たぶん、それは病気です
――帝国暦三五〇年・春中頃 アランの家――
休日。
クロウはテッドと一緒に、アランの家へ向かっていた。
アランは最近、体調を崩しているらしい。外にもあまり出ていないと、テッドが言っていた。
だから今日は、見舞いだった。
テッドはいつも通り歩いている。
背筋は伸びている。
足取りも乱れない。
けれど、少しだけ口数が少なかった。
「心配?」
クロウが聞くと、テッドは一瞬だけこちらを見た。
「多少はな」
「多少」
「かなり、というほどではない」
「そう」
「ただ」
テッドは少しだけ眉を寄せる。
「あいつが体調不良で外に出ないというのは、少し珍しい」
クロウは頷いた。
アランは、清潔で丁寧な人だった。
無理に明るくはしない。
けれど、人と会う時はきちんと整えている。
話を聞く時も、音を合わせる時も、相手の呼吸を待つ。
そういう人が、外に出られない。
それは、少しだけ気になる。
アランの家は、サザ子爵家ほど大きくはない。
けれど、手入れの行き届いた屋敷だった。門の金具は磨かれている。
玄関前の植え込みも、左右がきれいに揃っていた。
クロウはそれを見て、少しだけ息がしやすくなる。
「いい家だね」
「そうだな」
テッドが答える。
「派手ではないが、きちんとしている」
「うん」
それは、少しアランに似ていた。
取り次ぎを受けて、二人はアランの部屋へ案内された。
部屋の中は、静かだった。
本棚。
机。
整えられた寝台。
窓際には、小さな花瓶。
どれも清潔だった。
ただ、空気だけが少し熱い。
寝台の上で、アランが上半身を起こしていた。
顔色は悪くない。
けれど、頬が少し赤い。
「テッド」
アランが言う。
いつもより、声が少しだけ高い。
「来てくれたんだね」
「ああ」
テッドは椅子に座る。
「具合はどうだ」
「悪くはない」
「外に出られないと聞いたが」
「……少し、胸が苦しくてね」
クロウは首を傾げた。
胸。
苦しい。
頬が赤い。
熱。
それなら、やはり病気なのだろうか。
「医者には診てもらったのか」
テッドが聞く。
「ああ。昨日、病院へ行った」
「なら、病名は何だ」
テッドは当然のように聞いた。
病院へ行った。
診てもらった。
なら、病名がある。
話はそこで揃うはずだった。
けれど、アランは少しだけ目を伏せた。
「……テッド」
「なんだ」
「君には、妹がいるよね?」
クロウは、そこでまばたきをした。
病院。
病名。
妹。
並べてはいけないものが、同じ机の上に置かれた気がした。
テッドも一瞬だけ黙った。
「待て」
「うん?」
「今、俺は病名を聞いた」
「分かっている」
「ではなぜ妹の話になった」
アランは真剣な顔で答えた。
「病の根に関わる」
クロウは、少しだけテッドの方へ寄った。
「兄様」
「なんだ?」
「帰る?」
テッドは一瞬、目を伏せた。
少しだけ本気で考えている顔だった。
「……まだ早い」
「早い?」
「来てすぐだ」
「でも、もう少し遅い気もする」
「それは分かる」
アランが傷ついたように眉を下げる。
「二人とも、なぜ帰る話をしているんだい」
テッドは低く答えた。
「病名を聞いたら妹の話になったからだ」
「根に関わるんだ」
「根は後でいい」
クロウは小さく頷いた。
今のアランは、かなり乱れている。
病院。
病名。
妹。
病の根。
言葉が、ひとつも正しい場所に置かれていない。
クロウは医者ではない。
だから、アランを治すことはできない。
そして、治せないものの近くに長くいると、自分まで乱れそうだった。
「アラン」
テッドが低く言う。
「確認する。お前は、病院に行った」
「ああ」
「医者に診てもらった」
「ああ」
「病名は聞いていない」
「……聞いたような気もする」
「では言え」
アランは少し黙った。
そして、ひどく真面目な顔で言った。
「胸の奥が熱く、夜になると姿が浮かび、名前を知らないままでは眠れない病だ」
「それは病名ではない」
テッドが即答した。
「症状だ!」
「では、病名は?」
「だから、それを俺が聞いている」
クロウはさらに半歩下がった。
やはり近いと乱れる。
アランは、今かなりよくない。
そして本人だけが、それを少し詩的なものだと思っている。
「医者は、静養しろと」
「名医だな」
テッドは真顔で言った。
たぶん、褒めてはいなかった。
「つまり、明確な病名は?」
「聞いていない」
「聞け」
「胸がいっぱいで」
「胸を空けろ」
クロウはアランを見た。
アランは、本当に真剣だった。
真剣に乱れていた。
そこが、一番よくなかった。
「それで、妹の話だ」
「戻すな」
テッドが遮る。
アランは胸に手を当てた。
「だが、どうしても聞きたい」
「何を」
「君の妹さんの名前だ」
テッドは眉間に皺を寄せる。
「……妹は二人いる」
アランは一瞬、息を止めた。
「二人」
「ああ。レオエナと、レーミア」
「レーミア」
アランが、その名を繰り返した。
もう一度。
「レーミア……」
それから、胸に手を当てる。
「なんて美しい響きなんだ」
クロウは少しだけ動きを止めた。
アランは、清潔で丁寧な人だった。
話をよく聞いてくれる。
音を合わせる時も、こちらが入る場所を待ってくれる。
テッドの親友で、見習うところもある人だと思っていた。
そのアランが、今。
寝台の上で、胸に手を当てている。
頬を赤くしている。
そして、レーミアという名前を、まるで祈りの言葉みたいに繰り返している。
クロウの中で、何かが音を立てて崩れた。
かなり大きな音だった。
清潔で丁寧だった人。落ち着いていて、こちらの話をちゃんと聞いてくれる人。
兄様の親友で、少し大人に見えていた人。
そのアランが。
レーミア。
光の女神。
病の根。
胸がいっぱい。
その順番で並んでいる。
もう、元の場所には戻らない気がした。
「兄様」
「なんだ」
「アランって、こういう人だったの?」
テッドの眉が、わずかに動いた。
アランも、ぱちりと瞬きをする。
クロウは言ってから、少しだけ後悔した。
かなり失礼だった。
でも、もう出てしまった。
「……いや」
テッドは少しだけ額に手を当てる。
「俺も、今かなり困っている」
「そう」
クロウはアランを見る。
「少し、見習うところが減った」
「クロウ」
テッドが低く呼ぶ。
「うん」
「それは、だいぶ言っている」
「分かってる」
でも、言ったあとだった。
アランは胸に手を当てたまま、少しだけ傷ついたような顔をした。
「クロウ、僕はそんなにおかしいだろうか?」
クロウは少し考えた。
アランは病人かもしれない。
体調が悪い人には、優しくした方がいい。
でも、今は正直に言った方がいい気がした。
「うん」
部屋が静かになった。
「かなり」
クロウは付け足した。
テッドが片手で額を押さえる。
「クロウ」
「うん」
「今日は、だいぶ言うな」
「アランがだいぶ乱れてるから」
「否定はしない」
アランは少しだけ目を伏せた。
「そうか。僕は、それほどまでに」
「病気なら、まだよかった」
テッドが低く言った。
クロウは小さく頷く。
「だいぶ熱があるんじゃない?」
「……かもしれん」
テッドの顔は笑っていなかった。
アランは真面目だった。
真面目な顔で、さらに言う。
「レーミア。光の女神のような名前だ」
クロウは目を伏せた。
ミアは、黒猫を抱いて、人の弱点を見つけるのが好きで、無邪気な顔で人を揺らす子だ。
光の女神。
その言葉が、うまく噛み合わない。
どこかが大きくずれている。
「ミアは」
クロウは小さく言った。
「光というより、物陰から見てる」
テッドがついに少し吹き出しかけた。
「クロウ」
「うん」
「それも、だいぶ言っている」
「分かってる」
アランは不思議そうに首を傾げる。
「物陰から見ている?」
「うん」
「控えめということかな」
「違う」
クロウは即答した。
「弱点を探してる」
アランは少し黙った。
テッドは目を閉じた。
「……もう帰るか、何もなかった事にして」
テッドが言った。
クロウはすぐに頷きかけた。
「うん」
「待ってくれ」
アランが慌てる。
「まだ何も話せていない」
「俺は病名を聞きに来た」
テッドが言う。
「病名は出てこない。妹の名は出た。光の女神も出た。十分だ」
「十分ではない」
「過剰だ」
クロウは小さく頷いた。
「多い」
「クロウも言っている」
「多いけど、帰る前に聞いてほしい」
アランは真剣だった。
乱れているのに、真剣だった。
だから、帰りにくい。
テッドは深く息を吐いた。
「手短にしろ」
「君の妹さんに一目惚れした!!」
手短過ぎだった。
けれど、かなりよくなかった。
テッドが動かなくなった。
クロウも動けなかった。
アランの言葉で部屋の空気が、妙な形で固まる。
アランは頬を赤くしている。
けれど、目は真剣だった。
だから、余計に困る。
クロウとテッドは、ほとんど同時に一歩下がった。
「レーミアに?」
テッドが低い声で言う。
「本気で?」
クロウも小さく続ける。
アランは胸に手を当てた。
「本気だ!」
「あいつ八歳だぞ」
テッドの声は、いつもより硬い。
アランが固まった。
「……八歳?」
クロウは頷く。
「ミアは八歳」
「ミア?」
「レーミア」
「八歳」
アランはもう一度繰り返した。
今度は先ほどのような甘い響きではなく、単純に情報を処理しきれていない声だった。
クロウは、少しだけ安心しかける。
誤解なら、ここで戻るかもしれない。
けれど、アランはすぐに首を振った。
「待ってくれ」
テッドが目を細める。
「何を待つ?」
「僕が見た方は、八歳には見えなかった」
クロウの中で、また何かがずれた。
「見た?」
テッドが聞く。
「いつだ。家で会ったことはないはずだ」
「街で」
アランは真剣に答える。
「この前、クロウと楽しそうに買い物をしていた」
クロウは目を伏せた。
街。
買い物。
楽しそう。
最近、その話題はあちこちから戻ってくる。
「どこ?」
クロウが聞く。
「店の名前までは、はっきり覚えていないが」
アランは少し考える。
「蜂蜜の店だったと思う。瓶がきれいに並んでいた」
「ダンジュ?」
「そうだ。D’Anjou。たぶん、その近く」
D’Anjou。(ダンジュ)
サザリクの街にある蜂蜜の名店。
母様とも行く。
エナ姉とも行く。
季節の蜂蜜や、花の名前がついた蜂蜜が並ぶ、瓶の配置がとてもきれいな店だった。
だから、ダンジュの近くで見たというだけでは分からない。
母様かもしれない。
エナ姉かもしれない。
ただ、アランの様子を見る限り、母様の話にすると、さらに別の方向へ壊れそうだった。
「金髪?」
クロウは聞く。
「金髪だった」
「小柄?」
「とても」
「青い目?」
「遠目だったけれど、そう見えた」
クロウはテッドを見る。
テッドもクロウを見る。
それは、レーミアではない。
八歳には見えなかったなら、なおさら違う。
「……エナ姉かも」
クロウが言った。
アランが顔を上げる。
「エナ姉?」
「レオエナ」
テッドが低く補足した。
「十四歳だ」
「十四歳」
アランは止まる。
そして、少しだけ頬を赤くしたまま、静かに言った。
「レオエナ……」
テッドの眉間に皺が寄る。
「今度はそっちか」
「いや、待ってくれ」
アランは真面目に手を上げる。
「僕は、最初からその方を見たのだと思う」
「ではなぜレーミアで反応した」
「名前の響きが美しかったから」
「お前、今かなり危険なことを言っている自覚はあるか」
「ある」
アランは真剣に頷いた。
「だから謝っている」
「まだ謝罪の場所が定まっていない」
クロウは少しだけ頭を押さえたくなった。
レーミア。
レオエナ。
名前。
年齢。
街。
ダンジュ。
蜂蜜。
全部が少しずつずれている。
アランは清潔で丁寧な人だった。
話をよく聞いてくれる。
音を合わせる時も待ってくれる。
でも今は、全然整っていない。
「整理する」
テッドが言った。
声が少し硬い。
「アラン。お前が見たのは、金髪で小柄な女性」
「そうだ」
「クロウと一緒に買い物をしていた」
「ああ」
「場所はダンジュの近く」
「たぶん」
「八歳ではないように見えた」
「そうだ」
「なら、レーミアではない」
「分かった」
「おそらく、レオエナだ」
アランの顔がさらに赤くなる。
「そうか」
「そうか、ではない」
テッドは低い声で言う。
「レオエナも十四歳だ」
「十四歳……」
アランは繰り返した。
「君より四つも年下だ」
「分かっている」
「分かっている顔ではない」
「分かっている」
アランは真面目に言った。
「けれど、あの姿が頭から離れなくて」
テッドが目を閉じた。
クロウは机の上を見る。
アランの部屋は整っている。
本の角も揃っている。
花瓶の位置もいい。
なのに、話だけがどうしてこんなに散らかるのだろう。
「兄様」
「なんだ」
「これは、病気?」
「病気ならよかった」
テッドは笑えない顔で言った。
「違うの?」
「恋の何とかだろうな」
「恋の何とか」
「かなり厄介な病の方だ」
アランは赤い顔のまま、しかし真面目に頭を下げた。
「すまない、テッド」
「だから、謝罪をどこに置いている」
「君の妹君を、勝手に想ってしまったことに」
「想う前に、年齢と相手を確認しろ」
「それは本当にそうだ」
アランは深く頷いた。
クロウは少しだけ息を吐いた。
見舞いに来たはずだった。
病名を聞くはずだった。
なのに、病名は出ず、妹の名前が出て、レーミアで熱が上がり、レオエナの姿でさらに話が乱れた。
これは、どう直せばいいのだろう。
「アラン」
クロウが小さく言う。
アランがこちらを見る。
「うん?」
「エナ姉は、たぶん」
「たぶん?」
「近いよ」
「近い?」
「距離が」
アランは瞬きをする。
テッドは目を伏せた。
「それはそうだな」
「優しいけど、少し重い」
クロウは言う。
「だから、見ただけより多いと思う」
アランは真剣な顔で聞いている。
「つまり?」
クロウは少し考えた。
「見るだけの方が、たぶん綺麗」
一瞬、部屋が静かになった。
テッドが口元を押さえる。
笑いかけて、こらえた顔だった。
アランは深く考え込んだ。
「見るだけの方が、綺麗」
「うん」
「近づくと、違う?」
「違う」
「悪い意味で?」
「多い意味で」
アランは胸に手を当てた。
「多い……」
それから、ゆっくり目を伏せた。
「つまり、彼女はただ遠くから眺めるだけの花ではなく、近づけば香りも温度も、想いの深さも分かる人なのだね」
クロウは止まった。
テッドも止まった。
「……違う」
クロウは言った。
かなり早かった。
「違うのかい?」
「違う」
「でも、優しくて、少し重いのだろう?」
「重い」
「なら、それほどまでに愛情深いということだ」
「違う」
「距離が近いということは、相手を大切に思っているからだ」
「違う」
「見ただけより多いということは、知れば知るほど魅力が増すということでは?」
「違う」
クロウは一歩下がった。
今のは、かなり危ない。
言ったことが、全部きれいな方向へ変換されていく。
悪い部品が、勝手に金色に塗られて戻ってくるみたいだった。
「兄様」
「なんだ」
「帰ろう」
テッドは少しだけ考えた。
「……そうだな」
アランが慌てて顔を上げる。
「待ってくれ。なぜ今、帰る話になるんだい」
テッドは低く答えた。
「クロウの忠告を、すべて都合よく美化したからだ」
「美化?」
「ああ」
テッドは椅子から立ち上がりかける。
「それはもう、会話ではない。変換だ」
クロウは小さく頷いた。
「危ない」
「危ない?」
アランが不思議そうにする。
クロウは真面目に言った。
「僕の言葉が、アランの中で別のものになってる」
「別のもの」
「うん」
「それは、詩になっているということかな」
「帰ろう」
今度はクロウが、ほとんど即答した。
テッドも立ち上がった。
「よし、帰るか」
「待ってくれ!」
アランが寝台の上で身を乗り出す。
「僕は真剣なんだ」
「真剣だから困っている」
テッドが言う。
「冗談なら殴って終わる」
「兄様、殴るの?」
「比喩だ」
「ならよかった」
「今はな」
アランは少しだけ青ざめた。
けれど、それでも胸に手を当てている。
かなり治りそうにない。
テッドはしばらくアランを見ていた。
それから、深く息を吐く。
「五分だけだ」
「五分?」
「五分だけ話を聞く」
クロウはテッドを見る。
「五分で整う?」
「整わなくても五分で切る」
「なるほど」
それは少し安心できた。
アランは真面目に頷いた。
「分かった。五分で話す」
「余計な詩を入れるな」
「努力する」
「努力ではなく、入れるな」
「分かった」
たぶん分かっていない。
クロウはそう思った。
アランは深く息を吸った。
「僕は、彼女をもっと知りたい」
「まず休め」
テッドが即答する。
「体調が戻ってからだ」
「でも」
「でもではない」
テッドは低く言う。
「病院に行って病名も聞けない男が、誰かを知ろうとするな」
アランは黙った。
それは、かなり正しい。
クロウも小さく頷いた。
「アラン」
クロウが言う。
「うん」
「今は、整ってない」
「僕が?」
「うん」
「心が?」
「全部」
アランは静かに目を閉じた。
「全部」
「うん」
「……そこまでか」
「うん」
「かなり」
テッドが付け足した。
アランはようやく少しだけ力を抜いた。
「分かった。まずは休む」
「そうしろ」
テッドが言う。
「それと、しばらく妙な贈り物や手紙を送るな」
「贈り物」
「考えていた顔だ」
「……少し」
「やめろ」
テッドは即座に言った。
「まず病名を聞け」
「そこに戻るんだね」
「そこから動いていない」
クロウは部屋のカーテンを見た。
左右は揃っている。
窓から入る光も、柔らかい。
部屋は整っている。
でも、会話はまだ少し斜めだった。
レーミア。
レオエナ。
光の女神。
恋の何とか。
十四歳。
ダンジュの蜂蜜。
美化。
変換。
病名を聞け。
全部が、机の上にばらばらに置かれた部品みたいだった。
クロウは、それを見ているしかなかった。
触ると、また別のものに変換されそうだったから。




