第40話 母様が回されました
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
皇太子殿下が来る日になった。
朝から屋敷は落ち着かなかった。
昨日までに来ていた先遣隊だけでも十分多かったのに、今日はさらに人の動きが増えている。
廊下を歩けば、知らない侍女が礼をする。
庭を見れば、護衛らしい者が立っている。
玄関前には、すでに馬車を迎える準備が整えられていた。
お忍び。
少人数。
クロウは、その言葉をもう信じていなかった。
あれは、皇太子殿下側の基準だ。
サザ家側の基準ではない。
「クロウ」
レオエナが声をかけてきた。
今日はいつもよりきちんとした服を着ている。
淡い色のドレス。
金の髪も丁寧に整えられていた。
「大丈夫?」
「何が?」
「緊張していない?」
「してる」
クロウは正直に答えた。
レオエナは少し困ったように笑う。
「正直ね」
「嘘をついても、たぶん分かる」
「そうかもしれないわ」
レオエナはクロウの髪を整えようとして、途中で手を止めた。最近は、少しだけ止まれるようになっている。
クロウはそれを見て、少しだけ安心した。
エルナリアも玄関近くにいた。
金色の髪。
青い瞳。
いつもより少しだけ改まった服装をしているのに、表情は穏やかだった。
母様だけは、屋敷がこれほど騒がしくても、あまり乱れて見えない。むしろ、少し楽しそうですらある。
「母様」
「なあに、クロウ」
「皇太子殿下は、もうすぐ?」
「ええ。そろそろだと思うわ」
「クロウ、伯父様と呼ぶと、兄様喜ぶわよ」
「……ん」
クロウは少し考え込み、口を開く。
「母様は落ち着いてる」
「兄様が来るだけですもの」
「だけ?」
クロウは思わず聞き返した。
母様にとっては、だけ、らしい。
けれどクロウにとっては、全然だけではない。
皇太子殿下。
母様の兄。
先遣隊だけで屋敷をいっぱいにする人。
父様のチェロの音を乱す人。
そして、たぶん母様をかなり大切にしている人。
それが来る。
だけ、ではない。
少し離れたところに、ケインが立っていた。
父様はいつも通りに見えた。
ただ、クロウには分かる。
肩に少し力が入っている。
目がいつもより硬い。
昨日のチェロの音と同じだった。
かなり乱れている。
テッドは黙って立っていた。
リトリーはその隣にいる。
レナもミアもそろっている。
ミアは黒猫を抱き、にこにことしていた。
こういう時のミアは、だいたい何かを面白がっている。
やがて、門の方から音がした。
車輪の音。
馬の足音。
護衛の声。
列が近づいてくる。
クロウは少しだけ背筋を伸ばした。
玄関前に、馬車が止まる。
立派な馬車だった。
けれど、過剰に飾り立てられてはいない。
お忍びだから、たぶん控えめなのだろう。
控えめ。
皇太子基準の控えめ。
扉が開いた。
最初に降りてきたのは、背の高い男性だった。
年齢は父様より少し上だろうか。
整った顔立ち。
明るい金の髪。
青い瞳。
立っているだけで、周囲の空気が変わる。
この人が、皇太子殿下。
そう思った瞬間だった。
「エルナリア!」
皇太子殿下は、形式的な挨拶をほとんど飛ばした。
いや、完全に飛ばした。
まっすぐ母様へ向かった。
ケインが一歩出るより早く、テッドが礼をするより早く、クロウが瞬きをするより早く。
皇太子殿下はエルナリアの前まで来て、そのまま抱きしめた。
抱きしめただけでは終わらなかった。
軽々と抱き上げた。
そして、回した。
母様が、回った。
ふわりと金の髪が揺れる。
エルナリアは驚いた様子もなく、少し困ったように笑っている。
「兄様、もう。皆が見ています」
「見ればいい。久しぶりに妹に会った兄が喜んで何が悪い」
「悪くはありませんけれど」
母様が、回されている。
クロウは固まった。
何を見ているのか分からなかった。
母様は母様である。
落ち着いていて、やわらかくて、いつもクロウの髪を撫でてくれる人である。
その母様が、皇太子殿下に抱きかかえられて回っている。
母様が、回っている。
もう一度そう思った。
ケインは、何も言わなかった。
ただ、表情が少し硬くなった。
クロウは、父様のチェロの音がさらに乱れそうだと思った。
ようやく皇太子殿下はエルナリアを下ろした。
エルナリアは少し乱れた髪を手で押さえ、困ったように笑っている。
「兄様、昔と変わりませんね」
「エルナリアが変わらず可愛いからだ」
「私はもう母ですよ」
「それでも可愛い」
クロウは、聞いてはいけないものを聞いている気がした。
その横で、馬車から二人の少女が降りてきた。
姉妹だとすぐに分かった。
姉の方は、背筋が伸びていて礼儀正しい雰囲気がある。
淡い金髪をきちんとまとめ、青い瞳は落ち着いている。
けれど、その立ち方はただの令嬢とは少し違った。
足の置き方。
肩の位置。
視線。
剣を持つ人間の立ち方に近い。
妹の方は、姉より少し幼く、表情がよく動く。
明るい金髪。
好奇心の強そうな瞳。
屋敷も、人も、クロウも、全部を見ている。
かなり見ている。
クロウは、嫌な予感がした。
皇太子殿下はようやくケインの方を見た。
「久しいな、ケイン」
声は穏やかだった。
けれど、どこか冷たい。
親しさではない。
距離だった。
ケインは深く礼をする。
「ご無沙汰しております、殿下」
「エルナリアは元気そうだ」
「はい」
「それは何よりだ」
短いやり取りだった。
短すぎるくらいだった。
皇太子殿下はすぐに視線を移した。
そして、クロウを見た。
見られた。
クロウはそう思った。
皇太子殿下の青い瞳が、まっすぐこちらを向いている。
「君がクロウか」
「……はい」
クロウは礼をした。
できるだけ失礼にならないように。
できるだけ目立たないように。
けれど、皇太子殿下は嬉しそうに笑った。
「大きくなったね」
そう言われても、クロウには返す言葉がすぐに見つからなかった。
昔、小さな頃に会ったことがあるのかもしれない。
でもクロウは覚えていない。
「覚えていないか」
「……はい」
「いい。小さかったからね」
皇太子殿下は楽しそうに笑う。
「それにしても、本当にエルナリアに似ている」
また、それだった。
最近、本当によく言われる。
クロウは母様を少し見た。
エルナリアはやわらかく微笑んでいる。
「クロウは、私の大事な子です」
「分かっているとも」
皇太子殿下はそう言って、クロウを見たまま目を細めた。
その目は、少し危なかった。
母様を抱きかかえて回した人の目だった。
クロウは、少しだけ後ろへ下がりたくなった。
■大食堂
昼食会は、いつもよりずっと改まったものになった。
皇太子殿下が主賓として席につき、その娘二人も並ぶ。
サザ子爵家側も、それぞれ席に着いた。
ケインは一度立ち上がり、静かに頭を下げた。
「殿下。本日はこのような辺境の屋敷までお越しいただき、誠にありがとうございます。ささやかではございますが、歓迎の席を用意いたしました。どうぞ、しばし旅の疲れをお休めください」
形式としては、十分に整った挨拶だった。
声も乱れていない。
言葉も崩れていない。
けれど、クロウには分かった。
父様の肩には、まだ少しだけ力が入っている。
皇太子殿下は、そんなケインを見て、穏やかに頷いた。
「世話になる、子爵」
短い返事だった。
礼はある。
けれど、親しさはない。
クロウは、父様のチェロの音が乱れていた理由を、少しだけ思い出した。
その後、サザ子爵家側の紹介は簡単に済んだ。
ケイン。
エルナリア。
レナ。
テッド。
レオエナ。
ミア。
クロウ。
リトリー。
名と立場を軽く添えるだけの、形だけの紹介だった。
皇太子殿下はその一つ一つに頷いていたが、視線はすぐにエルナリアへ戻る。
それから、時々クロウを見る。
クロウは、そのたびに少しだけ背筋を伸ばした。
皇太子妃は来ていなかった。
「妃は帝都に残っている」
皇太子殿下は、食事の前にそう言った。
「離れられない務めがあってね。今回は、この二人を連れてきた」
姉の少女が静かに立ち上がった。
「セフィリアでございます。お招きいただき、ありがとうございます」
礼が綺麗だった。
声も落ち着いている。
けれど、やはり普通の令嬢とは少し違う。
クロウは、彼女の手を見た。
細いが、ただ柔らかいだけの手ではない。
剣を握る手に見えた。
皇太子殿下が嬉しそうに言う。
「セフィーは、将来は師団長になると言っていてね」
「父上」
セフィリアが少しだけ眉を動かした。
「まだ、そのように人前で口にするには早いことです」
「本気なのだろう?」
「本気だからこそ、軽く言うべきではありません」
真面目だった。
かなり真面目だった。
クロウは少しだけ、プラムに近いものを感じた。
厳しい種類が違う。
でも、近い。
次に、妹の少女が立ち上がった。
「ティナリアです」
元気な声だった。
ただ、礼はちゃんとしている。
教え込まれているのだろう。
けれど、礼をしながらも、視線がこちらに来ている。
クロウの方に来ている。
かなり来ている。
「お姉様と一緒に来ました」
ティナリアはそう言って、にこりと笑った。
セフィリアが横で静かに言う。
「ティナ、余計なことを言わないように」
「余計ではありません」
「今の紹介には不要です」
「でも、一緒に来たのは本当です」
「そういう問題ではありません」
姉は大変そうだった。
クロウは少しだけそう思った。
食卓の周囲では、レオエナが微笑ましそうにしている。
レナも穏やかな顔をしていた。
リトリーは少し面白がっている。
ミアは完全に楽しそうだった。
ただ、皆の表情には、少しだけ困惑も混じっている。
皇女二人のやり取りは可愛らしい。
けれど、皇女二人のやり取りである。
強く突っ込むには、立場が高すぎる。
だから皆、微笑む。
微笑みながら、少し困る。
その空気が、食卓の上にふわりと残った。
皇太子殿下は楽しそうに笑っている。
「この子たちも、ようやく外へ連れて出られるようになってね。今回は二人とも連れてきた」
「外へ」
クロウは小さく繰り返した。
ティナリアがすぐに反応する。
「はい。外です。屋敷も森も、馬車も道も、全部初めて見るものが多いです」
「ティナ」
「お姉様、今のはいいでしょう?」
「……少しだけです」
セフィリアはため息を押さえたような顔をしている。
皇太子殿下はそれを見て、また笑った。
「セフィーはしっかり者でね。ティナの面倒をよく見てくれる」
「見ないと、ティナがどこかへ行ってしまいますので」
「お姉様、私はそこまで子どもではありません」
「今朝も馬車を降りる前に窓から身を乗り出そうとしました」
「外が見たかっただけです」
「それを子どもと言います」
ティナリアは少し頬をふくらませた。
その顔で、またクロウを見る。
クロウは視線を逸らした。
逸らしたのに、見られている気がした。
よくない。
かなりよくない。
「でも、私は今日をとても楽しみにしていたのです」
ティナリアは、急に胸を張った。
「クロウに会いたくて来ました」
食卓の空気が、また少し止まった。
そして、皇太子殿下が楽しそうに笑った。
リトリーも口元を押さえて笑う。
ミアは黒猫を撫でながら、完全に面白がっている。
レオエナだけが、少しだけ笑顔を固めた。
クロウは笑えなかった。
「初めて会ったのに」
「でも、会えました」
ティナリアは真剣だった。
冗談のように聞こえる。
けれど、どこまで冗談なのか分からない。
セフィリアは静かに目を閉じた。
「ティナ。クロウ様が困っています」
「困らせるつもりはありません」
「すでに困っています」
「そうなのですか?」
ティナリアがクロウを見る。
クロウは少し迷った。
迷ったが、嘘をつくのも違う気がした。
「少し」
「少しなら大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
また、食卓に小さな笑いが起きた。
セフィリアが深く息を吐く。
それから、ふと皇太子殿下を見た。
「ですが、私もここへ来てよかったと思っております」
「セフィーもか?」
「はい」
セフィリアは真面目な顔で言った。
「父上の、普段は見られない姿を見られただけでも、ここへ来た価値があるような気がいたします」
皇太子殿下は一瞬だけ目を丸くした。
そして、声を出して笑った。
「セフィー、それは少し意地が悪いな」
「失礼いたしました、父上」
セフィリアは丁寧に頭を下げる。
けれど、その表情はあまり反省しているようには見えなかった。
食卓の空気が少しだけやわらぐ。
微笑ましい。
けれど、やはり少し困る。
クロウは、そういう空気を感じた。
「クロウ」
皇太子殿下が声をかけた。
「はい」
「二人とも、屋敷の外で過ごすことに慣れていない。滞在中、少し話し相手になってやってくれるかな」
逃げ道が消えた。
クロウはそう思った。
皇太子殿下の頼みである。
しかも、娘二人の前で言われている。
断りにくい。
かなり断りにくい。
「……できる範囲なら」
クロウは答えた。
その時、レオエナがすぐに口を開いた。
「皇太子殿下。私もご一緒してよろしいでしょうか」
クロウはレオエナを見た。
レオエナは穏やかに微笑んでいる。
「クロウ一人では大変でしょうから。私も、セフィリア様とティナリア様のお話し相手を務めます」
「私はクロウがいいです」
ティナリアがすぐに言った。
早かった。
かなり早かった。
食卓の空気が、ほんの少し止まる。
セフィリアが静かに妹を見る。
「ティナリア」
「だって、父上はクロウに頼みました」
「だからといって、レオエナさんのお申し出を断る理由にはなりません」
セフィリアはそう言ってから、レオエナへ丁寧に向き直った。
「レオエナさんにもお願いできるのであれば、私としてはとても助かります。ティナがご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんので」
「お姉様」
「事実です」
レオエナは少しだけ笑った。
「もちろんです。私でよければ、喜んで」
ティナリアは少し不満そうだった。
けれど、セフィリアが隣で静かに見ているため、それ以上は言わなかった。
クロウは少しだけ安心した。
けれど、安心しきれなかった。
レオエナが加わったことで助かった気もする。
でも、人数は増えた。
結局、増えている。
「では、クロウと呼んでもいいですか?」
ティナリアがすぐに言った。
また早い。
かなり早い。
クロウは固まる。
セフィリアがすぐに妹を見る。
「ティナリア」
「でも、父上もクロウと呼んでいます」
「父上とあなたは違います」
「違いますけど、私もクロウと呼びたいです」
ティナリアは真剣だった。
真剣に困る方向へ進んでいる。
クロウは少し考えた。
ここで強く拒むと、空気が固まる。
けれど、何でも許すと増える。
だから、いつものように一番大きく崩れない言葉を探した。
「……好きに呼んでください」
「では、クロウ」
すぐだった。
クロウは少しだけ後悔した。
セフィリアが深く息を吐く。
「申し訳ありません、クロウ様」
「いえ」
クロウはセフィリアを見る。
こちらはちゃんとクロウ様と呼ぶらしい。
その差が、少しだけありがたかった。
「私のことは、セフィーで構いません」
全くありがたくなかった。
クロウは止まった。
ティナリアもすぐに言う。
「私はティナでいいです」
「……セフィリア様と、ティナリア様で」
「ティナです」
「ティナリア様で」
「ティナです」
ティナリアは譲らない。
セフィリアは額に手を当てた。
「ティナ、無理に迫らないように」
「迫っていません。お願いしています」
「それを迫っていると言います」
クロウは、昼食の皿を見た。
きちんと並んでいる。
ナイフもフォークも、グラスも乱れていない。
けれど、今日の屋敷は、皿の位置だけでは整わない。
母様を抱きかかえて回す皇太子殿下。
その娘、セフィリアとティナリア。
セフィリアは真面目で、剣の方へ進もうとしている。
ティナリアは、すでにクロウを呼び捨てにした。
皇太子妃は帝都に残り、二人の皇女はしばらくこの屋敷にいる。
さらに、皇太子殿下はクロウを見て、母様に似ていると笑った。
クロウは静かに思った。
これは、かなり大変なことになる。




