第37話 弟妹がいるそうです
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
翌朝。
クロウは、いつものように食堂にいた。
皿。
小皿。
ナイフ。
フォーク。
グラス。
ひとつずつ、位置を決める。
皿の縁を椅子の正面に合わせる。
ナイフの角度をそろえる。
グラスは少し右奥。
近すぎず、遠すぎず。
置く。
確かめる。
ほんの少しだけ直す。
それだけで、朝の空気が少し整う。
「クロウ」
声がした。
振り向くと、食堂の入口にリトリーが立っていた。
昨日から屋敷に滞在している、エラン子爵家の次女。
レオエナの親友で、テッド兄様の婚約者。
そして、皇太子殿下が来るまで帰らない人。
まだ、クロウの中でうまく置けていない人だった。
「早いのね」
「いつも」
「食堂の準備をしているの?」
「少しだけ」
クロウはグラスの位置を直した。
リトリーは珍しそうにそれを見る。
「貴族家の子息が、食器の位置まで整えるのね」
「だめ?」
「いいえ。少し意外だっただけ」
「使用人が少ないから」
「それだけ?」
リトリーは楽しそうに首を傾げる。
クロウは少しだけ黙った。
「……乱れてると、気になる」
「そう」
リトリーは、少しだけ目を細めた。
「昨日、レオエナが言っていた通りね」
「何を?」
「クロウは、静かなものが好きだって」
「……たぶん」
「でも、周りは静かにしてくれない?」
クロウは答えなかった。
答えると、増える気がした。
そこで、ミアが黒猫を抱いて食堂へ入ってきた。
「お兄様、朝からもう困ってる」
「困ってない」
「困ってる顔」
「してない」
「リトリー様、分かります?」
「ええ。少し分かるわ」
リトリーとミアが、同じような顔で笑った。
よくない。
この二人は、少しだけ似ている。
どこが、とは言いにくい。
でも、何かを見つけた時の目が似ている。
朝食の席には、家族とリトリーがそろった。
レオエナは嬉しそうにリトリーの隣に座っている。
テッドは昨日よりは眠そうではなかったが、まだ少し疲れて見えた。
ケインは食事の途中で、静かに口を開いた。
「皆、知っている者もいるだろうが」
クロウの手が止まった。
そういう始まり方は、だいたい何かが増える。
「皇太子殿下ご夫妻は、お忍びでこちらへ来られる。数日後には到着される予定だ」
食卓の空気が、少しだけ変わった。
ミアは黒猫を撫でながら、にこにこしている。
レオエナは少し緊張した顔をした。
リトリーは姿勢を正す。
テッドは短く息を吐いた。
クロウは、皿の縁を見た。
きちんと正面に合っている。
でも、胸の奥は少しずれた。
皇太子殿下。
母様の兄。
母様をとても大切にしている人。
守りすぎる人。
そして、クロウにも会いたがっている人。
「お忍びとはいえ、失礼のないように」
ケインは続ける。
「人数は多くないらしい。だが、気を抜いてよい相手ではない」
「はい」
テッドが答える。
レオエナも頷いた。
リトリーも静かに頭を下げる。
クロウは少し遅れて頷いた。
「クロウ」
ケインがこちらを見る。
「なに?」
「お前は、いつも通りでいい」
「いつも通り」
「ああ。必要以上に気負うな」
それは、たぶん気を遣ってくれている言葉だった。
でも、クロウには少し難しい。
皇太子殿下が来る時点で、いつも通りではない。
人が来る。
空気が動く。
母様が見られる。
エナ姉も見られる。
自分も、たぶん見られる。
「……分かった」
クロウは小さく答えた。
分かった。
でも、心配しないとは言っていない。
■テッド私室
朝食のあと、クロウはテッドの部屋へ向かった。
リトリーのことを、もう少し知っておきたかった。
昨日から屋敷にいる。
しばらく帰らない。
エナ姉の親友で、兄様の婚約者。
しかも、ミアと少し似ている。
知らないまま置いておくには、少し近すぎる人だった。
クロウはテッドの部屋の前で止まり、扉を叩いた。
「兄様」
「入れ」
中に入ると、テッドは机に向かっていた。
書類と、絵の道具と、なぜか菓子の皿が置かれている。
「どうした?」
「リトリー様のこと」
テッドの手が止まった。
「リトリー?」
「うん」
「何を聞きたい」
「どういう人?」
テッドは少しだけ考えた。
「明るい」
「うん」
「よく見る」
「うん」
「余計なことも言う」
「うん」
「ただ、悪意はない」
「それは分かる」
クロウは頷いた。
リトリーは近い。
踏み込んでくる。
からかう。
でも、ミアのように意図的に場を揺らして楽しむ感じとは少し違う。
見て、分かって、少し踏み込む。
それだけに逃げにくい。
「兄様は?」
「なんだ」
「リトリー様のこと、嫌いではない?」
テッドは少しだけ眉を動かした。
「婚約者だぞ」
「うん」
「嫌いな相手を婚約者にはしない」
「そう」
「ただし、面倒な時はある」
「それは分かる」
「分かるのか」
「うん」
テッドは小さく息を吐いた。
「リトリーは、距離の取り方がうまい。近いが、踏み潰しはしない」
「踏み潰し」
「レオエナとは違う。ミアとも違う」
「うん」
「だから余計に厄介な時がある」
「それも分かる」
兄様も分かっている。
それだけで、クロウは少しだけ安心した。
その時だった。
扉が軽く叩かれた。
「テッド様、入ってもよろしいですか」
リトリーの声だった。
テッドは一瞬だけ目を閉じた。
「入れ」
扉が開き、リトリーが顔を出した。
「あら、クロウもいたのね」
「いた」
「ちょうどよかったわ」
「よくない」
「まだ何も言っていないのに?」
「ちょうどよかった、はだいたいよくない」
リトリーは楽しそうに笑った。
テッドは少しだけ息を吐く。
「リトリー」
「はい」
「久しぶりの我が家はどうだ?」
その言い方は、少しだけ不思議だった。
我が家。
リトリーはまだ、この家の人ではない。
けれど、テッドはそう言った。
リトリーも、それを当たり前のように受け止めた。
「懐かしいですわ。変わらないところも多くて、少し安心しました」
「そうか」
「でも、面白くなったところもあります」
リトリーはそう言って、クロウを見た。
クロウは少しだけ嫌な予感がした。
「……何?」
「ミア様と仲良くなりました」
かなり嫌な予感に変わった。
「ミアと?」
「ええ。とても楽しい方ですね」
「楽しい?」
「はい。屋敷のことも、クロウのことも、いろいろ教えてくださいました」
クロウは止まった。
ミアが。
いろいろと教えた。
それはかなりよくない。
「何を?」
「いろいろです」
「いろいろは困る」
「困ることも聞きました」
「もっと困る」
リトリーはにこりと笑った。
その笑い方が、少しだけミアに似ていた。
クロウは一歩下がりたくなった。
テッドが眉を寄せる。
「ミアは余計なことを言っていないだろうな」
「余計かどうかは、聞く側によりますわ」
「それは余計なことを聞いた顔だ」
「ふふ」
リトリーは否定しなかった。
クロウは確信した。
ミアとリトリーを近づけるのは、よくない。
かなり、よくない。
「それで」
テッドが話を戻すように言った。
「何の用だ?」
「そうでした。少し相談です」
「俺にか」
「ええ。あと、クロウにも少し関係があります」
クロウは帰りたくなった。
かなり帰りたくなった。
リトリーはそんなクロウを見て、さらに楽しそうにした。
「私には、弟妹がいるの」
「弟妹」
クロウは繰り返した。
「ええ。あの子たちが、たぶんクロウと気が合うと思うの」
「どうして?」
「落ち着いた場所が好きだし、物をじっと見るところがあるわ」
クロウは少しだけ考えた。
落ち着いた場所が好き。
物をじっと見る。
そこだけ聞けば、悪くない。
「それを、ミア様から聞いた話で思い出したの」
「何を聞いたの?」
「いろいろ」
「いろいろは困るって言った」
「ええ。困ることも少し」
リトリーは楽しそうに笑う。
クロウは、ミアがどこまで話したのか考えた。
考えたくなかった。
「だから、今度連れてくるわね」
「今度」
「ええ。皇太子殿下の来訪が落ち着いたあとになると思うけれど」
クロウは少しだけリトリーを見る。
「リトリー様に似てる?」
リトリーはにこりと笑った。
「ええ。少し似ているわ」
「嫌だ!」
即答だった。
リトリーは一瞬目を丸くし、それから声を出して笑った。
「即答ね」
「リトリー様に似てるなら、増える」
「何が?」
「困ること」
テッドが横で、小さく吹き出した。
「兄様」
「悪い」
そう言いながら、テッドは肩を震わせている。
悪いと思っている顔ではなかった。
「笑ってる」
「いや、今のは無理だ」
「無理?」
「お前、断るのが早すぎる」
テッドはとうとう声を出して笑った。
兄様がここまで笑うのは珍しい。
珍しいが、今は嬉しくない。
リトリーは全く気にしていない。
「大丈夫。私より少し大人しいわ」
「少し?」
「ええ、少し」
「その少しは信用できない」
「クロウは慎重ね」
「慎重じゃないと増えるから」
「でも、きっと気が合うと思うの」
「合わない」
「まだ会っていないわ」
「リトリー様に似てる」
「そこまで警戒する?」
「する」
リトリーはくすくす笑った。
「本当に、少し抱きしめたくなるわ」
そう言って、冗談めかして両腕を広げた。
クロウは、即座に一歩下がった。
「しない」
速かった。
かなり速かった。
テッドが、また吹き出した。
「兄様」
「悪い」
そう言いながら、テッドはまた肩を震わせている。
悪いと思っている顔ではなかった。
「また笑ってる」
「いや、今のはもっと無理だ」
「何が」
「お前、逃げるのが早すぎる」
テッドはもう一度、声を出して笑った。
クロウは少しだけ頬を引きつらせる。
リトリーは楽しそうに目を細めた。
「昨日は少しだけ許してくれたのに」
「昨日は昨日」
「今日は?」
「今日はしない」
「では、明日は?」
「しない」
「明後日は?」
「しない」
テッドがまた笑った。
「リトリー、やめてやれ。クロウが本気で逃げる」
「もう半分逃げていますわ」
「逃げる」
クロウは正直に言った。
これ以上ここにいると、リトリーの弟妹が増え、抱擁が増え、兄様の笑いも増える。
増え方がよくない。
「僕、作業小屋に行く」
「逃げたな」
テッドが言った。
「逃げる」
クロウはもう一度、正直に答えた。
リトリーが声を立てて笑う。
「本当に正直ね」
「嘘はつかない」
「でも全部は言わない」
その言葉に、クロウは少しだけ止まりかけた。
けれど、今は止まらない。
止まると、また何か増える。
「行く」
クロウはそれだけ言って、部屋を出た。
廊下に出る。
扉を閉める。
中から、リトリーの楽しそうな声と、テッドの低い声が聞こえた。
何を話しているかまでは聞かない。
聞くと、きっと戻らなければならなくなる。
皇太子殿下ご夫妻が来る。
リトリーはしばらくいる。
ミアとリトリーは少し似ている。
そして、リトリーには弟妹がいる。
今日は、もう充分だった。
いや。
昨日も、充分だった。
それなのに、また増えた。
クロウは作業小屋の方へ向かいながら、小さく息を吐いた。
今は静かな場所が必要だった。
かなり、必要だった。
作業小屋なら落ち着ける、そう思った。
明日は知らないが、今日だけは。




