第35話 プラムの楽しみ
――帝国暦三五〇年・春終盤 サザ子爵家邸――
夜の廊下は静かだった。
灯りは落とされ、窓の外には黒い森が広がっている。
プラムは、エルナリアの部屋から少し離れた場所に控えていた。
扉の向こうから、かすかに声が聞こえる。
エルナリアのやわらかな声。
クロウの短い返事。
時々、少し困ったような沈黙。
それから、エルナリアが楽しそうに笑う声。
「クロウ、眠い?」
「少し」
「では、もう眠りましょう」
「うん」
短いやり取り。
それだけで、プラムの胸の奥は静かに満たされた。
エルナリアが母としてクロウに話しかける。
クロウが、その声を聞きながら少しずつ力を抜いていく。
その気配を、プラムは扉の外で受け止める。
中へ入ることはない。
覗くこともしない。
ただ、近くで守る。
それだけだった。
だが、プラムにとって、この時間は一日の中で最も好きな時間だった。
朝、エルナリアの身支度を整えること。
昼、散策や読書を見守ること。
夕方、ケインのチェロを聴く横顔を見ること。
どれも大切な時間だ。
けれど夜、エルナリアとクロウが静かに語らう気配を守っている時、プラムはこの屋敷へ来てよかったと、何度も思う。
扉の向こうで、エルナリアが小さく笑った。
プラムは、ほんの少しだけ目元をゆるめる。
その表情は、誰にも見られていない。
だから、少しくらいは構わない。
プラムは静かに頭を下げ、廊下の気配を確かめてから、自分の部屋へ戻った。
その日の務めは、ようやく終わった。
けれど、プラムにとっては、終わった後に残るこの余韻こそが、一番の楽しみだった。
*
エルナリア付きのメイド、プラムは、朝が好きだった。
屋敷がまだ完全には目覚めていない時間。
廊下は静かで、窓から差し込む光もまだ淡い。
厨房ではマーサが朝食の準備を始めているが、その音もまだ遠い。
使用人の足音も少ない。
その静けさの中で、プラムはエルナリアの部屋の前に立つ。
扉を叩く前に、廊下の左右を確認した。
窓。
壁。
花瓶。
敷物の端。
不審なものはない。
足音もない。
気配もない。
問題なし。
それから、静かに扉を叩いた。
「奥様。プラムです」
「どうぞ」
やわらかな声が返ってくる。
それだけで、プラムの朝は少し整う。
扉を開けると、エルナリアは窓辺に立っていた。
金の髪に、朝の光が淡く溶けている。
澄んだ青い瞳は、まだ少し眠たげで、それでも穏やかだった。
その姿は、昔からあまり変わらない。
いや、変わってはいる。
時は流れている。
エルナリアは妻になり、母になった。
けれどプラムの目には、幼い頃から仕えてきた少女の面影が今も残っていた。
小さな手で本を抱えていた姿。
庭で転びそうになって、こちらを見上げた顔。
兄である皇太子殿下の後ろに隠れながら、少しだけ笑った表情。
そして、満面の笑み。
あの黄金のような微笑み。
プラムは昔から、何度もその笑みに救われてきた。
苦しい日もあった。
悔しい日もあった。
侍女として、護衛として、ただ黙って耐えるしかない日もあった。
けれど、エルナリアがふと振り返り、楽しそうに笑う。
それだけで、胸の奥に積もっていた暗いものが、少しずつ溶けていった。
だからプラムは、エルナリアの笑顔が好きだった。
ただ見ているだけで、幸せだった。
「おはようございます、奥様」
「おはよう、プラム」
エルナリアが微笑む。
プラムは深く礼をした。
エルナリアは、この屋敷の奥様である。
ケイン・サザの妻であり、クロウの母である。
プラムはそれを理解している。
理解しているし、職務上も正しく扱っている。
けれど、心の奥では少し違う。
エルナリアは、プラムにとって大切な妹のような存在だった。
もちろん、声に出して言えることではない。
言ってよいことでもない。
身分も、立場も、何もかも違う。
ただ、幼い頃からそばにいて、支え、守り、見てきた。
それだけで、心の中にはどうしても別の名前が生まれてしまう。
プラムは、それを表に出さない。
出さないまま、髪を整え、衣を選び、部屋を整える。
それがプラムの役目だった。
そして、楽しみでもあった。
「今日は、どちらの髪飾りになさいますか」
「プラムに任せるわ」
「承知しました」
プラムは迷わず、淡い青の髪飾りを選んだ。
今日の光には、それが合う。
エルナリアの金の髪に、青はよく映える。
櫛を通す。
髪をまとめる。
指先で流れを整える。
動作は静かに。
強すぎず、弱すぎず。
髪を引かないように。
けれど、崩れないように。
昔から、何度もしてきたことだった。
エルナリアが突然、結婚すると言い出した日のことを、プラムは今でも覚えている。
あの時、プラムはケインをかなり恨んだ。
かなり、である。
表には出さなかった。
もちろん、出さなかった。
プラムは侍女であり、護衛であり、命を受ける立場だった。
けれど心の中では、どうしてこの方を連れていくのか、と思った。
皇太子殿下も似たようなものだった。
いや、皇太子殿下の場合は、今でも少し恨んでいるのかもしれない。
エルナリアのこととなると、あの方は昔から少し面倒だった。
それについては、プラムも人のことを言えない。
エルナリアがこのサザ子爵家へ来ると決まった時、プラムは迷わなかった。
ついていく。
それだけだった。
夫もいる。
息子もいる。
もちろん大切ではある。
だが、それとこれとは別である。
エルナリアのそばにいることは、プラムにとって呼吸に近い。
皇太子殿下から、護衛と身の回りの世話をするよう命じられた時も、プラムは内心で少しだけ思った。
命令など、なくても行く。
言わなかった。
言えば、おそらく皇太子殿下は満足げに頷いただろう。
それも少し癪だった。
「プラム?」
エルナリアの声で、プラムは意識を戻した。
「はい」
「何か考えごと?」
「いえ」
プラムは淡々と答える。
「本日の髪飾りが、よくお似合いだと思っておりました」
「あら」
エルナリアは鏡の中で微笑んだ。
「ありがとう」
「事実です」
プラムは静かに言う。
褒め言葉ではない。
事実である。
身支度を終えると、プラムは部屋を整えた。
本の位置。
椅子の角度。
窓の留め具。
花瓶の水。
すべてを確認する。
エルナリアが食堂へ向かう前に、廊下へ出た。
周辺を確認する。
不審なものはない。
モーリスが遠くで一礼した。
プラムもわずかに頷く。
屋敷の中は、今日も静かに動いている。
ただし、静かだからといって安全とは限らない。
この屋敷には、クロウ様がいる。
レオエナ様がいる。
レーミア様がいる。
静かに見えて、時々とても騒がしい。
特に最近は、花束や菓子類や学校の会など、妙な方向に物事が増えている。
プラムは、すべてを把握しているわけではない。
だが、必要なものは見ている。
特に、エルナリアの周囲に近づくものは。
*
食堂では、クロウが皿を並べていることが多い。
プラムは、その様子を見るのも嫌いではなかった。
クロウは食器を並べる時、いつも少しだけ目が静かになる。
母親であるエルナリアに、とてもよく似た顔立ち。
けれど、目だけは少し違う。
やる気がないような。
覇気が薄いような。
いつも何かを避けているような目をしている。
しかし、ものを整える時の手つきは丁寧だった。
皿の位置。
ナイフの角度。
グラスの距離。
そういうものを、クロウはよく見る。
そこは、プラムにも少し分かる。
乱れを嫌うのだろう。
ただ、乱れは食器だけに起こるものではない。
人にも起こる。
話にも起こる。
そしてクロウは、人の乱れを直すのがあまり上手ではない。
嘘はつかない。
だが、言わない。
訂正しない。
大きく崩れそうなものを、一度見ないふりで置いておく。
その結果、別の場所で転がる。
プラムは最近、それを少しだけ理解し始めていた。
それでも、クロウは可愛い。
エルナリアに似た顔。
覇気の薄い目。
静かに困っている姿。
何度、抱きしめてみたいと思ったか分からない。
レオエナがクロウを抱きしめているのを見ると、少しだけ羨ましくなる。
自分もあんなふうに、可愛がってみたい。
そう思うことがある。
しかし、クロウもまた主の一人である。
決して、そのようなことはしない。
考えていることすら、表に出さない。
プラムは侍女であり、護衛である。
主を抱きしめたいなどという感情は、奥の方にしまっておくべきものだった。
朝食後、プラムはクロウの稽古を見る。
これも、最近では楽しみの一つになりつつあった。
訓練用の剣を渡す。
クロウが構える。
足の置き方。
肩の力。
視線。
以前より、明らかによくなっている。
もともと派手さはない。
気迫も薄い。
だが、観察は細かい。
相手の動きを見て、乱れを拾う。
それは悪くない。
「本日は、昨日より半歩、入りが早くなっています」
「うん」
「ただ、まだ重さに負けます」
「重さ?」
「体格差です」
プラムは淡々と言った。
クロウは自分の腕を見る。
細い。
まだ子どもの腕だ。
「クロウ様の技量は上がっています。ですが、私との稽古では、体格差が大きすぎる部分があります」
「じゃあ、どうするの?」
「考えております」
最近、プラムは自分の息子を稽古相手に呼ぶことを考えていた。
年齢や体格の面で、クロウに近い相手が必要かもしれない。
もちろん、息子よりエルナリアの方が大事である。
だが、息子にも使い道はある。
プラムはそのように考えている。
言えば、おそらく周囲に怒られるので、言わない。
「考えてる?」
「はい」
「少し怖い」
「問題ありません」
「問題ある時の言い方」
「稽古を続けます」
「うん」
クロウはそれ以上聞かなかった。
賢明である。
稽古が終わり、クロウが学校へ向かう。
その背を見送る。
これで、プラムにとって今日の警護対象は、ほぼエルナリアだけになる。
もちろん、屋敷全体にも目は配る。
だが、中心はエルナリアだ。
それは、プラムにとって非常に望ましい時間だった。
*
エルナリアは散策をすることがある。
プラムは付き従う。
買い物へ行くこともある。
プラムは警戒する。
読書をすることもある。
プラムは静かに見守る。
ケインがチェロを弾けば、エルナリアは耳を傾ける。
プラムは、その横顔を見る。
エルナリアが穏やかに本を読んでいる姿。
音楽を聴きながら目を伏せている姿。
庭の花を眺めている姿。
どれも、プラムは嫌いではない。
いや、好きである。
かなり好きである。
だが、最も好きなのは、エルナリアが何かを面白がって微笑んでいる時だった。
あの笑顔は危険である。
何かを思いついている。
何かを見つけている。
そして、たいてい周囲の誰かが少し困る。
それでも、プラムはその笑顔を見るのが好きだった。
困る誰かには申し訳ない。
だが、それはそれである。
その日も、エルナリアは窓辺で紅茶を飲みながら、ふと小さく微笑んだ。
プラムはすぐに気づいた。
「奥様」
「なあに、プラム」
「何か、良いことがございましたか?」
エルナリアは目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「プラムには分かるのね」
「はい」
プラムは答える。
分かる。
エルナリアが楽しそうにしていることは分かる。
ただし、何を考えているかまでは分からない。
分からないが、それでよい。
エルナリアが楽しそうなら、プラムはそれだけで少し幸せだった。
「少しだけ、面白いことになりそうなの」
「そうでございますか」
「ええ」
エルナリアは紅茶を一口飲む。
「クロウは、少し困るかもしれないけれど」
「クロウ様は、よく困っておいでです」
「そうね」
エルナリアはまた笑った。
プラムはその笑顔を見て、静かに目を伏せる。
やはり、昔からあまり変わらない。
少女だった頃のエルナリアも、こうして何かを面白がると、少しだけ目元が明るくなった。
皇太子殿下はそれを見ると、すぐに何かを用意した。
プラムはそれを見て、少し呆れた。
今も、あまり変わらない。
変わったのは、場所と、周りにいる人間だけだ。
午後になれば、エルナリアは庭を歩く。
プラムは後ろに控え、少し離れて付き従う。
花壇の前で足を止めれば、周囲を見る。
木陰に入れば、枝の影と足元を見る。
エルナリアが何気なく花に触れるなら、その手元を見る。
何かが起きるわけではない。
けれど、何も起きないように見る。
それがプラムの仕事だった。
そして、それも嫌いではなかった。
夕方近くになると、ケインのチェロが屋敷に低く響いた。
エルナリアは廊下で足を止め、しばらくその音に耳を傾けた。
プラムは、その横顔を見る。
目を伏せ、音を受け止めるように静かに立っている。
時々、ほんの少しだけ唇が緩む。
その瞬間を見ると、プラムは胸の奥が満たされた。
ケインへの恨みが完全に消えたわけではない。
だが、エルナリアが幸せそうにしているなら、許してやってもよい。
少しだけ。
本当に、少しだけ。
夕食が終わると、プラムは再びエルナリアとともに部屋へ戻る。
部屋を整え、茶を用意し、必要なものをそろえる。
エルナリアがその日あったことを少し話す。
プラムは聞く。
必要なら返事をする。
必要でなければ、ただ控える。
それもまた、好きな時間だった。
だが、最近のプラムにとって、最大の幸せは夜にあった。
クロウが、エルナリアの部屋へ来る時間である。
もちろん、プラムは中へ入らない。
扉の外か、少し離れた場所で控えるだけだ。
だが、時折聞こえる声がある。
エルナリアのやわらかな声。
クロウの短い返事。
ときどき、少し困ったような沈黙。
それから、エルナリアが楽しそうに笑う声。
母親として、クロウに話しかけるエルナリア。
エルナリアのそばで、少しずつ力を抜いていくクロウ。
その二人の気配を、プラムは静かに感じ取る。
母子が近い距離で語り合う。
何気ない話をする。
今日の出来事。
学校のこと。
音楽のこと。
昔話。
時には、皇太子殿下の話。
エルナリアが楽しそうに話し、クロウが眠そうに聞く。
その光景は、プラムにとって何より神々しかった。
できることなら、絵にしたい。
そう思うことがある。
だが、絵では足りない。
どれほど優れた画家を呼んでも、あの空気までは描けないだろう。
ちょっとした絵などより、あの二人の団欒の方がずっと美しい。
ずっと尊い。
プラムは、いつもそう思っている。
もちろん、表情には出さない。
そんな感情を外へ出すことはない。
誰かに見せるつもりもない。
あの光景は、自分だけが知っていればいい。
自分だけが、静かに守り、静かに見ていればいい。
そう思っている。
独占している。
そんな言葉は不敬かもしれない。
けれど、プラムの中では確かにそうだった。
エルナリアが母として楽しそうに笑う姿。
クロウが少し安心している姿。
それを近くで見守ることができる。
それは、プラムにとって、この屋敷に来てから見つけた一番大きな喜びだった。
夜が深くなると、エルナリアは自室へ戻る。
プラムは廊下で待ち、静かに付き従う。
「奥様」
「なあに、プラム」
「本日も、よい夜でございました」
エルナリアは少しだけ目を丸くした。
それから、やわらかく笑う。
「そうね」
「はい」
「クロウも、少し安心していたわ」
「そのようにお見受けしました」
エルナリアは嬉しそうに微笑んだ。
その微笑みを見て、プラムはまた少しだけ満たされる。
部屋へ戻ると、プラムは灯りを整え、寝支度の準備をした。
何気ない夜の終わり。
同じようでいて、同じではない一日。
その最後に、エルナリアが穏やかに笑っている。
それだけで、プラムには十分だった。
この毎日が好きだった。
朝、エルナリアの身支度を整えること。
昼、エルナリアの散歩や読書を見守ること。
夕方、音楽を聴く横顔を見ること。
夜、エルナリアとクロウの穏やかな団欒を守ること。
そして、エルナリアを部屋へ送り届けること。
ここにいること。
この屋敷で、エルナリアのそばにいること。
それが、プラムにとって一番の喜びだった。
たとえ屋敷が少し騒がしくても。
クロウが何かを言わずに抱えていても。
レーミアが何かを面白がっていても。
レオエナが感動のあまり抱きしめすぎても。
ケインが少し恨まれていても。
プラムの中心だけは、変わらない。
エルナリアが、穏やかに笑っていること。
その笑顔を、今日も守れること。
それが、プラムの楽しみだった。




