それはもう病気です
――帝国暦三五〇年・春中頃 アランの家―
アランの部屋は、整っている。
本棚。
机。
寝台。
窓際の花瓶。
すべてが、きちんと場所を持っている。
それなのに、部屋の中の会話だけが、さっきからずっと散らかっていた。
「レオエナ……」
アランは寝台の上で、その名を小さく繰り返した。
「レオエナさん」
頬が赤い。
目も少し潤んでいる。
体調が悪いのかと思った。
けれど、たぶん違う。
少なくとも、クロウの知っている病気とは少し違う。
「美しい名前だ」
アランは、真剣な顔で言った。
クロウは隣のテッドを見る。
テッドは額に手を当てていた。
「兄様」
「なんだ」
「さっきは、レーミアの方がいいって言ってた」
「言っていたな」
「いいの?」
「俺に聞くな」
アランは二人の声が聞こえていないのか、窓の方を見ている。
窓の向こうに、何か見えているような顔だった。
たぶん何もない。
少なくとも、レオエナはいない。
「金の髪。小柄で、柔らかな雰囲気。あの佇まい」
アランは静かに言う。
「まるで、光をまとった聖女のようだった」
クロウは、そこで少しだけ顔を上げた。
「聖女」
「うん?」
アランがこちらを見る。
「エナ姉」
クロウは少し考える。
「近所で、そう呼ばれてる」
部屋が止まった。
アランの目が、ゆっくり見開かれる。
「……本当に?」
「うん」
「聖女」
アランは胸に手を当てた。
「やはり」
テッドの顔が、さらに険しくなる。
「やはり、ではない」
「いや、テッド」
アランは真面目だった。
「僕の目は間違っていなかった」
「まず名前を間違えかけた」
「それは訂正された」
「年齢も確認していなかった」
「今、確認した」
「それで安心するな」
アランは深く頷いた。
「分かっている。軽々しく言えることではない」
「分かっている顔ではない」
「だが、確かに思う」
アランはまっすぐ言った。
「僕が見たのは、レオエナさんだったのだと」
クロウは少しだけ椅子に座り直した。
確定してしまった。
たぶん、今ので。
レオエナ。
聖女。
光。
名前。
買い物。
全部がアランの中で、きれいに並んでしまったらしい。
クロウから見ると、かなり斜めに置かれている。でも、アランには真っ直ぐに見えているようだった。
「……人は、こんなに盲目になるんだ」
クロウが小さく言う。
テッドが低く答える。
「俺も知らなかった」
少し間を置いて、苦々しく続ける。
「アランが、こんなやつだったとは」
アランは聞いていない。
「レオエナさんは、普段どんな方なんだい?」
目が真剣だった。
クロウは少しだけ困る。
「どんな?」
「そう。どんなことが好きで、どんな話をして、どんな声で笑うのか」
「アラン」
テッドが止める。
「少し落ち着け」
「落ち着いている」
「落ち着いていない」
「とても落ち着いている」
アランは真面目に言う。
「だから、聞きたい」
クロウは、言葉を選ぶ。
エナ姉の話。
どこまで言っていいのか。
何を言うと、アランの中で変な形になるのか。
すでにかなり変な形になっている気もする。
「エナ姉は」
クロウはゆっくり言う。
「聖女扱いされるの、嫌がる」
アランが息を呑んだ。
「なんて謙虚な人だ」
早い。
とても早い。
クロウは目を伏せる。
「そういう意味じゃないと思う」
「自らを聖女と呼ばれることを望まない。まさに、本当に清らかな方だからこそ」
「兄様」
「なんだ」
「もう駄目かもしれない」
「俺もそう思い始めている」
テッドは呆れた顔でアランを見る。
「聖女扱いが嫌というのは、そういう美談ではないだろう」
「では、なぜ?」
アランが真剣に聞く。
テッドは答えに詰まった。
クロウは少しだけ考える。
「たぶん」
「うん」
「本音を言われにくくなるから」
アランは静かに目を伏せた。
「……そこまで人の心を考えて」
「いや」
クロウは少しだけ手を上げる。
「そういう」
「なんて優しい人なんだ」
遮られた。
言葉が入らない。
アランの中に、もうレオエナの形ができている。
その形に合うものだけが、きれいに吸い込まれていく、合わないものは、アランの方で少し形を変えてしまう。
これは、かなり整えにくい。
「あと」
クロウは試しに言ってみる。
「よく抱きしめてくる」
テッドが小さく嫌な顔をした。
「それは言わなくていい」
「困ることもある」
クロウは続ける。
「かなり近いし、少し強い」
アランがクロウを見た。
その目が、少しだけ羨ましそうになる。
「君は、そんなにも愛情深く抱きしめられているのか」
「……困ることもあるって言った」
「なんて愛情深い人なんだ」
テッドが深く息を吐いた。
「お前、さっきから全部褒めるな」
「褒めるところしかない」
「ある意味すごいな」
クロウは、さらに少し後ろへ座った。
アランの熱が、部屋の空気に移っている気がする。整っていた部屋まで、少しだけ暑い。
「それで」
テッドがようやく本題に戻すように言った。
「結局、お前は俺たちを呼んで何がしたかったんだ」
アランは真面目な顔に戻る。
「そうだった」
「忘れていたのか」
「忘れてはいない。ただ、心が乱れていた」
「自覚はあるんだな」
「ある」
アランはテッドを見る。
「妹さんが、何を好きなのか聞いてほしい」
テッドの眉が動く。
「俺にか」
「できれば」
「それは、クロウの方が詳しい」
テッドは即答した。
クロウは顔を上げる。
「僕?」
「そうだ」
「なんで」
「お前の方がエナと一緒にいる時間が長い」
「……そうかも」
アランが、ぱっとクロウの方を向いた。
そして、両手でクロウの手を取った。
近い。
かなり近い。
「クロウ」
声が真剣だった。
「頼む」
「近い」
「弟よ」
「弟ではない」
クロウはすぐに言った。
アランは聞いていない。
「君だけが頼りだ」
「聞いて」
「頼む。彼女が何を好むのか、何を喜ぶのか、教えてくれ」
手を握られている。
ずっと。
アランの手は熱い。
病気なのか、恋の何とかのせいなのかは分からない。
ただ、熱い。
クロウはテッドを見る。
助けてほしい。
そう思った。
テッドは少しだけ目を細めていた。
それから、なぜか短く言う。
「クロウ。教えてやれ」
助けてくれなかった。
「兄様」
「教えれば離すだろう」
「たぶん?」
「たぶん」
「たぶんはやめて」
「今は仕方ない」
クロウは小さく息を吐いた。
手を握られたまま考える。
エナ姉が好きなもの。
何が好きだろう。
人を助けること。
クロウを抱きしめること。
メープルシロップ。
外では聖女扱いされることは苦手。
家では少し困った姉。
どれを言えばいいのか。
どれを言うと、余計に悪化するのか。
食べ物なら、まだ安全かもしれない。
「食べ物なら」
クロウは言った。
アランの目が輝く。
「食べ物なら?」
「蜂蜜かな」
「蜂蜜」
「ダンジュにも行くし」
「ダンジュの蜂蜜……」
アランは胸に刻み込むように言う。
「あと」
クロウは少し考える。
「チョコレートスプレッドとか」
「チョコレートスプレッド」
「でも、それはミアも好き」
アランの動きが一瞬止まる。
「レーミアさんも」
「うん」
「姉妹で同じものを好む……」
まずい。
また何か綺麗にされかけている。
クロウは慌てて言う。
「朝食で食べるだけ」
「朝食」
「パンに塗る」
「パンに」
「普通」
「普通の朝食を好む。なんて慎ましい」
「兄様」
「諦めろ」
テッドが低く言った。
アランは握ったクロウの手を上下に振った。ぶんぶんと。
「ありがとう、クロウ」
「手」
「本当にありがとう」
「手」
「君はもう弟のようなものだ」
「違う」
「必ず礼はする」
「手を離して」
ようやく、アランははっとしたように手を離した。
「すまない」
クロウは手を見た。
少し熱が残っている。
この部屋は整っているのに、今日のアランはずっと多い。かなり多い。
「兄様」
「なんだ」
「もう元気みたいだから、帰っていいよね」
テッドはアランを見た。
アランは頬を赤くしながら、まだ何かを呟いている。
「レオエナさん……蜂蜜……ダンジュ……チョコレートスプレッド……」
テッドは深く息を吐いた。
「そうだな」
「見舞い、終わり?」
「終わりだ」
「病気は?」
「悪化したが、寝込む種類ではない」
クロウは立ち上がった。
アランが顔を上げる。
「もう帰るのかい」
「うん」
「ありがとう、クロウ。ありがとう、テッド」
アランは真剣に言う。
どう見ても、来た時より元気だった。
少なくとも、声は大きい。
目も輝いている。
病人には見えない。
ただ、重症には見える。
「アラン」
テッドが低く言う。
「しばらく妙な行動はするな」
「努力する」
「努力ではなく、するな」
「分かった。努力する」
「分かっていない」
クロウは扉の方へ向かう。
部屋を出る直前、アランの声が聞こえた。
「レオエナさん……」
少し間を置いて、また。
「レオエナさん……」
クロウは背中に、いやな予感が走るのを感じた。
廊下に出る。
扉が閉まる。
アランの部屋は見えなくなった。
けれど、声はまだ少し耳に残っている。
レーミア。
レオエナ。
聖女。
蜂蜜。
弟。
手を握られた熱。
全部が、頭の中でばらばらに転がっていた。
クロウは小さく息を吐く。
整わない。
とても、整わない。
テッドが隣で頭を抱えた。
「あいつが、あんなやつだったとは」
「兄様」
「なんだ」
「恋の何とかって、怖いね」
「……ああ」
テッドは、笑えない顔で頷いた。
帰り道、クロウはいつもより少しだけ足元を見て歩いた。
石畳の並びは、きれいだった。
けれど、心の中の音は。
しばらく、全然揃いそうになかった。




