第34話 森の奥にあるもの
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
夕食の席は、いつも通り整っていた。
皿。
小皿。
ナイフ。
フォーク。
グラス。
クロウは自分の席に座りながら、それらの位置を一度だけ確かめた。
今日は、少しだけ見なくても大丈夫だった。
学校は、思っていたよりも穏やかだった。
姿絵の前には何人か集まっていた。
感心する声も、息を呑む声もあった。
けれど、屋敷へ行きたいと言い出す者はいなかった。
家のことを聞く声もなかった。
関係を探ろうとする声も、少なくともクロウの耳には届かなかった。
だから、今日はよかった。
テッド兄様のおかげで、なんとかなった。
そう思っていると、レオエナがふと思い出したように顔を上げた。
「兄様」
「なんだ」
テッドは、まだ少し眠そうだった。
昨夜遅くまで姿絵を描いていたせいだろう。紅茶のカップを持つ手も、いつもより少しだけ重そうに見える。
「昨日の姿絵は、もう完成したの?」
クロウの手が止まった。テッドは紅茶を一口飲んでから、短く答えた。
「まだだ」
「そうなの?」
「ああ。もう少しかかる」
「見に行っても、まだ見られない?」
「見られない。完成してからだ」
「そう……」
レオエナは少し残念そうにした。
けれど、すぐに嬉しそうに微笑む。
「楽しみにしているわ。クロウの部屋に飾られるのだもの」
ミアが黒猫の背を撫でながら、にこにことクロウを見た。
「お兄様、よかったね」
「……まだ置いてない」
「置くんでしょ?」
「……置くことになる」
クロウは小さく答えた。
嘘ではない。
ただ、まだ置いていない。
そして、できればもう少しだけ置きたくない。
自分の部屋。
窓際の机。
オルゴール。
工具。
そこに、レオエナの姿絵がある。
嫌なわけではない。
でも、静かとも言えない。
母様――エルナリアは、どこか分かっているように微笑んでいた。
クロウは何も言わなかった。
言えば、増える。
夕食の席では、特に増える。
それよりも、今夜聞きたいことがあった。
「父様」
クロウはケインを見た。
「なんだ」
「森の奥に、昔の領主の館があるの?」
食卓の空気が、ほんの少しだけ変わった。
大きくは変わらない。
でも、ナイフを置く音が一つ、少しだけ遅れた。
エルナリアが目を細める。
レナ様も、ゆっくりこちらを見る。
テッドは眉だけを動かした。
ミアは黒猫を撫でながら、にこにこしている。やっぱり知っている顔だった。
「ミアから聞いたのか」
ケインが言った。
クロウはミアを見た。
ミアは笑っている。
「言ったわ」
「言ってた」
クロウは頷いた。
「高い塔の屋敷って」
「ああ」
父様は短く頷いた。
「ある」
やっぱり。
ミアの言ったことは、本当だった。
「昔の領主の館?」
「そうだ。森の奥に、古い館がある。高い塔が一つある、黒っぽい石でできた館だ」
「黒い塔」
「ああ。今は使われていない」
「どうして?」
「不便だからだ」
テッドが横から言った。
眠そうなのに、話には入ってくる。
「あそこは森の奥すぎる。馬車で入るにも道が悪い。客を迎えるにも、荷を運ぶにも、今の屋敷の方がずっと都合がいい」
「うん」
「それで、道路に近い方へ新しい屋敷を建てた。古い館は、ほとんど使われなくなった」
テッドの説明は短い。
でも分かりやすい。
「じゃあ、まだ残ってるの?」
「残っている」
ケインが答える。
「ただ、あまり近づかない方がいい。古い建物だし、森も深い」
「うん」
クロウはすぐに頷いた。
勝手に行くつもりはない。
行けば、きっと増える。
危険も、心配も、怒られることも。
「でも」
クロウは言った。
「そこに、大きな古時計はあった?」
ケインは少しだけ考えた。
「あったかもしれないな」
「見たことあるの?」
「あの館そのものは、見たことがある。時計については詳しく覚えていない。ただ、古い調度品はいくつも残っていたはずだ」
「調度品」
「ああ。お前が見つけた時計も、もしかするとそこにあったものかもしれない」
クロウは頷いた。
誰かが持ち出したのか。
そういうことは、今は分からない。
ただ、あの大きな古時計に、置かれていた場所があったかもしれない。
それだけで十分だった。
「時計を見れば、何か分かるかもしれない」
テッドが言った。
「装飾、紋章、傷、作り、部品。古いものは、どこかに手がかりが残っていることがある」
「うん」
クロウは頷いた。
それは分かる。
時計は、ただ直せばいいわけではない。
どこから来たのか。
誰のものだったのか。
どういう音を鳴らしていたのか。
そういうことが分かれば、直し方も少し変わる気がする。
話はそこで一度落ち着いた。
ただ、クロウの中では落ち着いていなかった。
高い塔の館は、ある。
黒い塔も、ある。
古時計がそこにあった可能性も、ある。
ミアの言葉は正しかった。
目が合うと、ミアはにこりと笑った。
ほらね。
そう言っているような顔だった。
クロウは何も言わなかった。
言うと、ミアがさらに楽しそうにする。
■廊下
夕食後。
クロウが廊下を歩いていると、プラムに呼び止められた。
「クロウ様」
「うん?」
プラムは、いつものように姿勢よく立っていた。黒髪をきれいにまとめ、表情は静かだ。ただ、声は少しだけ低い。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「うん」
クロウは頷いた。
プラムは廊下の隅、窓の近くへ移動した。
人の通りが少ない場所。
でも、完全に隠れる場所ではない。
プラムらしい位置だった。
「奥様やレオエナ様の周囲に、花束や菓子類が届いている件です」
クロウの指が止まった。
アラン。
やっぱり、その話だった。
「テッド様のご友人、アラン様が関わっておいでですね」
「……たぶん」
「やはり」
プラムは短く言った。
「見てたの?」
「奥様の周囲に関わることですので」
「うん」
それはそうだ。
プラムは母様のそばにいる。
母様の周囲を見ている。
花束。
蜂蜜。
チョコレート。
名乗らない誰か。
そこにアランが関わっていることに気づかない方が、不自然だった。
「アラン様は、初めにレオエナ様をご覧になったのでしょうか」
プラムは静かに聞いた。
クロウは、すぐには答えなかった。
プラムは、たぶんそう考えている。
アランが最初にエナ姉を見た。
そのあと、街で母様を見かけた。
エナ姉と母様は、とてもよく似ている。
だから、同じ人だと思い込んでいるのではないか。
それは、かなり自然な考え方だった。 けれど、クロウはもう少しだけ分かっていた。
アランは、以前話していた。
手をつないで歩いていた、と。
それは、たぶん母様とクロウのことだ。
エナ姉がアランの前で、誰かと手をつないで街を歩くとは思えない。
母様とクロウなら、ある。
母様は時々、クロウの手を取る。
人通りの多い場所や、道の端を歩く時に。
だからアランが見て、好きになったのは、たぶん母様だった。
ただ、母様とエナ姉はよく似ている。
金の髪も、青い瞳も。
ふとした横顔も。
だからアランの中では、母様とエナ姉が重なっている。
クロウは、そこまで分かっていた。けれど、それをプラムに言うわけにはいかなかった。
ここで、アランが母様を好きなのだと思う、と言えば、プラムの中で何かが一段変わる。
アランへの警戒も。
母様の周囲の空気も。
エナ姉の誤解も。
全部が一度に食卓の上へ出されてしまう。
それは、今はまだ置く場所がない。
「……そうかもしれない」
クロウは、それだけ言った。
プラムは目を細める。
「その後、街で奥様をお見かけになった」
「……たぶん」
「そして、レオエナ様と奥様が大変よく似ているため、同じ方だと思い込んでおいでなのではありませんか」
クロウは、すぐには答えなかった。
プラムの言葉は、かなり近かった。
近すぎるくらいだった。
「クロウ様」
「うん」
「アラン様は、ご自分がどなたを慕っているのか、正しく分かっておいでなのでしょうか」
クロウは目を伏せた。
「……たぶん、分かってない」
「やはり」
「でも」
クロウは続けた。
「今、それを言うと、家が乱れる」
「乱れる、でございますか」
「うん」
クロウは廊下の床を見た。
薄い光が落ちている。
敷物の端は、まっすぐだった。
それでも、頭の中は少しずれている。
「母様に言えば、母様はたぶん分かってる」
「奥様は、気づいておいでかもしれません」
「うん」
「レオエナ様は」
「喜んでる」
クロウは言った。
「僕からだと思ってる」
言ってしまってから、少しだけ胸が重くなった。
プラムは黙った。
その沈黙が、少し痛かった。
「アラン様は」
「エナ姉が喜んでると思ってる」
「実際、喜んでおいでです」
「うん」
「ただし、理由が違うと」
「うん」
そう。
理由が違う。
喜んでいることは本当だ。
届いていることも本当だ。
でも、そこにある理由と名前が違う。
それがとても困る。
「今、全部並べると」
クロウは小さく続けた。
「たぶん、もっと大きく崩れる」
プラムは静かにクロウを見ていた。
「黙っていてほしい、ということでしょうか」
「うん」
「どなたにも?」
「今は」
「今は、でございますね」
「うん」
クロウは頷いた。
ずっとではない。
でも、今すぐ言うと崩れる。
どちらも困る。
だから、今は。
「承知いたしました」
プラムは、わずかに頭を下げた。
「いいの?」
「クロウ様がそう判断されたのであれば、ひとまず控えます」
ひとまず。
その言葉には、やはり重さがあった。
「ただし、危険があると判断した場合は、モーリス様、または奥様へ報告いたします」
「うん」
「また、奥様に近づく不審な方があれば、私は止めます」
「うん」
「レオエナ様が深く傷つく可能性があると判断した場合も、同様です」
「うん」
クロウは頷いた。
「それでいい」
「では、今は黙っておきます」
「ありがとう」
「礼には及びません」
プラムは淡々と言う。
でも、すぐには去らなかった。
「クロウ様」
「うん」
「お一人で抱えすぎないように」
クロウは少しだけ驚いた。
「抱えてる?」
「抱えておいでです」
「少し」
「少しではございません」
プラムは静かに言った。
「クロウ様の少しは、時々、少しではありません」
どこかで聞いたような言い方だった。
エナ姉の少しは、少し大きい。
クロウも、同じなのかもしれない。
「……うん」
「必要であれば、テッド様にご相談を」
「兄様には、今日助けてもらった」
「姿絵の件でございますね」
知っている。
やはり知っている。
クロウは、もう驚かなかった。
「うん」
「テッド様は、あの点では頼りになります」
「あの点?」
「絵と、現実的な処理です」
「他は?」
プラムは一瞬だけ黙った。
「申し上げません」
「そう」
クロウは少しだけ笑いそうになった。
笑わなかった。
でも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「兄様には、助けてもらった」
「それなら、よかったです」
プラムはわずかに頷いた。
「では、私は奥様の方へ戻ります」
「うん」
プラムは静かに廊下を去っていった。
クロウはしばらく、その背中を見ていた。
アランの話は、まだ置けない。
けれど、少しだけ場所は決まった気がした。
今は、プラムが見ている。
危なくなったら、止める。
それは少し怖くて、少し安心できることだった。
■エルナリアの私室
夜。
クロウは母様の部屋にいた。
今日は、母様と一緒に眠る日だった。
大きな寝台。
やわらかな布団。
落ち着いた香り。
窓の外は静かで、屋敷の音も少ない。
エルナリアは、枕元の灯りを少し落とした。
「今日は、学校はどうだったの?」
母様が聞いた。
クロウは少しだけ考えた。
学校。
姿絵。
会。
絵の前に集まる人たち。
いろいろあった。
でも、今夜話したいのはひとつだった。
「兄様のおかげで、なんとかなった」
クロウは言った。
母様は目を細める。
「テッドが?」
「うん」
「何をしてくれたの?」
「絵」
「ああ」
母様は、少し楽しそうに笑った。
「レオエナの姿絵ね」
「うん」
「レオエナ、とても嬉しそうだったわ」
「うん」
「クロウの部屋に置いてくれるのだと、何度も言っていたもの」
「まだ置いてない」
「そうなの?」
「まだ完成してないことにしてる」
母様は、そこで小さく笑った。
「そう」
「母様」
「なあに?」
「笑ってる」
「ええ」
「困ってるのに」
「ごめんなさい」
そう言いながらも、母様は少し楽しそうだった。クロウは布団の端を指でつまむ。
「兄様がいなかったら、学校の話がもっと増えてた」
「そう」
「会が、屋敷に来る話とか、家のことを聞く話とか」
「ええ」
「姿絵があったから、少し止まった」
「テッドらしいわね」
母様の声は、穏やかだった。
「言葉でだめなら、形を置く。あの子は昔から、そういうところがあったわ」
「昔から?」
「ええ。テッドはね、口で説明するより、形にして渡す方が得意だったの」
「うん」
「絵もそう。図もそう。物の配置もそう。彼は、目に見える形にすると、とても強い」
クロウは頷いた。
分かる。
兄様は言葉でも整える。
でも、絵はもっと強かった。
学校で、紙だけでは通らなかった決まりが、絵で通った。
それは、かなりすごい。
「兄様は、役に立つ」
クロウは言った。
母様が少しだけ吹き出した。
「クロウ」
「何?」
「それ、テッドが聞いたら複雑な顔をするわ」
「どうして?」
「褒めているようで、少し道具のようにも聞こえるから」
クロウは少しだけ考えた。
「道具じゃない」
「ええ」
「でも、役に立った」
「そうね」
母様はやさしく笑う。
「助けてもらえて、よかったわね」
「うん」
クロウは小さく頷いた。
よかった。
本当にそう思う。
今日の学校は、少し穏やかだった。
絵を見られて、みんなが騒いだ。
思っていた静けさとは少し違った。
でも、屋敷に来るとは言われなかった。
家のことも聞かれなかった。
関係を探られることもなかった。
今日という日は、それでよかった。
「明日も同じかは分からない」
「ええ」
「また何かあるかもしれない」
「ええ」
「でも、その時は、その時に考える」
母様は、そっとクロウの髪を撫でた。
「そうね」
「今日は、見られなかった」
「見られなかった?」
「家のこと」
「ああ」
「だから、よかった」
クロウは目を閉じた。
明日以降、また聞かれるかもしれない。
姿絵のことが別の形で増えるかもしれない。アランのことも、古時計のことも、皇太子殿下のこともある。
それでも、今日一日が穏やかに終わるなら。それだけで、少しだけ息ができる。
「クロウ」
「うん」
「あなたは、一日ずつ整えているのね」
「一日ずつ?」
「ええ」
「全部は無理」
「そうね」
「でも、今日は終わった」
「ええ」
「だから、いい」
母様の手が、ゆっくり髪を撫でる。
夜の音が、少しずつ遠くなる。
「兄様もね」
母様が、ふと話を続けた。
「私の兄様も、昔からそうだったわ」
「皇太子殿下?」
「ええ。私が困っていると、すぐに何かを用意してくださったの。本やお菓子や、時には小さな玩具まで」
「うん」
「私が欲しいと言う前に、必要だと思ったものを置いてくださるの」
「兄様みたい」
「少し似ているかもしれないわね」
「でも、近い?」
「とても近かったわ」
母様は困ったように笑った。
「守ろうとしてくださったの。少し、守りすぎるくらいに」
クロウは、エナ姉を思い出した。
大丈夫?
無理してない?
危ないことしてない?
抱きしめる腕。
近い声。
少し重い優しさ。
「エナ姉に似てる」
「そうね」
「母様の兄様も、少し重い?」
「少し、ではないかもしれないわ」
「そう」
クロウは布団の中で少しだけ丸くなった。
皇太子殿下。
会う前から、少し輪郭が見えてきた。
でも、今日はもう考えないことにした。
今日は、テッド兄様のおかげでなんとかなった。
学校では、家のことを見られなかった。 絵は騒がれたけれど、屋敷へ来る話は止まった。
それでよかった。
明日は明日だ。
何かあれば、その時に考える。
「眠い?」
「少し」
「では、もう眠りましょう」
「うん」
母様の手が、やさしく髪を撫でる。
夜の空気は静かだった。
森の奥の黒い塔も。
古い時計も。
アランの贈り物も。
皇太子殿下も。
今だけは、少し遠い。
クロウは、母様の声と手の温度を感じながら、ゆっくり眠りに落ちていった。
今日という日は、もう終わった。
それだけで、今はよかった。




