表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
PR
36/41

第35話 プラムの楽しみ

 ――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――


 夜の廊下は静かだった。


 灯りは落とされ、窓の外には黒い森が広がっている。


 プラムは、エルナリアの部屋から少し離れた場所に控えていた。扉の向こうから、かすかに声が聞こえる。


 エルナリアのやわらかな声。


 クロウの短い返事。


 時々、少し困ったような沈黙。


 それから、エルナリアが楽しそうに笑う声。


「クロウ、眠い?」

「少し」


「では、もう眠りましょう」

「うん」


 短いやり取り。それだけで、プラムの胸の奥は静かに満たされた。


 エルナリアが母としてクロウに話しかける。クロウが、その声を聞きながら少しずつ力を抜いていく。


 その気配を、プラムは扉の外で受け止める。


 中へ入ることはない。

 覗くこともしない。


 ただ、近くで守る。

 それだけだった。


 だが、プラムにとって、この時間は一日の中で最も好きな時間だった。


 朝、エルナリアの身支度を整えること。

 昼、散策や読書を見守ること。

 夕方、ケインのチェロを聴く横顔を見ること。


 どれも大切な時間だ。


 けれど夜、エルナリアとクロウが静かに語らう気配を守っている時、プラムはこの屋敷へ来てよかったと、何度も思う。


 扉の向こうで、エルナリアが小さく笑った。


 プラムは、ほんの少しだけ目元をゆるめる。


 その表情は、誰にも見られていない。

 だから、少しくらいは構わない。


 プラムは静かに頭を下げ、廊下の気配を確かめてから、自分の部屋へ戻った。


 その日の務めは、ようやく終わった。


 けれど、プラムにとっては、終わった後に残るこの余韻こそが、一番の楽しみだった。


 ■廊下


 エルナリア付きのメイド、プラムは、朝が好きだった。


 屋敷がまだ完全には目覚めていない時間。

 廊下は静かで、窓から差し込む光もまだ淡い。


 厨房ではマーサが朝食の準備を始めているが、その音もまだ遠い。使用人の足音も少ない。


 その静けさの中で、プラムはエルナリアの部屋の前に立つ。


 扉を叩く前に、廊下の左右を確認した。


 窓。

 壁。

 花瓶。

 敷物の端。


 不審なものはない。

 足音もない。

 気配もない。


 問題なし。


 それから、静かに扉を叩いた。


「奥様。プラムです」

「どうぞ」


 やわらかな声が返ってくる。

 それだけで、プラムの朝は少し整う。


 扉を開けると、エルナリアは窓辺に立っていた。


 金の髪に、朝の光が淡く溶けている。


 澄んだ青い瞳は、まだ少し眠たげで、それでも穏やかだった。


 その姿は、昔からあまり変わらない。

 いや、変わってはいる。


 時は流れている。

 エルナリアは妻になり、母になった。


 けれどプラムの目には、幼い頃から仕えてきた少女の面影が今も残っていた。


 小さな手で本を抱えていた姿。


 庭で転びそうになって、こちらを見上げた顔。


 兄である皇太子殿下の後ろに隠れながら、少しだけ笑った表情。


 そして、満面の笑み。

 あの黄金のような微笑み。


 プラムは昔から、何度もその笑みに救われてきた。


 苦しい日もあった。

 悔しい日もあった。


 侍女として、護衛として、ただ黙って耐えるしかない日もあった。


 けれど、エルナリアがふと振り返り、楽しそうに笑う。それだけで、胸の奥に積もっていた暗いものが、少しずつ溶けていった。


 だからプラムは、エルナリアの笑顔が好きだった。


 ただ見ているだけで、幸せだった。


「おはようございます、奥様」

「おはよう、プラム」


 エルナリアが微笑む。

 プラムは深く礼をした。

 エルナリアは、この屋敷の奥様である。


 ケイン・ザザの妻であり、クロウの母である。プラムはそれを理解している。


 理解しているし、職務上も正しく扱っている。


 けれど、心の奥では少し違う。エルナリアは、プラムにとって大切な妹のような存在だった。


 もちろん、声に出して言えることではない。


 言ってよいことでもない。

 身分も、立場も、何もかも違う。


 ただ、幼い頃からそばにいて、支え、守り、見てきた。


 それだけで、心の中にはどうしても別の名前が生まれてしまう。プラムは、それを表に出さない。


 出さないまま、髪を整え、衣を選び、部屋を整える。


 それがプラムの役目だった。

 そして、楽しみでもあった。


「今日は、どちらの髪飾りになさいますか」

「プラムに任せるわ」

「承知しました」


 プラムは迷わず、淡い青の髪飾りを選んだ。


 今日の光には、それが合う。

 エルナリアの金の髪に、青はよく映える。


 櫛を通す。

 髪をまとめる。

 指先で流れを整える。


 動作は静かに。

 強すぎず、弱すぎず。

 髪を引かないように。


 けれど、崩れないように。

 昔から、何度もしてきたことだった。


 エルナリアが突然、結婚すると言い出した日のことを、プラムは今でも覚えている。


 あの時、プラムはケインをかなり恨んだ。

 かなり、である。


 表には出さなかった。

 もちろん、出さなかった。


 プラムは侍女であり、護衛であり、命を受ける立場だった。


 けれど心の中では、どうしてこの方を連れていくのか、と思った。


 皇太子殿下も似たようなものだった。


 いや、皇太子殿下の場合は、今でも少し恨んでいるのかもしれない。


 エルナリアのこととなると、あの方は昔から少し面倒だった。


 それについては、プラムも人のことを言えない。


 エルナリアがこのサザ子爵家へ来ると決まった時、プラムは迷わなかった。


 ついていく。

 それだけだった。

 夫もいる。

 息子もいる。


 もちろん大切ではある。

 だが、それとこれとは別である。


 エルナリアのそばにいることは、プラムにとって呼吸に近い。


 皇太子殿下から、護衛と身の回りの世話をするよう命じられた時も、プラムは内心で少しだけ思った。


 命令など、なくても行く。

 言わなかった。


 言えば、おそらく皇太子殿下は満足げに頷いただろう。それも少し癪だった。


「プラム?」


 エルナリアの声で、プラムは意識を戻した。


「はい」

「何か考えごと?」


「いえ」

 プラムは淡々と答える。


「本日の髪飾りが、よくお似合いだと思っておりました」


「あら」


 エルナリアは鏡の中で微笑んだ。


「ありがとう」

「事実です」


 プラムは静かに言う。

 褒め言葉ではない。

 事実である。


 身支度を終えると、プラムは部屋を整えた。


 本の位置。

 椅子の角度。

 窓の留め具。


 花瓶の水。

 すべてを確認する。


 エルナリアが食堂へ向かう前に、廊下へ出た。


 周辺を確認する。

 不審なものはない。

 モーリスが遠くで一礼した。


 プラムもわずかに頷く。

 屋敷の中は、今日も静かに動いている。


 ただし、静かだからといって安全とは限らない。


 この屋敷には、クロウ様がいる。

 レオエナ様がいる。

 レーミア様がいる。


 静かに見えて、時々とても騒がしい。


 特に最近は、花束や菓子類や学校の会など、妙な方向に物事が増えている。


 プラムは、すべてを把握しているわけではない。だが、必要なものは見ている。


 特に、エルナリアの周囲に近づくものは。


 ■食堂


 食堂では、クロウが皿を並べていることが多い。プラムは、その様子を見るのも嫌いではなかった。


 クロウは食器を並べる時、いつも少しだけ目が静かになる。母親であるエルナリアに、とてもよく似た顔立ち。


 けれど、目だけは少し違う。

 やる気がないような。

 覇気が薄いような。


 いつも何かを避けているような目をしている。しかし、ものを整える時の手つきは丁寧だった。


 皿の位置。

 ナイフの角度。

 グラスの距離。


 そういうものを、クロウはよく見る。

 そこは、プラムにも少し分かる。

 乱れを嫌うのだろう。


 ただ、乱れは食器だけに起こるものではない。


 人にも起こる。

 話にも起こる。


 そしてクロウは、人の乱れを直すのがあまり上手ではない。


 嘘はつかない。

 だが、言わない。

 訂正しない。


 大きく崩れそうなものを、一度見ないふりで置いておく。その結果、別の場所で転がる。


 プラムは最近、それを少しだけ理解し始めていた。


 それでも、クロウは可愛い。

 エルナリアに似た顔。

 覇気の薄い目。


 静かに困っている姿。何度、抱きしめてみたいと思ったか分からない。


 レオエナがクロウを抱きしめているのを見ると、少しだけ羨ましくなる。


 自分もあんなふうに、可愛がってみたい。

 そう思うことがある。


 しかし、クロウもまた主の一人である。

 決して、そのようなことはしない。

 考えていることすら、表に出さない。


 プラムは侍女であり、護衛である。


 主を抱きしめたいなどという感情は、奥の方にしまっておくべきものだった。


 朝食後、プラムはクロウの稽古を見る。


 これも、最近では楽しみの一つになりつつあった。


 訓練用の剣を渡す。

 クロウが構える。


 足の置き方。

 肩の力。


 視線。

 以前より、明らかによくなっている。


 もともと派手さはない。

 気迫も薄い。

 だが、観察は細かい。


 相手の動きを見て、乱れを拾う。

 それは悪くない。


「本日は、昨日より半歩、入りが早くなっています」

「うん」


「ただ、まだ重さに負けます」

「重さ?」


「体格差です」


 プラムは淡々と言った。

 クロウは自分の腕を見る。

 細い。

 まだ子どもの腕だ。


「クロウ様の技量は上がっています。ですが、私との稽古では、体格差が大きすぎる部分があります」


「じゃあ、どうするの?」

「考えております」


 最近、プラムは自分の息子を稽古相手に呼ぶことを考えていた。


 年齢や体格の面で、クロウに近い相手が必要かもしれない。


 もちろん、息子よりエルナリアの方が大事である。


 だが、息子にも使い道はある。

 プラムはそのように考えている。


 言えば、おそらく周囲に怒られるので、言わない。


「考えてる?」

「はい」


「少し怖い」

「問題ありません」


「問題ある時の言い方」

「稽古を続けます」


「うん」

 クロウはそれ以上聞かなかった。


 賢明である。


 稽古が終わり、クロウが学校へ向かう。

 その背を見送る。


 これで、プラムにとって今日の警護対象は、ほぼエルナリアだけになる。


 もちろん、屋敷全体にも目は配る。

 だが、中心はエルナリアだ。


 それは、プラムにとって非常に望ましい時間だった。


 ■

 エルナリアは散策をすることがある。

 プラムは付き従う。

 買い物へ行くこともある。


 プラムは警戒する。

 読書をすることもある。

 プラムは静かに見守る。


 ケインがチェロを弾けば、エルナリアは耳を傾ける。


 プラムは、その横顔を見る。

 エルナリアが穏やかに本を読んでいる姿。

 音楽を聴きながら目を伏せている姿。


 庭の花を眺めている姿。

 どれも、プラムは嫌いではない。

 いや、好きである。

 かなり好きである。


 だが、最も好きなのは、エルナリアが何かを面白がって微笑んでいる時だった。


 あの笑顔は危険である。

 何かを思いついている。


 何かを見つけている。

 そして、たいてい周囲の誰かが少し困る。


 それでも、プラムはその笑顔を見るのが好きだった。


 困る誰かには申し訳ない。

 だが、それはそれである。


 その日も、エルナリアは窓辺で紅茶を飲みながら、ふと小さく微笑んだ。


 プラムはすぐに気づいた。


「奥様」

「なあに、プラム」


「何か、良いことがございましたか?」


 エルナリアは目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。


「プラムには分かるのね」

「はい」

 プラムは答える。


 分かる。


 エルナリアが楽しそうにしていることは分かる。ただし、何を考えているかまでは分からない。


 分からないが、それでよい。


 エルナリアが楽しそうなら、プラムはそれだけで少し幸せだった。


「少しだけ、面白いことになりそうなの」

「そうでございますか」

「ええ」


 エルナリアは紅茶を一口飲む。


「クロウは、少し困るかもしれないけれど」

「クロウ様は、よく困っておいでです」

「そうね」


 エルナリアはまた笑った。


 プラムはその笑顔を見て、静かに目を伏せる。やはり、昔からあまり変わらない。


 少女だった頃のエルナリアも、こうして何かを面白がると、少しだけ目元が明るくなった。


 皇太子殿下はそれを見ると、すぐに何かを用意した。


 プラムはそれを見て、少し呆れた。

 今も、あまり変わらない。


 変わったのは、場所と、周りにいる人間だけだ。


 午後になれば、エルナリアは庭を歩く。

 プラムは後ろに控え、少し離れて付き従う。


 花壇の前で足を止めれば、周囲を見る。

 木陰に入れば、枝の影と足元を見る。


 エルナリアが何気なく花に触れるなら、その手元を見る。


 何かが起きるわけではない。

 けれど、何も起きないように見る。


 それがプラムの仕事だった。

 そして、それも嫌いではなかった。


 夕方近くになると、ケインのチェロが屋敷に低く響いた。


 エルナリアは廊下で足を止め、しばらくその音に耳を傾けた。プラムは、その横顔を見る。


 目を伏せ、音を受け止めるように静かに立っている。


 時々、ほんの少しだけ唇が緩む。


 その瞬間を見ると、プラムは胸の奥が満たされた。


 ケインへの恨みが完全に消えたわけではない。


 だが、エルナリアが幸せそうにしているなら、許してやってもよい。


 少しだけ。

 本当に、少しだけ。


 夕食が終わると、プラムは再びエルナリアとともに部屋へ戻る。


 部屋を整え、茶を用意し、必要なものをそろえる。


 エルナリアがその日あったことを少し話す。


 プラムは聞く。

 必要なら返事をする。


 必要でなければ、ただ控える。

 それもまた、好きな時間だった。


 だが、最近のプラムにとって、最大の幸せは夜にあった。


 エルナリアが、クロウの部屋へ行く時間である。


 もちろん、プラムは中へ入らない。 扉の外か、少し離れた場所で控えるだけだ。


 だが、時折聞こえる声がある。

 エルナリアのやわらかな声。

 クロウの短い返事。


 ときどき、少し困ったような沈黙。

 それから、エルナリアが楽しそうに笑う声。


 母親として、クロウに話しかけるエルナリア。エルナリアのそばで、少しずつ力を抜いていくクロウ。


 その二人の気配を、プラムは静かに感じ取る。


 母子が近い距離で語り合う。

 何気ない話をする。

 今日の出来事。


 学校のこと。

 音楽のこと。

 昔話。


 時には、皇太子殿下の話。


 エルナリアが楽しそうに話し、クロウが眠そうに聞く。


 その光景は、プラムにとって何より神々しかった。


 できることなら、絵にしたい。

 そう思うことがある。

 だが、絵では足りない。


 どれほど優れた画家を呼んでも、あの空気までは描けないだろう。


 ちょっとした絵などより、あの二人の団欒の方がずっと美しい。


 ずっと尊い。

 プラムは、いつもそう思っている。


 もちろん、表情には出さない。

 そんな感情を外へ出すことはない。

 誰かに見せるつもりもない。


 あの光景は、自分だけが知っていればいい。


 自分だけが、静かに守り、静かに見ていればいい。


 そう思っている。

 独占している。

 そんな言葉は不敬かもしれない。


 けれど、プラムの中では確かにそうだった。


 エルナリアが母として楽しそうに笑う姿。

 クロウが少し安心している姿。

 それを近くで見守ることができる。


 それは、プラムにとって、この屋敷に来てから見つけた一番大きな喜びだった。


 夜が深くなると、エルナリアは自室へ戻る。プラムは廊下で待ち、静かに付き従う。


「奥様」

「なあに、プラム」


「本日も、よい夜でございました」


 エルナリアは少しだけ目を丸くした。

 それから、やわらかく笑う。


「そうね」

「はい」


「クロウも、少し安心していたわ」

「そのようにお見受けしました」


 エルナリアは嬉しそうに微笑んだ。


 その微笑みを見て、プラムはまた少しだけ満たされる。


 部屋へ戻ると、プラムは灯りを整え、寝支度の準備をした。


 何気ない夜の終わり。

 同じようでいて、同じではない一日。


 その最後に、エルナリアが穏やかに笑っている。


 それだけで、プラムには十分だった。

 この毎日が好きだった。


 朝、エルナリアの身支度を整えること。


 昼、エルナリアの散歩や読書を見守ること。


 夕方、音楽を聴く横顔を見ること。


 夜、エルナリアとクロウの穏やかな団欒を守ること。


 そして、エルナリアを部屋へ送り届けること。


 ここにいること。


 この屋敷で、エルナリアのそばにいること。


 それが、プラムにとって一番の喜びだった。


 たとえ屋敷が少し騒がしくても。

 クロウが何かを言わずに抱えていても。

 レーミアが何かを面白がっていても。


 レオエナが感動のあまり抱きしめすぎても。

 ケインが少し恨まれていても。

 プラムの中心だけは、変わらない。


 エルナリアが、穏やかに笑っていること。

 その笑顔を、今日も守れること。


 それが、プラムの楽しみだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ