第29話 決まりを置く場所
――帝国暦三五〇年・春中頃 帝国人民学校・地方分校――
昼休みの教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
机を動かす音。
椅子を引く音。
小さな笑い声。
紙を広げる音。
それらが重なって、ひとつの場所に集まっている。
クロウは、その音を聞いていた。
笑い声そのものが嫌なわけではない。
誰かが楽しそうにしていることも、悪いことではない。
けれど、今の教室の音は少しだけ速かった。
誰かの声が先に行きすぎている。
誰かの好奇心が、机と机の間を跳ねている。
誰かの期待が、まだ決まっていない場所へ勝手に伸びていく。
それは、壊れているわけではない。
まだ、壊れてはいない。
でも、このまま放っておくと、どこかが欠ける気がした。
学校は、クロウにとって少し息がしやすい場所だった。
屋敷のように、近すぎる腕もない。
廊下の角で何かを聞いているミアもいない。
レオエナの明るすぎる心配も、父様のチェロも、母様の静かな視線もない。
ここでは、机は机で、椅子は椅子で、友人は友人だった。
だから、ここだけは乱れてほしくなかった。
直せるものなら、直したかった。
全部ではなくていい。
少しだけでいい。
続くように。
壊れないように。
そのために、決まりが必要なのだと思った。
クロウは、自分の席に座っていた。
目の前には、一枚の紙がある。
何も書かれていない紙。
けれど、白いままではいられない紙。
金色の天使を見守る会。
その会則を書くことになった。
なった、というのは、クロウが望んだわけではないからだ。
ただ、決まりがなければ、もっと乱れる。
そう思った。
本人に迷惑をかけないこと。
本人を見るために、勝手に屋敷へ来ないこと。
家のことを聞かないこと。
本人の前で金色の天使と呼ばないこと。
贈り物をしないこと。
ついて行かないこと。
それらを、どこかに置いておかなければならない。
置かないと、勝手に転がる。
転がったものは、たぶん、クロウの手が届かない場所まで行く。
だから、紙の上に置く。
そうすれば、少しは戻せるかもしれない。
「では、会則を決めよう」
ダンが真面目な顔で言った。
金色の天使を見守る会の会長。
本人は、本当に真面目だった。
真面目に、見守ろうとしている。
その真面目さが、クロウには少し怖い。
「会長っぽいな」
エドが笑う。
「会長だからな」
ダンは胸を張った。
ガイは机に肘をついている。
ルークは、すでに別の紙を用意していた。
トムは少し離れた席で、静かにこちらを見ている。
他にも、何人かが周囲に集まっていた。
男子が多い。
けれど女子も少しいる。
会員は二十名。
思ったより、多い。
クロウは紙の端を指で押さえた。
少しだけ、逃げたくなった。
「まず」
クロウは小さく言った。
「本人に迷惑をかけない」
ダンが頷く。
「当然だな」
「これは賛成」
トムが短く言った。
声は大きくない。
でも、ちゃんと届く声だった。
「迷惑をかけたら、見守るじゃなくなるし」
「そうだな」
ルークも真面目に頷く。
「見守る会の基本理念として妥当だ」
基本理念。
もう少し小さくならないだろうか。
クロウはそう思ったが、言わなかった。
紙に書く。
一、本人に迷惑をかけない。
文字になると、形が残る。
形が残ると、少し安心する。
けれど、同時に少し怖い。
「次」
クロウは続ける。
「本人の前で、金色の天使と呼ばない」
「えー」
ガイが少し不満そうな声を出した。
「本人の前だけ?」
エドが笑う。
「じゃあ、本人がいないところならいいのか?」
クロウは筆を止めた。
そこだった。
そこが困る。
本当は、どこでもあまり言ってほしくない。
でも、全部禁止するとたぶん止まらない。
止まらないものを強く押さえると、別の場所が歪む。
父様が言っていた。
押さえすぎると、音は動かなくなる。
レナ様も言っていた。
ほどきすぎると、布が弱る。
「……増やさないで」
クロウは言った。
「増やさない?」
ガイが首を傾げる。
「呼び方を、増やさないで」
「じゃあ、金色の天使はいいのか?」
「よくない」
「え、じゃあ何て呼べばいいんだよ」
クロウは黙った。
レオエナ。
そう呼べばいい。
でも、その名前を軽く置かれたくない。
もう本人が名乗っているから、隠せるものではない。
それでも、みんなが当たり前のように呼ぶと、何かが変わる気がした。
「……見学の人」
「長い」
エドが即座に言った。
「では、レオエナ様ではどうだ」
ルークが真面目に言う。
様。
それはそれで増えている。
クロウは少しだけ目を伏せた。
「本人の前では、名前で呼ぶなら普通に」
「普通に?」
「普通に」
「金色の天使様は?」
「だめ」
「天使様は?」
「だめ」
「金色様は?」
「もっとだめ」
エドが吹き出した。
ガイも笑う。
クロウは笑えなかった。
ダンが咳払いをした。
「つまり、本人の前では失礼な呼称、過度に神聖化した呼称を用いない、ということだな」
「難しくなったな」
エドが言う。
ルークは頷いた。
「だが、意味は正しい」
クロウは紙に書く。
二、本人の前で金色の天使と呼ばない。呼び方を増やさない。
書いた瞬間、少しだけ不安になった。
呼び方を増やさない。
たぶん、増える。
「次」
クロウは息を整えた。
「本人を見る目的で、屋敷へ来ない」
教室の空気が、少し止まった。
今まで賛成していた何人かも、顔を上げる。
ガイが眉をひそめた。
「それは、ちょっと」
「だめ」
クロウはすぐに言った。
「でも、遠くから見るだけなら?」
「だめ」
「門の前まで」
「だめ」
「森の方の道を歩くだけ」
「探しに来るなら、だめ」
「いや、それは普通に道じゃん」
エドが言う。
クロウは紙の端を押さえた。
普通の道。
それはそうだ。
道は誰のものでもない。
でも、その道の先に屋敷がある。
屋敷に近づく。
それだけで、レオエナの場所に近づく。
母様の場所に近づく。
ミアの場所に近づく。
父様の音がある場所に近づく。
それは、困る。
「見に来ることが、迷惑になる」
クロウは言った。
声は大きくない。
でも、いつもより少し硬かった。
トムは黙って聞いている。
ガイはまだ納得していない顔だった。
「でもさ」
「うん」
「見たいじゃん」
「それが迷惑」
「本人には会わない」
「会わなくても」
「屋敷の外観だけ」
「だめ」
「厳しいな、副会長」
エドが笑った。
副会長。
その言葉が、また少し重くなる。
クロウは筆を動かした。
三、本人を見る目的で、屋敷へ来ない。
書いた。
けれど、その文字だけ、少し斜めに見えた。
「じゃあ、招かれたら?」
エドが軽く言った。
クロウの筆が止まった。
招かれたら。
その言葉は、少し危なかった。
ここで例外を書けば、きっとあとで使われる。
見守る会とは関係のない用事まで、会則の中に入ってしまう。
友人として呼ぶこと。
別の理由で来ること。
たまたま必要があって会うこと。
そういうものまで、全部この紙の上で扱われてしまう。
それは違う。
そこまで、この会に渡したくない。
「……それは、書かない」
「なんで?」
ガイが聞く。
「使われるから」
「何に?」
「いろいろ」
エドが笑った。
「副会長、警戒しすぎだろ」
「たぶん、足りない」
クロウは小さく言った。
自分でも、そう思った。
警戒しているつもりなのに、いつもどこか足りない。
だから話が増える。
物も増える。
置く場所に困る。
「じゃあ、会員として行くのはだめってことか?」
ルークが整理するように言った。
「うん」
「見守る会の活動として、本人や屋敷を見に行くことを禁じる」
「そう」
クロウは頷いた。
「個人的な用件については?」
ルークが続ける。
クロウは少しだけ黙った。
「……書かない」
「保留か」
「うん」
「なるほど」
ルークは真面目に頷いた。
「不用意に例外規定を設けると、解釈が広がる可能性がある」
「そう」
それだった。
クロウの言いたいことを、ルークが少し難しくした。
でも、意味は合っている。
「じゃあ、こうだな」
ルークが別の紙に書く。
「三、会の活動として、本人を見る目的で、許可なく屋敷や森の方のお屋敷を探しに行かない」
「長い」
エドが言った。
「長い方が安全」
クロウは言った。
短いと、隙間ができる。
その隙間から、誰かが入ってくる。
「でもそれさ」
ガイが、少しだけ身を乗り出した。
「そんなに屋敷に来られたら困るってことは、やっぱり天使様ってクロウの家にいるんだよな」
クロウの指が止まった。
ガイは悪気のない顔で続ける。
「いや、だってそうだろ? 森の方のお屋敷って話だし、クロウもその辺のこと知ってるっぽいし」
エドも面白そうに笑う。
「天使様と一緒に住んでるみたいな話になってきたな」
教室の空気が、少しだけ変わった。
一緒に住んでいる。
その言葉は、ほとんど当たっている。
でも、答えたくない。
否定もできない。
肯定もしたくない。
クロウは、何も言わなかった。
何も言わなかったことで、また少しだけ何かが決まってしまった気がした。
はっきりとした形ではない。
けれど、教室の中に置かれた。
クロウと金色の天使は、かなり近い。
たぶん、同じ屋敷にいる。
誰も大きな声では言わなかった。
でも、その場にいた何人かは、もうそう思っている。
トムが一度、クロウの方を見た。
何か言いかけたようにも見えた。
でも、言わなかった。
トムは知りたいから黙っているのではない。
たぶん、言うと増えるから黙っている。
クロウは、少しだけ息を吐いた。
「……次」
クロウは言った。
「流したな」
エドが笑う。
「流してない」
「流しただろ」
「次」
クロウは紙を見た。
この話は、これ以上置けない。
置けば、たぶん動き出す。
「贈り物をしない」
「あ、それは賛成」
トムが短く言った。
「重いし」
「いきなり贈り物は確かに変だな」
ルークも頷く。
「許可のない贈答は、本人に負担をかける可能性がある」
「でも花くらいなら」
ガイが言いかける。
クロウはすぐに首を横に振った。
「だめ」
「早い」
「花も増える」
「増えるって何が?」
「置く場所」
ガイは少しだけ黙った。
エドが笑う。
「現実的だな」
「うん」
クロウは頷いた。
現実的だった。
花束は大きい。
蜂蜜も場所を取る。
チョコレートも増える。
そして名前のない贈り物は、もっと困る。
「四、贈り物をしない」
これは通った。
少しだけ安心した。
「次に、遠くから見守るだけ」
ダンが言った。
クロウは眉を寄せる。
「遠くから?」
「近づかない。話しかけない。騒がない。見守るだけ」
「それはいいな」
トムが言う。
「本人に迷惑をかけないなら」
ルークも頷いた。
「見守る会としての名称にも合致する」
「じゃあ、遠くから見るのはいいんだな?」
ガイが聞く。
クロウは少しだけ黙った。
見る。
それは止めにくい。
学校で見かけたら、目に入る。
それを全部だめとは言えない。
でも、見ようとして探すのは違う。
「……偶然なら」
「偶然?」
「偶然見えたなら」
「探しに行くのは?」
「だめ」
「遠くからでも?」
「だめ」
「難しいな」
ガイは頭をかいた。
クロウもそう思った。
難しい。
紙に書く。
五、遠くから見守るだけ。探しに行かない。
この条項は、半分通った。
半分だけ。
「次は、会員同士の決まりも必要だな」
ルークが言った。
「会員同士?」
クロウは顔を上げる。
「会として成立する以上、内部の信頼も重要だ」
ルークは真剣だった。
「情報を捏造しない。勝手な噂を広めない。会員同士で嘘をつかない」
クロウの手が止まった。
嘘をつかない。
それは、良いことだ。
良いことのはずだった。
でも、胸の奥が少しだけ重くなる。
「いいな、それ」
ダンが頷く。
「品位ある会には必要だ」
「嘘をつかない、か」
エドがにやりと笑った。
「じゃあ、副会長にも聞いていい?」
嫌な予感がした。
クロウは紙の端を押さえる。
押さえても、紙は逃げない。
でも、話は逃げる。
「天使様って、お前のお姉ちゃんなんだろ?」
教室の音が止まった。
完全には止まらない。
でも、かなり止まった。
ガイがエドを見る。
ルークも顔を上げる。
トムが少しだけ困った顔をした。
クロウは、筆を持ったまま動かなかった。
「だってさ」
エドは、悪びれた様子もなく続ける。
「天使様とお前、ちょっと似てるもんな」
その言葉で、クロウの指先が止まった。
似ている。
それは、たぶん間違っていない。
クロウは母様に似ている。
エナ姉も、母様によく似ている。
だから、クロウとエナ姉がどこか似て見えるのは、たぶん自然なことだった。
けれど、それを教室で言われるのは困る。
似ていると言われると、知らないとは言いにくい。
違うとも言いにくい。
そして、姉だとも言いたくない。
嘘をついてはいけない。
今、そういう話をしていた。
成立すれば、会員同士は嘘をついてはいけない。
まだ書いていない。
まだ決まっていない。
けれど、もう言葉は出てしまった。
レオエナは姉だ。
それは事実だった。
でも、言いたくない。
言えば、形が残る。
形が残ると、別の場所で使われる。
クロウは、父様の言葉を思い出す。
遅れている音だけを見るな。
先に行きすぎている音があるかもしれない。
今、先に行きすぎているのは、たぶんこの質問だった。
「……答えない」
クロウは言った。
「えー」
エドが笑う。
「嘘はついてないけど」
「答えないのは、嘘に入るのか?」
ガイが言う。
ルークが真面目に考え始めた。
「黙秘は虚偽ではない。ただし、会員間の信頼を損なう可能性はある」
「損なわないで」
クロウは言った。
「僕のことじゃない」
「いや、かなりお前のことじゃないか?」
ガイが言う。
クロウは首を横に振った。
「本人のこと」
その言葉で、トムが少しだけ頷いた。
「それは、そうだと思う」
トムの声は、さっきより少しだけはっきりしていた。
「クロウが答えたくないなら、無理に聞くことじゃないよ」
エドは肩をすくめた。
「でも、ほぼ答えじゃん」
「ほぼでも、答えじゃない」
トムが言った。
クロウは少しだけトムを見る。
トムは、目を逸らさなかった。
会員。
けれど、他の会員とは少し違う。
トムはたぶん、金色の天使を見たいからここにいるわけではない。
クロウが困ると思ったから、ここにいる。
乱れの外にいるより、中にいた方が少し止められる。
そう考えたのかもしれない。
それは、クロウが副会長になった理由と少し似ていた。
クロウは紙を見る。
会員同士で嘘をつかない。
それ自体は悪くない。
でも、そのまま置くと、クロウが困る。
困るだけではない。
レオエナのことまで、答えなければならなくなる。
「……会員同士で、嘘をつかない」
クロウはゆっくり言った。
「ただし、本人や関係者の私的なことは、無理に答えなくていい」
ルークが頷いた。
「妥当だ」
「長いな」
エドが言う。
「長い方が安全」
クロウは答えた。
長くてもいい。
短いと、隙間ができる。
その隙間から、誰かが入ってくる。
紙に書く。
六、会員同士で嘘をつかない。ただし、本人や関係者の私的なことは、無理に答えなくていい。
書き終えた時、クロウは少しだけ息を吐いた。
でも、これも通るかどうか分からない。
「関係者って書いたな」
エドが言った。
クロウは止まった。
エドは楽しそうに笑っている。
「つまり、関係者なんだ?」
「エド」
トムが止める。
「今のは、ずるい」
「だって書いたじゃん」
「それは、逃げ道を作っただけだろ」
ガイも少しだけ笑った。
「でもまあ、ほぼ答えだよな」
クロウは黙った。
答えではない。
でも、答えに近い。
かなり近い。
自分で逃げ道を作ったつもりが、別の道を開いてしまった。
クロウは紙の上の文字を見た。
関係者。
その文字が、少し重く見える。
「次」
クロウは言った。
「まだあるのか?」
「ある」
本当は、たくさんある。
ありすぎる。
本人を探さない。
ついて行かない。
学校外で話題にしない。
絵を描かない。
勝手に歌にしない。
詩にしない。
像を作らない。
参らない。
参るとは何か。
考え始めると、きりがない。
「本人を探さない」
クロウが言うと、何人かが少しだけ不満そうにした。
「でも、見かけたら?」
「偶然なら」
「偶然を増やすのは?」
「だめ」
「偶然を増やすって何だよ」
エドが笑った。
クロウは笑わなかった。
偶然は、増やせる。
人は、偶然のふりをして近づく。
それは、たぶんかなり困る。
「七、本人を探さない」
これは、少し揉めた。
でも、なんとか通った。
「家のことを聞かない」
クロウが言うと、空気がまた少し止まった。
「それは無理じゃないか?」
ガイが言った。
「だって、森の方のお屋敷のこと、気になるし」
「聞かないで」
「でも、もう結構分かってるぞ」
「それでも」
「どこの屋敷か確かめるくらいは」
「だめ」
「厳しいって」
何人かが頷いた。
この条項は、かなり反対が多かった。
クロウは紙を見た。
書きたい。
でも、書いても通らない。
通らない決まりは、置いてもずれる。
「保留」
クロウは言った。
「また保留?」
エドが笑う。
「重要なところばっかり保留じゃん」
その通りだった。
重要なところほど、通らない。
本人に迷惑をかけない。
贈り物をしない。
遠くから見守る。
そういう綺麗な決まりは通る。
でも、本人を見る目的で屋敷へ来ない。
家のことを聞かない。
関係を探らない。
クロウが一番止めたいところは、通りにくい。
クロウは、紙の上に並んだ文字を見る。
並んでいる。
でも、整っていない。
食器とは違う。
皿なら、正面へ戻せばいい。
ナイフなら、角度をそろえればいい。
でも、言葉は違う。
ひとつ置くと、別の場所に穴が空く。
穴をふさぐと、別のところから音が漏れる。
ダンが紙を覗き込んだ。
「かなりできたな」
「できてない」
クロウは言った。
「そうか?」
「大事なところが、決まってない」
「でも、会則らしくはなった」
ルークが頷く。
「正式な文面に整える必要がある」
「正式にしたら、残る」
「会則だからな」
その通りだった。
会則は残る。
残ったものは、使われる。
都合のいいように。
誰かの手で。
クロウは、紙の端を折りかけて、やめた。
折ると、跡が残る。
「今日は、ここまで」
クロウは言った。
「えー」
ガイが声を上げる。
「まだ決まってないこと多いだろ」
「だから、ここまで」
「じゃあ明日続きな」
エドが笑う。
「副会長、頼むぞ」
副会長。
やっぱり重い。
ダンは真面目に頷いた。
「次回までに、保留項目について考えておこう」
考えなくていい。
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
考えないと、たぶんもっと悪くなる。
昼休みが終わる鐘が鳴った。
机が戻される。
椅子が動く。
人が散っていく。
紙だけが、クロウの手元に残った。
本人に迷惑をかけない。
本人の前で金色の天使と呼ばない。
会の活動として、本人を見る目的で、許可なく屋敷や森の方のお屋敷を探しに行かない。
贈り物をしない。
遠くから見守るだけ。
会員同士で嘘をつかない。
本人を探さない。
保留。
家のことを聞かないこと。
関係を探らないこと。
個人的な用件について。
保留。
保留。
保留。
クロウは、小さく息を吐いた。
決まりを作れば、少しは静かになると思った。
でも、違った。
決まりを置こうとすると、置けない場所が見える。
置けない場所ほど、大事だった。
「クロウ」
トムが近づいてきた。
「大丈夫?」
「うん」
クロウは答える。
嘘ではない。
でも、全部ではない。
トムは、クロウの手元の紙を見た。
「僕も会員だけど」
「うん」
「あの人を見たいから入ったわけじゃないよ」
クロウは少しだけ顔を上げた。
「じゃあ、どうして?」
「クロウが困りそうだったから」
トムは、少し言いにくそうに続ける。
「中にいないと、止められないこともあると思った」
クロウは黙った。
それは、クロウが副会長になった理由と少し似ていた。
乱れの外にいるより、中にいた方がまだ手を伸ばせる。
そう思ってしまったところが、少し似ていた。
「一人で全部決めるのは、たぶん無理だと思う」
「うん」
「お兄さんに相談した方がいいんじゃない?」
「兄様に?」
「クロウが一人で決めると、たぶん全部背負うことになるから」
全部背負う。
その言葉が、少しだけ重く残った。
クロウは紙を見た。
保留。
保留。
保留。
自分一人では、置けないものが多すぎる。
「兄様に相談する」
「うん」
トムは小さく頷いた。
「その方がいいと思う」
クロウは紙を折らずに、そっと鞄へ入れた。
折らない。
まだ決まっていないから。
まだ、置き場所が決まっていないから。
授業が始まる。
チョークの音がする。
紙をめくる音がする。
いつもの学校の音。
けれど、今日は少し違って聞こえた。
会則の紙が、鞄の中で静かに重い。
クロウは前を向いた。
兄様に相談する。
今度こそ。
アランがいない時に。
ミアが聞いていない場所で。
そう思った。
けれど、紙の中の保留という文字だけが、どうしても胸の奥に残っていた。
クロウが本当に決めたかったことほど、実はほとんど決まっていない。
それを、どう置けばいいのか。
クロウには、まだ分からなかった。




