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僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
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第32話 これで静かになるはずだった

――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――


 朝、クロウは目を覚ますと、すぐに着替えた。


 いつもなら、少しだけ食堂へ向かう。


 皿の位置を見て。

 ナイフの角度をそろえて。

 グラスが近すぎないか確かめる。


 そうしていると、胸の奥が少し静かになる。


 でも、今日は違った。食堂へ行く前に、行かなければならない場所がある。


 テッドの部屋。


 昨日、兄様は言った。

 二枚仕上げる。

 俺の部屋に取りに来い。


 クロウは廊下を歩いた。

 朝の屋敷はまだ静かだった。


 窓から差し込む光も淡く、敷物の端もきれいに伸びている。


 けれど、今日はそれを確かめる余裕がない。


 クロウはテッドの部屋の前で止まり、扉を叩いた。


「兄様」


 少し間があった。

 それから、中から低い声が返ってくる。


「入れ」


 クロウは扉を開けた。

 部屋の中には、絵の具と紙と木の匂いが残っていた。


 窓際の机には、絵筆が置かれている。


 布が何枚か椅子の背にかかっていて、床には使い終えた紙がまとめられていた。


 テッドは起きていた。

 いや、たぶん、あまり眠っていない。


 椅子に座ったまま、片手でこめかみのあたりを押さえている。


「兄様」

「来たか」


「うん」

 クロウは部屋の中を見回した。


「……完成してない?」

「一枚は終わった」


 テッドは机の横へ視線を向けた。


 そこには、布で丁寧に包まれた大きめのものが立てかけられている。


 絵だ。


 クロウは、自然と少しだけ背筋を伸ばした。


「一枚?」

「ああ」


「もう一枚は?」

「後でいい」


 テッドは短く答えた。


「お前の部屋に置く分だ。今日でなくても構わない」


「……うん」


 クロウは頷いた。

 確かに、その方が都合がいい。


 エナ姉には、まだ完成していないと言っておけばいい。そうすれば、すぐにクロウの部屋へ見に来られることもない。


 少しだけ、時間ができる。

 置き場所を考える時間。


 説明を考える時間。

 あるいは、何も考えないふりをする時間。


「これを持っていけ」

 テッドは布で包まれた絵を示した。


「見てもいい?」

「学校で開け」


「今じゃだめ?」

「包み直す手間が増える」


「……うん」


 それはそうだった。


 クロウは、包まれた絵をそっと持ち上げた。思ったより大きい。そして、少し重い。


 絵そのものの重さだけではない気がした。


「兄様」

「なんだ?」


「ありがとう」

「礼は、うまくいってからでいい」

「うん」


「いいか。渡すな」

「預ける」


「そうだ。絵を会のものにするな。預けるだけだ」


「うん」


「触らせるな」

「うん」


「飾りを増やさせるな」

「うん」


「参らせるな」


 クロウは少しだけ止まった。


「参る?」

「念のためだ」

「……うん」


 昨日も言われた。


 参る。

 絵に向かって、何をするのだろう。

 クロウにはよく分からない。


 でも、兄様が言うなら、たぶん何かあるのだと思う。


「条件は忘れるな」

 テッドは言った。


「本人を見に来ない。屋敷を探しに来ない。家のことを聞かない。関係を探らない」


「うん」


「その代わりに、絵を預ける」

「うん」


「それで通せ」

「通す」


「俺は寝るから、朝食は要らない。」

 クロウは二度頷いた。


 クロウには今度こそ、少しだけ自信があった。今日は絵がある。


 それは紙の会則だけよりも、ずっと強い気がした。クロウは布で包まれた絵を、自分の部屋へ運んだ。


 誰にも見られないように。

 廊下の角を曲がる時も、少しだけ慎重に。


 自分の部屋へ入ると、窓際の机から少し離れた壁際にそっと置いた。


 まだ開けない。

 開けたら、また何かが増える気がした。


 だから、今は包まれたままにしておく。

 そのあと、クロウは食堂へ向かった。


 朝食の席には、すでに何人かが集まっていた。


 エナ姉は、いつもより少し嬉しそうだった。


 ミアは黒猫を膝に乗せ、こちらを見るなりにこりと笑った。


 母様――エルナリアは、静かに紅茶へ手を伸ばしている。父様は、いつものように穏やかだった。


 レナ様が席につき、テッドを除いた皆が揃うと。エナ姉が朝食の場ですぐに声あげた。


「昨日、兄様に姿絵を描いてもらったの」


 クロウの手が止まった。


 言う。

 それを、言う。

 たぶん言うとは思っていたけど。


 でも、朝食の席で言われると、やはり少し困る。


「姿絵?」

 父様が顔を上げた。


「ええ」

 レオエナは嬉しそうに頷いた。


「クロウが必要としてくれたの」


 食堂の空気が、少しだけやわらかくなった。父様は小さく頷く。


「そうか」


 その声は穏やかだった。

 レナ様は微笑ましそうに目を細める。


 マーサも厨房の方で、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。


 兄弟姉妹の仲が良い。

 たぶん、みんなにはそう見えている。


 クロウがエナ姉の絵を欲しがった。

 テッドがそれを描いた。

 それだけなら、微笑ましい話なのだと思う。


 ただ、クロウは微笑ましいだけではなかった。かなり困っていた。


「クロウが、私の姿絵を部屋に置いてくれるのよ」


 エナ姉が続ける。

 ミアが、黒猫の背を撫でながら笑った。


「お兄様、よかったね」


「まだ置いてない」

「置くんでしょ?」


「……置くことになる」

「ふうん」


 ミアは楽しそうだった。

 とても楽しそうだった。


 母様は紅茶を一口飲み、静かに微笑んでいる。その微笑みは、ただの微笑ましさだけではない。何かを分かっている顔だった。


 クロウは何も言わなかった。


 言えば増える。

 朝食の席では、特に増える。


 だから、パンを小さくちぎった。


 皿の上に落ちたパンくずが少し気になったが、今はそれどころではなかった。


 朝食のあと、クロウはいつもの朝の稽古を受けた。


 プラムの木剣は、今日も正確だった。


「本日は、踏み込みが少し遅れています」

「うん」


「考えごとですか」

「少し」


「少しではなさそうです」

「……うん」


 クロウは否定しなかった。

 頭の中には、布で包まれた絵があった。


 そして学校がある。

 今日、あれを持っていく。

 みんなの前で開く。


 条件を出す。


 うまくいけば、学校は少し静かになる。

 そう思った。


 稽古が終わると、クロウは自分の部屋へ戻った。壁際に置いた包みを持ち上げる。


 やっぱり重い。

 でも、持てないほどではない。


 布の端がずれないように確かめ、廊下へ出る。うまく、誰にも見られずに済んだ。


 少なくとも、エナ姉には見つからなかった。それだけで、少し安心した。


 学校へ向かう道は、いつもより長く感じた。


 包まれた絵を持っているせいだ。

 片手では持ちにくい。

 両手で抱えると、歩く音まで少し変わる。


 それでも、クロウは落とさないように気をつけて歩いた。


 学校に着くと、すぐに何人かがこちらを見た。


「おはよう、クロウ」

「おはよう」


 ガイがすぐに包みを指さす。


「それ、何?」

「あとで」


「あとでって何だよ」

「あとで」


 クロウはそれだけ言って、自分の席へ向かった。


 エドも近づいてくる。


「でかいな。何持ってきたんだ?」

「あとで」


「秘密か?」

「あとで」


「副会長、最近そればっかりだな」


 クロウは答えなかった。

 今は開かない。


 昼休みまで待つ。

 順番が大事だ。


 先に見せると、話が増える。

 だから、待つ。


 授業中も、包みは教室の後ろに置いてあった。


 何人かがちらちら見る。

 クロウも、時々見た。

 まだ大丈夫。


 倒れていない。

 布もずれていない。

 でも、視線は集まっている。


 昼休みになる頃には、包みのことを知らない会員の方が少なくなっていた。


 ダンが真面目な顔で近づいてくる。


「副会長」

「うん」


「それは、会に関係するものか」

「うん」


 ダンの目が少しだけ明るくなった。


「では、集めよう」


 教室の一角に、金色の天使を見守る会の会員たちが集まった。


 ガイ。

 エド。

 ルーク。

 トム。

 ダン。


 ほかの会員たち。


 女子も何人かいる。

 全員ではないが、ほとんど集まっていた。


 クロウは包みの前に立った。

 少しだけ息を吸う。


「昨日の決まり」

 クロウは言った。


「保留になったところがある」

 ルークが頷く。


「家のことを聞かないこと。関係を探らないこと。会の活動として屋敷を探しに行かないことだな」


「うん」


 クロウは頷く。


「それを通してほしい」


 ガイが眉を上げた。


「いきなりだな」

「通してほしい」

「でもさ、それ一番気になるところじゃん」


 エドが笑う。


「そこを聞かないって、かなりきつくないか?」


「だから」


 クロウは包みを見る。


「代わりを持ってきた」


 その言葉で、教室の空気が変わった。

 ガイの目が大きくなる。

 ダンが少し身を乗り出す。


 エドが口笛を吹きかけて、トムに見られてやめた。


「代わり?」

 ダンが聞く。


「本人に会いに来ない」

 クロウは言う。


「屋敷を探さない」

「うん」


「家のことを聞かない」

「うん」


「関係を探らない」

「うん」


「その代わりに、これを会に預ける」

「預ける?」


「うん。あげるんじゃない」

 そこははっきり言った。


 兄様に言われた。

 渡すのではなく、預ける。


 会のものではない。

 扱いを間違えると、また増える。


「金色の天使を見守る会に、預ける」


 教室が静かになった。その静けさの中で、クロウは布の結び目に手をかける。


 自分も、まだ見ていない。

 スケッチは見た。

 でも完成品は見ていない。


 テッドが仕上げた絵。

 エナ姉の姿絵。


 それを、ここで初めて見る。


 クロウは布を外した。

 ゆっくりと。


 包みがほどける。

 薄い布が落ちる。


 絵が現れた。


 その瞬間、クロウも息を止めた。


 そこに、エナ姉がいた。


 窓辺に座る、金色の髪の少女。


 光を受けた髪は、ただ明るいだけではない。淡い金の中に、少しだけ白い光が混じっている。


 細い髪の流れが、肩のあたりで柔らかくほどけていた。


 青い瞳は、まっすぐこちらを見ているわけではない。こちらへ向こうとしている途中のように、少しだけ斜めに置かれている。


 そのせいで、絵の中のレオエナは、今にも声をかけてきそうだった。


 白に近い淡い衣は、柔らかな布の重なりまで描かれている。


 袖のふくらみ。

 手首の細い影。

 膝の上に置かれた指先。


 指は力まず、ほどけていた。


 口元には、明るすぎない微笑みがある。

 本物のエナ姉より、少し静かだった。


 けれど、間違いなくエナ姉だった。

 昨日、部屋にいたエナ姉。


 クロウが「いいと思う」と言った姿。


 あの時の光まで、そのまま紙の中に残っているようだった。


「……すごい」


 誰かが呟いた。

 それを合図にしたように、声が広がった。


「すげえ!」


「これ、絵か?」

「本物みたいだ」


「本当にいるんだ……」

「いや、見ただろ」


「見たけど、改めて見るとすごいな」


 ガイが絵の前で固まっている。

 エドは口を開けたまま笑っていた。

 ルークは妙に真剣な顔で頷く。


「これは、記録としても貴重だな」


「記録?」


 クロウは少しだけ眉を寄せた。

 記録。

 それは少し、嫌な言葉だった。


 ダンは一歩前に出た。

 顔が真剣だった。


 いつも真面目だけれど、今日はさらに真面目だった。


「クロウ」

「うん?」


「これを、会に預けてくれるのか」

「うん」


「本当に?」

「うん」


「金色の天使を見守る会に?」

「うん」


「……よくやってくれた」


 ダンはクロウの肩を叩いた。

 一度。

 二度。

 三度。


 少し強い。


「痛い」

「あ、すまん」


 でもダンは感動していた。

 本気で感動していた。


「皆、クロウに拍手だ!」


 誰かが手を叩いた。

 それに続いて、ぱちぱちと音が増える。


 クロウは固まった。


 拍手。

 なぜ。

 自分は絵を持ってきただけだ。


 いや、持ってきたのは確かに自分だ。

 でも描いたのは兄様だ。


 エナ姉も協力している。

 クロウだけに拍手されるのは、少し違う。


「兄様が描いた」

 クロウは言った。


「でも持ってきたのはクロウだろ!」

 ガイが言う。


「交渉したのも副会長だ」

 ダンが力強く言う。


「これは、会にとって大きな前進だ」


 前進。

 その言葉も少し重い。

 でも、会員たちは盛り上がっていた。


「これがあれば、しばらく本人に会えなくてもいいな」


「いや、会いたいけど」


「でも絵でも十分すごい!」


「本物はもっとすごかったぞ!」


「分かる」


 クロウは、その言葉を聞きながら、少しだけ不安になった。


 十分すごい。

 本物はもっとすごい。


 それは、静かになっているのか。

 増えているのか。


 判断が少し難しい。

 けれど、今は条件を通す方が先だった。


「この絵を預ける」

 クロウはもう一度言った。


「その代わり」


 会員たちの声が少し静かになる。


「昨日の保留の決まりを、通してほしい」

 ダンが頷く。


「本人を見るために、屋敷を探しに行かない」


「うん」

 ルークが紙を取り出し、書き留める。


「家のことを聞かない」

「うん」


「関係を探らない」

「うん」


「会の活動として、本人に会いに行かない」

「うん」


 クロウは頷いた。


「この絵があるなら、直接会わなくてもいいと思う」


 少しだけ、言い方に迷った。

 直接会わなくてもいい。


 本当は、そう言い切れるか分からない。

 でも、言わないと通らない。


「屋敷に来ないで」


 クロウは小さく付け足した。


「分かった」

 ダンは力強く頷いた。


「この絵を預かる以上、会として品位を守る」


「品位」


「そうだ。金色の天使を見守る会は、本人に迷惑をかけない」


 ダンは真面目だった。

 とても真面目だった。


 その真面目さが、今日は少しだけ頼もしく見えた。


「俺は賛成」

 ガイが言った。


「これがあるなら、まあ、しばらくはいいかな」


「俺も」

 エドが笑う。


「さすがにこれもらって、まだ屋敷行きたいは言いにくいしな」


「預ける」

 クロウはすぐに言った。


「ああ、預かる、預かる」


 エドは軽く手を振る。

 ルークも頷いた。


「交換条件として妥当だと思う」


 トムは静かに、少しだけほっとした顔をしていた。 クロウはその顔を見て、少しだけ息を吐いた。


 通った。

 ようやく。

 本人を見に来ない。


 屋敷を探さない。

 家のことを聞かない。

 関係を探らない。


 それが、やっと会則の中に置けた。


 紙の上だけでは通らなかったものが、絵のおかげで通った。クロウは、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


「ただし」

 クロウは言った。


「触らないで」


「分かった」

 ダンが頷く。


「持ち帰らないで」

「当然だ」


「飾りを増やさないで」

「飾り?」


 ガイが首を傾げた。


「花とか、布とか」

「置いちゃだめなのか?」


「だめ」


「なんで?」

「増えるから」


 ガイは少しだけ考えた。


「まあ、分かった」

「あと」


 クロウは少し迷ってから言った。


「参らないで」


 その場が少しだけ静かになった。


「参る?」

 エドが笑う。


「誰が参るんだよ」

「念のため」


「副会長、そこまで考えてるのか」

「兄様が言った」

「ああ、兄様が」


 エドは妙に納得した。


 クロウは納得された理由が分からなかったが、深く聞かなかった。


 ダンは真面目に頷く。


「分かった。絵は厳重に扱う」

「うん」


「会長として、責任を持って管理する」

「うん」


「副会長も一緒に」

「……うん」


 そこは少し引っかかった。

 でも、今は通ったことの方が大事だった。

 会員たちは、まだ絵を見ている。


 目を輝かせている。

 小声で何かを話している。


 けれど、屋敷へ行こうという声は出ていない。


 家のことを聞く声もない。

 関係を探る声も、今はない。


 クロウは、ようやく少しだけ安心した。

 これでいい。

 これで、学校は少し静かになる。


 エナ姉のことを聞かれ続けることも減る。

 屋敷の話も止まる。

 会は絵を見る。


 本人ではなく、絵を見る。


 絵は、動かない。

 近づいてこない。

 抱きしめてこない。


 学校の空気を乱さない。

 少なくとも、クロウはそう思った。


 昼休みが終わる鐘が鳴った。


 会員たちは名残惜しそうに絵を見ていたが、ダンが真面目に手を叩く。


「授業に戻るぞ。会則は守る」


 その言葉で、少しずつ人が散っていく。

 絵は、教室の一角に置かれた。


 布は外されたまま。


 けれど、机の上ではなく、少し高い場所に立てかけられている。


 その位置が正しいのかは、クロウにはまだ分からない。


 でも、今は倒れていない。

 それだけでいいと思った。

 クロウは自分の席へ戻った。


 鞄を机の横に置く。

 椅子に座る。


 授業の準備をする。

 チョークの音が聞こえる。

 ページをめくる音が聞こえる。


 いつもの学校の音が、少しずつ戻ってくる。


 クロウは、小さく息を吐いた。

 少しだけ、軽い。


 学校はまた、前のように戻るかもしれない。そう思った。


 その時のクロウは、本気でそう思っていた。


 けれど、静かな絵が、いつまでも静かなままでいるとは限らない。


 クロウはまだ、そのことを知らなかった。

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