第39話 お忍びは噂になる
――帝国暦三五〇年・春中頃 学校――
翌日。
学校に着いた時点で、クロウは少し嫌な予感がしていた。教室の空気が、いつもよりざわついている。
金色の天使を見守る会のせいではない。
少なくとも、今日は違う。
クロウが席に着く前から、何人かがこちらを見ていた。
かなり見ていた。
よくない。
かなり、よくない。
「クロウ」
最初に声をかけてきたのは、ガイだった。
「うん」
「昨日、町にすごい馬車の列が来てただろ」
やっぱりだった。
クロウは鞄を机に置きながら、少しだけ目を伏せる。
「知らない」
「いや、知らないは無理だろ。森の方に行ったってみんな言ってたぞ」
「森は広い」
「広いけど、あっちってお前の家の方だろ」
クロウは答えなかった。
答えると増える。
すでに増えている。
これ以上増やす必要はない。
サザ子爵家の町サザリクは、そこまで大きくない。
大通りを二十台近い馬車が通れば、当然目立つ。
しかも、その馬車列は町を抜け、森の方へ消えていった。その先に大きな屋敷があることくらい、町の人間なら知っている。
つまり、噂になる。
かなり当然だった。
「何かあったのか?」
「客」
「客であの数?」
「たぶん」
「たぶんって、お前の家だろ」
「僕が呼んだわけじゃない」
それは事実だった。
クロウは呼んでいない。
呼ぶわけがない。
むしろ来てほしくなかった。すると、近くにいたエドも身を乗り出した。
「あれ、皇都の馬車じゃないかって話もあるぞ」
「知らない」
「偉い人が来るのか?」
「知らない」
「お前、何も知らないな」
「知ってても言わない」
「あ、言った」
しまった。
クロウは少しだけ口を閉じた。
知らない、と言っておけばよかった。
知っていても言わない、は、少し余計だった。ガイとエドの目が少し光る。
よくない。
そこへダンが来た。
今日は、金色の天使を見守る会の会長らしい顔ではなく、普通に噂を聞きつけた顔をしている。
「クロウ副会長」
「副会長って呼ばないで」
「あの馬車列は、天使様と関係があるのか」
「ない」
クロウは即答した。
そこだけは、はっきり否定する。
今、金色の天使と馬車列がつながると、さらに面倒になる。
「本当に?」
「ない」
「では、天使様をお守りするためのものでは」
「ない」
「だが、あれだけの人数が森へ向かったということは」
「ない」
クロウは三回目も同じように答えた。
ダンは少し考え込む。
考え込まなくていい。
考えると、会則が増える。
それは絶対によくない。
せっかく姿絵の件で、学校は少し落ち着いてきたのだ。絵の前に集まる者はいる。
拝むような者も、まだ少しだけいる。
けれど、クロウの家に行きたいと言い出す者は減っていた。
質問も前よりは減っていた。金色の天使を見守る会も、ひとまず静かに見守る方向へ傾いていた。
それなのに、今度は馬車列だった。
学校の空気が、また乱れている。
しかも今回は、クロウがルールを作って止められる種類の乱れではない。
町で見られている。
森へ消えたところまで見られている。
どうにもならない。
「クロウ」
ルークが少し離れたところから言った。
「答えにくいことなら、答えなくていい。ただ、家の周りがしばらく騒がしいという理解でいいのか」
クロウはルークを見た。
質問がまだましだった。
「うん」
「なら、今は近づかない方がよさそうだな」
「うん」
それはかなり助かる判断だった。
クロウは小さく頷く。
ルークはそれ以上聞かなかった。
こういうところは、かなりありがたい。
トムは少し離れた席で、黙ってこちらを見ていた。心配そうな顔だった。
でも、余計なことは言わない。
トムは、そういうところがいい。
リラも、教室の隅からこちらを見ていた。
目が合うと、少しだけ首をかしげる。
あとで話そう。
そういう顔だった。
クロウは、ほんの少しだけ頷いた。
■作業室
昼休み。
クロウは作業室にいた。
リラとトムも一緒だった。
作業室は、教室より静かだ。
工具の入った棚。
木の机。
窓から入る光。
少し古い油の匂い。
ここは、まだ息がしやすい。
クロウは椅子に座り、机の上に小さなねじを三つ並べた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
少しだけ胸の奥が落ち着く。
「やっぱり、噂になってるね」
リラが言った。
「うん」
クロウは頷いた。
「町の人も見たなら、学校で広がるの早いと思った」
「早かった」
「すごく早かったね」
リラは少し困ったように笑った。
トムは机の端に手を置き、静かに言った。
「しばらく、クロウの家には行かない方がいいと思う」
「うん」
クロウも同じことを考えていた。
あの屋敷には今、知らない人が多すぎる。
皇太子殿下ご夫妻の先遣隊。
侍女。
護衛。
荷物を運ぶ人。
指示を出す人。
たくさんの馬車。
たくさんの箱。
たくさんの声。
そこへトムやリラを呼ぶのは、よくない。
危ないというより、面倒になる。
どこへ行くのか。
何をするのか。
誰なのか。
クロウの友人なのか。
作業小屋とは何か。
時計とは何か。
聞かれたくないことが増えすぎる。
「でも、時計……」
リラが小さく言った。
クロウは頷いた。
「しばらく、一人で見る」
「大丈夫?」
「分からない」
「分からないんだ」
「まだ壊れている場所を全部見てないから」
古時計。
森で見つけた、大きな古い時計。
高い塔のある昔の領主の館にあったものかもしれない時計。
本当なら、トムと一緒に歯車を見たかった。
リラにも音を聞いてもらいたかった。
直せばどんな音がするのか。
針が動く時、どういう響きが出るのか。
三人で考えるのは、少し楽しみだった。
でも、今は無理だ。
屋敷が落ち着かない。
森の近くも、人の出入りが増えているかもしれない。知らない人に作業小屋を見られるのも嫌だった。
「俺、急がなくていいよ」
トムが静かに言った。
「時計は逃げないし」
クロウはトムを見る。
トムは少しだけ笑った。
控えめな笑い方だった。
「落ち着いてからでいい。クロウが一人で見て、分からないところがあったら、あとで一緒に考えよう」
「うん」
クロウは頷いた。
それは、かなりありがたかった。
急かされない。
聞かれすぎない。
ただ、あとで一緒に考えようと言ってくれる。トムは、そういう友人だった。
「私も、落ち着いてからでいいよ」
リラも言った。
「でも、時計の音が鳴りそうになったら教えてね」
「うん」
「最初の音、聞きたいから」
「分かった」
クロウは小さく頷いた。
それならいい。
最初の音。
直った時の音。
それは、たぶんリラに聞いてもらいたい。
トムにも、見てもらいたい。
でも今ではない。
今は、皇太子殿下が来る前なのに、もう屋敷が落ち着かない。来る前からこれなら、来たあとどうなるのか分からない。
「早く来て」
クロウは小さく言った。
リラが瞬きをする。
「皇太子殿下?」
「うん」
「早く来てほしいの?」
「早く来て、早く帰ってほしい」
リラは一瞬黙った。
それから、口元を押さえて笑った。
「それ、ちょっと失礼かも」
「分かってる」
クロウはねじを見つめた。
「でも、正直」
「正直だね」
トムも少しだけ笑った。
珍しく、少しだけ。
「でも、分かる気はする」
「うん」
クロウは机の上のねじを指先でそっと並べ直した。
時計は逃げない。
歯車も、針も、軸も、待っていてくれる。
けれど、人の騒ぎは待ってくれない。
町の噂も、学校の質問も、馬車の列も。こちらの都合など見ずに、勝手に増えていく。
クロウは小さく息を吐いた。
早く来て。
早く帰ってほしい。
皇太子殿下に対して失礼だとは思った。
でも、今のクロウには、それが一番正直な気持ちだった。




