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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 小径つむぎ
第一章 日常編

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第33話 高い塔の屋敷

――帝国暦三五〇年・春終盤 サザ子爵家邸――


 学校から戻ったクロウは、まっすぐテッドの部屋へ向かった。


 今日は、廊下の敷物の端が少しだけ斜めになっていることにも気づいた。


 気づいたので、足を止める。


 指先で、そっと直す。


 端をそろえる。


 それだけで、少しだけ胸の奥が静かになった。


 昨日は、そこに手を伸ばす余裕がなかった。


 今日は違う。


 学校は、少し静かになった。


 金色の天使を見守る会の会員たちは、姿絵の前で騒ぎはしたものの、屋敷に来たいとは言わなかった。


 家のことも聞かなかった。


 関係も探らなかった。


 少なくとも、今日のところは。


 だから、クロウは少しだけ機嫌がよかった。


 ほんの少しだけ。


 けれど、その「少し」は、クロウにとって十分大きかった。


 テッドの部屋の前で止まり、扉を叩く。


「兄様」


 返事はなかった。


 クロウは少し待つ。


 もう一度、叩く。


「兄様」


 中で、何かが少し動く音がした。


 それから、低い声が返ってきた。


「……入れ」


 声がいつもより重い。


 クロウは扉を開けた。


 部屋の中は、絵の具の匂いがまだ残っていた。


 机の上には、片づけられていない筆がある。


 布も、紙も、少しだけ散らばっていた。


 いつものテッドの部屋にしては、かなり乱れている。


 そしてテッドは、寝台の上にいた。


 上体だけ起こしている。


 だが、目は半分ほど閉じていた。


「兄様」


「……なんだ」


「寝てた?」


「見れば分かるだろう」


「うん」


 分かった。


 かなり寝ていた。


 たぶん、昨日はあまり眠っていない。


 いや、ほとんど眠っていないのかもしれない。


 クロウは少しだけ申し訳なくなる。


「絵」


「ああ」


「うまくいった」


 テッドの目が少しだけ開いた。


「そうか」


「うん」


「屋敷に来ない話は」


「通った」


「家のことは」


「聞かないことになった」


「関係は」


「探らないことになった」


「そうか」


 テッドは短く息を吐いた。


 少しだけ、肩の力が抜けたように見える。


「なら、よかったな」


「うん」


 クロウは頷いた。


「兄様、ありがとう」


「礼はもう聞いた」


「でも、言う」


「そうか」


 テッドはそれだけ言って、また寝台へ体を沈めた。


 かなり眠そうだった。


 クロウは部屋の中を見回す。


 絵筆。


 布。


 紙。


 画布。


 昨日、兄様が夜を使って整えてくれたもの。


 それがまだ、部屋の中に少し残っている。


「兄様」


「なんだ」


「もう一枚は?」


「後で描く」


「うん」


「レオエナには、まだ完成していないと言っておけ」


「うん」


「見に来られると面倒だ」


「うん」


 そこは、かなり分かる。


 エナ姉がクロウの部屋へ来る。


 姿絵を見る。


 喜ぶ。


 抱きしめる。


 背中がきしむ。


 そしてたぶん、また何かが増える。


「学校は、静かになったか」


 テッドが目を閉じたまま聞いた。


「たぶん」


「たぶん?」


「今日のところは」


「なら十分だ」


「うん」


「続くかは知らん」


 クロウは少しだけ止まった。


「続くよ」


「そうだといいな」


 テッドの声は、半分眠っているようだった。


 けれど、言葉だけは少し引っかかった。


 続くかは知らない。


 兄様は、少し疑っているのかもしれない。


 でも、今日のクロウはそれを深く考えないことにした。


 うまくいった。


 少なくとも今日は、うまくいった。


「寝ていいよ」


「言われなくても寝る」


「うん」


「夕食まで起こすな」


「うん」


「ミアが来ても入れるな」


「……うん」


 その名が出た時、クロウは少しだけ嫌な予感がした。


 ミア。


 黒髪。


 青い目。


 黒猫。


 いつも何かを知っている妹。


 テッドは、目を閉じたまま言った。


「お前も、今日は余計なものを増やすな」


「増やさない」


「本当か」


「たぶん」


「そこは言い切れ」


「……増やさない」


「よし」


 テッドはそれだけ言うと、今度こそ眠りに戻った。


 クロウは静かに扉へ向かう。


 部屋を出る前に、もう一度だけ机の上を見た。


 少し乱れている。


 直したい。


 でも、これは兄様の乱れだ。


 勝手に触ると、かえって分からなくなるかもしれない。


 だから、そのままにした。


 扉を閉める。


 廊下に出る。


 クロウは小さく息を吐いた。


 学校は静かになった。


 兄様にも報告できた。


 絵のことも、しばらくは大丈夫。


 今日は、少し軽い。


 そう思った。


*


「お兄様」


 廊下の少し先から、声がした。


 クロウは止まった。


 軽い声。


 聞き慣れた声。


 そして、だいたい何かが増える時の声。


 ミアがいた。


 黒い髪を揺らし、黒猫を抱いている。


 黒猫は、クロウを見ると小さく鳴いた。


「にゃあ」


 クロウは、ほんの少しだけ目を細めた。


「ミア」


「お帰りなさい」


「うん」


「学校、うまくいった?」


「……うん」


「よかったね」


 ミアはにこりと笑った。


 その笑顔は、かわいい。


 とてもかわいい。


 でも、クロウは少しだけ警戒した。


「何?」


「何って?」


「用がある顔」


「お兄様、今日は機嫌がいい顔」


「そう?」


「うん。だから、お願いをするなら今かなって」


 やっぱりだった。


 クロウは少しだけ後ろを見た。


 テッドの部屋。


 兄様は寝ている。


 起こしてはいけない。


 つまり、逃げ場が一つ減った。


「お願い?」


「楽器を教えて」


 クロウは黙った。


 すぐには返事ができなかった。


 楽器。


 ミア。


 その組み合わせには、記憶がある。


 以前、みんなで演奏していた時。


 ミアが入ってきて、音が崩れた。


 途中で終わってしまった。


 あの時の音の乱れを、クロウはまだ覚えている。


 弦の上で迷う音。


 追いつかない音。


 入りそこねる音。


 悪くはない。


 でも、合わない。


 合わない音は、耳より先に背中にくる。


「父様に教えてもらえばいい」


 クロウは言った。


「父様にはいつも教えてもらってるわ」


「じゃあ、父様に」


「今日は父様がいないの」


「……そう」


「だから、お兄様に教えてほしくて」


 ミアはにこりと笑う。


 クロウは断ろうと思った。


 今日は、せっかく学校が少し静かになった日だ。


 音を乱したくない。


 背中をきしませたくない。


 それに、ミアの練習に付き合うと、たぶん何かが増える。


「今は」


「お兄様」


 ミアは、黒猫の背を撫でながら言った。


「この前、私が学校へ行った時」


 クロウの手が止まった。


「お兄様、何でも言うことを聞いてくれるって言ったわよね」


 言った。


 たぶん言った。


 その場の流れで。


 ミアをなだめるために。


 学校で余計なことを増やさないために。


 言った気がする。


「……何でもとは言ってない」


「言ったわ」


「全部ではない」


「ほとんど同じよ」


「違う」


「でも、お願いを聞いてくれるって言った」


 クロウは黙った。


 言った。


 そこは、たぶん否定できない。


 ミアは楽しそうに目を細める。


 黒猫が、にゃあ、と鳴いた。


「それに」


 ミアは声を少し落とした。


「教えてくれたら、大切なことを教えてあげる」


 クロウは顔を上げた。


「大切なこと?」


「うん」


「何?」


「教えてくれたら」


「先に言って」


「だめ」


 ミアは笑った。


「お兄様が知らないこと」


 その言い方が、少しだけ引っかかった。


 お兄様が知らないこと。


 ミアが知っていること。


 ミアは、どうしてか、いろいろ知っている。


 アランのことも。


 贈り物のことも。


 学校のことも。


 屋敷の中で誰が何を見ているかも。


 どこまで知っているのか、クロウには分からない。


 分からないから、少し怖い。


「なんで知ってるの」


「秘密」


「ミア」


「秘密」


 ミアは黒猫の耳の後ろを撫でた。


「でも、お兄様には役に立つと思う」


 役に立つ。


 その言葉は、少しずるい。


 クロウはしばらく黙った。


 教えたくない。


 でも、聞きたい。


 かなり聞きたい。


 音の乱れは嫌だ。


 でも、知らないことがそのままなのも嫌だ。


「……少しだけ」


 クロウは言った。


 ミアの顔が明るくなる。


「ありがとう、お兄様」


「小一時間だけ」


「小一時間って、どのくらい?」


「短い」


「じゃあ、短くないくらいね」


「違う」


「行きましょう」


 ミアはもう歩き出していた。


 黒猫はその腕の中で、少しだけ眠そうに目を細めている。


 クロウは小さく息を吐いた。


 今日は余計なものを増やさない。


 兄様に言ったばかりだった。


 たぶん、もう無理だった。


 音楽室へ向かうと、夕方の光が窓から斜めに入っていた。


 父様のチェロはない。


 いつもの低い音もない。


 棚には、いくつかの楽器が収められている。


 ミアは自分の小さなバイオリンを取り出した。


 黒猫は部屋の隅の椅子に丸くなる。


 クロウは一度、ヴィオラの方を見た。


 でも、手に取ったのはバイオリンだった。


 ミアに合わせるなら、同じ楽器の方がいい。


 弓の持ち方。


 指の置き方。


 音の出る位置。


 同じ楽器で示した方が、ミアにも伝わりやすい。


「お兄様、バイオリンも弾けるの?」


「少し」


「少し?」


「うん」


「お兄様の少しは、たぶん少しじゃないわ」


 クロウは答えなかった。


 楽器を構える。


 弦に弓を置く。


 軽く音を出す。


 細い音が、部屋の中に伸びた。


 チェロほど低くない。


 ヴィオラほど落ち着かない。


 でも、正しい位置に置けば、細くても揺れない。


「まず、音をまっすぐ出して」


「まっすぐ」


「うん」


 ミアが弓を置く。


 音が出た。


 以前よりは、ましだった。


 かなりましだ。


 少なくとも、音がひっくり返る回数は減っている。


 ただ、まだ少し上ずる。


 弓の速さが安定しない。


 入りが少し遅れて、次に急いで追いつこうとする。


 クロウは眉を寄せた。


「急がないで」


「急いでないわ」


「急いでる音」


「音に言われると逃げられないわね」


 ミアは小さく笑った。


「もう一回」


「うん」


 もう一度。


 今度は少し良い。


 でも、途中で音が細くなる。


「そこで力が抜けてる」


「力を入れるの?」


「入れすぎてもだめ」


「難しいわ」


「うん」


 自然は難しい。


 力を入れないことも難しい。


 抜きすぎないことも難しい。


 ミアは何度か弾いた。


 クロウも横で同じ旋律を弾く。


 ゆっくり。


 短く。


 少しずつ。


 ミアの音は、前よりも整っていた。


 父様に教えてもらっているというのは、きっと本当なのだろう。


 ただ、合奏に入るには、まだ少し足りない。


 自分の音だけで立っている時はいい。


 でも、誰かの音と並ぶと、すぐに遅れる。


 遅れたことに気づいて、次の音が強くなる。


 強くなりすぎて、またずれる。


 その繰り返しだった。


 小一時間ほど経った頃、クロウは弓を下ろした。


「今日はここまで」


「もう?」


「うん」


「短かったわ」


「小一時間」


「短くないわね」


「うん」


 ミアはバイオリンを下ろし、少しだけ息を吐いた。


「どうだった?」


 クロウは考えた。


 言い方を間違えると、ミアはたぶん楽しむ。


 あるいは拗ねる。


 どちらにしても増える。


「前より、よくなってる」


「本当?」


「うん」


 ミアの顔が明るくなる。


「でも」


「でも?」


「まだ、みんなで合わせるには少し早い」


「どのくらい?」


「かなり」


「かなり」


 ミアは少しだけ口を尖らせた。


 黒猫が、椅子の上で尻尾を揺らす。


「ひどいわ」


「嘘は言ってない」


「知ってる」


「一人で弾く音は前よりいい。弓も前より安定してる。でも、誰かと合わせると、まだ遅れる」


「遅れるの?」


「うん。遅れて、それを戻そうとして強くなる」


「じゃあ、戻そうとしなければいい?」


「遅れない方がいい」


「それはそうね」


 ミアは小さく笑った。


「じゃあ、また今度教えてね」


 クロウは黙った。


「お兄様?」


「……今日はここまで」


「また今度は?」


「今日はここまで」


「返事をずらしたわね」


「うん」


「正直ね」


 ミアは楽しそうだった。


 クロウは楽器を片づける。


 そして、ようやく本題を思い出した。


「ミア」


「なあに?」


「大切なこと」


「ああ」


 ミアは、まるで今思い出したような顔をした。


 たぶん、忘れてはいなかった。


「何を知ってるの?」


「結構、何でも知ってるよ」


「結構」


「うん」


「じゃあ」


 クロウは少しだけ考えた。


 何を聞くべきか。


 学校のこと。


 エナ姉のこと。


 アランのこと。


 聞きたいことはいくつかある。


 でも、ふと、別のものが頭に浮かんだ。


 大きな古時計。


 この前見つけた、古い時計。


 壊れていて。


 重くて。


 それでも、どこか気になるもの。


「この前、僕が見つけた大きな古時計について、知ってる?」


 ミアは少しだけ目を細めた。


 黒猫が、にゃあ、と鳴く。


「知ってるかも」


「本当?」


「たぶん」


「どこの時計なの?」


 ミアはバイオリンを箱に戻しながら、軽い声で言った。


「森の奥にある、高い塔の屋敷」


 クロウの手が止まった。


「高い塔の屋敷?」


「うん」


「そんな家、あった?」


「あるよ」


「知らない」


「お兄様が知らないだけ」


 ミアは少し得意そうに言った。


「森のもっと奥。今の道から少し外れたところ。黒っぽい高い塔が見える屋敷」


「黒い塔」


「昔の屋敷だって聞いたことがあるわ」


「誰の?」


「昔の領主様」


 クロウは少しだけ眉を寄せた。


 昔の領主。


 今の屋敷ではない。


 森の奥。


 高くて黒い塔。


「今は?」


「使ってないと思う」


「廃墟?」


「廃墟っぽい」


「ぽい」


「だって、ちゃんと中を見たことはないもの」


「でも知ってる」


「知ってる」


 ミアは楽しそうに笑った。


「この辺で、あんな大きな古時計があったとしたら、うち以外だと、たぶんそこくらい」


「うち?」


「うん。うちにも古い時計はあるでしょう?」


「ある」


「でも、お兄様が見つけた時計は、うちのじゃないんでしょう?」


「たぶん」


「じゃあ、高い塔の屋敷のものかもしれない」


 クロウは黙った。


 大きな古時計。


 森の奥の高い塔の屋敷。


 昔の領主の屋敷。


 そこにあったかもしれない時計。


 その時計が、なぜクロウのところへ来たのか。


 なぜ見つかったのか。


 誰が持ち出したのか。


 それとも、ずっとどこかで眠っていたのか。


 考え始めると、胸の奥で小さな歯車が動く。


「ミア」


「なあに?」


「どうしてそんなこと知ってるの」


「秘密」


「また」


「秘密は、秘密だから秘密なの」


「意味が増えてない?」


「増えてる?」


「うん」


 ミアは笑った。


「でも、お兄様は気になるでしょう?」


「気になる」


「じゃあ、今度見に行けば?」


「森の奥に?」


「うん」


「危ないかもしれない」


「そうね」


「勝手に行くのはだめ」


「そうね」


「……誰かとなら」


「トム?」


 クロウは少しだけ止まった。


「なんでトム?」


「お兄様、そういう時はトムを連れて行きそう」


「……そう」


 否定できなかった。


 トムなら、勝手に触らない。


 ちゃんと見る。


 余計なことを言わない。


 時計のことも、たぶん面白がってくれる。


「でも、まだ行くとは言ってない」


「うん」


「時計を直すのが先」


「そうかもね」


 ミアは黒猫を抱き上げた。


「でも、時計を直すなら、どこから来た時計なのか知っておいた方がいいんじゃない?」


 それは、たぶん正しい。


 時計は、ただ直せばいいわけではない。


 どこにあったのか。


 誰のものだったのか。


 なぜ壊れたのか。


 それを知れば、直し方も変わるかもしれない。


 少なくとも、クロウはそう思った。


「ミア」


「なあに?」


「ありがとう」


「どういたしまして」


「でも、次も教えるとは言ってない」


「バイオリン?」


「うん」


「お兄様、正直ね」


「うん」


「じゃあ、また取引しましょう」


「しない」


「すると思う」


「しない」


「たぶんするわ」


 ミアは楽しそうに笑った。


 黒猫が、にゃあ、と鳴く。


 音楽室の窓から、夕方の光が入っていた。


 さっきまでの音の余韻が、まだ少し残っている。


 ミアの音は、前よりも整っていた。


 でも、まだ合わない。


 そして、クロウの中には新しい音が残った。


 高い塔の屋敷。


 森の奥。


 黒い塔。


 昔の領主。


 大きな古時計。


 それらの言葉が、小さな歯車のように噛み合いそうで、まだ噛み合わない。


「夕食、行く?」


 ミアが聞いた。


「うん」


 二人は音楽室を出た。


 廊下は、夕方の色に染まっている。


 遠くから、食堂の方の気配がした。


 今日の学校は、少し静かになった。


 それはよかった。


 けれど、静かになった場所とは別のところで、また新しい音が鳴り始めている。


 森の奥。


 高い塔のある屋敷。


 そこにあったかもしれない、大きな古時計。


 クロウは夕食へ向かいながら、胸の奥で、また小さな歯車が動き始めるのを感じていた。

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