第41話 寝台が増えていました
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
晩餐は、なんとか終わった。
皇太子殿下。
セフィリア様。
ティナリア様。
先遣隊。
増えた侍女。
増えた護衛。
増えた会話。
増えた視線。
今日一日だけで、屋敷の中に、置き場所の分からないものがたくさん増えた。
クロウは食堂を出ながら、小さく息を吐く。
もう今日は終わった。
そう思いたかった。
晩餐の間も、ティナリア様は何度もこちらを見ていた。
見るだけなら、まだいい。
いや、よくはない。
けれど、まだ動かない分だけましだった。
セフィリア様が隣にいる間は、ティナリア様もある程度は大人しくしていた。
ある程度は、である。
完全ではない。
クロウは自分の部屋へ戻ろうと、廊下を歩いた。
今日はもう、作業小屋へは行かない。
古時計も見ない。
歯車も並べない。
部屋に戻って、少しだけ静かにする。
それだけでよかった。
けれど、自分の部屋に近づいたところで、クロウは足を止めた。
部屋の前に人がいる。
侍女。
護衛。
知らない顔が数人。
しかも、扉が少し開いていた。
クロウの部屋の扉が。
開いている。
かなりよくない。
「……何?」
クロウは近くにいた侍女に声をかけた。
侍女はすぐに礼をする。
「クロウ様。失礼しております」
「何してるの?」
「ティナリア殿下のご指示でございます」
「ティナリア様の」
嫌な予感がした。
かなり強い嫌な予感だった。
クロウはそっと扉の隙間から中を見る。
部屋の中に、寝台が増えていた。
クロウの寝台ではない。
もう一つ。
新しい寝台が、壁際に置かれようとしている。
毛布。
枕。
小さな卓。
なぜか、花まで置かれている。
クロウは固まった。
ここは、自分の部屋だったはずである。
朝までは。
少なくとも、出かける前までは。
「これは」
クロウは部屋の中を見たまま聞いた。
「どういうこと?」
侍女は困ったように目を伏せる。
「ティナリア殿下が、こちらでお休みになると」
「ならない」
クロウは即答した。
侍女がさらに困った顔をする。
「ですが、殿下が」
「ならない」
二回言った。
一回では足りない気がしたからだ。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「クロウ」
振り向くと、ティナリア様がいた。
その隣に、セフィリア様もいる。
セフィリア様は部屋の中を一目見た瞬間、顔を押さえた。
かなり深く。
「……ティナ」
「はい、お姉様」
「これは、何ですか」
「私の寝台です」
「それは見れば分かります」
セフィリア様の声は落ち着いている。
けれど、かなり疲れているように聞こえた。
そして、セフィリア様はクロウの方へ向き直る。
「クロウ様。申し訳ありません」
すぐに頭を下げた。
「妹が、勝手にこのようなことを」
「勝手に」
クロウは小さく繰り返した。
やはり勝手だった。
ティナリア様は不思議そうに首を傾げる。
「勝手ではありません。侍女にはお願いしました」
「それを勝手と言います」
「でも、私はクロウと一緒に寝るので」
廊下が止まった。
侍女も止まった。
護衛も止まった。
クロウも止まった。
セフィリア様は、静かに目を閉じる。
「ティナ」
「はい」
「今の言葉は、すぐに取り消しなさい」
「どうしてですか?」
「どうして、ではありません」
セフィリア様が言い切る。
その時、背後から別の声がした。
「クロウ?」
レオエナだった。
食堂からこちらへ来たのだろう。
クロウの部屋の前に侍女と護衛が集まっているのを見て、少し不安そうな顔をしていた。
そして、部屋の中を見る。
増えた寝台を見る。
ティナリア様を見る。
セフィリア様を見る。
最後に、クロウを見た。
「これは、どういうことかしら」
声は穏やかだった。
けれど、少し震えていた。
クロウはその震えが、怒りなのか、困惑なのか、皇女相手にどう言えばいいか分からないせいなのか、判断できなかった。
多分、全部だった。
セフィリア様がもう一度頭を下げる。
「レオエナさん。申し訳ありません。ティナが、勝手に寝台をこちらへ運ばせてしまったようです」
「こちらへ」
「クロウ様のお部屋へ」
「クロウの部屋へ」
レオエナの声が、少しだけ硬くなった。
けれど、相手は皇女である。
強く叱ることはできない。
レオエナは両手を胸の前で握り、必死に落ち着こうとしていた。
「ティナリア様」
「はい」
「クロウの部屋で眠ることは、できません」
「どうしてですか?」
ティナリア様は本当に不思議そうだった。
悪気がある顔ではない。
だから余計に困る。
「クロウの部屋だからです」
「だから、一緒に眠るのです」
「だから、ではありません」
レオエナが少しだけ前へ出る。
だが、それ以上の言葉は続かなかった。
やはり、強くは言えない。
ティナリア様は皇女である。
そして、まだ幼い。
その幼さが、やけに強い。
「クロウは嫌ですか?」
ティナリア様が、まっすぐ聞いてきた。
クロウは少しだけ考える。
ここで曖昧にすると、増える。
かなり増える。
だから、正直に答えることにした。
「嫌です」
廊下の空気が、また止まった。
ティナリア様は、ぱちぱちと瞬きをする。
「嫌なのですか?」
「はい」
「少しですか?」
「かなり」
セフィリア様が、静かに息を吐いた。
レオエナは、少しだけほっとしたような顔をする。
ティナリア様は、考え込むようにクロウを見た。
「どうしてですか?」
「部屋だから」
「部屋だから?」
「僕の部屋だから」
「私は静かに眠れます」
「そういう問題じゃない」
「寝相も悪くないです」
「そういう問題でもない」
「では、何が問題なのですか?」
クロウは困った。
問題が多すぎる。
どれを言えばいいのか分からない。
すると、セフィリア様が一歩前へ出た。
「ティナ。問題は、あなたがクロウ様の許可も、サザ子爵家の許可も得ず、勝手に寝台を運ばせたことです」
「私は、クロウが許してくれると思いました」
「思っただけで動いてはいけません」
「でも、近い方がいいです」
「何がですか」
「クロウが」
クロウは一歩下がった。
レオエナが、ほんの少し前に出る。
セフィリア様は頭が痛そうな顔をしていた。
「ティナ。寝台は客室へ戻します」
「お姉様」
「戻します」
「でも」
「戻します」
三回目は、かなり強かった。
ティナリア様は少しだけ頬をふくらませる。
だが、セフィリア様には逆らいきれないらしい。
小さく頷いた。
「……分かりました」
セフィリア様は侍女たちへ向き直る。
「すぐに客室へ戻してください。ご迷惑をおかけしました」
侍女たちは一斉に動き始めた。
寝台が、来た時と同じように運び出されていく。
クロウの部屋から、知らない寝台が出ていく。
それだけで、少しだけ息ができた。
ティナリア様は、まだ不満そうだった。
「クロウ」
「はい」
「明日は一緒にいられますか?」
「できる範囲なら」
「寝る時以外は?」
「できる範囲なら」
「それは、どこまでですか?」
「分からない」
「分からないのですか」
「うん」
ティナリア様は少し考える。
「では、明日確かめます」
何を。
クロウはそう思ったが、聞かなかった。
聞くと増える。
ティナリア様はセフィリア様に連れられ、客室の方へ向かった。
去り際に、もう一度こちらを見る。
「おやすみなさい、クロウ」
「……おやすみなさい、ティナリア様」
「ティナです」
「ティナリア様」
ティナリア様は少し不満そうにした。
それでも、今度はセフィリア様に引かれて去っていった。
廊下が、少し静かになる。
クロウは自分の部屋を見た。
寝台は戻された。
でも、空気はまだ少し乱れている。
レオエナがそっと近づいてきた。
「クロウ」
「うん」
「大丈夫?」
「……あの子、少し怖い」
クロウは正直に言った。
レオエナは一瞬だけ黙る。
そして、小さく頷いた。
「少し、怖いわね」
「うん」
「でも、大丈夫よ」
「大丈夫?」
「私が守ってあげる」
レオエナは真剣だった。
とても真剣だった。
クロウはその顔を見て、また少しだけ困った。
守ってくれるのは、ありがたい。
ありがたいはずだ。
でも、エナ姉の守るは、ときどき近い。
かなり近い。
だから、それも少し怖い。
「……うん」
クロウは曖昧に頷いた。
レオエナはそれを了承と受け取ったらしく、少し安心したように微笑む。
クロウは、これ以上何も言わないことにした。
言えば増える。
今日は、もう十分増えた。
■エルナリア私室
夜。
クロウはエルナリアの部屋にいた。
今日は、母様と一緒に眠る日だった。
大きな寝台。
やわらかな布団。
落ち着いた香り。
窓の外は静かで、昼間の騒がしさが少し遠くなる。
クロウは布団の中で、母様の声を聞いていた。
「今日は、大変だったわね」
エルナリアがやわらかく言った。
「うん」
「ティナが、寝台を運ばせたのでしょう?」
「もう知ってるの?」
「ええ。セフィーが謝りに来てくれたわ」
「早い」
「セフィーは、そういうところがきちんとしている子なの」
母様は少し懐かしそうに微笑む。
「小さな頃から、ティナの面倒をよく見ていたわ」
「大変そう」
「ええ。少し大変そうね」
「少し?」
「かなり、かもしれないわ」
母様は小さく笑った。
クロウは布団の端を指でつまむ。
「ティナリア様、怖い」
「怖かった?」
「うん。部屋に寝台が増えてた」
「それは、怖いわね」
母様は否定しなかった。
それが少しだけ助かった。
「でも、ティナは悪い子ではないの」
「うん」
「ただ、外の世界や、人との距離にまだ慣れていないのだと思うわ」
「距離」
「ええ。皇宮の中では、近づける人も、近づいてよい相手も限られているから」
クロウは少し考える。
外へ出られるようになった。
昼食会で、皇太子殿下がそう言っていた。
ティナリア様は、見えるものすべてに興味を持っている。
その中に、クロウも入ってしまった。
たぶん、そういうことなのだろう。
「セフィリア様は?」
「セフィーはいい子よ。とても真面目で、少し頑張りすぎるところがあるけれど」
「剣をやる?」
「ええ。昔から好きだったわ」
「師団長になりたいって」
「本気なのでしょうね」
母様は少し嬉しそうに言った。
「セフィーは、決めたことを簡単には曲げない子だから」
「プラムみたい」
クロウが言うと、エルナリアは少しだけ笑った。
「少し似ているかもしれないわね」
「怖い?」
「怖くはないわ。たぶん」
「たぶん」
「でも、真剣な子よ」
母様の手が、クロウの髪をゆっくり撫でる。
その手つきは静かだった。
クロウの中に残っていた寝台の違和感が、少しずつ薄れていく。
「兄様もね」
母様は続けた。
「少し強引なところはあるけれど、悪い人ではないの」
「母様を回してた」
「昔からなの」
「昔から母様を回してたの?」
「小さい頃は、よく」
クロウは少し黙った。
母様が昔から回されていた。
想像すると、少し変だった。
でも、母様の声は穏やかだった。
「兄様は、私のことになると少し大げさになるの」
「少し?」
「……かなり、かしら」
「うん」
クロウは頷いた。
かなりだと思う。
先遣隊の数も。
母様を回したことも。
クロウを見る目も。
どれも少しではなかった。
「でも、クロウ」
「うん」
「怖がりすぎなくていいわ」
「うん」
「困った時は、困ると言っていいの。ティナにも、セフィーにも、兄様にも」
「皇太子殿下にも?」
「ええ」
母様は微笑む。
「クロウは、困る時はちゃんと困ると言えるでしょう?」
「たぶん」
「それでいいの」
母様の手が、また髪を撫でる。
クロウは少しだけ目を閉じた。
今日はたくさんのものが増えた。
皇太子殿下。
セフィリア様。
ティナリア様。
部屋に増えた寝台。
レオエナの、守ってあげる、という言葉。
どれも少し重い。
でも、今は母様の隣にいる。
ここだけは、いつもと同じだった。
「母様」
「なあに?」
「明日も増える?」
「たぶん」
「そう」
「でも、少しずつでいいわ」
「少しじゃないかもしれない」
「その時は、その時に考えましょう」
それは、クロウがよく使う考え方だった。
今日が終われば、それでいい。
明日は明日。
何かあれば、その時に考える。
クロウは小さく頷いた。
「うん」
母様の声が、夜の中でやわらかく響く。
外の廊下には、まだ知らない人の気配がある。
けれど、部屋の中は静かだった。
クロウは母様の手の温度を感じながら、ゆっくり目を閉じる。
今日は、寝台が増えた。
でも、最後には戻った。
それだけで、今夜はよかった。




