抱きしめる前に、聞いて
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
クロウは、テッドの部屋の前で立ち止まった。
廊下は静かだった。夕方の光が窓から差し込み、壁に細長い影を作っている。その影が、少し曲がって見えた。
たぶん、クロウの心の中が曲がっているからだと思う。
エナ姉に、一度だけ学校へ来てもらうつもりだった。
それで、教室の話題が少し落ち着けばいいと思っていた。でも、エナ姉は明日から一緒に登校すると言い出した。
授業を見る。
昼食も一緒に食べる。
放課後は工作室や音楽室も見たい。
学校に行ってみたかった。
クロウと一緒に過ごしてみたかった。
その言葉は、悪いものではなかった。
むしろ、エナ姉らしい。
優しくて、近くて、少し強い。
だからこそ、困る。
学校は、クロウにとって家ではない場所だった。
家が嫌いなわけではない。
父様の音も、母様の声も、レナ様のお茶も、エナ姉の抱擁も、ミアの黒猫も、嫌いではない。
でも、家は強い。
学校は、それより少しだけ息がしやすい。
その場所まで家の音で満たされたら。
学校は、学校でなくなる。
クロウは小さく息を吐いた。
ノックする。
「兄様」
少しして、中から声がした。
「入れ」
クロウは扉を開けた。
テッドは机に向かっていた。
机の上には本と書類が並んでいる。
帝国法の本。
官僚登用試験の過去問。
何枚かの紙。
どれもきれいに置かれているのに、少しだけ使い込まれた跡がある。
テッドは顔を上げた。
「どうした?」
クロウは少しだけ黙る。
言葉が、うまく並ばない。
「……相談」
テッドの手が止まった。
少しだけ眉が動く。
「珍しいな」
「うん」
「座るか?」
「立ったままでいい」
「そうか」
テッドは椅子にもたれた。
急かさない。
けれど、逃がすつもりもなさそうだった。
「エナ姉のこと」
クロウは言った。
テッドの表情が、少しだけ変わった。
「ああ」
「学校に、また来てほしいって言われた」
「例の見学か」
「うん」
「それで?」
「一度だけなら、と思った」
「なるほど」
テッドは短く言う。
「だが、一度だけで済みそうにない顔をしているな」
クロウは少しだけ目を伏せた。
「明日から、一緒に行くって」
テッドは黙った。
そのあと、ゆっくり息を吐く。
「……エナらしいな」
「授業も見て、昼食も一緒で、放課後は工作室と音楽室も」
「全部か」
「うん」
「それはまた、全部だな」
テッドは少しだけ口元を押さえた。
笑いそうになっているのか、呆れているのかは分からない。
たぶん、両方だった。
クロウは顔を上げる。
「笑うところ?」
「少しだけな」
「笑えない」
「お前はそうだろうな」
テッドはそこで、表情を戻した。
声が少し低くなる。
「困っているのか」
「うん」
「かなり?」
「かなり」
クロウは正直に答えた。
「僕が言うと、うまく言えない」
「だろうな」
「エナ姉が嫌いなわけじゃない」
「分かっている」
「でも、毎日は嫌」
「それも分かる」
「学校が、学校じゃなくなる」
テッドはそこで黙った。
その沈黙は、ただ聞いている沈黙だった。
否定しない。
笑わない。
言葉が落ちる場所を作ってくれる沈黙。
「学校は、家じゃないから」
クロウは続ける。
「家が嫌なわけじゃない。でも、学校まで家みたいになったら、落ち着く場所がなくなる」
「……なるほどな」
テッドは机の上の本を閉じた。
乾いた音がする。
「つまり、お前はエナを止めたい」
「うん」
「でも、自分で言うと傷つけそうで言えない」
「うん」
「だから、俺に言えと」
「……うん」
クロウは少しだけ視線を逸らした。
「頼んでいい?」
テッドは少しだけ驚いたように見えた。
それから、ほんの少し笑う。
「お前がそこまで正面から頼むなら、よほどだな」
「よほど」
「分かった」
テッドは立ち上がった。
「俺が言う」
クロウは顔を上げる。
「いいの?」
「ああ」
「エナ姉、傷つくかも」
「傷つけないようには言う」
「できる?」
「できる限りはな」
テッドは軽く肩をすくめた。
「ただ、エナには少しは自覚させた方がいい。あいつは悪気なく距離を詰めるからな」
「うん」
「それに」
テッドは少しだけ目を細める。
「エナを説得するのは、少し面白い」
クロウは瞬きをした。
「面白い?」
「普段は人をほどく側の顔をしているのに、自分のことになると急にほどけなくなる」
「……兄様」
「安心しろ。ちゃんとやる」
テッドはそう言って、扉へ向かった。
その口元には、少しだけ笑みが残っていた。
意地悪すぎる笑みではない。
でも、少し楽しんでいる顔だった。
クロウはそれを見て、少しだけ不安になる。
「楽しみすぎないで」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「分かった。ほどほどに楽しむ」
「楽しむのは残るんだ」
テッドは返事をせず、扉を開けた。
「行くぞ」
「僕も?」
「近くで聞いていた方が安心するだろ」
クロウは少し迷った。
それから頷いた。
「うん」
テッドは廊下を歩き出した。
足音は一定だった。
急いでいるわけではない。
けれど、迷ってもいない。
クロウは、少し後ろをついていく。
本当は、兄様ひとりに任せるつもりだった。
けれど、部屋に残っていると、机の影や本の背ばかり見てしまう気がした。
だから、ついていくことにした。
少し離れて。
ただ、聞こえる場所で。
エナ姉の部屋の前に着く。
テッドは一度だけ振り返った。
「ここで待て」
「……うん」
「入ってくるなよ」
「うん」
クロウは頷いた。
テッドは扉を叩く。
「エナ」
少しして、扉が開いた。
「あら、兄様」
エナ姉の声は明るい。
さっきより、ずっと明るい。
その明るさだけで、クロウの背中が少し重くなった。
「どうしたの?」
「話がある」
「話?」
「ああ」
テッドは短く答える。
「学校のことだ」
部屋の中で、エナ姉が少し弾む気配がした。
「ちょうどよかったわ。私も準備のことを考えていて」
「その話だ」
テッドの声は低い。
でも、強くはない。
「明日から毎日行く、という話はやめろ」
沈黙。
廊下の空気が、少しだけ止まる。
「……どうして?」
エナ姉の声が、小さくなる。
悲しいというより、本当に分からない声だった。
「クロウが困っている」
「でも、クロウの学校の人たちは来てほしいと言ってくれたのでしょう?」
「一度はな」
「なら」
「毎日ではない」
テッドの声が重なる。
エナ姉は黙った。
「エナ」
テッドは少しだけ声をやわらげる。
「お前が悪いわけじゃない」
クロウは廊下で、指先を少し握った。
テッドの言葉は、まっすぐだった。
けれど、切り捨てる音ではなかった。
「お前が来れば、教室の空気は変わる」
「……迷惑なの?」
「迷惑とは言っていない」
「でも」
「変わるんだ」
テッドは言った。
「お前は、それを自覚した方がいい」
部屋の中で、衣擦れの音がする。
エナ姉が少し動いたのだろう。
「私、邪魔をするつもりはないわ」
「それは分かっている」
テッドはすぐに答える。
「だから難しい」
「難しい?」
「ああ」
少し間が空いた。
「悪気があるなら、止めやすい。だが、お前は善意で近づく。心配して、守ろうとして、嬉しくて近づく」
「……それは、いけないこと?」
「いけないことではない」
テッドの声は、落ち着いている。
「ただ、多いことがある」
その言葉に、クロウは小さく息を止めた。
少し多い。
自分がよく思う言葉だった。
でも、テッドが言うと、少し違って聞こえる。
責めるのではなく、線を引く音だった。
「クロウは、学校を大事にしている」
「知っているわ」
「本当に分かっているか?」
エナ姉は答えない。
「クロウにとって、学校は家ではない場所だ」
テッドの声が続く。
「家が嫌いなわけではない。俺たちが嫌いなわけでもない。だが、家は強い」
廊下で、クロウは目を伏せた。
兄様は分かっていた。
たぶん、全部ではない。
でも、かなり近いところまで。
「エナが毎日学校へ行けば、クロウの学校は家に近づく」
「……それが、嫌なの?」
「嫌というより、苦しいんだろう」
エナ姉が息を呑む気配がした。
テッドは少しだけ間を置く。
「クロウは、たぶんお前にそれをうまく言えない」
「どうして?」
「お前が傷つくからだ」
静かだった。
廊下も、部屋も。
クロウは指先を見た。
少しだけ、冷えていた。
「エナ」
テッドの声が、さらに低くなる。
「クロウは、お前を嫌ってはいない」
「……本当?」
「本当だ」
「でも、来てほしくないって」
「毎日来てほしくない、だ」
テッドはすぐに言った。
「そこを間違えるな」
エナ姉は何も言わない。
クロウの胸の奥にあった乱れが、少しだけほどけた。
そこ。
そこが、ずっと引っかかっていた。
来てほしくないわけではない。
嫌いなわけでもない。
でも、毎日は多い。
それを、自分ではうまく置けなかった。
「一度なら、いいのね」
エナ姉の声がした。
「クロウが頼んだならな」
「一度だけ?」
「一度だけ」
「お昼は?」
「先生とクロウに確認しろ」
「放課後は?」
「クロウに確認しろ」
「工作室は?」
「クロウに確認しろ」
「音楽室は?」
「クロウに確認しろ」
「……全部、クロウに確認?」
「そうだ」
テッドは短く言った。
「クロウの場所だからな」
部屋の中が静かになる。
その言葉は、クロウの胸にも落ちた。
学校は、クロウの場所。
全部が自分のものという意味ではない。
けれど、守りたい場所ではある。
そこに入るなら、聞いてほしい。
それだけのことだった。
「あと」
テッドが続けた。
「抱きしめる時も、確認しろ」
クロウは少しだけ目を上げた。
部屋の中が、一瞬静かになる。
「……そこも?」
「そこが一番だ」
テッドの声は真面目だった。
「お前は嬉しいとすぐ抱きしめる」
「だって、クロウがかわいいから」
「理由になっていない」
「心配なの」
「それも理由にならない」
「好きなの」
「それは分かる」
テッドは少しだけ息を吐いた。
「だから、聞け」
エナ姉が黙る。
「聞いて、いいと言われたら抱きしめろ。だめと言われたら、今日はやめろ」
「……難しいわ」
「練習しろ」
「兄様は厳しい」
「俺が言わないと、お前は止まらない」
その言葉に、エナ姉は小さく笑った。
少しだけ、泣きそうな笑いだった。
「そうね」
ようやく、空気が少し動いた。
「兄様の言う通りかもしれない」
「かもしれないではなく、そうだ」
「そこは少し優しくして」
「今、かなり優しくしている」
「そうかしら」
「そうだ」
エナ姉が、今度は本当に少し笑った。
廊下で聞いていたクロウは、小さく息を吐く。
部屋の中の音が、少しだけ戻っている。
完全ではない。
けれど、固まっていたものがほどけてきた。
「クロウは?」
エナ姉が言う。
「外にいるの?」
クロウの肩が動いた。
テッドが扉の方を見る気配がする。
「いる」
「兄様」
「入ってくるなとは言ったが、来るなとは言っていない」
扉が開く。
テッドがこちらを見る。
「入れ」
クロウは少し迷った。
けれど、入った。
エナ姉は部屋の中で立っていた。
少し困ったように笑っている。
いつもより、少しだけ小さく見えた。
「クロウ」
「うん」
「ごめんなさい」
エナ姉が言う。
「私、嬉しくて、少し先のことまで考えてしまったわ」
少しではなかったと思う。
でも、クロウは言わなかった。
「学校は」
エナ姉はゆっくり続ける。
「一度だけにするわ」
クロウは顔を上げた。
「本当?」
「ええ」
エナ姉は頷く。
「そのあとは、クロウに聞く。行ってもいいか、何をしていいか、抱きしめてもいいか」
最後の言葉で、少しだけ耳が赤くなる。
クロウはそれを見て、胸の奥が少しだけ静かになった。
分かってくれた。
全部ではないかもしれない。
でも、分かろうとしてくれた。
「……ありがとう」
クロウは小さく言う。
エナ姉の目が、少し揺れる。
「こちらこそ」
そう言ってから、エナ姉は両手を少しだけ広げた。
途中で止める。
我慢している。
分かりやすいくらい、我慢している。
「クロウ」
「うん」
「抱きしめてもいい?」
とても真剣な顔だった。
クロウは少しだけ考える。
背骨。
呼吸。
距離。
強さ。
時間。
いろいろなものが頭の中に並ぶ。
でも、今回は、エナ姉が聞いた。
ちゃんと、聞いた。
だから、クロウは仕方なく、一歩近づいた。
そして、自分からエナ姉に抱きついた。
エナ姉が息を呑む。
「……クロウ?」
「少しだけ」
クロウは言った。
「今は」
次の瞬間、エナ姉の顔がぱっと明るくなった。
「ええ!」
抱きしめられる。
やっぱり強い。
でも、さっきより少しだけましだった。
たぶん、かなり気をつけている。
それでも、少し強い。
エナ姉だから。
クロウは目を閉じる。
嫌ではない。
少し多いだけ。
それを、今日は少しだけ許してもいいと思った。
テッドはその姿を見て、苦笑していた。
「結局、抱きつくのか」
「……仕方なく」
クロウがエナ姉の腕の中から答える。
「そうか」
テッドは肩をすくめる。
「仕方なくなら、仕方ないな」
エナ姉は嬉しそうにクロウを抱きしめている。
「クロウが自分から来てくれたわ」
「少しだけ」
「ええ、少しだけ」
エナ姉はそう言いながら、また少し力を入れかける。
クロウはすぐに言った。
「少し強い」
「あ」
エナ姉が慌てて力を緩める。
「ごめんなさい」
「うん」
テッドが小さく笑った。
「練習が必要だな」
「……はい」
エナ姉は素直に頷いた。
しばらくして、クロウは部屋を出た。
廊下に出ると、空気が少しだけ軽く感じた。
さっきまで乱れに乱れていた頭の中が、ようやく少しずつ元の場所へ戻っていく。
学校は、一度だけ。
毎日ではない。
抱きしめる時は、聞く。
少し強ければ、言っていい。
完全ではない。
でも、続けられる形にはなった。
クロウは隣に立つテッドを見上げる。
「兄様」
「なんだ」
「ありがとう」
テッドは少しだけ目を細める。
「珍しいな」
「うん」
「礼を言うほど困っていたか」
「うん」
クロウは正直に頷いた。
テッドは少しだけ黙る。
それから、軽く息を吐いた。
「そうか」
廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。
影は、さっきより少しだけまっすぐに見えた。
クロウはようやく、息を深く吸えた。
その時。
「なら、ついでに」
テッドが言った。
クロウは顔を上げる。
「ついで?」
「ああ」
テッドは何でもないことのように続ける。
「俺からも、ひとつ頼みがある」
クロウの足が止まった。
ようやく整いかけていた胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
「……何?」
テッドは少しだけ笑った。
「アランのことだ」
夕暮れの廊下で、クロウの中の静けさが、ほんの少しだけ形を変えた。




