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僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
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第36話 痛くない抱擁と、森の時計

 ――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――


 その日、隣領から客が来た。


 エラン子爵家の馬車がサザ子爵家の前に止まった時、クロウは廊下の窓からそれを見ていた。


 客。


 その言葉は、あまり落ち着かない。

 誰かが来る。挨拶をする。会話が増える。


 屋敷の空気が、少し動く。

 最近は、増えるものが多すぎた。


 金色の天使を見守る会。

 姿絵。

 アランの贈り物。

 森の奥の古い館。

 そして、皇太子殿下の来訪予定。


 できれば今日は作業小屋で、あの大きな古時計を少し見たかった。


 森の奥にある昔の領主の館。

 高い塔のある、黒い石の古い館。


 あの時計は、そこにあったものかもしれない。そう思うと、歯車のひとつひとつまで気になってくる。


「クロウ」


 背後からテッドの声がした。


「うん?」

「今日の昼食には出ろ」


「……客?」


「ああ。隣領のエラン子爵家の次女だ。皇太子殿下の来訪前に、隣領として数年ぶりに挨拶に来た」


「僕も?」

「お前もだ。父上、エルナリア様、母上にも挨拶する。それと、レオエナの親友でもある」


「エナ姉の?」

「ああ」


 テッドは少しだけ間を置いた。


「俺の婚約者でもある」


 クロウは顔を上げた。

 兄様の婚約者。

 それは、かなり重要な客だった。


 逃げにくい。

 そう思った。


「兄様の婚約者?」

「ああ」


「なら、僕も挨拶する?」

「するし、される」


「……分かった」

 クロウは頷いた。


 逃げにくいものは、だいたい避けられない。

 それなら、最初から諦めた方がいい。


 昼食の前に、客間で簡単な挨拶があった。


 ケイン。

 エルナリア。

 レナ。


 テッド。

 レオエナ。

 ミア。

 そして、クロウ。


 屋敷の者がそろうと、隣領の令嬢は落ち着いた所作で礼をした。

 栗色の髪をきれいにまとめ、快活そうな瞳をしている。

 服装は上品だが、堅苦しすぎない。


「お久しぶりでございます。リトリー・エランフランスです。本日より、しばらくお世話になります」


 エラン子爵家の次女。

 十四歳。

 レオエナと同い年。


 そして、テッドの婚約者。

 初めての挨拶ではない。


 サザ子爵家とエラン子爵家には縁があるし、リトリーはテッドの婚約者でもある。


 ケインも、エルナリアも、レナも、リトリーを知らないわけではなかった。


 ただ、リトリーがサザ子爵家へ来るのは数年ぶりらしい。レオエナとは手紙でずっとやり取りしていたが、屋敷で直接会う機会はしばらくなかった。


 だからクロウとミアにとっては、ほとんど初めて会う相手に近かった。


 ミアは少し後ろで黒猫を抱き、にこにことその様子を見ている。


 知らない客が来た時の顔ではない。

 何かが増えそうな時の顔だった。


 クロウはそれを見て、少しだけ嫌な予感がした。


 挨拶は穏やかに終わった。

 余計な話は出ない。

 クロウは少しだけ安心した。


 挨拶は、増えない方がいい。

 挨拶は挨拶のまま終わるのが、一番いい。


 ■食堂


 そのあと、昼食の席で改めて紹介が行われた。食堂は、いつもより少しだけ整えられていた。


 皿の位置。

 ナイフとフォークの角度。

 グラスの距離。


 大きく乱れてはいない。

 それだけで、少しだけ息がしやすくなった。


 ケインがそう言うと、リトリーは椅子から立ち上がり、もう一度軽く礼をした。


「どうぞ、リトとお呼びください」


 レオエナは隣で嬉しそうにしている。


「レオエナとは手紙だけはよく続いていたわよね」


 リトリーが笑う。


「会えなくても、手紙が来ると近くにいるみたいな気分になるのよね」


「あなたの手紙ね。毎回、クロウのことが少しずつ増えていたわ」


「リト!」


 レオエナが少し頬を染めた。

 クロウは止まる。


「僕のこと?」

「ええ。少しだけ」


「少し?」


「たぶん、レオエナの少しは、少しではないわね」


 リトが笑って答える。


 ミアが黒猫を抱えたまま、にこりと笑った。


「お兄様、もう手紙の中でも困ってたんだね」


「困ってない」


「まだ読んでないのにね?」


 リトリーとミアが、同じような顔で笑った。


 よくない。

 少しだけ、似た種類の人かもしれない。


「リトリー嬢は、皇太子殿下がいらっしゃるまで、しばらく滞在する」


 ケインが言った。

 クロウは止まった。


「しばらく?」

「ああ」


「ご迷惑でなければ、しばらくお世話になります」


 リトリーが楽しそうにこちらを見る。


「迷惑ではない」


 クロウは答えた。

 嘘ではない。

 ただ、帰らない人だと分かっただけだ。


 その横で、ミアが黒猫の耳の後ろを撫でながら、ぽつりと言った。


「よかったね、お兄様。逃げてもまた会えるよ」

「よくない」


「よくないの?」

「よくはない」


「でも、迷惑ではないんでしょ?」


 クロウは黙った。さっき自分で言った言葉が、もう戻ってきた。


 ミアは楽しそうに笑う。

 リトリーも、少しだけ肩を揺らして笑った。


「本当に、聞いていた通りの子なのね」

「誰から何を聞いたの?」


「レオエナから、いろいろ」


 クロウはレオエナを見た。

 レオエナは、嬉しそうに微笑んでいた。

 助けにはならなかった。


「ミア様も、大きくなられましたね」

「リトリー様は、私のこと覚えてるんですか?」


「ええ。小さな頃に、少しだけ」

「私はあまり覚えてないです」


「そうでしょうね。あの頃は、まだ本当に小さかったもの。それに、私がここへ来るのも久しぶりですし」


 ミアは黒猫を抱き直し、にこにことリトリーを見る。


「でも、リトリー様って、楽しそうな人ですね」

「楽しそう?」


「うん。お兄様が困りそうだから」


「ミア」

 クロウは小さく言った。


 ミアは何も知らないような顔で笑った。


「だって、もう少し困ってるよ」


 リトリーは楽しそうに目を細めた。


「よく見ていらっしゃるのね」

「お兄様は分かりやすいから」


「分かりやすくない」

 クロウは言った。


 やはり、よくない組み合わせだった。


「クロウ」


 レオエナがこちらを見る。


「リト、改めて紹介するわ。こちらが、クロウよ」


 クロウは立ち上がった。


「クロウ・サザです」


「大きくなったのね。クロウとも小さな頃に会ったことはあるはずだけれど、ほとんど覚えていないでしょう?」


「覚えてない」

「でしょうね。あの頃は、まだ本当に小さかったもの」


 リトリーは楽しそうに笑った。それから、少しだけクロウの顔を見つめる。


「本当にエルナリア様にそっくりなのね」

「母様を知ってるの?」


 思わず聞いていた。

 リトリーはすぐには答えず、一度エルナリアの方を見る。


「お名前は、もちろん存じ上げていますわ。でも、私から勝手にお話しすることではないかもしれません」


 クロウは母様を見る。エルナリアは、困ったように、けれど少し楽しそうに笑っていた。


「そのうち話すわ、クロウ」

「そのうち?」


「ええ。そのうち」


 その言い方は、たぶん今ではない、という意味だった。クロウは少しだけ目を伏せる。


 母様には、まだ自分の知らない場所がある。それだけが、静かに胸の中へ残った。


「けれど、こうしてお会いすると分かるわ。あなたは本当にエルナリア様のお子様なのね」


 リトリーはそう言って、楽しそうに続ける。


「でも、目は思っていたより眠そう」

「リト!」


 レオエナが慌てる。


「あ、ごめんなさい。悪い意味ではないの」

「悪い意味に聞こえた」


「そうね。今のは少し悪かったわ」

「少しじゃない」


 リトリーは声を立てて笑った。

 謝り方は軽い。


 でも、悪意はない。

 クロウは、さらに扱いに困った。


 昼食は、思っていたより穏やかに進んだ。

 リトリーは話し上手だった。


 ケインには隣領の近況を話し、エルナリアには季節の花の話をし、レナには最近読んだ本の話をした。

 レオエナとは、もちろん楽しそうに笑い合っている。


 テッドに対しては少し違った。


「テッド様、少しお疲れではありませんか」

「問題ない」


「問題ない顔ではありません」

「顔で判断するな」


「顔に出る方が言うことではありませんわ」

 テッドは少しだけ黙った。


 クロウはそれを見て、驚いた。

 兄様が少し言い負けている。


 リトリーは、それを当然のように受け止めていた。

 テッドも嫌そうな顔はしているが、本当に嫌がっているわけではなさそうだった。


 少し不思議だった。

 兄様にも、自分たちの知らない場所があるのだと思った。


 ■廊下


 昼食のあと、レオエナはリトリーを自分の部屋へ連れていった。


 クロウはこれで解放されたと思った。

 思っただけだった。


 しばらくして、モーリスに呼び止められた。


「クロウ様」

「うん」


「レオエナ様がお呼びです」

「……エナ姉が?」


「はい。リトリー様にも、改めてクロウ様とお話ししたいとのことで」


 増えた。

 クロウはそう思った。

 けれど、昼食の席で挨拶した以上、完全に逃げるのも難しい。


「……分かった」


 ■レオエナ私室


 レオエナの部屋へ行くと、中では二人が楽しそうに話していた。

 机の上には本が置かれている。

 リトリーは、どうやら今回本も返しに来たらしい。


「クロウ」


 レオエナがぱっと笑った。


「来てくれたのね」

「呼ばれたから」


「うん。リトにも、ちゃんと紹介したかったの」

「昼食で紹介された」


「でも、あれは正式な挨拶でしょう? 今度は、私の親友として紹介したいの」


 同じ人なのに、紹介が増える。

 クロウは少しだけ困った。

 リトリーは楽しそうにこちらを見る。


「あなたが、お姉さんのこと大好きなクロウね」


 最初の一言がそれだった。

 クロウは止まった。


「……違う」

「あら、違うの?」


「違う」


 けれど、レオエナは少し頬を染めて、嬉しそうに微笑んでいる。


「リト、違わないわ。だってクロウ、私の姿絵を自分の部屋に飾ろうとしてくれているのよ」


 クロウは言葉の置き場所を見失った。

 確かに、クロウの部屋に置くことにはなっている。


 けれど、それは学校へ持っていった姿絵の理由を隠すためであって、レオエナが思っているような意味ではない。


 いや、嫌というわけではない。

 でも、好きだから飾る、という話ではない。


 そこはかなり違う。


「……まだ、置いてない」

「これから置くのよね?」


「……置くことには、なる」

「ほら」


 レオエナが嬉しそうにリトリーを見る。


「クロウは少し照れ屋なの」

「違う」


「本当に聞いていた通りね」


 リトリーは笑った。


「レオエナのことが大好きで、でも素直には言わなくて、困った顔をよくするって」

「エナ姉」


「だって、本当のことだから」

「本当でも言わなくていい」


「でも、リトは親友だもの」

「親友にも言わなくていい」


 クロウは、もう作業小屋へ行きたくなった。


 時計を見たい。

 歯車を並べたい。

 古い部品の汚れを落としたい。


 そして心を落ち着けたい、自分の。


 けれど、リトリーはまだ楽しそうにこちらを見ている。


「それに、私はテッド様の婚約者でしょう? なら、クロウにとっても少しはお姉さんみたいなものじゃない?」


 理屈としては、分からなくもない。

 でも、急に姉が増えるのは困る。


 姉はすでに一人いる。

 しかも、かなり強い。


「だから、私のこともリト姉って呼んでいいのよ」

「呼ばない」


 クロウは即答した。


「即答ね」

「増えるから」


「何が?」

「姉」


 レオエナが横で、少しだけ複雑そうな顔をした。


「クロウ、リトは兄様の婚約者なのよ」

「うん」


「それなら、少しくらい……」


 クロウは困った。

 テッド兄様には、最近助けてもらってばかりだった。

 その兄様の婚約者を、あまり冷たく扱うのはよくない気がする。


 気がするだけで、本当は呼びたくない。


「……一回だけ」


 リトリーの目が輝いた。


「本当?」

「一回だけ」


「ええ。一回でいいわ」


 たぶん、一回で終わらない顔だった。

 クロウはそれに気づいたが、もう遅かった。


「……リト姉」


 言った瞬間、リトリーが両手を合わせた。


「可愛い」

「今ので終わり」


「もう一回」

「終わり」


「ねえ、レオエナ、聞いた?」

「ええ。聞いたわ」


 レオエナは嬉しそうに笑っていた。

 けれど、その笑顔の端に、ほんの少しだけ複雑なものが混じっている。


 クロウは見なかったことにした。

 姉が増えたわけではない。


 一回だけだ。

 少なくとも、クロウの中ではそういうことにした。


「ねえ、レオエナ」


 リトリーがふと立ち上がった。


「一度だけ、抱きしめてみてもいい?」


 クロウは固まった。

 許可を取る相手が違う。


 抱きしめられるのはクロウだ。

 なのにリトリーは、まずレオエナを見る。


 レオエナは一瞬だけ黙った。


「リト」


「だって、私も将来的にはお姉さん側でしょう?」

「それは……そうかもしれないけれど」


 レオエナは、少しだけ困った顔でクロウを見る。


「クロウが嫌でなければ」


 そこは、少し成長している。

 でも勝手に決めないでほしい。

 ちゃんと自分に聞いてほしい。


 ただ、レオエナの青い瞳には、ほんの少しだけ面白くなさそうな色が混じっていた。


 クロウはそれに気づいてしまった。

 リトリーは期待した目でこちらを見ている。


 レオエナは、許すと言いながら少しだけやきもちを焼いている。


 どちらにしても、少し困る。


「……少しだけなら」


 リトリーの顔がぱっと明るくなった。

 レオエナの指先が、ほんの少しだけ動いた。


 クロウは見なかったことにした。

 リトリーは近づいてきた。

 クロウは反射的に身構える。


 背骨。

 呼吸。

 肩。


 腕の逃げ道。

 エナ姉に抱きしめられる時は、準備がいる。

 準備しても、だいたい痛い。


 だから今回も、少し覚悟した。

 けれど。

 抱きしめられた瞬間、クロウは少しだけ目を開いた。


 痛くない。

 強くない。

 近いけれど、押し潰されない。


 呼吸もできる。

 逃げ道もある。


 リトリーの腕は、ちゃんとクロウを包んでいる。

 でも、閉じ込めてはいない。


「本当だ。なんだか落ち着く」

「……そう?」

「うん。レオエナが言っていたの、少し分かる」


 クロウは黙った。

 分かるのはいい。

 でも、そこで気づいたことがある。


 抱きしめられるというのは、本来こういうものなのかもしれない。

 背骨が痛くならない。

 息ができる。


 腕の中にいても、少しだけ空間がある。


 つまり。

 エナ姉の抱きしめ方は、やっぱりおかしい。


「どう?」


 リトリーが離れながら聞く。


「痛くなかった」

「それ、褒め言葉?」


「うん」

 レオエナが少し慌てる。


「クロウ、私だって気をつけているわ」

「最近は」


「最近は?」


「前よりは」

「前よりは……」


 レオエナは少しだけ落ち込んだ。

 けれど、その目はリトリーの腕の方をちらりと見ていた。

 リトリーはそれに気づいたらしく、楽しそうに笑う。


「レオエナ、もしかして少し妬いている?」

「妬いていないわ」


「本当に?」


「リトは親友だもの」

「それに、テッド様の婚約者だものね」


「ええ。だから、別に……」


 レオエナはそこで言葉を切った。

 別に、の先が少しだけ続かなかった。


 クロウは、何も言わないことにした。

 ここで何かを言うと、たぶん増える。


「僕、作業小屋に行く」

「もう?」


「時計を見たい」

「時計を直すの?」


「うん」


「そういうこともするのね。見てもいい?」


「今日は、だめ」

「今日は?」


「うん」


「じゃあ、いつかはいいの?」


 しまった。

 クロウはそう思った。

 言葉がまた引っかかった。


「分からない」

「分からない、ね」


 リトリーは楽しそうに笑う。


「クロウは、よくそう言う?」

「……言う」


「便利な言葉ね」

「便利だから」


 レオエナは少しだけクロウの髪に触れようとして、途中で手を止めた。


「行ってらっしゃい、クロウ。あとで、時計の話を聞かせて」

「少しなら」


 クロウが部屋を出ようとすると、リトリーが笑った。


「今日は、ではなくて、しばらくよ」


 クロウは止まる。


「しばらく?」


「ええ。皇太子殿下がお見えになるまで。エラン子爵家からのご挨拶も兼ねているもの」

「そうだった」


「そんなに早く帰ってほしかった?」

「少し」


 リトリーは声を出して笑った。


「正直ね」

「嘘はつかない」


「でも、全部は言わなそう」


 クロウは少しだけ止まりかけた。

 けれど、今は何も言わないことにした。


「……作業小屋に行く」


 クロウはそれだけ言って、部屋を出た。


 ■作業小屋


 作業小屋は静かだった。


 木の匂いと油の匂いがする。

 机の上には、直しかけのオルゴール。


 その奥に、大きな古時計。

 森で見つけたものだった。


 高い塔のある昔の領主の館にあったものかもしれない。


 けれど、一人では行けない。

 今日はもう、行く日でもない。


 リトリー。

 リト姉。


 痛くない抱擁。

 レオエナの、少しだけ面白くなさそうな顔。


 今日は、もう十分に増えた。

 クロウは時計の裏蓋を開けた。


 大きな歯車。

 小さな歯車。


 軸。

 ねじ。


 それぞれに場所がある。


 ここは分かりやすい。

 人より、ずっと分かりやすい。


 細い布で、軸の汚れを少しだけ拭う。


 金属の色が、ほんのわずかに戻る。


 クロウは小さく息を吐いた。

 まだ動かない。

 けれど、少しだけ正しい場所に近づいた気がした。


 今日は、それでよかった。

 けれど、リトリーは帰らない。


 明日からも、きっと何かが増える。

 そう思うと、少しだけ不安だった。

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