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僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
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27/41

甘いものは、だいたい危ない

 ――帝国暦三五〇年・春中頃 帝国人民学校・地方分校――


 放課後。


 教室のざわめきから離れて、クロウは工作室にいた。


 机の上には、小さな歯車と、細いばね。

 トムが持ってきた古い部品。

 リラの楽譜。


 窓から入る午後の光。

 どれも、強すぎない。

 ようやく、少しだけ息ができる。


「クロウ」

 トムが、小さな歯車を指先で持ち上げた。


「これ、噛み合わせが少し悪いね」

「うん」

 クロウは頷く。


「でも、削りすぎると戻せない」

「そうだね」


 トムは歯車を布の上に戻した。

 眼鏡の奥の目が、静かに部品を見ている。

 トムは、そういうところがいい。


 すぐに動かない。

 直す前に、見る。


 分からないものを、分からないまま無理に動かさない。クロウはそれが好きだった。


 リラは窓際の椅子に座り、二人のやり取りを微笑んで見ている。


「二人とも、歯車を見ている時は本当に静かね」

「静かな方が見やすい」


 クロウが答える。

 トムも控えめに頷いた。


「音が多いと、細かいところを見落とすから」

「それ、音楽でも同じかも」

 リラは少し笑った。


 クロウは机の上の部品を揃えながら、ふと思い出した。


 家の裏の作業場。

 屋敷の裏手、森へ向かう道の近くにある小

 さな小屋。その近くで、少し前に古い置き時計を拾った。


 かなり古いものらしい。

 木枠は傷んでいて、金具も錆びている。

 針は止まったまま。


 けれど、中を少しだけ見た時、作りは悪くないと思った。

 歯車の噛み合わせも、軸の具合も、いくつかおかしい。 直すには少し手間がかかる。


 一人では、少し難しい。

 でも、きちんと直れば。

 きっと、いい音がする。


「トム」

「うん?」


「うちの屋敷の裏に、作業場がある」

「作業場?」

 トムは小さく首を傾げた。


「うん」

 クロウは歯車を布に置いた。


「その近くで、古い置き時計を拾った」

「置き時計……」

 トムは眼鏡の奥で、少しだけ目を細める。


 すぐに身を乗り出すわけではない。

 けれど、興味はある。

 クロウには、それが分かった。


「大きいの?」

「少し大きい」

「動く?」

「動かない」


「そっか」

 トムは少し考える。


「どこが悪いの?」

「歯車の摩耗と、軸の汚れ。あと、ゼンマイの戻りも少し悪い」

「……それ、一人だと大変そうだね」


「うん」

 クロウは頷いた。


「だから、手伝ってほしい」

 トムは少しだけ驚いた顔をした。

 それから、ゆっくり頷く。


「僕でよければ」

「うん」

「クロウがそう言うなら、たぶん本当に難しいんだろうし」

「うん」


「それに、古い時計は少し見てみたい」

 トムはそう言って、控えめに笑った。


「直せたら、いい音がしそうだね」

「うん。たぶん、かなりいい」

「じゃあ、行くよ」

 トムは静かに頷いた。


「手伝えることがあるなら、手伝う」

 クロウは少しだけ安心した。


 トムなら、時計を見る。

 時計そのものを見る。

 屋敷の大きさや、家のことではなく、まず時計を見る。


 それがよかった。

 クロウは窓際のリラを見る。


「リラも」

「え?」

「来る?」

 リラはぱちぱちと瞬きをした。


「私も行っていいの?」

「うん」

「ついでみたいに誘った?」

「うん」


「そこは否定してほしかったな」

 リラはそう言いながら、楽しそうに笑った。


「でも、行きたい」

「時計、退屈かも」

「退屈じゃないと思う」

 リラは楽譜を閉じる。


「二人が時計を直しているところも見たいし、森の近くなら音もよさそう」

「音?」

「木がある場所って、音の響き方が違うでしょう?」

 クロウは少し考える。


「たぶん」

「それに、クロウの作業場も見てみたい」

 クロウは少しだけ視線を落とした。


 作業場。

 屋敷の中ではない。

 けれど、家の近くにある場所。

 クロウが落ち着ける場所の一つ。


 そこへトムとリラを呼ぶ。

 それは少し不思議だった。

 不安もある。

 でも、嫌ではない。


「じゃあ、今度」

 クロウは言った。


「三人で行く」

「うん」

 トムが頷く。


「日を決めようか」

「うん」

 リラも笑った。


「楽しみね」

 楽しみ。

 その言葉は、最近のクロウの周りでは少し珍しかった。


 金色の天使。

 アランの贈り物。

 エナ姉の抱擁。

 どれも増えると困るものだった。


 でも、古い置き時計を直すことは、少し違う。

 トムとリラと三人で、作業場へ行く。

 森の近くで、止まった時計を開ける。


 それは、増えてもいいもののような気がした。

 クロウは机の上の歯車を、もう一度そっと揃えた。

 今度は、少しだけ胸の奥も揃った気がした。


 ■サザ子爵邸


 学校から帰ってきてすぐ、クロウは母様の部屋へ向かった。


 花束の件を、なんとかしてもらうためだった。

 昨日、母様から預かった花束をエナ姉に渡した。

 それだけだった。


 ただ、それだけのはずだった。

 けれど、エナ姉は泣いた。

 クロウの愛情が通じた、などと言った。


 抱きしめられて、背中が朝からかなり大変なことになった。

 母様は、まあまあ、と笑っていた。


 そして学校では、エナ姉が金色の天使になっていた。

 全部が少しずつおかしい。

 少しずつではないかもしれない。


 かなり、おかしい。

 だから、母様に言わなければならない。


 あの花束は、少し危なかった。

 少なくとも、エナ姉にはクロウから渡させない方がいい。

 そう伝える。

 それだけだった。


「母様」

 扉を叩く。


「どうぞ」

 やわらかな声が返ってくる。


 クロウは扉を開けた。

 そして、止まった。

 母様の部屋の机の上に、瓶が並んでいた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。

 それだけではない。


 淡い金色の蜂蜜。

 少し濃い琥珀色の蜂蜜。

 白い花のラベルが貼られた小瓶。

 それから、包みに入ったチョコレート。


 板状のもの。

 丸いもの。

 小さく切り分けられたもの。

 きれいに並んでいる。


 並んではいる。

 でも、多い。

 かなり多い。


「……母様」

「なあに、クロウ」

 エルナリアは、いつも通り微笑んでいた。

 金の髪が午後の光を受けて、やわらかく揺れている。


 その横には、プラムが立っていた。

 表情は礼儀正しい。

 けれど、少しだけ疲れているように見える。


「これ、どうしたの?」

 クロウは机の上を見る。


 蜂蜜とチョコレート。

 甘いものばかり。

 しかも、明らかに贈り物の形をしている。


「今日、街へ買い物に行ったの」

「うん」

「プラムと一緒に」

「はい」

 プラムが静かに頷く。


 その声はいつも通りだった。

 けれど、ほんの少しだけ低い。


「そうしたらね」

 母様は楽しそうに言った。


「また突然、いただいたの」

 クロウは目を伏せた。

 また。

 その言葉が、とてもよくない。


「誰から」

「お名前は聞けなかったわ」

「また?」


「ええ。また」

 母様は悪びれずに微笑む。


 その微笑みは、少し困っているようにも見える。

 でも、少しだけ面白がっているようにも見えた。

 プラムはわずかに視線を逸らした。


「プラム」

「はい、クロウ様」

「止めなかったの?」


「警戒はいたしました」

「止めなかったの?」

「相手が丁寧すぎて、即座に排除する判断が難しく」

 プラムは少しだけ言いにくそうにする。


「その上、奥様が受け取ってしまわれました」

「まあ」

 母様が困ったように笑う。


「だって、とても一生懸命だったのよ」

「母様」

「はい」


「それ、たぶん危ない」

「蜂蜜が?」

「違う」


 クロウは机の上の瓶を見る。

 ラベルは美しい。

 封もそろっている。

 瓶の形も悪くない。


 けれど、中身とは別のところが危ない。

 花束の時と同じだ。

 贈り物の形をしているものが、別の意味を持って流れてきている。


 しかも、今回は蜂蜜とチョコレート。

 アランに話したばかりだった。

 エナ姉は、蜂蜜が好きかもしれない。

 チョコレートスプレッドも食べる。


 そう言った。

 言ってしまった。

 クロウは頭の奥が少し重くなるのを感じた。


「母様、これ、誰かに渡したら駄目だと思う」

「あら」

 母様は少し首を傾げた。


「でも、私、蜂蜜は食べられないの」

 クロウは顔を上げる。


「食べられない?」

「ええ。体に合わなくて」

 母様は困ったように笑う。


「蜂蜜の香りや瓶は好きなのだけれど、口にすると具合が悪くなってしまうの」

「……そうだった」

 クロウは思い出す。


 母様は蜂蜜を眺めることはある。

 香りを楽しむこともある。

 でも、実際に食べることはない。

 食卓でも、蜂蜜の瓶にはほとんど手を伸ばさない。


「それに」

 母様はチョコレートの包みを見る。


「チョコレートは、あまり得意ではないの」

「じゃあ、どうするの」

「だから」

 母様はにこりと笑った。


「エナにあげてくれる?」

 クロウは固まった。

 プラムも、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……僕が?」

「ええ」

「また?」

「また?」


「昨日も花束を渡した」

「そうね。レオエナ、とても喜んでいたわ」


「喜びすぎた」

「それは素敵なことではなくて?」

「素敵じゃない方向に」

 母様はきょとんとしている。


 分かっていない。

 母様は本当に、分かっていない。

 あるいは、分かっていて面白がっているのかもしれない。

 そこが少し怖い。


「母様から渡して」

「私から?」

「うん」


「でも、クロウからの方が喜ぶわ」

「喜びすぎる」

「それなら、なおさら」


「なおさら駄目」

 クロウははっきり言った。

 けれど母様は、やわらかく笑うだけだった。


「クロウ」

「うん」

「レオエナは、あなたから何かをもらうと嬉しいのよ」

「知ってる」


「だったら」

「だから危ない」

 母様は目を瞬かせた。

 プラムが、小さく咳払いをした。


「奥様」

「なあに?」

「クロウ様のご懸念は、一定程度もっともかと」

「プラムまで」


「花束の件もございますので」

 母様は少し考える。

 それから、困ったように蜂蜜を見る。


「でも、これは日持ちするでしょう?」

「します」

 プラムが答える。


「チョコレートは?」

「保管環境によります」

「じゃあ、早めに渡した方がいいわね」


 プラムは黙った。

 クロウも黙った。


 話が整わない。

 かなり整わない。

 結局、クロウは蜂蜜の瓶を二つと、チョコレートの包みを一つ持つことになった。

 母様が言うには、全部では多いから、まずは少しだけ。


 少しだけ。

 その言葉は、この屋敷ではあまり信用できない。


 ■廊下


 クロウは廊下を歩いた。

 両手に蜂蜜とチョコレート。

 背中に嫌な予感。


 目の前には、エナ姉の部屋。

 行きたくない。

 でも、行かなければならない。


 置いておくと、母様が別の形で渡すかもしれない。

 それはもっと危ない。

 なら、自分で説明しながら渡す方が、まだましかもしれない。


 クロウは扉の前で息を整える。

 説明する。

 これは母様が街で受け取ったもの。

 母様は蜂蜜が体に合わず、チョコレートも得意ではない。


 だから、エナ姉へ。

 クロウからの贈り物ではない。

 そう言う。

 最初に言う。

 絶対に言う。

 クロウはノックした。


「エナ姉」

「どうぞ」


 中から声がする。

 扉を開けると、エナ姉は机の前にいた。


 昨日の花束が、窓辺に飾られている。

 とても大事そうに。

 かなり大事そうに。

 クロウはそれを見て、少しだけ帰りたくなった。


「クロウ?」

 エナ姉が嬉しそうに振り返る。


「どうしたの?」

「これ」

 クロウは先に言った。


「母様が街で受け取ったもの」

「え?」

「母様は蜂蜜が体に合わない。チョコレートもあまり好きじゃない。だから、エナ姉にって」


 早口ではない。

 でも、できるだけ順番通りに言った。

 言えた。


 クロウは少し安心しかける。

 けれど、エナ姉の視線は蜂蜜の瓶に釘付けだった。


「蜂蜜……」

「うん」

「ダンジュの?」


「たぶん」

「それに、チョコレート?」

「うん」


 エナ姉の瞳が、きらきらし始めた。

 よくない。

 かなりよくない。


「クロウが」

「違う」


「私の好きなものを」

「母様が」


「覚えていてくれたのね」

「聞いて」


 聞いていない。

 まただ。

 クロウは蜂蜜とチョコレートを差し出す。

 エナ姉は両手で受け取った。


 その手が震えている。

 喜びで。

 完全に喜びで。


「クロウ……」

「母様が」

「ありがとう」


「母様が」

「とても嬉しいわ」

「母様が」

 もう駄目だった。

 エナ姉は蜂蜜とチョコレートを机に置くと、すぐにクロウへ向き直った。


「抱きしめてもいい?」

 聞いた。


 聞いている。

 成長している。

 それは分かる。

 分かるけれど、目がもうだいぶ泣きそうだった。


 断ると、たぶん別の方向に崩れる。

 クロウは背骨の位置を意識する。


 足の置き方。

 腕の角度。

 呼吸。


「……少しだけ」

 そう言った瞬間、抱きしめられた。

 強かった。


 今までにないくらい強かった。

 やわらかい。

 あたたかい。


 でも、背骨が本当に痛い。

 これはいけない。

 青息吐息という言葉がある。

 たぶん、今の自分の背骨はそれだった。


「エナ姉」

「ありがとう、クロウ」

「強い」


「本当に嬉しいわ」

「強い」

「私の好きなものまで覚えていてくれて」

「強い」


「クロウ……」

「かなり強い」

 ようやく、エナ姉がはっとした。


「あ、ごめんなさい」

 腕が緩む。

 クロウは息を吸った。


 空気が入る。

 ありがたい。


「大丈夫?」

「まだ」

「まだ?」


「今、戻してる」

 背骨を。

 呼吸を。

 心を。

 いろいろ。


 エナ姉は慌てて離れた。


「ごめんなさい。私、また」

「うん」


「嬉しくて」

「うん」


「でも、聞いたわ」

「聞いた」


 そこは、たしかに進歩だった。

 けれど、聞いたあとが強すぎる。

 クロウは少しだけ壁に手をついた。

 その時、部屋の入口から声がした。


「お兄様、大丈夫?」

 ミアだった。

 黒猫を抱えて、扉にもたれている。


 いつからいたのか分からない。

 たぶん、かなり前からいた。


 その顔は、心配そうだった。

 声も、心配そうだった。

 でも、目がとても嬉しそうだった。


「……ミア」

「背骨、無事?」

「まだ」

「まだなんだ」

 ミアはくすっと笑う。


「エナ姉、嬉しかったんだね」

「ええ」

 エナ姉は少し恥ずかしそうに頷いた。


「クロウが、私の好きなものを」

「母様が」

 クロウは言った。


「母様から」

「でも、お兄様が持ってきたんでしょう?」

 ミアが言う。

 クロウは黙った。


 そこが問題だった。

 持ってきたのは、確かに自分だった。

 だからエナ姉の中では、花束も蜂蜜もチョコレートも、全部クロウからのものになってしまう。

 これは構造が悪い。

 かなり悪い。


「お兄様」

 ミアがにこにこしている。


「人の好きなものを渡すのって、すごく効くんだね」

 クロウはミアを見る。

 その言い方は、ただの感想ではなかった。


 ミアは覚えた。

 今、たぶん覚えた。

 人の好きなもの。

 渡す相手。

 渡し方。


 誤解。

 反応。

 全部、ミアの中に入ってしまった。


「ミア」

「はい」

「今のは、覚えなくていい」


「もう覚えたよ」

 黒猫が、にゃあ、と鳴いた。


 エナ姉はまだ蜂蜜とチョコレートを見て嬉しそうにしている。

 ミアは嬉しそうにクロウを見ている。

 クロウは背中をさすりながら、小さく息を吐いた。


 花束で終わらなかった。

 蜂蜜とチョコレートが増えた。

 エナ姉の誤解も増えた。

 ミアの知識も増えた。

 そして、クロウの背骨の痛みも増えた。


 整える場所が、多すぎる。

 クロウはそう思った。


 この屋敷は、今日も少し。

 いや、かなり甘かった。

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