花束はまだ、知らない
――帝国暦三五〇年・春中頃 帝国人民学校・地方分校――
レオエナが、もう一度だけ見学に来る。
そう言った時、教室の空気は跳ねた。
「本当か?」
ガイが真っ先に声を上げる。
「本当に来るのか?」
「……一度だけ」
クロウは言った。
「頼んではみた」
「すごいじゃん、クロウ!」
エドが笑う。
「やっぱり頼れるな」
「来る日は決まっているのか?」
ルークがすぐに聞く。
「まだ」
「先生には?」
「まだ」
「見学なら、先生に話を通す必要があるな」
「うん」
ルークは真面目に頷いた。
ガイはすでに少し落ち着きがなかった。
「一度だけか」
「うん」
「一度だけでも、十分だよな」
そう言いながら、十分ではなさそうな顔をしている。
サムも小さく頷いた。
「また見られるなら、それでいい」
クロウは机の端に手を置いた。
冷たい、でも、今日はあまり落ち着かない。
これで、少しは静かになると思っていた。
来るかどうか分からないから、話が続いていたのだと思っていた。
来ると決まれば、話題は少し落ち着く。
そう考えていた。
けれど、違った。
「いつ来るんだ?」
「どんな服で来るんだろうな」
「また授業見るのかな」
「昼休みもいるのか?」
「クロウ、話せる時間ある?」
声が、増えた。
増え方が、よくなかった。
前よりも、はっきりしている。
不確かな噂ではなく、予定になったからだ。
クロウは小さく息を吐く。
筆記具を揃える。
右。
左。
少しだけ。
でも、教室の音は揃わない。
授業が始まっても、休み時間になるたびに話は戻ってくる。
「なあ、クロウ」
ガイがまた来る。
「見学の日、分かったらすぐ教えてくれよ」
「……うん」
「絶対だぞ」
「うん」
エドが横から笑う。
「ガイ、落ち着けって」
「落ち着いてる」
「全然落ち着いてない」
ルークが軽く息を吐く。
「そもそも、見学者に迷惑をかけるなよ」
「分かってるって」
ガイはそう言う。
でも、分かっている音ではない。
クロウはそれを聞きながら、黒板を見る。
文字はまっすぐだった。
チョークの音も、いつも通りだった。
けれど、教室の中だけが少し浮いている。
これは、学校だ。
学校のはずだ。
でも最近、少しずつ違う場所みたいになっている。
クロウは指先で机の角をなぞった。
ここは、家ではない。
そのはずなのに。
今日の教室には、家の気配が混ざっていた。
レオエナの名前。
森の方のお屋敷。
ザザ家。
そういうものが、授業の隙間にまで入り込んでくる。
昼休みも、あまり落ち着かなかった。
弁当を開く。
箸を揃える。
食べる。
それだけのことにも、少しだけ力がいる。
「クロウ」
トムが横から声をかけた。
「大丈夫?」
「うん」
「大丈夫そうじゃないけど」
「……少しだけ」
トムはそれ以上聞かなかった。
ただ、自分の弁当の包みを少し寄せる。
机の上に、クロウの手元だけ少し広い場所ができた。
それだけで、少し息がしやすくなる。
「ありがとう」
「ん」
トムは軽く返す。
放課後まで、少し長かった。
放課後。
工作室へ行くと、ようやく音が戻った気がした。
机の上に置かれた工具。
トムが持ってきた小さな部品。
リラの楽譜。
窓から入る午後の光。
どれも、強すぎない。
トムは機械の話をする。
リラは時々笑う。
クロウは歯車の欠けたところを見て、置く場所を考える。
その後、音楽室へ行く。
リラのバイオリン。
クロウのヴィオラ。
トムの足先で取る小さな拍。
少しずつ、胸の奥が戻っていく。
今、安らぎをくれるのは、放課後だけだった。
クロウは、そう思った。
それが少し怖かった。
放課後まで変わってしまったら。
きっと、学校は本当に学校でなくなる。
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
夜。
クロウが自分の部屋で本を閉じた頃、扉が静かに叩かれた。
「クロウ」
母様の声だった。
「うん」
扉が開く。
エルナリアが入ってくる。
金の髪をやわらかく揺らし、いつものように穏やかに微笑んでいる。
その手には、花束があった。
白と淡い黄色の花。
少しだけ橙の花も混ざっている。
きれいに束ねられていた。
でも、母様が用意したものとは少し違う気がした。
リボンの結び方が、屋敷のものではない。
「どうしたの、それ」
クロウが聞く。
母様は少し困ったように笑った。
けれど、その目元はどこか楽しそうでもあった。
「街で、プラムと歩いていたら、突然いただいたの」
「突然?」
「ええ」
母様は花束を見る。
「とても丁寧な方だったわ。少しお顔が赤くて……それで、花束だけ渡して、そのまま行ってしまったの」
「名前は?」
「聞けなかったわ」
母様は困ったように笑う。
でも、やっぱり少しだけ微笑んでいる。
「名乗ってくださらなかったし、プラムが少し怖い顔をしていたから、余計に急いでしまったのかもしれないわ」
「プラム、怖い顔してた?」
「少しだけ」
母様は楽しそうに言う。
「でも、プラムは私を守ろうとしてくれただけなのよ」
「うん」
「それに」
母様は花束を少し持ち上げた。
「花束は、きれいでしょう?」
「うん」
クロウは花束を見る。
きれいだった。
色も整っている。
香りも強すぎない。
ただ、どこから来たものなのか分からない。
誰に向けられたものなのかも、はっきりしない。
名乗らなかった人。
赤い顔。
丁寧な人。
花束。
クロウの頭の中で、いくつかの部品が並びかける。
でも、まだ噛み合わない。
噛み合っていないものを、無理に動かすのはよくない。
「母様に?」
「たぶん」
母様は首を傾げる。
けれど、その声はあまり困りきっていない。
むしろ、何かを少し面白がっているようにも聞こえた。
「でも、私が持っているより、レオエナに渡した方が似合うと思うの」
「レオエナに?」
「ええ。あの子、こういう色が似合うから」
母様は花束をクロウへ差し出した。
「クロウから渡してくれる?」
「僕が?」
「ええ」
「母様からじゃなくて?」
「私からでもいいのだけれど」
母様は少しだけ目を細める。
「クロウから渡された方が、レオエナは喜ぶと思うわ」
クロウは花束を見る。
白。
淡い黄色。
少しの橙。
きれいだ。
きれいだけれど、何かが少しだけ引っかかる。
どこから来たものか分からない花束。
誰のためだったのか分からない花束。
それを、レオエナに渡す。
たぶん、明日また何かが増える。
そう思った。
でも、母様は穏やかに微笑んでいる。
花束も、行き場を待っているように見える。
「……分かった」
クロウは受け取った。
「明日、渡す」
「ありがとう」
母様は嬉しそうに笑った。
少しだけ、いつもより楽しそうだった。
もしかすると、母様は何かに気づいているのかもしれない。
でも、クロウにはまだ分からない。
分からないものは、まだ置いておくしかない。
そのあと、母様はいつものようにベッドの端へ腰かけた。
クロウも布団に入る。
花束は、机の上の水差しに入れた。
少しだけ角度を直す。
花の向きがそろう。
けれど、全部同じ方向にはしない。
その方が、花らしいから。
「今日は、学校で何があったの?」
母様が聞く。
いつもの声だった。
急がない。
強くない。
クロウは少しだけ考える。
「エナ姉がまた見学に来るって言った」
「まあ」
母様の目がやわらかくなる。
「みんな、喜んだ?」
「喜びすぎた」
「あら」
「静かにならなかった」
母様は少しだけ困ったように笑う。
「レオエナは、目立つものね」
「うん」
「クロウは困った?」
「少し」
「そう」
母様はそれ以上、すぐには聞かない。
クロウが言えるところだけ、待ってくれる。
それが、落ち着く。
「放課後は、少し戻った」
「トムくんとリラちゃん?」
「うん」
「よかった」
母様は微笑む。
クロウも、小さく頷いた。
話しているうちに、昼の教室のざわめきが、少しずつ遠くなっていく。
ガイの声。
エドの笑い。
ルークの質問。
サムの視線。
全部が、母様の声の中で少し薄くなる。
夜は、静かだった。
花束の匂いが、ほんの少しだけ部屋に残っている。
甘すぎない。
でも、知らない匂い。
クロウは少しだけそれを気にしながら、母様の話を聞いた。
「そろそろ眠りましょう」
母様が言う。
「うん」
布団の端を整えてくれる。
右。
左。
少しだけ折り返す。
きつくない。
でも、崩れていない。
「おやすみ、クロウ」
「おやすみ、母様」
母様は身をかがめる。
額に、そっと口づけた。
軽くて、やわらかい。
いつもの挨拶。
クロウは目を閉じる。
今日は、教室が少し乱れていた。
放課後だけが安らぎだった。
知らない花束も、机の上にある。
けれど、夜は穏やかだった。
母様の足音が、静かに遠ざかる。
扉が閉まる音も、小さい。
クロウは眠りに落ちる前、机の上の花束の匂いを少しだけ感じた。
その花束が、誰のものだったのか。
まだ、知らないまま。




