第28話 並んだ皿と、並ばない話
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
朝の食堂は、まだ静かだった。
窓から入る光が、白いテーブルクロスの上に淡く伸びている。
クロウは、食器を並べていた。
皿。
小皿。
ナイフ。
フォーク。
グラス。
ひとつずつ、位置を決める。
皿の縁を椅子の正面に合わせる。
ナイフの角度をそろえる。
フォークの間隔を見る。
グラスは、少し右奥。
近すぎず、遠すぎず。
置く。
そろえる。
確かめる。
ほんの少しだけ直す。
それだけで、胸の奥が少し静かになる。
サザ子爵家は、貴族家としては使用人が少ない。
屋敷の中を主に見ているのは、執事のモーリス。メイドのプラム。それから料理人のマーサくらいだった。
だから、朝の支度を少し手伝うことは、珍しくない。
それに、クロウはこういう作業が嫌いではなかった。
乱れているものを、元の位置へ戻す。
斜めになっているものを、少しだけ正す。
そういうことなら、できる。
「クロウ坊ちゃま、助かりますよ」
厨房の方から、マーサが顔を出した。
丸い頬に、よく通る声。
手には、焼きたてのブレッドを入れた籠を持っている。
「今日はプラムさんが奥様の方についていますからねえ」
「うん」
「坊ちゃまが並べてくれると、きれいでいいわ」
マーサはそう言って、朗らかに笑った。
クロウは少しだけ目を伏せる。
「……ありがとう」
「こちらがお礼を言うところですよ」
マーサは籠を置いた。
ブレッドの香ばしい匂いが、食堂に広がる。
クロウは最後のグラスを置き、少しだけ角度を直した。
これでいい。
食器は並ぶ。
皿はそろう。
ナイフもフォークも、ちゃんと位置に戻せる。
でも、昨日から心の中は雑然としていた。
金色の天使を見守る会。
会長はダン。
会員は二十名。
男子全員と、一部の女子。
そして、クロウは副会長になった。
なりたくなかった。けれど、ならなければもっと乱れる気がした。
会を放っておけば、エナ姉の話題は勝手に広がる。
家のことを聞かれるかもしれない。屋敷に来たいと言い出す者も出るかもしれない。
本人の前で、金色の天使と呼ぶ者も出るかもしれない。
だから、クロウは中に入った。
乱れの中心に少しだけ触れて、せめて歯車の向きを見ようと思った。
それなのに。
副会長。
その言葉は、まだ胸の中で少し重い。
食器の位置なら直せる。
ナイフの角度なら戻せる。
でも、会の中の自分の位置は、どこに置けばいいのか分からない。
「クロウ」
背後から、穏やかな声がした。
振り向くと、母様――エルナリアがいた。
金色の髪をきれいにまとめ、澄んだ青い瞳でこちらを見ている。
その姿は、レオエナとよく似ていた。
けれど、エナ姉の明るさが春の陽だまりなら、母様の微笑みは、静かな午後の光に近い。
「手伝ってくれているの?」
「うん」
「ありがとう。とてもきれい」
母様はそう言って、少しだけ目を細めた。
褒め方が静かだった。
大きくない。
でも、ちゃんと届く。
「あと、ケイン様のところ」
マーサが、籠を置きながら言った。
「少しだけ左に寄っていますねえ」
クロウは父様の皿を見た。
ほんの少しだけ、左へ寄っている。
直す。
皿の縁を、椅子の正面に合わせる。
これでいい。
「気づいていたの?」
クロウが聞くと、母様は静かに頷いた。
「ええ」
「直さなかったの?」
「クロウが直したそうだったから」
クロウは母様を見る。
母様はいつものように微笑んでいた。
やわらかい。
でも、少しだけ逃げ道を塞ぐ顔だった。
「……そう」
「ええ」
母様は、クロウの袖口のあたりに視線を落とした。
「それで、今日は少し顔が忙しいわね」
「顔?」
「考えごとをしている顔」
クロウは皿を見る。
顔は見えない。
けれど、たぶん当たっている。
「学校のこと?」
「うん」
「金色の天使を見守る会のことかしら」
クロウの手が止まった。
「母様、知ってるの?」
「ミアが楽しそうに話していたわ」
「ミア」
やっぱりだった。
ミアはもう知っている。
そして、楽しんでいる。
かなりよくない。
「僕は、副会長になった」
「そうなのね」
「なりたくなかった」
「ええ」
「でも、ならないと、もっと乱れそうだった」
母様は少しだけ頷いた。
「それなら、必要な場所に立ったのかもしれないわね」
「必要?」
「ええ。嫌でも、そこに立たないと守れないものはあるから」
クロウは黙った。
それは、少し重い言葉だった。
皿より重い。
ナイフより置き場所に困る。
「兄様に相談する」
「いいと思うわ」
母様はあっさり言った。
「テッドなら、言葉で形を作れるもの」
クロウは頷いた。
そうだ。
兄様は、言葉で整える人だ。
エナ姉の時も、ちゃんと止めてくれた。
今回も、たぶん何か言える。
食卓の準備を終えると、クロウはテッドの部屋へ向かった。
朝食まで、まだ少し時間がある。
廊下は静かだった。
敷物の端も、今日はきれいにそろっている。
だから、歩きやすい。
クロウはテッドの部屋の前で止まり、ノックした。
「兄様」
返事はすぐにあった。
「入れ」
中へ入る。
そして、クロウは止まった。
テッドだけではなかった。
部屋に、アランがいた。
昨日まで体調が悪いと言っていたはずのアランが、きちんとした服装で椅子に座っている。
顔色は、かなり良い。
むしろ、良すぎる。
病人の顔ではない。
「クロウ」
アランがぱっと顔を上げた。
その声は明るい。
「おはよう」
「……おはよう」
クロウは少しだけ目を細める。
「元気?」
「ああ。君たちのおかげで、かなり」
おかげ。
それが何を指しているのかは、考えたくなかった。
テッドは机の前に立っていた。
すでに少し疲れた顔をしている。
「兄様」
「なんだ」
「相談があるんたけど」
「俺も今、相談を受けている」
「アランから?」
「ああ」
アランは真面目な顔で身を乗り出した。
「クロウ、ちょうどよかった」
嫌な予感がした。
とても、はっきりした予感だった。
「何?」
「昨日の贈り物のことなんだ」
クロウは黙った。
蜂蜜。
チョコレート。
エナ姉の涙。
背骨の痛み。
ミアの嬉しそうな顔。
全部が、一瞬で戻ってくる。
「贈り物?」
クロウはゆっくり言った。
「そう」
アランは頷く。
「ダンジュの蜂蜜と、チョコレートだ。気に入っていただけただろうか」
テッドが低く言った。
「お前、また勝手に渡したのか」
「勝手に、というほどでは」
「勝手だ」
テッドの声は冷たかった。
「名乗ったのか」
アランは一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、答えは分かった。
テッドの眉間に、はっきり皺が寄る。
「お前な」
「いや、タイミングが」
「贈り物を渡すタイミングはあるのに、名乗るタイミングはないのか」
アランは言葉に詰まった。
クロウは目を伏せる。
名乗っていない。
花束の時も、蜂蜜とチョコレートの時も。
だから全部、置く場所に困るものになった。
ただ、クロウは知っている。
贈り物は届いている。
エナ姉は喜んでいた。
かなり、喜んでいた。
けれど、どう届いたのかは言えない。
誰が受け取って。
誰が持ち帰って。
誰が渡して。
誰が誤解したのか。
それを一つずつ並べたら、皿よりもずっと多いものが食卓に散らばる。
母様の名前は出せない。
自分が手渡したことも言えない。
そこを言えば、アランが疑うかもしれない。
テッドも気づくかもしれない。
そして、屋敷の空気がまた大きく乱れる。
クロウにとっては、アランの誤解を今ここで直すことよりも、屋敷の雰囲気を崩さないことの方が大切だった。
アランの気持ちは、少し離れたところにある。
けれど屋敷の空気は、クロウのすぐ近くにある。
近くのものが乱れると、息がしにくくなる。
だからクロウは、言うことを選んだ。
嘘は言わない。
でも、全部は言わない。
「……届いてた」
クロウは言った。
事実だけを、少しだけ置いた。
アランの顔が明るくなる。
「本当に?」
「うん」
「喜んでくださっただろうか」
クロウは少しだけ黙る。
エナ姉は喜んでいた。
かなり喜んでいた。
花束の時より、さらに悪い形で喜んでいた。
でも、そこまで言う必要はない。
「喜んでた」
クロウは言った。
アランは胸に手を当てた。
「そうか……」
目に見えて安心している。
テッドはクロウを見た。
「本当か」
「うん」
「届いたんだな」
「届いた」
「喜んでいたのか」
「うん」
テッドは少しだけ息を吐いた。
テッドは、クロウを疑わない。
クロウが届いたと言えば、届いたのだと思う。
喜んでいたと言えば、喜んでいたのだと思う。
それが、今は少しだけありがたくて。
少しだけ、よくなかった。
クロウはそれ以上言わなかった。
誰が受け取ったのか。
誰が渡したのか。
どういう経路だったのか。
そこは言わない。
言えば、並んでいない話がさらに散らかる。
「なら、よかった」
アランは深く息を吐いた。
「少しでも、喜んでいただけたなら」
「でも」
クロウは言った。
アランが顔を上げる。
「多い」
「多い?」
「花束も、蜂蜜も、チョコレートも」
クロウは一つずつ置くように言う。
「多い」
テッドも頷いた。
「物量の問題として、多い」
「僕の想いが多すぎたということか?」
「物量の話だ」
テッドが即座に言った。
「詩にするな」
「詩では」
「詩にするな」
アランは少しだけ口を閉じた。
クロウは続ける。
「誰からか分からないものが、たくさん届くと、置く場所にすごい困る。」
アランがクロウを見る。
「置く場所」
「うん」
「心の?」
「違う」
クロウは首を振る。
「普通に、屋敷の中で」
テッドが小さく息を吐いた。
「現実的な意味だ」
「……そうか」
アランは少しだけ苦い顔をした。
「確かに、それは配慮が足りなかった」
「足りない」
クロウは頷く。
「あと、名前」
「名前?」
テッドがそこで目を細めた。
「そうだ。お前、まだ名乗ってもいないんだろう?」
部屋の空気が止まった。
アランは、少しだけ視線を逸らした。
「……贈り物には、心を込めた」
「名前を込めろ」
テッドが即座に言った。
「花束も蜂蜜もチョコレートも渡しておいて、名乗っていないのか」
「タイミングが」
「タイミングではない。順番の問題だ」
クロウは小さく頷いた。
そこは、かなり正しい。
名前。
相手。
目的。
それから贈り物。
順番が違う。
かなり違う。
「アラン」
テッドは低い声で続ける。
「まず名乗れ!これからの妹のへやに行ってもいい!」
「……いきなり?」
「すでに贈り物を渡している時点で、いきなりではない」
「だが、もし驚かせてしまったら」
「もう驚かせている」
「もし迷惑に」
「もう迷惑になりかけている」
「なら、どうすれば」
「だから名乗れと言っている」
アランは真剣な顔で黙った。
真剣に考えている。
考えているのに、どうしてそこまで迷うのか、クロウには少し分からなかった。
名乗る。
それは、ものを渡すより前にすることだと思う。
「名乗って」
クロウも言った。
「誰からか分からない贈り物は、余計置く場所に困る」
「また、置く場所……」
「うん」
「屋敷の中で」
アランは少しだけ苦い顔をした。
「分かった。まず名乗る」
「贈り物はするな」
テッドが続ける。
「手紙も送るな」
「……手紙も?」
「送るな」
「なら、挨拶だけ」
「そうだ」
アランは少しだけ考えた。
それから、ようやく頷いた。
「承知した。まずは、名乗る」
「それだけだ」
「それだけ」
「余計なことは言うな」
「努力する」
「努力ではなく、するな」
「……するな」
ようやく、少し整った。
少しだけ。
クロウは息を吐く。
けれど、アランはすぐに顔を上げた。
「それで、クロウ」
「うん」
「贈り物は、やはり多すぎただろうか」
「多すぎた」
クロウは即答した。
テッドも頷く。
「かなり多い」
「そうか」
アランは少しだけ肩を落とした。
「喜んでいただけたなら、それでよいと思ってしまった」
「喜ぶことと、困らないことは違う」
クロウは言った。
アランは黙った。
テッドも、少しだけクロウを見る。
「クロウ」
「うん」
「それは、いい言い方だ」
「そう?」
「ああ」
テッドはアランを見る。
「聞いたか」
「聞いた」
アランは静かに頷いた。
「喜んでいただけることと、困らせないことは違う」
「そうだ」
「覚えておく」
「覚えるだけでなく、守れ」
「守る」
少しだけ、本当に少しだけ、アランの声が整った気がした。
クロウはそこで、ふと思い出した。
自分はテッドに相談しに来たのだった。
金色の天使を見守る会。
副会長になってしまった件。
ルールをどうするのか。
家のことを聞かないようにする件。
本人の前で金色の天使と呼ばないようにする件。
紙に書くべきか。
書かない方がいいのか。
そういうことを話したかった。
でも今、この場にはアランがいる。
アランに聞かせると、たぶんさらに増える。
クロウはテッドを見る。
「兄様」
「なんだ」
「僕の相談は、あとで」
「そうしろ」
テッドもすぐに頷いた。
同じ判断だった。
アランは少し不思議そうに二人を見る。
「何の相談だい?」
「言わない」
クロウとテッドの声が重なった。
アランは少しだけ寂しそうにした。
でも、聞かないでくれた。
そこは、少しだけいつものアランだった。
朝食の時間が近づいている。
クロウは一度、食堂の方を見た。
食器はきれいに並んでいるはずだ。
皿も、ナイフも、フォークも。
でも、今の話は何ひとつ並ばなかった。
それでも、ひとつだけ分かった。
贈り物の話は、まだ外へ出してはいけない。
今の屋敷には、置く場所がない。
「兄様」
「なんだ」
「あとで、本当に相談する」
「ああ」
テッドは頷いた。
「アランが帰ったらな」
「僕は邪魔なのかい?」
アランが少し寂しそうに言う。
テッドは即答した。
「今はな」
「……正直だね」
「お前には、今それくらいでちょうどいい」
アランは少しだけ苦笑した。
「分かった。朝食の邪魔はしないよ」
「そうしてくれ」
クロウはテッドの部屋を出た。
廊下に出る。
扉が静かに閉まる。
少しだけ、空気が変わった。
そして。
廊下の角に、ミアがいた。
黒猫を抱えて、にこりと笑っている。
「お兄様」
軽い声。
いつもの声。
けれど、クロウはすぐに分かった。
これは、ただ通りかかった顔ではない。
「……ミア」
「おはよう」
「いつからいたの」
ミアは黒猫の背を撫でた。
黒猫が、にゃあ、と鳴く。
「さあ?」
答えになっていない。
でも、答えよりも顔が言っていた。
知っている。
たぶん、かなり知っている。
アランのこと。
贈り物のこと。
届いたこと。
エナ姉が喜んだこと。
そして、クロウが言わないでおこうとしていること。
全部ではないかもしれない。
でも、必要なところはもう拾っている。
ミアは楽しそうに目を細める。
「お兄様、朝から大変そうだね」
クロウは小さく息を吐いた。
大変そう。
そういう言い方をする時のミアは、だいたい楽しんでいる。
「ミア」
「はい」
「今の話は」
「うん」
「増やさないで」
ミアはにこりと笑った。
「増えるかどうかは、みんな次第だよ」
クロウは確信した。
知っている。
この子は、知っている。
そして、どう揺らせば増えるのかも、もう考えている。
クロウは自分の袖口をそっと整えた。
せめて、ここだけでも。
ミアは黒猫を抱き直し、楽しそうに笑った。
朝の廊下は静かだった。
けれど、クロウの心だけは、また少し斜めに置かれた。
これからの学校、自分で何とかしないといけない、そう思うと心は晴れなかった。




