第43話 壊れていたことになりました
――帝国暦三五〇年・夏初め サザ子爵家領 森の奥――
森の奥へ行くことになった。
クロウは、まだ少し納得していなかった。
納得していないのに、歩いている。
前には細い道。
左右には木々。
後ろでは、屋敷の気配が少しずつ遠くなっていく。
人数は五人だった。
クロウ。
レオエナ。
セフィリア。
ティナリア。
そして、シド。
シドは見習い騎士らしく、少し前を歩いている。本人は護衛としてかなり張り切っているようだった。
誰を護衛するつもりなのかは、まだよく分からない。たぶん、シド自身も分かっていない。
ティナリアは、ほとんど遠足のような顔をしていた。
「森の奥へ行くのは初めてです」
「普通は行かない」
クロウは言った。
「どうしてですか?」
「危ないから」
「でも、今日は行きます」
「うん」
「では、危なくないのですね」
「危ないかもしれない」
ティナリアは少し考えた。
「でも、シドがいます」
シドが少しだけ胸を張った。
「お任せください。殿下方は、私がお守りいたします」
自信満々だった。
クロウは、それを見て少しだけ不安になった。
自信がある人は、時々危ない。
自信があるから、危ない方へ近づく。
それに、シドはさっきプラムに頭を叩かれ、引きずられていた。
本当に大丈夫なのかは分からない。
ただ、本人はかなりやる気だった。
セフィリアは周囲をよく見ながら歩いていた。
足元。
木の根。
枝。
道の傾き。
その視線は、やはり騎士のものに近い。
「道は残っているのですね」
「昔は使っていたんだと思う」
クロウは答えた。
「今は?」
「ほとんど使ってない」
「では、足場には気をつけた方がよさそうですね」
「うん」
レオエナは、クロウの右手を握っていた。
珍しいことではない。
けれど、いつもとは少し違った。
普段のレオエナは、クロウを抱きしめたり、近くに寄ったりする時、嬉しそうなことが多い。
今日は少しだけ、手に力が入っている。
そのため、耐えてはいるものの、クロウの手は今、危険状態だった。
レオエナも不安なのかもしれない。
森の奥。
使われていない古い館。
皇女二人。
見習い騎士。
そしてクロウ。
レオエナにとっても、落ち着かない状況なのだろう。
「エナ姉」
「なあに?」
「怖い?」
「少しだけ」
レオエナは正直に答えた。
「でも、クロウが行くなら一緒に行くわ」
「行きたくて行ってるわけじゃない」
「そうなの?」
「少しだけ行きたいけど」
「少しだけ?」
「時計があるかもしれないから」
レオエナはクロウを見て、やさしく微笑んだ。
「それなら、少し楽しみなのね」
「少しだけ」
そう。
少しだけ。
クロウは不安だった。
けれど、胸の奥には小さな期待もあった。
壊れた古時計。
足りないかもしれない部品。
欠けた歯車。
戻りの悪いゼンマイ。
もし、この先の旧館に同じような時計があれば、部品取りにできるかもしれない。
もしかすると、まだ動く時計が残っているかもしれない。
そう考えると、不安の中に少しだけ楽しみが混じる。
それが困る。
行きたくないのに、見たい。
見たいから、歩いている。
すると、左手が握られた。
クロウは止まりかけた。
ティナリアだった。
「……何?」
「私も握ります」
「どうして」
「レオエナさんだけでは、ずるいです」
「ずるくない」
「ずるいです」
ティナリアは当然のようにクロウの左手を握っている。
クロウは左右を見る。
右手はレオエナ。
左手はティナリア。
前にはシド。
横にはセフィリア。
逃げ場がない。
「歩きにくい」
「では、ゆっくり歩きます」
「そういう問題じゃない」
セフィリアが少しだけ困った顔をした。
「ティナ。クロウ様が困っています」
「困っているのですか?」
「困っている」
クロウは答えた。
「では、少しだけにします」
ティナリアはそう言った。
けれど、手は離さなかった。
少しだけ、の強さが分からない。
クロウは諦めて歩いた。
しばらく進むと、木々の間に黒い影が見えた。
細く、高い。
塔だった。
黒い石でできた塔が、森の奥から静かに立っている。
「あれ?」
ティナリアが声を弾ませた。
「はい。あれが塔ですね」
セフィリアも足を止める。
レオエナの手に、少しだけ力が入った。
クロウは塔を見上げた。
思っていたよりも大きい。
木々の間から見えていた時より、ずっと近い。
そして、少し怖い。
そこからさらに歩くと、館の形が見えてきた。
古い石造りの館。
壁には蔦が絡み、窓のいくつかは割れている。
屋根の一部は傷み、黒い塔だけがまだしっかりと空へ伸びていた。
館の前に着くまでに、およそ一時間ほど歩いた。
もっと短い気もしたし、もっと長い気もした。
クロウは館の正面に立ち、息を整える。
確かに、廃墟だった。
「ここが、昔の領主の館」
セフィリアが静かに言った。
「はい」
シドが前へ出る。
「まず、私が確認します。皆様は少しお待ちください」
少しだけ誇らしげだった。
騎士らしいことができて嬉しいのかもしれない。
シドは大きな扉へ向かった。
館の正面には古い扉があった。
厚い木でできている。
金具は錆びていた。
シドは取っ手を握り、動かそうとした。
動かない。
もう一度、力を込める。
やはり、動かない。
「鍵がかかっているようです」
シドが言った。
「では、入れない?」
クロウは少しだけほっとした。
入れないなら、ここで終わりでいい。
外から塔を見た。
館も見た。
帰る理由になる。
時計は気になる。
けれど、入れないなら仕方ない。
そう思った。
「壊れているのかしら」
レオエナが言った。
そして、扉に近づいた。
「エナ姉?」
「少し見るだけよ」
レオエナは取っ手に手をかけた。
次の瞬間だった。
ばきっ、と大きな音がした。
取っ手ではない。
扉そのものが、歪んだ。
古い金具が飛び、扉が裂ける。
レオエナが少し引いただけに見えた。
けれど、扉は二枚とも外側へ大きく開いた。
開いた、というより。
壊れた。
シドは口を開けたまま固まっていた。
ティナリアも目を丸くしている。
セフィリアは、珍しく言葉を失っていた。
クロウも、しばらく何も言えなかった。
「……壊れてたの?」
クロウが聞く。
レオエナは取っ手を見て、少し困ったように笑った。
「ええ。壊れていたみたい」
「なんだ、壊れてたんだ」
「ええ」
シドが小さく呟いた。
「……全然、動かなかったのに」
その声は、かなり小さかった。
レオエナには聞こえなかったらしい。
よかったのかもしれない。
クロウは、壊れた扉を見た。
そして、レオエナの手を見る。
自分は、この人に抱きしめられていた。
何度も。
背骨が痛かった理由が、少し分かった気がした。
* *
館の中は暗かった。
ただ、完全な闇ではない。
一階の広間は思っていたより広く、上の方には天窓があった。
そこから光が差し込んでいる。
細い光が、埃の中を落ちていた。
床板は古く、踏むたびにぎしぎしと鳴る。
空気は乾いていて、少し埃っぽい。
クロウは鼻の奥がむずむずした。
「足元に気をつけてください」
シドが言った。
さっき扉の件で固まっていたのに、もう護衛らしい顔に戻っている。
立ち直りは早いらしい。
「私が先に周囲を確認します」
そう言って、シドは広間の中を進んだ。
かなり楽しそうだった。
たぶん、本人は自覚していない。
しかし、顔が少し明るい。
護衛らしいことをしている自分に、少し酔っているのかもしれない。
ティナリアも楽しそうだった。
完全に遠足気分である。
セフィリアは少し緊張しているが、興味も隠せていない。
レオエナはクロウの近くにいる。
クロウは、壁際を見た。
棚。
壊れた椅子。
倒れた小さな机。
壁に残る古い装飾。
時計はない。
時計どころか、機械らしいものも見当たらない。
金具や部品になりそうなものも少ない。
「ない」
クロウは小さく言った。
「何がですか?」
ティナリアが聞く。
「時計」
「時計を探しているのですか?」
「うん」
「では、もっと奥にあるかもしれません」
「かもしれない」
クロウは少しだけ頷いた。
一階の広間には、主だったものは残っていないようだった。
古い家具はある。
埃もある。
壊れた調度品もある。
でも、クロウの探しているものはない。
しばらくして、シドが戻ってきた。
「広間には、大きな危険はなさそうです。ただ、床が傷んでいる場所があります。端には寄りすぎない方がよろしいかと」
「うん」
クロウは頷いた。
シドはさらに右手の扉を指さす。
「こちらの部屋も確認しようとしたのですが、鍵がかかっていて開きませんでした。ひとまず、別の場所から確認した方がよいかと」
「そう」
クロウは、その扉を見た。
古い扉。
錆びた金具。
さっきの正面扉より小さい。
入れないなら、仕方ない。
そう思う前に、レオエナが動いた。
「ここも壊れているのかしら」
「エナ姉」
止めるのが、少し遅かった。
レオエナは取っ手を握った。
ぱきん。
軽い音がした。
取っ手だけが外れた。
レオエナの手の中に、取っ手が残っている。
「あら」
レオエナは少し困ったように言った。
「壊れていたのね」
シドの顔が固まった。
ティナリアが口を開ける。
セフィリアは扉とレオエナを交互に見た。
クロウは、もう何も言わなかった。
レオエナは取っ手をそっと床に置いた。
そして、扉の端に手をかける。
「中が見えるかしら」
そう言って、軽く引いた。
ばきっ。
今度は、扉そのものが割れるような音を立てた。
歪んでいた扉が、枠ごと少し外れ、無理やり開く。
開いたというより、やはり壊した。
レオエナは少しだけ首を傾げる。
「やっぱり、傷んでいたみたいね」
シドは、完全に呆然としていた。
「……傷んでいた、だけで」
小さく呟く。
セフィリアが、かなり真面目な顔でレオエナを見ている。
ティナリアは目を輝かせていた。
「レオエナさんは、すごいのですね」
「そんなことはないわ、壊れていただけですもの」
レオエナは穏やかに笑った。
そんなことは、ある。
クロウはそう思った。
かなりある。
扉が開いた部屋の中は、さらに暗かった。
埃の匂いが強い。
何があるのかは、まだよく見えない。
けれど、クロウはすぐには中を見なかった。
レオエナを見ていた。
取っ手を壊し、扉を壊し、それを全部「壊れていたのね」で済ませた人。
その人に、自分は何度も抱きしめられていた。
さっきは手が痛かったが、背骨がいつも痛いはずだった。
痛くて当然だった。
クロウは、少しだけ納得した。
そして、シドを見た。
護衛として張り切っている見習い騎士。
その横に、扉を素手で開ける姉。
クロウは静かに思った。
これなら、シドはいらないのではないか。
もちろん、口には出さなかった。
言えば、たぶんまた色々増える。
探索は、まだ始まったばかりだった。




