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僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
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第38話 お忍びと聞いていました

 ――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――


 皇太子殿下ご夫妻は、お忍びで来る。


 クロウは、そう聞いていた。


 数日後に、少人数の供を連れてサザ子爵家へ来る。

 父様はそう言っていた。


 お忍び。

 少人数。


 その二つの言葉は、クロウの中で、なんとか置き場所を見つけていた。


 もちろん、皇太子殿下が来る時点で屋敷は落ち着かない。

 母様の兄で、母様をとても大切にしていて、守りすぎる人。


 さらに娘を二人連れてくるらしい。

 それだけでも十分に大きい。


 けれど、少人数なら。

 お忍びなら。

 もしかすると、屋敷の空気は少し動くくらいで済むかもしれない。


 クロウは、そう思おうとしていた。

 思おうとしていたのに。


 学校から帰ってきたクロウは、屋敷の前で足を止めた。


 馬車があった。

 一台ではない。

 二台でもない。


 十台でも、たぶん足りない。

 屋敷の前庭から門の近くまで、見慣れない馬車がずらりと並んでいる。


 荷台つきの馬車。

 大きな箱を積んだ馬車。


 布に包まれた何かを運ぶ馬車。

 人が降りるための立派な馬車。


 ざっと見ただけでも、二十台近くあるように見えた。


 さらに、人が多い。

 知らない人たちが、屋敷の中へ入っていく。

 知らない人たちが、屋敷の外へ出てくる。


 箱を運ぶ者。

 布を抱える者。


 書類を手に指示を出している者。

 荷物の数を確認している者。


 護衛らしい者。

 侍女らしい者。

 料理人らしい者。


 とにかく、知らない人が多い。

 数十人はいる。


 クロウは、しばらく動けなかった。

 ここは、サザ子爵家のはずだった。

 昨日まで、少なくとも屋敷だった。


 でも今は、少し違う。

 知らない人たちが、廊下へ向かって入っていく。

 知らない声が、庭で重なる。


 馬の音。

 車輪の音。

 箱を下ろす音。


 人の足音。

 全部が多い。


 かなり多い。


「クロウ様」


 声がして、クロウはゆっくり振り向いた。

 プラムがいた。

 いつものように姿勢よく立っている。


 この状況の中でも、顔色ひとつ変えていない。


「お帰りなさいませ」

「……ただいま」


 クロウはもう一度、屋敷の方を見た。


「これ何?」


 質問が短くなった。

 長く聞く余裕がなかった。


「皇太子殿下ご夫妻の先遣隊でございます」

「先遣隊?」


「はい」

 プラムは淡々と答えた。


「殿下方が到着される前に、部屋、警備、食事、湯、衣類、随行員の控え、その他必要なものを整えるための者たちです」


 クロウは黙った。


 部屋。

 警備。

 食事。


 湯。

 衣類。

 随行員。

 その他必要なもの。


 単語が多い。

 人も多い。

 馬車も多い。


「お忍びって聞いた」

 クロウは言った。


「お忍びでございます」

 プラムは即答した。


 クロウは屋敷の前を見た。


 馬車。

 箱。

 人。

 声。


 荷物。

 知らない顔。


「お忍びの人数じゃない?!」

「通常よりは、かなり絞られております」


「これで?」

「はい」


 プラムの声は揺れない。

 だからこそ、余計に怖かった。


 これで、かなり絞られている。

 つまり、絞られていなければ、もっと多い。


 クロウは想像しかけて、すぐにやめた。

 想像すると、頭の中の机が倒れる。


「この人たち、どこにいるの?」

「使用人棟、客間の一部、庭側の仮設控えなどに分かれます」


「屋敷の中にも?」

「もちろんでございます」


「もちろん?!」


 クロウは小さく繰り返した。


 もちろん。

 よくない言葉だった。

 クロウにとっては、全然もちろんではない。


「僕の作業小屋は?」

「今のところ、立ち入り予定には入っておりません」


「今のところ」

「はい」


「今のところは困る」

「お気持ちは分かります」


「分かってる顔じゃない」

「表情には出しておりません」


 そういう問題ではなかった。


 クロウは荷物を抱えたまま、もう一度屋敷を見る。

 落ち着いて生活できる気がしない。


 食器の位置を整えても、廊下に知らない人がいる。

 椅子の角度を直しても、庭に知らない馬車がある。


 作業小屋へ逃げようとしても、今のところ、という言葉がついてくる。

 よくない。

 かなりよくない。


「母様は?」

「奥様はお部屋にいらっしゃいます」


「行く」

「承知いたしました」


 クロウは屋敷へ入った。

 廊下にも人がいた。


 知らない人が、モーリスに頭を下げている。

 別の知らない人が、布に包まれた箱を運んでいる。


 見慣れた廊下が、見慣れない廊下になっている。

 クロウはできるだけ壁側を歩いた。


 誰にもぶつからないように。

 誰にも話しかけられないように。


 ■エルナリア私室


 母様の部屋の前まで来ると、少しだけ息を吐いた。

 扉を叩く。


「母様」


「どうぞ」


 中へ入ると、エルナリアは窓辺で紅茶を飲んでいた。

 外の騒がしさが嘘のように、部屋の中は落ち着いている。

 母様はクロウを見ると、やわらかく微笑んだ。


「お帰りなさい、クロウ」

「ただいま」


「今日は少し賑やかでしょう?」

「少しじゃない」


 クロウは即答した。

 エルナリアは、楽しそうに目を細める。


「そうね。少し、ではないかもしれないわ」

「笑ってる」


「ええ」

「笑うことじゃない」


「ごめんなさい。でも、兄様らしいと思って」


 兄様。

 皇太子殿下。

 母様の兄。


 まだ本人は来ていない。

 なのに、もう屋敷の前に馬車が二十台近くある。


「お忍びって聞いた」

「ええ。お忍びよ」


「お忍びじゃない」

「兄様にとっては、お忍びなの」


「兄様にとっては」

「ええ」


 母様は困ったように、けれど懐かしそうに笑った。


「昔から、私のことになると少し準備が多いの」

「少しじゃない」


「そうね」

「母様、止めなかったの?」


「止めても、少し減るくらいかしら」

「減ってこれ?」


「たぶん」

 クロウは黙った。


 母様の兄は、かなり強い。

 まだ会っていないのに、もう分かる。


 母様を大切にしている。

 大切にしすぎている。

 その結果、屋敷の前に馬車が並んでいる。


「母様」

「なあに?」


「落ち着かない」

「そうね」


「屋敷が屋敷じゃないみたい」


 エルナリアは少しだけ表情をやわらげた。


「クロウ」

「うん」


「今日は、無理をしなくていいわ。作業小屋に行ってもいいし、部屋にいてもいい。知らない人には、必要以上に話さなくていいから」


「うん」


「ただ、危ない場所には近づかないこと。荷物の出入りが多いから」

「うん」


 それは、少しだけ助かった。

 母様は笑っている。


 けれど、クロウが困っていることも分かっている。

 だから、少しだけ息ができた。


「父様は?」


「音楽室にいると思うわ」

「行ってくる」


「ええ」


 クロウは母様の部屋を出た。

 音楽室へ近づくと、チェロの音が聞こえた。

 父様のチェロ。


 いつもなら、低くて深くて、まっすぐな音。

 でも、今日は違った。

 かなり乱れている。


 大きく外しているわけではない。

 知らない人が聞けば、たぶん美しいと思う。


 けれど、クロウには分かった。

 弓の入りが硬い。

 音の底が少し沈んでいる。


 同じところを、ほんの少し迷っている。

 父様の音ではある。


 でも、父様の落ち着いた音ではなかった。

 演奏が切れたところで、クロウは扉を叩いた。


「父様」


「入れ」


 中へ入ると、ケインはチェロを抱えたまま椅子に座っていた。

 いつも通りに見える。

 でも、音はいつも通りではない。


「音が乱れてる」

 クロウは言った。


 ケインは少しだけ目を細めた。


「分かるか」

「うん」


「そうか」


 ケインは弓を下ろした。


「私も、お忍びとは何かを考えていた」

「父様も?」


「ああ」


「答えは?」

「まだ出ていない」


 クロウは少しだけ黙った。

 父様でも答えが出ない。

 それなら、自分に分かるはずがない。


「馬車、たくさんあった」

「あれでも少ないらしい」


「プラムもそう言ってた」

「そうか」


「落ち着かない」

「私もだ」


 父様がそう言ったので、クロウは少しだけ安心した。

 自分だけではない。


 父様も落ち着いていない。

 その証拠に、音が乱れている。


「父様」

「なんだ」


「もっと柔らかく弾いて」

「努力する」


「努力じゃなくて」

「分かった。柔らかく弾く」


 ケインは小さく笑い、もう一度弓を持った。

 次の音は、少しだけ柔らかかった。


 まだ乱れている。

 けれど、さっきよりはましだった。


 クロウはそれを聞いてから、音楽室を出た。

 最後に向かったのは、テッドの部屋だった。

 扉を叩く。


「兄様」

「入れ」


 中へ入ると、テッドは机の前で書類を見ていた。

 顔はすでに疲れている。

 たぶん、朝からいろいろ聞かされたのだろう。


「兄様」

「なんだ」


「屋敷が知らない人だらけ」

「知っている」


「馬車がたくさん」

「知っている」


「お忍びって聞いた」

「俺も聞いた」


「お忍びじゃない」

「俺もそう思う」


 クロウは少しだけテッドを見る。


「どうすればいい?」


 テッドは、しばらく黙った。

 そして、短く言った。


「諦めろ」

「早い」


「考えた結果だ」

「もう?」


「皇太子殿下が関わる時点で、屋敷が静かなまま済むと思うな」

「でも、お忍び」


「お忍びでも、皇太子殿下だ」

「少人数」


「皇太子殿下基準の少人数だ」

「よくない」


「よくないが、そういうものだ」


 テッドは書類を置き、クロウを見る。


「作業小屋に逃げるなら、今のうちに行け。ただし、知らない者に道具を触らせるな。声をかけられたら、モーリスかプラムを呼べ」


「うん」


「あと、廊下で立ち止まるな。荷物に巻き込まれる」

「うん」


「それと」

「うん」


「ミアとリトリーが一緒にいる時は、近づくな」

 クロウは頷いた。


「それは分かる」

「分かるならいい」


 そこだけは、兄様と完全に意見が合った。

 クロウは部屋を出て、廊下を歩いた。

 知らない人の声がする。


 箱を運ぶ音がする。

 庭では、また馬車の車輪が鳴っている。


 皇太子殿下ご夫妻は、まだ来ていない。

 まだ来ていないのに、屋敷はもう落ち着かない。


 お忍びは、まだ到着していない。

 けれど、屋敷はもう少しも忍んでいなかった。

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