第31話 私の姿絵が必要なの?
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
レオエナの部屋へ向かう途中で、テッドは足を止めた。
廊下には、午後の光が静かに落ちている。窓の外では、庭の木々が少しだけ揺れていた。
クロウも足を止める。
テッドは、片手にスケッチブックを持っていた。もう片方の手には、鉛筆や木炭筆の入った細長い箱。
それだけを見ると、これから絵を描きに行くだけのように見える。
けれど、クロウには分かっていた。
これはただの絵ではない。
学校の乱れを少し戻すためのものだ。
そして、たぶん、また何かを増やすものでもある。
「クロウ」
テッドが低く言った。
「うん」
「中へ入ったら、俺が話す」
「うん」
「お前は余計なことを言うな」
「……うん」
「特に、学校の話はするな」
「うん」
「学校で騒ぎになっているとも、見たい連中がいるとも、屋敷に来たがっているとも、絶対に言うな」
「うん」
クロウは頷いた。
そこは、分かっている。
言えば、エナ姉はきっと言う。
それなら私が学校へ行けばいいのでは、と。
皆さんにご挨拶すればよいのでは、と。
クロウが困っているなら、私が直接行くわ、と。
それは、とても困る。
かなり困る。
「もし聞かれたら?」
クロウが聞く。
「必要だからだ、と言う」
「必要」
「そうだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「エナ姉、もっと聞くと思う」
「聞くだろうな」
「どうするの?」
「答えない」
テッドは迷いなく言った。
「必要だから必要だ。それ以上は言わない」
「それで通る?」
「通らなくても通す」
兄様は強い。
クロウは少しだけそう思った。
自分なら、きっと言葉の端を引かれて、少しずつ話が増えていく。
でも、兄様は違う。
切るところで切れる。
止めるところで止められる。
そういうところが、少しうらやましい。
「あと」
テッドは続けた。
「絵は二枚必要だ」
「うん」
「だが、それはレオエナには言うな」
「言わない」
「知られたら、、必ずレオエナは、それを見に学校へ行こうとする」
「……」
「絵の一枚はお前の学校へ」
「そして、一枚はお前の部屋に置く」
クロウは、そこで少しだけ止まった。
「……僕の部屋に?」
「ああ」
「置くの?」
「置け」
テッドは短く言った。
クロウは視線を落とす。
自分の部屋。
机。
窓際。
オルゴール。
工具。
父様のチェロが聞こえる夜。
そこに、エナ姉の姿絵を置く。
想像すると、少しだけ胸の奥がざわついた。
嫌なわけではない。
でも、落ち着くとも言えない。
それをエナ姉に見られたら、たぶん喜ぶ。
かなり喜ぶ。
そして、クロウはまた説明に困る。
「……置かないとだめ?」
「だめだ」
「どうして?」
「そうしないと話が崩れる」
「話」
「レオエナには、お前がレオエナの姿絵を必要としていることにする」
「うん」
「なら、お前の部屋に絵がないとおかしい」
「……うん」
「それに、さっきも言ったが、レオエナに学校用の絵の話を知られるわけにはいかない」
「うん」
「だから、一枚は必ずお前の部屋に置く」
クロウは少しだけ黙った。
理屈は分かる。
分かるけれど、部屋に置くとなると、急に絵の重さが変わる。
学校の乱れを戻すためのものだったはずなのに、自分の部屋にも置かれる。
学校のための絵が、屋敷の中にも残る。
それは、少し不思議で、少し困ることだった。
「分かった」
クロウは小さく頷いた。
テッドは、そこで少しだけ目を細めた。
「嫌なら、今のうちに言え」
「嫌じゃない」
「なら置け」
「うん」
「二枚描くことは絶対言うな」
「うん」
クロウは何度も頷いた。
言わないことが多い。
でも、言わなければならないことは少ない。たぶん、その方がいい。
「今ここでは、構図と姿勢を取るだけだ」
テッドは言った。
「スケッチブックに描く。そのあと、俺の部屋で画布に移す」
「画布」
「ああ」
テッドは手にしたスケッチブックを少しだけ持ち上げた。
「完成品をここで描くわけじゃない。時間も場所も足りないからな」
「うん」
「だから、レオエナには長く付き合わせない。下絵だけ取る」
「分かった」
「いいか。中では、俺が交渉する。お前は求められた時だけ答えろ」
「何て?」
「必要だ。助かる。その程度でいい」
「欲しいとは言わない?」
「言うな」
「でも、聞かれたら?」
「言うな」
「うん」
「余計な言葉は、全部増える」
「うん」
それは、よく分かる。
クロウは袖口をそっと整えた。
せめて、そこだけでも。
テッドは一度、深く息を吐いた。
「行くぞ」
「うん」
二人はレオエナの部屋の前に立った。
テッドが扉を叩く。
「レオエナ」
中から、やわらかな声が返ってきた。
「はい」
「入るぞ」
「どうぞ」
扉が開く。
レオエナの部屋は、明るかった。
窓から差し込む光が、白に近い淡い布の上に落ちている。
花瓶には、淡い色の花が飾られていた。
机の上には本があり、その横に小さな菓子皿が置かれている。
レオエナは椅子に座っていた。
金色の髪をゆるくまとめ、淡い色のドレスを着ている。その姿は、部屋の中の光とよく合っていた。
エナ姉は、明るい。
ただそこにいるだけで、部屋の中が少し近くなる。
「兄様、クロウ」
レオエナは嬉しそうに微笑んだ。
「二人で来るなんて珍しいわね」
視線が、すぐにテッドの手元へ移る。
「それは?」
「スケッチブックだ」
「絵を描くの?」
「ああ」
テッドは短く答えた。
「お前の姿絵を描かせてほしい」
レオエナは瞬きをした。
「私の?」
「ああ」
「どうして?」
来た。
クロウは少しだけ背筋を伸ばす。
テッドは顔色を変えなかった。
「必要だからだ」
「必要?」
「ああ」
「誰に?」
「クロウに」
レオエナの目が、ぱっと大きくなった。
「クロウに?」
クロウは、少しだけ椅子の背を見た。
木目が整っている。
今はそれを見ている場合ではない。
でも、見たくなった。
「兄様」
クロウが小さく言うと、テッドは視線だけで黙らせた。
レオエナはもう、クロウを見ていた。
青い瞳が、まっすぐこちらへ向いている。
「クロウ」
「うん」
「私の姿絵が必要なの?」
声が少し弾んでいた。
少しだけ頬も赤い。
クロウは困った。
必要。
それは、嘘ではない。
学校に本人が来るよりは、絵が必要だ。
屋敷に押しかけられるよりは、絵が必要だ。
でも、それはレオエナが考えている意味とは少し違う。
かなり違う。
「……うん」
クロウは小さく頷いた。
レオエナの顔が明るくなる。
「本当に?」
「うん」
「私の絵が?」
「……エナ姉の絵なら、助かる」
「助かる……」
レオエナは胸に手を当てた。
「クロウが、私の絵で助かるのね」
「うん」
「私の姿絵が、クロウの役に立つのね」
「……うん」
テッドが、横で少しだけ眉間を押さえた。
「クロウ」
「兄様」
「その返事は、たぶん増える」
「でも、違わない」
「違わないが、増える」
レオエナはもう聞いていなかった。
嬉しそうに、両手を胸の前で合わせている。
「もちろんよ」
レオエナは言った。
「私でよければ、いくらでも」
「いくらでもはいらない」
テッドが即座に言った。
「一枚でいい」
「一枚だけ?」
「ああ」
「そうなの」
レオエナは少しだけ残念そうにした。
クロウは、その表情を見て困った。
一枚だけ。
それは嘘ではない。
レオエナに見せるための絵は、一枚だけだ。でも、実際にはもう一枚必要になる。
そのことは言えない。
言えば増える。
「時間は取らせない」
テッドは淡々と続けた。
「今日は、スケッチだけだ。構図と姿勢を決める。完成品は俺の部屋で描く」
「兄様が描いてくれるの?」
「ああ」
「嬉しいわ」
レオエナは微笑んだ。
「兄様の絵、きれいだもの」
「余計なことは言わなくていい」
「本当のことよ」
「それも今はいらない」
テッドはスケッチブックを開いた。
椅子を引き、窓から入る光を確認する。
部屋の中を一度見回し、レオエナの座っている位置を少し変えた。
「そこでは光が強すぎる。少しこちらへ」
「こう?」
「もう少し左だ」
「左?」
「そうだ。顔は窓へ向けすぎるな。斜めでいい」
レオエナは素直に従う。
動きが柔らかい。
少しだけ楽しそうだった。
「手は?」
「膝の上でいい」
「こう?」
「少し硬い」
「硬い?」
「自然にしろ」
「自然って難しいわ」
クロウは少しだけ頷いた。
自然は難しい。
少しだけ。
「クロウ」
テッドが呼んだ。
「うん」
「これでどう見える」
クロウはレオエナを見た。
エナ姉が座っている。
金色の髪に光がかかり、青い瞳がやわらかく見える。
白に近い淡い服。
細い指。
少しだけ期待している顔。
いつものエナ姉だ。
でも、少しだけ静かだった。
「いいと思う」
クロウは言った。
レオエナの顔がまた明るくなる。
「そう?」
「うん」
「クロウがいいと思うなら、このままにするわ」
テッドが小さく息を吐いた。
「だから増えると言った」
「兄様」
「黙って座っていろ、レオエナ」
「はい」
レオエナは素直に返事をした。
けれど、表情は嬉しそうだった。
テッドは木炭筆を取る。
スケッチブックに線を置いた。
迷いのない線だった。
最初に輪郭。
次に髪の流れ。
顔の向き。
肩。
手。
布の落ち方。
クロウは横からそれを見ていた。
兄様の線は、音のようではない。
父様のチェロのように空気をほどくものではない。
でも、目の前のものを静かに掴む。
動いているものの中から、形だけを取り出して紙の上に置いていく。
それは、少し不思議だった。
エナ姉が紙の中に少しずつ生まれていく。
でも、本物のエナ姉より静かだ。
近すぎない。
抱きしめてこない。
声も出さない。
これなら、学校に置いても大丈夫かもしれない。クロウは、少しだけそう思った。
「クロウ」
レオエナが小さく呼んだ。
「うん」
「動かない方がいいのよね」
「うん」
「でも、話すくらいならいい?」
クロウはテッドを見る。
テッドは紙から目を離さずに言った。
「少しならいい。大きく顔を動かすな」
「分かったわ」
レオエナは微笑む。
「クロウ、今日は学校だったのよね」
クロウの背中が、少しだけ固まった。
学校。
その言葉だけで、少し危ない。
「うん」
「楽しかった?」
「……うん」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
学校は楽しい。
軽い。
息がしやすい。
でも、今は少し乱れている。
「疲れていない?」
「少し」
「少し?」
「うん」
「無理はだめよ」
「うん」
いつもの会話だった。
でも、今日は少し違う。
エナ姉は、クロウの役に立つと思っている。 自分の姿絵が必要とされていると思っている。
だから、いつもより嬉しそうだった。
クロウは、それを見ると少しだけ申し訳なくなった。
でも、本当のことは言えない。
言えば、もっと困る。
「クロウ」
テッドが言った。
「顔が重い」
「顔?」
「重い顔をするな。レオエナが動く」
「え?」
レオエナが、心配そうにクロウを見る。
「クロウ、重い顔なの?」
「違う」
「違わない」
テッドがすぐに言った。
「兄様」
「絵がずれる」
「ごめん」
レオエナは困ったように笑った。
「私、動かないようにするわ」
「そうしてくれ」
テッドはまた線を重ねる。
スケッチブックの中のレオエナは、少しずつ形を増していった。
髪の光。
瞳の向き。
口元のやわらかさ。
手の位置。
布の柔らかさ。
テッドの手は速い。
けれど雑ではない。
必要なところに線を置き、いらないところは置かない。
クロウは、兄様はやっぱりすごいと思った。
「クロウ」
しばらくして、テッドがスケッチブックを少しだけ傾けた。
「どうだ」
クロウは覗き込む。
そこには、レオエナがいた。
本物より静かで。
本物より少し遠くて。
けれど、確かにエナ姉だった。
「いいと思う」
「それだけか」
「すごいと思う」
「最初からそう言え」
「うん」
レオエナが小さく笑った。
「私も見たいわ」
「まだだ」
テッドが言う。
「完成したら見せる」
「完成したら?」
「ああ」
「その絵は、どうするの?」
来た。
クロウは、思わずスケッチブックを見た。
テッドは平然としていた。
「完成したら、クロウの部屋に置く」
レオエナの瞳が、また大きくなった。
「クロウの部屋に?」
「ああ」
「私の姿絵を?」
「そうだ」
「クロウの部屋に?」
「二度言わなくていい」
レオエナはクロウを見た。
まっすぐ。
嬉しそうに。
少しだけ、期待して。
「クロウ」
「うん」
「私の絵を、部屋に置いてくれるの?」
クロウは困った。
置く。
それは事実だ。
置かなければならない。
学校用とは別に、部屋に置く。
そうしないと、話が崩れる。
でも、レオエナが思っている意味とは違う。 かなり違う。
「……置く」
「本当に?」
「うん」
「見えるところ?」
クロウはさらに困った。
見えるところ。
見えないところに置くと、後で見に来た時にまた困る。 見えるところに置くと、それはそれで困る。
どちらにしても困る。
「……たぶん」
「たぶん?」
「見えるところに、置く」
レオエナは、両手を胸の前で合わせた。
「嬉しい」
クロウは何も言えなかった。
テッドが低く言った。
「クロウ」
「うん」
「もう喋るな」
「うん」
もう遅い。
レオエナの中では、クロウが自分の姿絵を必要としていて、しかも部屋に飾ってくれることになっていた。
クロウは嘘をついていない。ただ、言葉の置き場所を少し間違えただけだった。
「完成したら」
レオエナは言った。
「見に行ってもいい?」
クロウは、逃げ場を探した。
部屋の隅。
窓。
椅子。
テッドのスケッチブック。
どこにもない。
「……うん」
結局、頷いた。
「ありがとう、クロウ」
レオエナは本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、さらに困る。
断れなかったことも。
誤解が増えたことも。
それなのに、喜ばせてしまったことも。
全部が、胸の中で少しだけ斜めになる。
テッドは最後の線を置き、スケッチブックを閉じた。
「よし」
「終わり?」
「ああ。下絵は取れた」
「もう動いていい?」
「いい」
レオエナはほっと息を吐いた。
「意外と難しいのね、動かないでいるの」
「絵はそういうものだ」
「でも、楽しかったわ」
レオエナはクロウを見る。
「クロウの役に立てるなら、嬉しいもの」
クロウは、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「ええ」
レオエナはまた微笑んだ。
「完成、楽しみにしているわ」
「できたら見せる」
テッドが言った。
「楽しみにしているわね」
「ああ」
「兄様、無理はしないで」
「しない」
テッドは即答した。
たぶん、少しはする。
クロウには分かった。
「それでは、俺たちは戻る」
「ええ」
レオエナは立ち上がり、二人を見送った。
「クロウ」
「うん」
「完成したら、見せてね」
「……うん」
「約束よ」
「うん」
約束が増えた。
クロウはそう思った。
でも、もう頷いてしまった。
二人はレオエナの部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下へ戻った瞬間、テッドは足早に歩き出した。
「兄様」
「時間がない」
テッドは立ち止まらない。
「俺はこのまま部屋へ戻る。スケッチを画布に移す」
「うん」
「二枚仕上げる」
「うん」
「一枚はお前の部屋に置く。もう一枚は学校だ」
「うん」
「明日の朝、俺の部屋に取りに来い」
「分かった」
「それまで誰にも言うな」
「うん」
「レオエナにもだ」
「うん」
「夕食はいらないと伝えておけ」
「本当に?」
「本当だ」
「でも」
「時間がない」
テッドは短く言った。
「ここまで来たら、半端に描く方が面倒になる」
クロウは黙った。
兄様に悪いことをした気がする。
レオエナに、違う意味で期待させた気もする。
学校に持っていく絵が、本当に学校を静かにするのかも、まだ分からない。
でも、もしこれで学校が少し戻るなら。
屋敷に来たいという話が消えるなら。
家のことを聞かれなくなるなら。
クロウにとって、学校がまた少し息のしやすい場所になるなら。
それなら、仕方ない。
そう思うしかなかった。
「兄様」
「なんだ」
「ありがとう」
テッドは一瞬だけ歩みを緩めた。
けれど、振り返らなかった。
「礼は、うまくいってからにしろ」
「うん」
「あと、学校で余計なことを言うな」
「うん」
「絵を渡すのではなく、預けるんだ」
「うん」
「触らせるな」
「うん」
「飾りを増やさせるな」
「うん」
「参らせるな」
クロウは少しだけ止まった。
「参る?」
「念のためだ」
「……うん」
テッドは足早に進んでいく。
クロウはその背中を見送った。
兄様は、やっぱり頼りになる。
そしてかなり役に立つ。
これなら、きっとなんとかなる。
クロウはそう思った。
そう思うことにした。
廊下の先で、テッドの背中が角を曲がる。
クロウは、ひとり廊下に残った。
姿絵なら、本人より静かだ。
本人より、近づきすぎない。
本人より、学校の音を乱さない。
クロウは、そう思うことにした。
明日、あの絵を持っていけば、学校は少しだけ戻るかもしれない。
まだ、その絵が学校でどんな場所に置かれるのか、クロウは知らなかった。




