった。
「エナ姉」
「なあに?」
「ありがとう」
クロウが言うと、レオエナは嬉しそうに両手を広げた。
抱きしめる気だ。
クロウは少しだけ止まった。
でも、頼んだのは自分だった。
柵を開けてもらったのも自分だった。
だから、仕方ない。
クロウは一歩近づき、軽くレオエナに抱きついた。
本当に軽く。
できるだけ短く。
レオエナは幸せそうにクロウを抱き返した。
少しだけ力が強かった。
やはり少し痛い。
「エナ姉」
「なあに?」
「もういい」
「もう少し」
「もういい」
「……もう少しだけ」
クロウは背中に力を入れた。
やはり、レオエナの抱擁は危険だった。
ようやく離してもらい、クロウは鉄柵の隙間から中へ入った。
そこは、宝物庫のようだった。
もちろん、他の人にとっては違うだろう。
古い機械。
錆びた工具。
壊れた部品。
埃をかぶった箱。
普通なら、ただの古い物置かもしれない。
でも、クロウには違った。
歯車。
軸。
ねじ。
バネ。
細い金具。
小さな工具。
見たことのない形の部品。
古い図面の切れ端。
動くかもしれない。
使えるかもしれない。
直せるかもしれない。
クロウの胸の奥が、どんどん騒がしくなっていく。
心が乱れている。
かなり乱れている。
けれど、これは嫌な乱れではなかった。
うまく抑えられない。
抑えたいとも、少し思えない。
「この箱、使っていいかな」
クロウは近くにあった木箱を見つけた。
埃だらけだが、まだ使えそうだった。
シドが鉄柵の外から言う。
「おい、入れすぎるなよ。帰り道もあるんだぞ」
「うん」
クロウは返事をした。
返事はしたが、手は止まらなかった。
歯車を入れる。
工具を入れる。
軸を入れる。
小さな金具を入れる。
使えそうなものを選んでいるつもりだった。
でも、気づくとかなり入っていた。
「クロウ様」
セフィリアが声をかけた。
「そのくらいでよいのではありませんか」
「まだある」
「ありますが、持ち帰れなければ意味がありません」
「……うん」
正しい。
かなり正しい。
クロウは名残惜しく工具棚を見た。
まだ見たい。
まだ触りたい。
でも、ここは旧館の奥だ。
天井は少し崩れている。
壁も傷んでいる。
床も安全とは言えない。
セフィリアの言う通り、長居は危ない。
クロウは木箱を抱え、鉄柵の外へ出た。
箱は重かった。
けれど、嫌な重さではない。
むしろ少し嬉しい。
かなり嬉しい。
「目的のものが手に入ったのであれば、そろそろ出た方がよろしいかと思います」
セフィリアが言った。
「この建物は、やはりあまり長くいるべきではありません」
「ええ、私もそう思うわ」
レオエナが頷く。
「クロウが欲しいものを持てたなら、今日はもう帰りましょう」
「ええ?」
ティナリアが不満そうに声を上げた。
「まだ塔を見ていません」
「ティナ」
セフィリアが妹を見る。
「今日はここまでです」
「でも」
「ここまでです」
セフィリアの声は静かだった。
けれど、かなり強かった。
ティナリアは少しだけ頬をふくらませたが、今度はそれ以上言わなかった。
シドも頷く。
「俺も戻った方がいいと思う。足場が悪い。これ以上奥は危ない」
護衛らしいことを言っている。
ただ、シドの視線は時々レオエナへ向いていた。
レオエナが鉄柵を広げた瞬間から、シドの何かが変わっている。
尊敬。
感心。
心酔。
たぶん、そのあたりだ。
クロウは少しだけ思った。
シドは、強い人が好きなのかもしれない。
それなら、レオエナはかなり危険だ。
とても強い。
しかも本人は、それを「壊れていた」で通す。
ある意味、もっと怖い。
五人は来た道を戻り始めた。
クロウは木箱を抱えている。
シドが途中で手を伸ばした。
「重いだろ。それ、持てるのか」
「持てる」
「無理するなよ」
「持ちたい」
シドは少しだけ不思議そうな顔をした。
クロウにも分かっている。
自分は今、かなり喜んでいる。
心が乱れている。
けれど、箱を手放したくなかった。
この中には、時計を直せるかもしれないものが入っている。
足りなかった部品。
使える工具。
もしかしたら、あの古時計の音を取り戻せるかもしれないもの。
クロウは、帰ったら何から確認するかを考え始めていた。
まず歯車の大きさ。
次に軸の太さ。
バネの状態。
工具は汚れを落としてから。
使えないものもあるだろう。
でも、使えるものもきっとある。
その考えだけで、胸の奥が少し熱くなる。
レオエナは、そんなクロウを見て微笑んでいた。
嬉しそうに。
誇らしそうに。
そして、少しだけ危ないくらい幸せそうに。
シドは、レオエナを見ていた。
先ほどとは違う目で。
扉を開けた時。
鉄柵を広げた時。
全部を「壊れていた」で済ませた時。
シドの中で、何かが決まってしまったのかもしれない。
「レオエナ様」
シドがぽつりと言った。
「何かしら?」
「……お見事でした」
レオエナは少し驚いたあと、やわらかく笑った。
「ありがとう。でも、壊れていただけよ」
「はい」
シドは真面目に頷いた。
信じている顔ではなかった。
ただ、否定する気もなさそうだった。
ティナリアはまだ塔を見たそうにしていた。
セフィリアはその妹を横目で見ながら、次にどう止めるか考えているようだった。
旧館を出る頃には、森の空気が少し冷たくなっていた。
帰り道は、行きよりも静かだった。
けれど、静かに終わる気配はあまりなかった。
クロウは木箱を抱えながら、そっと息を吐く。
時計の部品は手に入った。
その代わりに、何か別の歯車も動き出した気がした。
主に、レオエナとシドのあたりで。
まだまだ、帰り道も落ち着かなさそうだった。




