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僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
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22/41

抱きしめる前に、聞いて

――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――


 クロウは、テッドの部屋の前で立ち止まった。


 廊下は静かだった。夕方の光が窓から差し込み、壁に細長い影を作っている。その影が、少し曲がって見えた。


 たぶん、クロウの心の中が曲がっているからだと思う。


 エナ姉に、一度だけ学校へ来てもらうつもりだった。


 それで、教室の話題が少し落ち着けばいいと思っていた。でも、エナ姉は明日から一緒に登校すると言い出した。


 授業を見る。

 昼食も一緒に食べる。


 放課後は工作室や音楽室も見たい。

 学校に行ってみたかった。

 クロウと一緒に過ごしてみたかった。

 その言葉は、悪いものではなかった。


 むしろ、エナ姉らしい。

 優しくて、近くて、少し強い。

 だからこそ、困る。


 学校は、クロウにとって家ではない場所だった。


 家が嫌いなわけではない。

 父様の音も、母様の声も、レナ様のお茶も、エナ姉の抱擁も、ミアの黒猫も、嫌いではない。


 でも、家は強い。

 学校は、それより少しだけ息がしやすい。

 その場所まで家の音で満たされたら。

 学校は、学校でなくなる。

 クロウは小さく息を吐いた。

 ノックする。


「兄様」

 少しして、中から声がした。

「入れ」

 クロウは扉を開けた。


 テッドは机に向かっていた。

 机の上には本と書類が並んでいる。

 帝国法の本。

 官僚登用試験の過去問。

 何枚かの紙。

 どれもきれいに置かれているのに、少しだけ使い込まれた跡がある。


 テッドは顔を上げた。

「どうした?」

 クロウは少しだけ黙る。

 言葉が、うまく並ばない。


「……相談」

 テッドの手が止まった。

 少しだけ眉が動く。


「珍しいな」

「うん」

「座るか?」

「立ったままでいい」

「そうか」


 テッドは椅子にもたれた。

 急かさない。

 けれど、逃がすつもりもなさそうだった。


「エナ姉のこと」

 クロウは言った。

 テッドの表情が、少しだけ変わった。


「ああ」

「学校に、また来てほしいって言われた」

「例の見学か」

「うん」

「それで?」


「一度だけなら、と思った」

「なるほど」

 テッドは短く言う。

「だが、一度だけで済みそうにない顔をしているな」

 クロウは少しだけ目を伏せた。


「明日から、一緒に行くって」

 テッドは黙った。

 そのあと、ゆっくり息を吐く。

「……エナらしいな」


「授業も見て、昼食も一緒で、放課後は工作室と音楽室も」

「全部か」

「うん」

「それはまた、全部だな」


 テッドは少しだけ口元を押さえた。

 笑いそうになっているのか、呆れているのかは分からない。


 たぶん、両方だった。

 クロウは顔を上げる。

「笑うところ?」

「少しだけな」

「笑えない」

「お前はそうだろうな」

 テッドはそこで、表情を戻した。

 声が少し低くなる。


「困っているのか」

「うん」

「かなり?」

「かなり」

 クロウは正直に答えた。


「僕が言うと、うまく言えない」

「だろうな」

「エナ姉が嫌いなわけじゃない」

「分かっている」


「でも、毎日は嫌」

「それも分かる」

「学校が、学校じゃなくなる」


 テッドはそこで黙った。

 その沈黙は、ただ聞いている沈黙だった。

 否定しない。

 笑わない。

 言葉が落ちる場所を作ってくれる沈黙。


「学校は、家じゃないから」

 クロウは続ける。

「家が嫌なわけじゃない。でも、学校まで家みたいになったら、落ち着く場所がなくなる」


「……なるほどな」

 テッドは机の上の本を閉じた。

 乾いた音がする。


「つまり、お前はエナを止めたい」

「うん」

「でも、自分で言うと傷つけそうで言えない」


「うん」

「だから、俺に言えと」

「……うん」

 クロウは少しだけ視線を逸らした。


「頼んでいい?」

 テッドは少しだけ驚いたように見えた。

 それから、ほんの少し笑う。


「お前がそこまで正面から頼むなら、よほどだな」

「よほど」

「分かった」

 テッドは立ち上がった。


「俺が言う」

 クロウは顔を上げる。

「いいの?」

「ああ」

「エナ姉、傷つくかも」


「傷つけないようには言う」

「できる?」

「できる限りはな」

 テッドは軽く肩をすくめた。


「ただ、エナには少しは自覚させた方がいい。あいつは悪気なく距離を詰めるからな」

「うん」


「それに」

 テッドは少しだけ目を細める。

「エナを説得するのは、少し面白い」

 クロウは瞬きをした。

「面白い?」

「普段は人をほどく側の顔をしているのに、自分のことになると急にほどけなくなる」


「……兄様」

「安心しろ。ちゃんとやる」

 テッドはそう言って、扉へ向かった。

 その口元には、少しだけ笑みが残っていた。


 意地悪すぎる笑みではない。

 でも、少し楽しんでいる顔だった。

 クロウはそれを見て、少しだけ不安になる。


「楽しみすぎないで」

「努力する」

「努力じゃなくて」

「分かった。ほどほどに楽しむ」

「楽しむのは残るんだ」

 テッドは返事をせず、扉を開けた。


「行くぞ」

「僕も?」

「近くで聞いていた方が安心するだろ」

 クロウは少し迷った。

 それから頷いた。


「うん」

 テッドは廊下を歩き出した。

 足音は一定だった。

 急いでいるわけではない。

 けれど、迷ってもいない。


 クロウは、少し後ろをついていく。

 本当は、兄様ひとりに任せるつもりだった。


 けれど、部屋に残っていると、机の影や本の背ばかり見てしまう気がした。


 だから、ついていくことにした。

 少し離れて。

 ただ、聞こえる場所で。

 エナ姉の部屋の前に着く。

 テッドは一度だけ振り返った。


「ここで待て」

「……うん」

「入ってくるなよ」

「うん」

 クロウは頷いた。

 テッドは扉を叩く。


「エナ」

 少しして、扉が開いた。

「あら、兄様」

 エナ姉の声は明るい。

 さっきより、ずっと明るい。

 その明るさだけで、クロウの背中が少し重くなった。


「どうしたの?」

「話がある」

「話?」

「ああ」


 テッドは短く答える。

「学校のことだ」

 部屋の中で、エナ姉が少し弾む気配がした。


「ちょうどよかったわ。私も準備のことを考えていて」

「その話だ」

 テッドの声は低い。

 でも、強くはない。


「明日から毎日行く、という話はやめろ」

 沈黙。

 廊下の空気が、少しだけ止まる。


「……どうして?」

 エナ姉の声が、小さくなる。

 悲しいというより、本当に分からない声だった。


「クロウが困っている」

「でも、クロウの学校の人たちは来てほしいと言ってくれたのでしょう?」


「一度はな」

「なら」

「毎日ではない」

 テッドの声が重なる。

 エナ姉は黙った。


「エナ」

 テッドは少しだけ声をやわらげる。

「お前が悪いわけじゃない」


 クロウは廊下で、指先を少し握った。

 テッドの言葉は、まっすぐだった。

 けれど、切り捨てる音ではなかった。


「お前が来れば、教室の空気は変わる」

「……迷惑なの?」

「迷惑とは言っていない」

「でも」

「変わるんだ」

 テッドは言った。


「お前は、それを自覚した方がいい」

 部屋の中で、衣擦れの音がする。

 エナ姉が少し動いたのだろう。


「私、邪魔をするつもりはないわ」

「それは分かっている」

 テッドはすぐに答える。


「だから難しい」

「難しい?」

「ああ」

 少し間が空いた。


「悪気があるなら、止めやすい。だが、お前は善意で近づく。心配して、守ろうとして、嬉しくて近づく」


「……それは、いけないこと?」

「いけないことではない」

 テッドの声は、落ち着いている。


「ただ、多いことがある」

 その言葉に、クロウは小さく息を止めた。

 少し多い。

 自分がよく思う言葉だった。


 でも、テッドが言うと、少し違って聞こえる。


 責めるのではなく、線を引く音だった。

「クロウは、学校を大事にしている」

「知っているわ」

「本当に分かっているか?」

 エナ姉は答えない。


「クロウにとって、学校は家ではない場所だ」


 テッドの声が続く。

「家が嫌いなわけではない。俺たちが嫌いなわけでもない。だが、家は強い」

 廊下で、クロウは目を伏せた。

 兄様は分かっていた。

 たぶん、全部ではない。

 でも、かなり近いところまで。


「エナが毎日学校へ行けば、クロウの学校は家に近づく」

「……それが、嫌なの?」

「嫌というより、苦しいんだろう」

 エナ姉が息を呑む気配がした。

 テッドは少しだけ間を置く。


「クロウは、たぶんお前にそれをうまく言えない」

「どうして?」

「お前が傷つくからだ」


 静かだった。

 廊下も、部屋も。

 クロウは指先を見た。

 少しだけ、冷えていた。


「エナ」

 テッドの声が、さらに低くなる。

「クロウは、お前を嫌ってはいない」

「……本当?」

「本当だ」

「でも、来てほしくないって」


「毎日来てほしくない、だ」

 テッドはすぐに言った。

「そこを間違えるな」

 エナ姉は何も言わない。

 クロウの胸の奥にあった乱れが、少しだけほどけた。


 そこ。

 そこが、ずっと引っかかっていた。

 来てほしくないわけではない。

 嫌いなわけでもない。

 でも、毎日は多い。

 それを、自分ではうまく置けなかった。


「一度なら、いいのね」

 エナ姉の声がした。

「クロウが頼んだならな」

「一度だけ?」

「一度だけ」


「お昼は?」

「先生とクロウに確認しろ」

「放課後は?」


「クロウに確認しろ」

「工作室は?」


「クロウに確認しろ」

「音楽室は?」


「クロウに確認しろ」

「……全部、クロウに確認?」


「そうだ」

 テッドは短く言った。

「クロウの場所だからな」


 部屋の中が静かになる。

 その言葉は、クロウの胸にも落ちた。

 学校は、クロウの場所。

 全部が自分のものという意味ではない。

 けれど、守りたい場所ではある。

 そこに入るなら、聞いてほしい。

 それだけのことだった。


「あと」

 テッドが続けた。


「抱きしめる時も、確認しろ」

 クロウは少しだけ目を上げた。

 部屋の中が、一瞬静かになる。


「……そこも?」

「そこが一番だ」

 テッドの声は真面目だった。


「お前は嬉しいとすぐ抱きしめる」

「だって、クロウがかわいいから」

「理由になっていない」

「心配なの」

「それも理由にならない」


「好きなの」

「それは分かる」

 テッドは少しだけ息を吐いた。

「だから、聞け」

 エナ姉が黙る。


「聞いて、いいと言われたら抱きしめろ。だめと言われたら、今日はやめろ」

「……難しいわ」

「練習しろ」

「兄様は厳しい」

「俺が言わないと、お前は止まらない」


 その言葉に、エナ姉は小さく笑った。

 少しだけ、泣きそうな笑いだった。

「そうね」

 ようやく、空気が少し動いた。


「兄様の言う通りかもしれない」

「かもしれないではなく、そうだ」

「そこは少し優しくして」

「今、かなり優しくしている」

「そうかしら」

「そうだ」


 エナ姉が、今度は本当に少し笑った。

 廊下で聞いていたクロウは、小さく息を吐く。


 部屋の中の音が、少しだけ戻っている。

 完全ではない。

 けれど、固まっていたものがほどけてきた。


「クロウは?」

 エナ姉が言う。

「外にいるの?」

 クロウの肩が動いた。

 テッドが扉の方を見る気配がする。


「いる」

「兄様」

「入ってくるなとは言ったが、来るなとは言っていない」


 扉が開く。

 テッドがこちらを見る。

「入れ」


 クロウは少し迷った。

 けれど、入った。

 エナ姉は部屋の中で立っていた。

 少し困ったように笑っている。

 いつもより、少しだけ小さく見えた。


「クロウ」

「うん」

「ごめんなさい」


 エナ姉が言う。

「私、嬉しくて、少し先のことまで考えてしまったわ」


 少しではなかったと思う。

 でも、クロウは言わなかった。

「学校は」

 エナ姉はゆっくり続ける。

「一度だけにするわ」

 クロウは顔を上げた。


「本当?」

「ええ」

 エナ姉は頷く。


「そのあとは、クロウに聞く。行ってもいいか、何をしていいか、抱きしめてもいいか」

 最後の言葉で、少しだけ耳が赤くなる。

 クロウはそれを見て、胸の奥が少しだけ静かになった。


 分かってくれた。

 全部ではないかもしれない。

 でも、分かろうとしてくれた。


「……ありがとう」

 クロウは小さく言う。

 エナ姉の目が、少し揺れる。

「こちらこそ」

 そう言ってから、エナ姉は両手を少しだけ広げた。


 途中で止める。

 我慢している。

 分かりやすいくらい、我慢している。


「クロウ」

「うん」

「抱きしめてもいい?」


 とても真剣な顔だった。

 クロウは少しだけ考える。

 背骨。

 呼吸。

 距離。

 強さ。

 時間。


 いろいろなものが頭の中に並ぶ。

 でも、今回は、エナ姉が聞いた。

 ちゃんと、聞いた。


 だから、クロウは仕方なく、一歩近づいた。


 そして、自分からエナ姉に抱きついた。

 エナ姉が息を呑む。

「……クロウ?」

「少しだけ」

 クロウは言った。

「今は」


 次の瞬間、エナ姉の顔がぱっと明るくなった。


「ええ!」

 抱きしめられる。

 やっぱり強い。

 でも、さっきより少しだけましだった。


 たぶん、かなり気をつけている。

 それでも、少し強い。

 エナ姉だから。


 クロウは目を閉じる。

 嫌ではない。

 少し多いだけ。

 それを、今日は少しだけ許してもいいと思った。


 テッドはその姿を見て、苦笑していた。

「結局、抱きつくのか」

「……仕方なく」

 クロウがエナ姉の腕の中から答える。

「そうか」

 テッドは肩をすくめる。


「仕方なくなら、仕方ないな」

 エナ姉は嬉しそうにクロウを抱きしめている。


「クロウが自分から来てくれたわ」

「少しだけ」

「ええ、少しだけ」

 エナ姉はそう言いながら、また少し力を入れかける。


 クロウはすぐに言った。

「少し強い」

「あ」

 エナ姉が慌てて力を緩める。

「ごめんなさい」

「うん」

 テッドが小さく笑った。


「練習が必要だな」

「……はい」

 エナ姉は素直に頷いた。


 しばらくして、クロウは部屋を出た。

 廊下に出ると、空気が少しだけ軽く感じた。


 さっきまで乱れに乱れていた頭の中が、ようやく少しずつ元の場所へ戻っていく。


 学校は、一度だけ。

 毎日ではない。

 抱きしめる時は、聞く。

 少し強ければ、言っていい。

 完全ではない。


 でも、続けられる形にはなった。

 クロウは隣に立つテッドを見上げる。

「兄様」

「なんだ」


「ありがとう」


 テッドは少しだけ目を細める。

「珍しいな」

「うん」

「礼を言うほど困っていたか」


「うん」

 クロウは正直に頷いた。

 テッドは少しだけ黙る。

 それから、軽く息を吐いた。


「そうか」

 廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。


 影は、さっきより少しだけまっすぐに見えた。


 クロウはようやく、息を深く吸えた。

 その時。

「なら、ついでに」

 テッドが言った。

 クロウは顔を上げる。


「ついで?」

「ああ」

 テッドは何でもないことのように続ける。


「俺からも、ひとつ頼みがある」

 クロウの足が止まった。

 ようやく整いかけていた胸の奥で、何かが小さく引っかかる。


「……何?」

 テッドは少しだけ笑った。

「アランのことだ」


 夕暮れの廊下で、クロウの中の静けさが、ほんの少しだけ形を変えた。

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