第42話 森の奥の話をしてしまいました
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
その日は、学校が休みだった。
皇太子殿下が来ているから休んだ、というわけではない。もともと、今日は学校のない日だった。
だからクロウは朝から屋敷にいた。
それは良いことのようで、あまり良いことでもなかった。
学校に行けば、馬車の列や皇太子殿下の来訪について質問される。
屋敷にいれば、皇太子殿下とセフィリアとティナリアがいる。
どちらも落ち着かない。
朝食を終えたあと、クロウは庭に出た。
プラムとの稽古の時間だった。
木剣を握る。
足を置く。
肩の力を抜く。
プラムはいつも通り、静かに立っている。
屋敷がどれだけ騒がしくても、プラムはあまり変わらない。
そこは少し助かる。
「本日は、昨日より足運びが軽いですね」
「そう?」
「はい。ただし、視線が少し外へ流れています」
「外?」
「周囲を気にしすぎです」
クロウは少しだけ庭の方を見た。
見慣れない護衛。
見慣れない侍女。
皇太子殿下の一行。
気にするなという方が難しい。
「気になる」
「気になる中でも、見るべきものを見なさい」
「うん」
プラムの木剣が動いた。
速い。
クロウは一歩引き、角度をずらして受ける。
重い。
プラムの剣は、いつも重い。
ただ力が強いだけではない。
逃げ道を塞ぐように来る。
だから、正面で受けると負ける。
クロウは、剣先ではなく足を見る。
プラムの重心。
踏み込み。
肩。
次に来る向き。
なんとか避ける。
受ける。
流す。
稽古が少し続いたところで、庭の端から声がした。
「見学してもよろしいでしょうか?」
セフィリアだった。
きちんとした服装ではあるが、動きにくそうではない。
立ち方も、朝から変わらず整っている。
ティナリアは少し後ろにいた。
こちらはもうクロウを見ている。
かなり見ている。
レオエナも一緒だった。
昨日のことがあったからだろう。
クロウの近くにいるつもりらしい。
「どうぞ」
プラムが答えた。
セフィリアは礼をし、稽古を見始めた。
その目は真剣だった。
ただ珍しいものを見る目ではない。
剣を見る目だった。
クロウは、少し落ち着かなくなる。
見られている。
しかも、ただ見られているのではない。
動きを見られている。
何度か打ち合ったあと、セフィリアが口を開いた。
「クロウ様は、かなり相手を見て動かれるのですね」
「見ないと当たる」
クロウは答えた。
セフィリアは少しだけ目を丸くしたあと、うっすら笑った。
「たしかに、その通りです」
それから、プラムへ視線を向ける。
「プラム殿。差し支えなければ、少しだけクロウ様と剣を合わせてもよろしいでしょうか」
クロウは止まった。
増えた。
そう思った。
プラムはクロウを見る。
「クロウ様」
「……少しだけなら」
断っても、たぶん別の形で増える。
クロウはそう判断した。
木剣がセフィリアに渡される。
セフィリアは構えた。
綺麗な構えだった。
力任せではない。
姿勢が安定している。
そして、思っていたより速かった。
最初の一撃を、クロウは横へずらして受けた。
軽い一撃。
いや、軽いのではない。
プラムよりは軽いだけだ。
けれど、鋭い。
セフィリアはすぐに二撃目を入れてくる。
クロウは下がる。
受ける。
そして流す。
踏み込む。
セフィリアが半歩下がって、剣を合わせる。
互角、と言っていいのかは分からない。
ただ、すぐに負けることはなかった。
セフィリアも、それに気づいたらしい。
数合打ち合ったあと、セフィリアは自分から剣を下げた。
「ありがとうございました」
「うん」
「驚きました」
「何が?」
「思っていたより、ずっと見えていらっしゃる」
「見ないと当たるから」
「それだけでできる動きではありません」
セフィリアは真面目に言った。
その目が少しだけ輝いている。
クロウは嫌な予感がした。
剣の方で見られ始めている。
それはそれで、かなり落ち着かない。
「また、機会があればお願いします」
「……機会があれば」
クロウはそう答えた。
機会がないことを少しだけ願った。
けれど、たぶんある。
そういう目をしていた。
* *
稽古のあと、クロウは作業小屋へ向かうことにした。
今日は学校がない。
なら、少しでも古時計を見たい。
あの時計はまだ動かない。
軸の汚れ。
歯車の噛み合わせ。
戻りの悪いゼンマイ。
もしかすると、部品が足りない可能性もある。直すには、もう少し中を見なければならない。
クロウが作業小屋へ向かおうとすると、すぐ後ろにティナリアがいた。
かなり近い。
「どこへ行くのですか、クロウ」
「作業小屋」
「私も行きます」
「どうして」
「クロウが行くからです」
「理由になってない」
「大切な理由です」
クロウは少しだけ困った。
そこへレオエナが来る。
「私も行くわ」
「エナ姉も?」
「もちろんよ。昨日、守ってあげると言ったでしょう?」
言っていた。
確かに言っていた。
クロウは少しだけ目を伏せる。
ありがたい。
ありがたいが、これも何かが増えている。
セフィリアも歩いてきた。
「申し訳ありません。ティナがご迷惑をおかけしないよう、私も同行します」
「お姉様も、作業小屋を見たいと言っていました」
「ティナ」
「言っていました」
「……少しだけです」
セフィリアはわずかに視線を逸らした。
少し興味があるらしい。
結局、作業小屋へ向かうのは四人になった。
クロウ。
レオエナ。
セフィリア。
ティナリア。
作業小屋へ行くだけなのに、多い。
かなり人数が多い。
庭を抜けている途中、ティナリアが横から覗き込むように聞いてきた。
「作業小屋では何をするのですか」
「作業」
「何の作業ですか」
「時計」
「時計を直すのですか」
「直せたら」
「私もできますか?」
「できないと思う」
「では、見ています」
「それも少し困る」
ティナリアは首を傾げた。
「見ているだけでも困るのですか?」
「近いと困る」
「では、少し離れます」
ティナリアは半歩だけ離れた。
半歩だけだった。
それを見たセフィリアがため息をつく。
「ティナ。もっと離れなさい」
「離れています」
「それは離れたとは言いません」
レオエナは微笑んでいる。
微笑んでいるが、目はティナリアの距離を見ていた。
クロウは、少しだけ作業小屋が遠くなった気がした。
その時だった。
「おい」
低い声がした。
見慣れない少年が、道の横から現れた。
年はクロウと大きくは変わらない。
体格も近い。
ただ、姿勢は騎士見習いのものだった。
短く整えた髪。
真面目そうな顔。
そして、少し怒っている。
「殿下方に対して、その態度は無礼だぞ」
クロウは止まった。
誰。
そう思った。
ティナリアは少し不思議そうに少年を見る。
セフィリアはすぐに顔を引き締めた。
「シド。控えなさい」
「しかし、セフィリア殿下。この者は」
「クロウはこれでいいのです」
ティナリアが言った。
なぜか少し嬉しそうだった。
シドと呼ばれた少年は、さらに困惑した。
「これで、よろしいのですか?」
「はい」
「ですが」
シドはクロウを見る。
「この男が、殿下方にそのような口を」
そこまで言った瞬間だった。
シドの背後に、プラムが立っていた。
音もなく。
本当に、音もなく。
シドが気づいた。
「あ」
次の瞬間、鈍い音がした。
プラムの拳が、シドの頭に落ちていた。
シドは頭を押さえたまま固まる。
プラムは何も言わない。
ただ、シドの襟首をつかむ。
そして、無言で連れていった。
シドも抵抗しなかった。
ただ、少しだけこちらを見た。
何かを言いたそうだったが、何も言わなかった。
そのまま、いなくなった。
クロウはしばらくその背中を見ていた。
「……今のは?」
「プラムの息子です」
レオエナが小さく言った。
「息子」
「ええ。シドというの」
クロウはもう一度、シドが連れていかれた方を見た。あまりにも急に現れて、あまりにも急に消えた。
何だったのか、よく分からなかった。
ティナリアは少し楽しそうにしている。
セフィリアは額に手を当てていた。
「申し訳ありません。騎士見習いとしては、間違ったことを言ったわけではないのですが」
「うん」
「ただ、状況を分かっていませんでした」
「状況」
クロウは小さく繰り返した。
自分も、よく分かっていない。
* *
作業小屋は、いつも通り静かだった。
木の匂い。
油の匂い。
小さな部品を入れた箱。
直しかけのオルゴール。
そして、作業台の上の大きな古時計。
クロウは椅子に座り、時計の裏蓋を開けた。
今日は、歯車の噛み合わせをもう一度見たかった。
細い道具で汚れを落とす。
軸を確かめる。
歯の欠けを探す。
ゼンマイの戻りを見る。
地味な作業だった。
レオエナは、それでも楽しそうに見ていた。クロウが作業しているだけで満足しているらしい。
それは少し困るが、静かなのでまだいい。
セフィリアも、思っていたより真剣に見ていた。
「この歯車は、欠けているのですか」
「少し」
「交換が必要ですか」
「たぶん。磨けば使えるかもしれないけど、駄目かもしれない」
「部品はあるのですか」
「ない」
「では、作るのですか」
「作れるなら」
セフィリアは感心したように時計を見る。
剣だけではないらしい。
仕組みにも興味があるようだった。
問題は、ティナリアだった。
最初は目を輝かせていた。
時計。
歯車。
工具。
作業小屋。
全部が珍しかったのだろう。
けれど、クロウの作業は長い。
しかも、動きが小さい。
少し削る。
布で拭く。
目を近づける。
また戻す。
ティナリアは、しばらくすると明らかに飽き始めた。
「クロウ」
「うん」
「いつまでこれをするのですか」
「終わるまで」
「終わるのはいつですか?」
「分からない」
「分からないことが多いですね」
「うん」
ティナリアは作業小屋の中を見回した。
「他には何かないのですか?」
「何か?」
「もっと、案内できる場所です」
クロウは少し考えた。
言わなければよかった。
でも、考えた時点で少し遅かった。
「森の奥には、昔の領主の館がある」
口から出た。
出てしまった。
クロウは、すぐに失敗したと思った。
ティナリアの顔が明るくなる。
「館?」
セフィリアもこちらを見た。
「昔の領主の館、ですか?」
「高い塔がある。黒い石の、古い館」
「行きたいです」
ティナリアは即答した。
早い。
かなり早い答えだった。
「だめ」
クロウも即答した。
「どうしてですか」
「危ないから」
「見に行くだけです」
「それが危ない」
レオエナもすぐに口を開いた。
「ティナリア様、森の奥は足場も悪いでしょうし、今はやめた方がいいと思います」
「でも、館があるのですよね」
「ありますけれど」
「塔も」
「ありますけれど」
「見たいです」
レオエナは困ったようにクロウを見た。
クロウも困っていた。
セフィリアは少し考えている。
止める側の顔ではある。
ただ、興味もある顔だった。
「ティナ。勝手に行くことはできません」
「では、父上に許可をいただきます」
「それはだめ」
クロウは思わず言った。
セフィリアもすぐに頷く。
「それは、やめた方がいいでしょう」
皇太子殿下に話せば、たぶん大きくなる。
護衛が増える。
人が増える。
森の奥へ行く話が正式な外出になる。
それは絶対にだめだった。
「では、誰の許可ならよいのですか」
ティナリアが聞く。
クロウは答えられなかった。
その時、作業小屋の外から声がした。
「でしたら、護衛が同行すればよろしいかと」
またシドだった。
さっき連れていかれたはずなのに、もう戻ってきていた。
ただし、今度は異様に丁寧な顔をしている。
クロウは少しだけ身構えた。
「先ほどは、大変失礼いたしました」
シドは深く頭を下げた。
かなり深い。
誰かに言われたのだろう。
たぶんプラムに。
「シド」
セフィリアが少しだけ驚いたように言う。
「戻ったのですか?」
「はい。プラムより、護衛に戻るよう申しつけられました」
シドはまっすぐ答えた。
「殿下方の護衛として、私が同行いたします。外から見るだけであれば、大きな危険はないかと」
クロウは少しだけ引っかかった。
殿下方の護衛。
シドはそう言った。
でも、プラムが本当にそう言ったのかは怪しい。
かなり怪しい。
ただ、今ここでそれを確認する相手はいない。
ティナリアは目を輝かせた。
「ほら、護衛もいるそうです」
「ティナ」
「お姉様、外から見るだけです」
セフィリアは少しだけ黙った。
「中へ入らないのであれば……確かに、絶対に駄目とは言い切れません」
「セフィリア様」
レオエナが不安そうに言う。
「もちろん、無理にとは言いません。ただ、護衛をつけ、森の入口から道を確認し、危険なら引き返す。それなら、外観を見る程度は可能かもしれません」
話が傾いた。
クロウには分かった。
かなり傾いた。
ティナリアは行きたがっている。
セフィリアも少し興味がある。
シドは護衛として自信満々だ。
レオエナは賛成できない顔をしているが、クロウが行くなら自分も行くつもりだ。
つまりなし崩し的に。
クロウも行くことになる。
それなら。
クロウは作業台の上の古時計を見た。
止まった針。
外れかけた歯車。
磨いても戻らないかもしれない軸。
部品が足りない可能性もある。
もし、森の奥の旧館に同じような時計があれば。壊れていても、部品取りに使えるかもしれない。
もしかすると、まだ動いているものがあるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ動いた。
行かない方がいい。
そう思っている。
危ないかもしれない。
面倒なことになるかもしれない。
人も増える。
護衛も増える。
静かにはならない。
でも、少しだけ中を見てみたい。
それが一番困った。
余計なことを言ったのは、自分だった。
クロウは、止まった時計を見つめながら、小さく息を吐いた。
これは、たぶん行くことになる。
ただそれも、少し楽しみだった。




