第30話 黒く染めてもたぶん無理
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
学校から戻ったクロウは、まっすぐテッドの部屋へ向かった。
廊下の敷物が、少しだけ斜めになっている。
いつもなら、足を止めて直す。
端を指でそろえて、歩きやすい形に戻す。
けれど、今日はそれをしなかった。
見えている。
気になっている。
でも、今はそこに手を伸ばす余裕がなかった。
鞄の中には、会則を書いた紙が入っている。
折らずに入れた。
まだ決まっていないから。
まだ、置き場所が決まっていないから。
けれど、折らずに入れた紙は、鞄の中でずっと平らに重かった。
まるで、紙ではなく薄い板を入れているようだった。
クロウはテッドの部屋の前で止まる。
一度、息を吸う。
それから、扉を叩いた。
「兄様」
返事は少し遅れて返ってきた。
「クロウか」
扉が開く。
テッドが顔を出した。
その視線が、クロウの顔を見て止まる。
「どうした?」
短い声だった。
けれど、その短さの中に、すでに少し警戒が入っていた。
クロウは、すぐには答えられなかった。
何から言えばいいのか分からなかった。
学校のこと。
会則のこと。
エナ姉のこと。
屋敷のこと。
似ていると言われたこと。
髪を黒く染めようかと思ったこと。
どれも、ひとつずつ置けばいいはずなのに、全部が鞄の中の紙のように重なっている。
「前の相談」
クロウは、ようやくそう言った。
テッドは眉をわずかに動かした。
「またエナの件か?」
「うん」
「入れ」
テッドはすぐに扉を開けた。
クロウは部屋に入る。
今日はアランはいなかった。
それだけで、少しだけ息がしやすかった。
テッドの部屋は、整理されていた。
机の上には本が数冊。
紙。
インク壺。
そして、壁際には絵筆と画材の入った箱が置かれている。
クロウは一瞬だけそれを見た。
「座れ」
「うん」
クロウは椅子に座った。
鞄から紙を取り出す。
折っていない紙。
そこには、昼休みに決めかけた会則が並んでいた。
本人に迷惑をかけない。
本人の前で金色の天使と呼ばない。
会の活動として、本人を見る目的で、許可なく屋敷や森の方のお屋敷を探しに行かない。
贈り物をしない。
遠くから見守るだけ。
会員同士で嘘をつかない。
本人を探さない。
保留。
家のことを聞かない。
関係を探らない。
個人的な用件について。
保留。
保留。
保留。
テッドは紙を受け取り、黙って目を通した。
読み終えるまで、何も言わない。
その沈黙が、少し怖い。
でも、アランの声が混ざらない沈黙だったので、まだましだった。
「……なるほど」
テッドが低く言った。
「かなり面倒なことになっているな」
「うん」
「これを、お前が作ろうとしたのか」
「うん」
「なぜ一人でやろうとした」
「兄様に相談しようと思った」
「それで?」
「アランがいた」
「ああ」
テッドは、それだけで納得したようだった。
「それは無理だな」
「うん」
クロウは小さく頷く。
無理だった。
贈り物の話が増えて。
名前の話が増えて。
ミアまで聞いていて。
学校の話を出せる場所がなくなった。
「今日、学校で会則を作ろうとした」
「それで、これか」
「うん」
「通ったのは?」
「本人に迷惑をかけない。贈り物をしない。本人の前で金色の天使と呼ばない。遠くから見守るだけ。本人を探さない」
「通らなかったのは?」
「屋敷に来ない。家のことを聞かない。関係を探らない」
「一番通したいところではないか」
「うん」
クロウは紙を見る。
やっぱり、そこだった。
通しやすい決まりは通った。
でも、本当に止めたいところは通らなかった。
紙に並んでいるのに、並んでいない。
「それで」
テッドは紙を机に置いた。
「何を聞かれた」
クロウは少しだけ黙った。
聞かれたこと。
言われたこと。
それをもう一度口に出すのは、少し嫌だった。
けれど、相談に来たのだから、言わなければいけない。
「エナ姉と、一緒に住んでるみたいだと言われた」
テッドの眉が少しだけ上がった。
「ほう」
「兄弟姉妹なんじゃないかとも言われた」
「ほう」
「姿形が似てるとも言われた」
「まあ、似ているからな」
あっさり言われた。
クロウは少しだけ目を伏せる。
「母様に似てるから?」
「そうだ」
テッドは当然のように答える。
「母様とレオエナはよく似ている。お前も母様に似ている。つまり、お前とレオエナもどこか似る」
「……困る」
「困るだろうな」
「会員同士で嘘をつかない、という決まりを入れようとした」
「なぜそんなものを入れた」
「ルークが言った」
「ルークか」
テッドは少しだけ天井を見た。
「いかにも言いそうだ」
「良い決まりだと思った」
「良い決まりだろう」
「でも、困った」
「良い決まりほど、人を刺すことがある」
テッドは淡々と言った。
クロウは黙った。
嘘をつかない。
それは正しい。
でも、正しいだけでは置けないものもある。
「それで、お前は何と答えた」
「答えないと言った」
「正しい」
「でも、ほぼ答えだと言われた」
「だろうな」
「関係者と書いたら、関係者なんだと言われた」
「それも、そうなる」
「一緒に住んでるみたいだと言われた」
「否定したか」
「してない」
「肯定したか」
「してない」
「なら、ほぼ肯定に近い沈黙だな」
クロウは小さく息を吐いた。
やっぱりそうなのか。
何も言わないことで、何かが決まってしまう。
それは、とても困る。
「兄様」
「なんだ」
「髪を、黒く染めようかな」
テッドが止まった。
本当に止まった。
紙を持つ手も、視線も、空気も少しだけ止まった。
それから、テッドは口元を押さえた。
「兄様」
「待て」
「うん」
「笑っていいか」
「だめ」
テッドは、結局少し笑った。
声を上げるほどではない。
でも、はっきり笑った。
「黒く染めても、たぶん無理だ」
「どうして?」
「もうバレている」
「まだ、完全には」
「かなりだ」
テッドは言った。
「髪の色を変えたところで、お前がレオエナと関係していることは消えない。顔立ちも、反応も、屋敷の話も、すでに出ている」
「でも、似てるとは言われにくくなる」
「髪だけで似ていると思われたわけではないだろう」
「……そう」
「それに」
テッドは少しだけ目を細めた。
「お前が急に髪を黒く染めたら、母様が泣く」
クロウの手が止まった。
「母様が?」
「泣く」
「……泣く?」
「おそらくな」
テッドは淡々と続けた。
「レオエナも泣く」
「エナ姉も?」
「泣くか、抱きしめるか、両方だ」
それはかなり困る。
クロウは想像した。
黒く染めた髪。
それを見た母様。
少し静かに目を伏せる母様。
理由を聞く母様。
そして、エナ姉。
泣きそうな顔で、クロウの髪に触れようとして。
そのまま抱きしめて。
背中がきしむ。
「やめる」
「賢明だ」
テッドは頷いた。
「それに、染めたところで学校の連中は止まらん」
「うん」
「むしろ、なぜ染めたのか聞かれる」
「増える」
「確実に増える」
クロウは目を伏せた。
増える。
何をしても増える。
直そうとすると、別のところがずれる。
「じゃあ、どうすればいいの」
クロウは聞いた。
少しだけ、自分でも声が弱いと思った。
テッドは机の上に会則の紙を置き、指で端を押さえた。
「要は、学校の連中が屋敷に来なければいいんだろう」
「うん」
「本人を見に来なければいい」
「うん」
「家のことをこれ以上探らなければいい」
「うん」
「なら、本人の代わりになるものを学校に置けばいい」
クロウは顔を上げた。
「代わり?」
「ああ」
「エナ姉の代わり?」
「本人ではない。だが、見たいという欲求を少し逃がせるものだ」
テッドは壁際の画材箱を見る。
クロウも、その視線を追った。
絵筆。
顔料。
紙。
薄い木板。
「姿絵か」
テッドは言った。
「俺がレオエナの姿絵を描く。それを学校に持っていけ」
クロウは黙った。
姿絵。
エナ姉の絵。
学校に置くもの。
「増えない?」
「増えるだろうな」
「じゃあ、だめ」
「だが、屋敷に来られるよりはましだ」
テッドは即答した。
「本人が学校にまた行くよりもましだ」
「エナ姉が学校に行く?」
「詳細を話せば、必ずそう言う」
クロウは少しだけ想像した。
クロウが学校で困っている。
見たい人がいる。
会いたがっている。
それを聞いたエナ姉。
きっと、明るく笑う。
それなら私が行けばいいのでは、と言う。
皆さんにご挨拶すればいいのでは、と言う。
クロウが困っているなら、と言う。
かなり困る。
「だめ」
「だろう」
「絶対だめ」
「だから、本人には詳しく言わない」
テッドは淡々と言った。
「クロウが姿絵を必要としている。それだけでいい」
「それだけ?」
「ああ」
「理由は?」
「聞かれても言わない」
「エナ姉、聞くと思う」
「聞くだろうな」
「どうするの?」
「必要だからだ、と言う」
「それで納得する?」
「しないかもしれんが、詳しく話すよりはましだ」
クロウは少しだけ考えた。
姿絵。
学校に持っていく。
それを条件に、屋敷に来ないこと、本人を探さないこと、家のことを聞かないことを通す。
エナ姉本人ではない。
だから、本人は来ない。
学校の人たちは、絵を見る。
それで少し落ち着くかもしれない。
少しだけ。
「兄様」
「なんだ」
「絵、描けるの?」
テッドはクロウを見た。
少しだけ、目が細くなる。
「描ける」
「上手い?」
「かなりな」
迷いがなかった。
クロウは少しだけ安心した。
兄様は、こういう時に嘘をつかない。
できることは、できると言う。
できないことは、できないと言う。
「父様は音だけど」
テッドは画材箱へ目を向ける。
「俺はこっちだ」
「絵?」
「ああ」
クロウは頷いた。
父様はチェロで空気を整える。
兄様は言葉で形を作る。
そして、絵でも形を作れる。
それなら。
少しだけ、うまくいく気がした。
「その絵を学校に持っていく」
「ああ」
「それを渡す代わりに、屋敷に来ない。本人を探さない。家のことを聞かない。関係を探らない」
「そうだ」
「通る?」
「通せ」
「僕が?」
「お前が副会長なのだろう」
副会長。
また重くなった。
でも、今度は少しだけ持つ場所がある気がした。
姿絵。
それを置く。
代わりに、来ないでもらう。
見る場所を、紙の上ではなく、絵の前に移す。
少しだけ、整うかもしれない。
「ただし」
テッドは続けた。
「これは交換条件だ」
「交換条件」
「姿絵を見せる。だから屋敷には来ない。本人を探さない。家のことを聞かない。これ以上関係を探らない」
「うん」
「そこを曖昧にするな」
「うん」
「あと、姿絵は会の所有物ではない」
「違うの?」
「違う」
テッドははっきり言った。
「貸すだけだ。預けるだけだ。あいつらに所有権など渡すな」
「所有権」
「そうだ。所有していると思わせると、扱いが雑になるか、妙に重くなる」
妙に重くなる。
その言い方が、少し引っかかった。
けれど、クロウはまだ、その重さの形までは分からなかった。
「丁寧に扱わせろ」
「うん」
「触らせるな」
「うん」
「持ち帰らせるな」
「うん」
「複製させるな」
「複製?」
「絵を写すな、ということだ」
「うん」
「勝手に飾りを増やさせるな」
クロウは少しだけ止まった。
「飾り?」
「花とか布とかだ」
「……増える?」
「増えるかもしれん」
「困る」
「だから先に言っておけ」
テッドは本当に有能だった。
クロウが見えていない場所まで、先に見ている。
紙の上の決まりより、ずっと現実的だった。
「兄様」
「なんだ」
「すごい」
「今さらか」
「うん」
クロウは少しだけ息を吐いた。
さっきより、少し軽い。
まだ全部は整っていない。
でも、少しだけ置ける場所が見えた気がした。
やっぱり、兄様に相談してよかった。
「すぐ描くぞ」
テッドは立ち上がった。
「今から?」
「今からだ」
「早い」
「明日、学校に持っていくつもりなのだろう」
「うん」
「なら、今日中に描く必要がある」
「エナ姉に、許可を取る?」
「取る」
テッドは画材箱を持ち上げた。
「本人の姿絵だ。黙って描くわけにはいかない」
「理由は?」
「言わない」
「聞かれたら?」
「クロウが必要としている、と言う」
クロウは困った。
「それ、増えない?」
「増えるだろうな」
「だめじゃない?」
「学校に本人が行くよりはましだ」
それは、確かにそうだった。
かなりそうだった。
「エナ姉、喜ぶと思う」
「喜ぶだろうな」
「困る」
「お前も困るだろうが、俺も困る」
テッドは淡々と言う。
「だが、今は学校の連中を屋敷から遠ざける方が先だ」
「うん」
「レオエナには、余計なことを言うな」
「うん」
「学校の話はするな」
「うん」
「皆が会いたがっているとは絶対に言うな」
「うん」
「本人が行けばいい、と思わせるな」
「絶対にだめ」
「分かっているならいい」
テッドは扉へ向かった。
クロウも立ち上がる。
会則の紙を鞄へ戻す。
今度も折らない。
まだ、決まっていないから。
でも、さっきよりは少しだけ重さが変わっていた。
紙だけではない。
姿絵。
線と色で置くもの。
それがあれば、学校の音も少しは遅くなるかもしれない。
ガイも、エドも、ダンも、ルークも、会員たちも。
本人に会えない代わりに、絵を見る。
屋敷には来ない。
家のことも聞かない。
関係も探らない。
そういう形にできるかもしれない。
クロウは、ほんの少しだけ安心した。
「兄様」
「なんだ?」
「これなら、なんとかなるかもしれない」
テッドは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……そうだな」
その返事は、ほんの少しだけ遅かった。
クロウは気づかなかった。
テッドは、たぶん気づいていた。
姿絵が静かなものとは限らないことに。
けれど、今のクロウはまだ知らない。
絵は、本人より動かない。
だから、きっと扱いやすい。
そう思っていた。
二人は廊下へ出る。
レオエナの部屋へ向かう。
廊下の先には、春の光が淡く落ちていた。
クロウは、少しだけ歩きやすい気がした。
この時はまだ、本当に、そう思っていた。




