早く来て、早く終わって
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
朝。
クロウは花束を持って、エナ姉の部屋へ向かった。
白と淡い黄色の花。
少しだけ橙の花。
昨日、母様から預かったものだった。
街で受け取った花束。
誰が渡したのかは、よく分からない。
渡した人は、名乗らなかったらしい。
ただ、母様が言った。
せっかくだから、エナに渡してあげて、と。
だから、クロウは渡すことにした。
それだけだった。
それだけのはずだった。
「エナ姉」
部屋の扉を叩く。
少しして、扉が開いた。
「クロウ?」
金の髪が朝の光を受けて揺れる。
エナ姉はいつも通り、嬉しそうに笑った。
クロウを見ると、いつもより少しだけ目元がやわらかくなる。
エナ姉は、いつもクロウのことをかわいいと思っている。
近くに来ると、すぐ抱きしめようとする。
髪を撫でようとする。
笑って、名前を呼んで、少し近すぎる距離に来る。
クロウはそれに慣れている。
慣れているけれど、慣れていることと平気なことは少し違う。
今日は、その手前で終わらせたい。
そう思いながら、クロウは花束を差し出した。
「これ」
「……え?」
エナ姉の瞳が、丸くなる。
「花束?」
「うん」
「私に?」
「うん」
その瞬間、エナ姉の表情が変わった。
最初は驚き。
それから、信じられないという顔。
次に、胸の奥から何かが込み上げてくるように、瞳が揺れた。
「クロウ……」
「うん」
「これ……私に?」
「うん」
「クロウが?」
「いや」
クロウはすぐに言おうとした。
母様が、と。
でも、エナ姉は花束を両手で受け取った。
白と淡い黄色の花を、まるで宝物のように抱く。
「覚えていてくれたのね」
「何を?」
「私、この色の花が好きなの」
クロウは止まった。
知らなかった。
いや、見たことはあったかもしれない。
エナ姉の部屋に、似た色の花が飾られていたことはある。
けれど、それを覚えていて選んだわけではない。
そもそも、選んでいない。
「違う」
クロウは言った。
「これは、母様が」
「クロウが、私の好きな花を……」
「聞いて」
「初めて、クロウから」
「違う」
エナ姉の目に、みるみる涙が浮かんだ。
その涙は悲しいものではなかった。
嬉しくて、嬉しすぎて、どうしたらいいか分からない時の涙だった。
「やっと」
「やっと?」
「やっと、私の気持ちが通じたのね」
クロウは花束のリボンを見た。
きれいに結ばれている。
でも、今はその結び目まで少し悪いものに見える。
「気持ち?」
「私、ずっとクロウのことを可愛いと思っていたの」
「それは知ってる」
「ずっと、大切にしたくて、抱きしめたくて、守りたくて」
「それも知ってる」
「でも、クロウはいつも少し困った顔をするから」
「困るから」
「それでも、いつか伝わったらいいなって思っていたの」
「何が」
「私がクロウを大切に思っていること」
クロウは言葉を失った。
違う。
違うのに、エナ姉の中では完全に繋がってしまっている。
エナ姉がクロウを可愛がってきた。
クロウが花束を持ってきた。
しかも、エナ姉の好きな色の花だった。
だから、エナ姉の愛情が通じた。
きれいに並んでいる。
エナ姉の中では。
でも、クロウから見ると、その並びはかなり危ない。
「母様が渡してって言った」
クロウはもう一度言った。
「分かっているわ」
「分かってない」
「エルナリア様も、きっと見守ってくださっていたのね」
「違うと思う」
廊下の向こうから、母様の声がした。
「あらあら」
見ると、エルナリアが楽しそうに歩いてくる。
朝の光の中で、金の髪がやわらかく揺れていた。
「レオエナ、よかったわね」
「はい、エルナリア様」
エナ姉が花束を胸に抱く。
もう泣いている。
かなり泣いている。
クロウは母様を見る。
言いたかった。
これは、あなたのせいです。
かなり言いたかった。
でも、母様はにこにこしている。
少し困ったようで、少し面白がっているようにも見えた。
たぶん、完全には分かっていない。
でも、何か面白い方向へ転がっていることは分かっている。
そして、止める気があまりない。
その顔だった。
「母様」
「なあに、クロウ」
「これは」
「ええ」
母様はやさしく微笑む。
「レオエナに、とても似合うと思ったの」
「僕が選んだわけじゃない」
「でも、クロウが持ってきてくれたでしょう?」
その言い方は、ずるい。
持ってきたのは、確かにクロウだ。
けれど、それはクロウが選んだことにはならない。
ならないはずなのに、今のこの場では、なってしまっている。
「クロウが、私のために……」
「母様が」
「クロウが、私の好きな花を……」
「母様が渡せって」
「こんなに立派な花束を」
「聞いて」
聞いていない。
エナ姉は花束を抱きしめて、涙ぐんでいる。
母様は横で、まあまあ、と楽しそうに微笑んでいる。
クロウの中で、朝の音が少しずつ崩れていく。
説明したい。
訂正したい。
でも、エナ姉は泣いている。
母様は笑っている。
ここで強く否定したら、エナ姉はたぶん傷つく。
母様はたぶん、もっと困ったように微笑む。
そして話は、今よりさらに大きくなる。
クロウはそれが嫌だった。
花束の出どころを説明して、誰が受け取ったのか、誰が名乗らなかったのか、どうして母様が持っていたのか。
全部並べると、朝の廊下には置ききれない。
だから、言えない。
言えないまま、後悔だけが少しずつ増えていく。
最初から断ればよかった。
母様に自分で渡してもらえばよかった。
それか、花瓶に入れて、誰のものでもない花にしておけばよかった。
でも、もう遅い。
花束はエナ姉の腕の中にある。
そして、エナ姉は完全に喜んでいる。
その時だった。
「クロウ」
エナ姉が花束を片腕に抱いたまま、両手を広げた。
よくない。
かなりよくない。
「待って」
「ありがとう、クロウ!」
待って、は間に合わなかった。
エナ姉がクロウを抱きしめる。
いつもより強い。
かなり強い。
花束をもらった感動と、自分の愛情が通じたという大きな誤解と、朝の勢いが全部腕に入っている。
クロウの背中が、今までにない音を立てそうになった。
「エナ姉」
「嬉しいわ」
「強い」
「本当に嬉しい」
「背中が」
「クロウが、私に花を」
「背中がすごい」
エナ姉はようやく少し腕を緩めた。
「ごめんなさい」
「うん」
「でも、嬉しくて」
「分かった」
分かったけれど、背中は分かっていない。
朝から、かなりの負担だった。
クロウはそっと息を吸う。
背骨は無事だ。
たぶん。
無事ということにする。
でも、精神の方はかなり揃っていない。
朝食の時間が近い。
ブレッド。
ハム。
ベーコン。
ソーセージ。
サラダ。
きっと今日も食卓は整っている。
でも、そこへこの花束の話が持ち込まれる。
エナ姉は泣く。
母様は笑う。
ミアは面白がる。
テッドはたぶん、額を押さえる。
それが見えた。
見えてしまった。
もう、駄目だ。
「……学校に行く」
クロウは言った。
「朝食は?」
母様が聞く。
「いらない」
「クロウ?」
エナ姉が涙目でこちらを見る。
「いってきます」
クロウはそれだけ言って、背を向けた。
花束はエナ姉の腕の中にある。
エナ姉はまだ泣いている。
母様はまだ微笑んでいる。
クロウの背中は、まだ少し痛い。
そして胸の奥には、言えなかった言葉が残っている。
朝から、全部が多かった。
■学校
学校に着いても、落ち着かなかった。
門をくぐる。
靴を脱ぐ
靴箱を見る。
一足だけ、奥へ入りすぎている。
クロウはそっと戻した。
右。
左。
少しだけ揃う。
けれど、胸の奥は戻らない。
背中も、少し戻らない。
エナ姉の抱擁は、まだ残っていた。
痛みというより、圧だった。
朝から、背中に何かが居座っている感じがする。
教室へ入る。
いつもの声。
いつもの机。
いつもの朝。
のはずだった。
「クロウ!」
ガイがすぐにこちらを見る。
嫌な予感がした。
かなり、はっきりした予感だった。
「なあ、見学の日って決まった?」
「決まってない」
「そっか」
ガイは少し残念そうにする。
けれど、そこで終わらない。
「じゃあ、まだ先か?」
「分からない」
「分からない?」
ガイが首を傾げる。
クロウは鞄を机に置いた。
机の端に手を置く。
冷たい。
少しだけ、落ち着く。
「エナ姉は」
クロウは言った。
「突然来るかもしれない」
教室の空気が止まった。
「突然?」
エドが聞き返す。
「うん」
「何日って決まってないのか?」
「うん」
「じゃあ、今日かもしれないってことか?」
「かもしれない」
「明日かもしれない?」
「うん」
「来週かもしれない?」
「うん」
ガイの顔が、少しずつ明るくなる。
よくない。
クロウはすぐにそう思った。
これは、言い方を間違えたかもしれない。
でも、嘘は言っていない。
エナ姉は、予定通りに動くようで、たまにかなり感情で動く。
しかも今回は、学校に来ることを楽しみにしている。
テッドが止めたから、毎日は来ない。
一度だけ、それは守ると思う。
でも、その一度がいつなのか。
クロウにも分からない。
だから、先に言っておいた方がいいと思った。
突然来て教室が乱れるより、少しでも心構えがあった方がいい。
そう考えた。
けれど。
「突然来るかもしれないのか」
ガイが呟く。
「それ、逆にすごくないか?」
「何が」
「毎日、来るかもしれないってことだろ」
「違う」
クロウはすぐに言った。
「一度だけ」
「分かってる。一度だけだろ」
分かっている顔ではない。
エドが笑う。
「でも、いつ来るか分からないなら、毎日ちょっと楽しみだな」
「それだ」
ガイが頷く。
「今日かもしれないって思える」
クロウは少しだけ目を伏せた。
また増えた。
減らしたかったのに、増えた。
予定が決まっていないことを伝えたら、期待が毎日に薄く広がってしまった。
それは、よくない広がり方だった。
「それでさ」
ガイが少し身を乗り出す。
「あの人ってどんな人なんだ?」
まただ。
クロウは席に座る。
「どんな?」
「普段どんな感じなんだよ」
エドも寄ってくる。
「優しい?」
「優しい」
「やっぱり」
「何が」
「いや、見た目からして優しそうだったし」
ルークが真面目な顔で言う。
「家庭教師がついている良家の子女なら、教養も相当あるはずだ」
「まあ」
「音楽は?」
「バイオリンを弾く」
「すごいな」
サムが小さく言う。
「雰囲気、あったもんな」
クロウは机の端に触れた。
冷たい。
でも、空気はもう冷たくない。
少し熱い。
昨日からずっとそうだ。
「それとさ」
ガイが少し声を落とす。
「近所では、聖女様って呼ばれてるって聞いたんだけど」
クロウの指が止まった。
聖女。
また、その言葉。
アランの部屋で聞いたばかりだった。
光の聖女。
レオエナさん。
蜂蜜。
チョコレートスプレッド。
頭の中に、嫌な順番で並んでいく。
そのうえ、今朝の花束まで加わる。
母様。
名乗らなかった人。
エナ姉の涙。
背中への圧。
かなりよくない。
「本当なのか?」
ガイが聞く。
周りの生徒も、少し静かになる。
聞いていないふりをしている。
でも、聞いている。
クロウは小さく息を吐いた。
「言われてる」
「やっぱり!」
エドが声を上げた。
ガイの目が輝く。
「聖女様って、本当に呼ばれてるのか」
「でも」
クロウはすぐに続ける。
「でも、エナ姉は、聖女扱いされるの、嫌がってる」
一瞬、教室が静かになった。
クロウは今度こそ、理由を言おうとした。
本音を言われにくくなるから。
きれいなものとして見られると、距離ができるから。
エナ姉は、そういう扱いが少し苦手だから。
そう言おうとした。
けれど。
「謙虚……」
誰かが呟いた。
クロウは止まった。
「聖女様って呼ばれても、偉ぶらないんだ」
「すごいな」
「つつましいってこと?」
「本物っぽい」
「本物?」
「いや、そういうのって、自分から言わないからいいんだろ」
声が広がる。
クロウは少しだけ目を伏せた。
違う。
そうではない。
そうではないのに、またその形になる。
最近、同じものを見た。
アランだ。
エナ姉が聖女扱いを嫌がると言ったら、なんて謙虚な人だと言っていた。
ここでも同じだ。
理由を言う前に、きれいな形へ変えられていく。
「違う」
クロウは小さく言った。
「違う?」
ガイが聞き返す。
「そういう理由じゃなくて」
「じゃあ、どういう理由?」
聞かれた。
でも、その時にはもう、教室の空気は別の方向へ走り始めていた。
「聖女様って呼ぶのは、やめた方がいいんだよな?」
「うん」
クロウはすぐに頷いた。
「本人の前では、言わない方がいい」
「そっか」
ガイが少し考える。
「でもさ」
「うん?」
「なんか、分かるよな。そう呼ばれるの」
エドも頷く。
「見た感じ、そういう雰囲気あったし」
「本人が嫌がるなら言わないけど」
サムが小さく言う。
「でも、そう見えるのは分かる」
ルークが真面目に続けた。
「聖女という呼び方が適切でないなら、別の表現が必要なのかもしれない」
「別の表現?」
ガイが顔を上げる。
その顔が、よくない。
何かを思いつきかけている顔だった。
「金髪でさ」
ガイが言う。
「小柄で」
エドが続ける。
「綺麗で」
サムが小さく言う。
「やわらかい感じで」
少しだけ沈黙。
それから、ガイがぽつりと言った。
「金色の天使」
教室が一瞬止まった。
クロウも止まった。
ルークが眉をひそめる。
「本人の前では言うなよ」
「分かってるって」
ガイはそう言った。
あまり分かっていない顔だった。
エドが少し笑う。
「でも、ちょっと分かる」
「分かるな」
サムも小さく頷く。
「金色の天使か」
誰かが後ろで繰り返した。
その言葉が、教室の中に落ちる。
聖女様よりは、少し軽い。
でも、やはり遠い。
エナ姉本人とは、少し違う場所に置かれている。
クロウは言葉を探した。
それも違う。
そう言いたかった。
でも、どこから直せばいいのか分からない。
聖女様ではない。
金色の天使でもない。
エナ姉は、エナ姉だ。
優しくて。
近くて。
少し重くて。
抱きしめる力が強くて。
今朝もクロウの背中をかなり大変なことにして。
聖女扱いされるのを嫌がっていて。
でも、人を助けたがる。
それをどう言えばいいのか、分からなかった。
授業が始まっても、休み時間にはまた戻ってくる。
「クロウ、見学の日分かった?」
「まだ」
「金色の天使、いつ来るんだろうな」
「本人の前では言うなって」
「分かってる」
「分かってない顔してるぞ」
「突然来るかもしれないんだよな?」
「……うん」
「じゃあ、今日もありえる?」
「分からない」
「明日も?」
「分からない」
また声が増える。
話が割れる。
広がる。
クロウの言葉が、置く場所を失う。
クロウは机の上の筆記具を揃えた。
一本。
二本。
角度。
それでも、戻らない。
エナ姉の話題を引き延ばせば、学校が乱れる。
だから、一度来てもらうことにした。
来てもらえば、終わるかもしれないと思った。
けれど今は。
早く来てほしいと思っている。
来て、見て、終わってほしい。
そんなふうに思ってしまっている。
それが少し嫌だった。
エナ姉のせいではない。
学校のせいでもない。
でも、学校の音はもう、ずっと揃っていない。
早く終わってほしい。
早く来てほしい。
同じ意味なのに、反対の気持ちみたいだった。
クロウは窓の外を見る。
校庭の木が揺れている。
風はまだ春のものだった。
やわらかくて、強くない。
でも、教室の中だけが、少し暑い。
クロウは小さく息を吐いた。
早く来ないかな。
そう思った自分に、少しだけ驚いた。
そして、もっと困った。
来たら来たで、きっとまた何かが増えるとクロウは分かっていたから。




