第21話 抱きしめる前に、聞いて
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
クロウは、テッドの部屋の前で立ち止まった。
廊下は静かだった。
夕方の光が窓から差し込み、壁に細長い影を作っている。
その影が、少し曲がって見えた。
たぶん、クロウの心の中が曲がっているからだと思う。
エナ姉に、一度だけ学校へ来てもらうつもりだった。
それで、教室の話題が少し落ち着けばいいと思っていた。
でも、エナ姉は明日から一緒に登校すると言い出した。
授業を見る。
昼食も一緒に食べる。
放課後は工作室や音楽室も見たい。
学校に行ってみたかった。
クロウと一緒に過ごしてみたかった。
その言葉は、悪いものではなかった。
むしろ、エナ姉らしい。
優しくて、近くて、少し強い。
だからこそ、困る。
学校は、クロウにとって家ではない場所だった。
家が嫌いなわけではない。
父様の音も、母様の声も、レナ様のお茶も、エナ姉の抱擁も、ミアの黒猫も、嫌いではない。
でも、家は強い。
学校は、それより少しだけ息がしやすい。
その場所まで家の音で満たされたら。
学校は、学校でなくなる。
クロウは小さく息を吐いた。
ノックする。
「兄様」
少しして、中から声がした。
「入れ」
クロウは扉を開けた。
テッドは机に向かっていた。
机の上には本と書類が並んでいる。
帝国法の本。
官僚登用試験の過去問。
何枚かの紙。
どれもきれいに置かれているのに、少しだけ使い込まれた跡がある。
テッドは顔を上げた。
「どうした?」
クロウは少しだけ黙る。
言葉が、うまく並ばない。
「……相談」
テッドの手が止まった。
少しだけ眉が動く。
「珍しいな」
「うん」
「座るか?」
「立ったままでいい」
「そうか」
テッドは椅子にもたれた。
急かさない。
けれど、逃がすつもりもなさそうだった。
「エナ姉のこと」
クロウは言った。
テッドの表情が、少しだけ変わった。
「ああ」
「学校に、また来てほしいって言われた」
「例の見学か」
「うん」
「それで?」
「一度だけなら、と思った」
「なるほど」
テッドは短く言う。
「だが、一度だけで済みそうにない顔をしているな」
クロウは少しだけ目を伏せた。
「明日から、一緒に行くって」
テッドは黙った。
そのあと、ゆっくり息を吐く。
「……エナらしいな」
「授業も見て、昼食も一緒で、放課後は工作室と音楽室も」
「全部か」
「うん」
「それはまた、全部だな」
テッドは少しだけ口元を押さえた。
笑いそうになっているのか、呆れているのかは分からない。
たぶん、両方だった。
クロウは顔を上げる。
「笑うところ?」
「少しだけな」
「笑えない」
「お前はそうだろうな」
テッドはそこで、表情を戻した。
声が少し低くなる。
「困っているのか」
「うん」
「かなり?」
「かなり」
クロウは正直に答えた。
「僕が言うと、うまく言えない」
「だろうな」
「エナ姉が嫌いなわけじゃない」
「分かっている」
「でも、毎日は嫌」
「それも分かる」
「学校が、学校じゃなくなる」
テッドはそこで黙った。
その沈黙は、ただ聞いている沈黙だった。
否定しない。
笑わない。
言葉が落ちる場所を作ってくれる沈黙。
「学校は、家じゃないから」
クロウは続ける。
「家が嫌なわけじゃない。でも、学校まで家みたいになったら、落ち着く場所がなくなる」
「……なるほどな」
テッドは机の上の本を閉じた。
乾いた音がする。
「つまり、お前はエナを止めたい」
「うん」
「でも、自分で言うと傷つけそうで言えない」
「うん」
「だから、俺に言えと」
「……うん」
クロウは少しだけ視線を逸らした。
「頼んでいい?」
テッドは少しだけ驚いたように見えた。
それから、ほんの少し笑う。
「お前がそこまで正面から頼むなら、よほどだな」
「よほど」
「分かった」
テッドは立ち上がった。
「俺が言う」
クロウは顔を上げる。
「いいの?」
「ああ」
「エナ姉、傷つくかも」
「傷つけないようには言う」
「できる?」
「できる限りはな」
テッドは軽く肩をすくめた。
「ただ、エナには少しは自覚させた方がいい。あいつは悪気なく距離を詰めるからな」
「うん」
「それに」
テッドは少しだけ目を細める。
「エナを説得するのは、少し面白い」
クロウは瞬きをした。
「面白い?」
「普段は人をほどく側の顔をしているのに、自分のことになると急にほどけなくなる」
「……兄様」
「安心しろ。ちゃんとやる」
テッドはそう言って、扉へ向かった。
その口元には、少しだけ笑みが残っていた。
意地悪すぎる笑みではない。
でも、少し楽しんでいる顔だった。
クロウはそれを見て、少しだけ不安になる。
「楽しみすぎないで」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「分かった。ほどほどに楽しむ」
「楽しむのは残るんだ」
テッドは返事をせず、扉を開けた。
「行くぞ」
「僕も?」
「近くで聞いていた方が安心するだろ」
クロウは少し迷った。
それから頷いた。
「うん」
テッドは廊下を歩き出した。
足音は一定だった。
急いでいるわけではない。
けれど、迷ってもいない。
クロウは、少し後ろをついていく。
本当は、兄様ひとりに任せるつもりだった。
けれど、部屋に残っていると、机の影や本の背ばかり見てしまう気がした。
だから、ついていくことにした。
少し離れて。
ただ、聞こえる場所で。
エナ姉の部屋の前に着く。
テッドは一度だけ振り返った。
「ここで待て」
「……うん」
「入ってくるなよ」
「うん」
クロウは頷いた。
テッドは扉を叩く。
「エナ」
少しして、扉が開いた。
「あら、兄様」
エナ姉の声は明るい。
さっきより、ずっと明るい。
その明るさだけで、クロウの背中が少し重くなった。
「どうしたの?」
「話がある」
「話?」
「ああ」
テッドは短く答える。
「学校のことだ」
部屋の中で、エナ姉が少し弾む気配がした。
「ちょうどよかったわ。私も準備のことを考えていて」
「その話だ」
テッドの声は低い。
でも、強くはない。
「明日から毎日行く、という話はやめろ」
沈黙。
廊下の空気が、少しだけ止まる。
「……どうして?」
エナ姉の声が、小さくなる。
悲しいというより、本当に分からない声だった。
「クロウが困っている」
「でも、クロウの学校の人たちは来てほしいと言ってくれたのでしょう?」
「一度はな」
「なら」
「毎日ではない」
テッドの声が重なる。
エナ姉は黙った。
「エナ」
テッドは少しだけ声をやわらげる。
「お前が悪いわけじゃない」
クロウは廊下で、指先を少し握った。
テッドの言葉は、まっすぐだった。
けれど、切り捨てる音ではなかった。
「お前が来れば、教室の空気は変わる」
「……迷惑なの?」
「迷惑とは言っていない」
「でも」
「変わるんだ」
テッドは言った。
「お前は、それを自覚した方がいい」
部屋の中で、衣擦れの音がする。
エナ姉が少し動いたのだろう。
「私、邪魔をするつもりはないわ」
「それは分かっている」
テッドはすぐに答える。
「だから難しい」
「難しい?」
「ああ」
少し間が空いた。
「悪気があるなら、止めやすい。だが、お前は善意で近づく。心配して、守ろうとして、嬉しくて近づく」
「……それは、いけないこと?」
「いけないことではない」
テッドの声は、落ち着いている。
「ただ、多いことがある」
その言葉に、クロウは小さく息を止めた。
少し多い。
自分がよく思う言葉だった。
でも、テッドが言うと、少し違って聞こえる。
責めるのではなく、線を引く音だった。
「クロウは、学校を大事にしている」
「知っているわ」
「本当に分かっているか?」
エナ姉は答えない。
「クロウにとって、学校は家ではない場所だ」
テッドの声が続く。
「家が嫌いなわけではない。俺たちが嫌いなわけでもない。だが、家は強い」
廊下で、クロウは目を伏せた。
兄様は分かっていた。
たぶん、全部ではない。
でも、かなり近いところまで。
「エナが毎日学校へ行けば、クロウの学校は家に近づく」
「……それが、嫌なの?」
「嫌というより、苦しいんだろう」
エナ姉が息を呑む気配がした。
テッドは少しだけ間を置く。
「クロウは、たぶんお前にそれをうまく言えない」
「どうして?」
「お前が傷つくからだ」
静かだった。
廊下も、部屋も。
クロウは指先を見た。
少しだけ、冷えていた。
「エナ」
テッドの声が、さらに低くなる。
「クロウは、お前を嫌ってはいない」
「……本当?」
「本当だ」
「でも、来てほしくないって」
「毎日来てほしくない、だ」
テッドはすぐに言った。
「そこを間違えるな」
エナ姉は何も言わない。
クロウの胸の奥にあった乱れが、少しだけほどけた。
そこ。
そこが、ずっと引っかかっていた。
来てほしくないわけではない。
嫌いなわけでもない。
でも、毎日は多い。
それを、自分ではうまく置けなかった。
「一度なら、いいのね」
エナ姉の声がした。
「クロウが頼んだならな」
「一度だけ?」
「一度だけ」
「お昼は?」
「先生とクロウに確認しろ」
「放課後は?」
「クロウに確認しろ」
「工作室は?」
「クロウに確認しろ」
「音楽室は?」
「クロウに確認しろ」
「……全部、クロウに確認?」
「そうだ」
テッドは短く言った。
「クロウの場所だからな」
部屋の中が静かになる。
その言葉は、クロウの胸にも落ちた。
学校は、クロウの場所。
全部が自分のものという意味ではない。
けれど、守りたい場所ではある。
そこに入るなら、聞いてほしい。
それだけのことだった。
「あと」
テッドが続けた。
「抱きしめる時も、確認しろ」
クロウは少しだけ目を上げた。
部屋の中が、一瞬静かになる。
「……そこも?」
「そこが一番だ」
テッドの声は真面目だった。
「お前は嬉しいとすぐ抱きしめる」
「だって、クロウがかわいいから」
「理由になっていない」
「心配なの」
「それも理由にならない」
「好きなの」
「それは分かる」
テッドは少しだけ息を吐いた。
「だから、聞け」
エナ姉が黙る。
「聞いて、いいと言われたら抱きしめろ。だめと言われたら、今日はやめろ」
「……難しいわ」
「練習しろ」
「兄様は厳しい」
「俺が言わないと、お前は止まらない」
その言葉に、エナ姉は小さく笑った。
少しだけ、泣きそうな笑いだった。
「そうね」
ようやく、空気が少し動いた。
「兄様の言う通りかもしれない」
「かもしれないではなく、そうだ」
「そこは少し優しくして」
「今、かなり優しくしている」
「そうかしら」
「そうだ」
エナ姉が、今度は本当に少し笑った。
廊下で聞いていたクロウは、小さく息を吐く。
部屋の中の音が、少しだけ戻っている。
完全ではない。
けれど、固まっていたものがほどけてきた。
「クロウは?」
エナ姉が言う。
「外にいるの?」
クロウの肩が動いた。
テッドが扉の方を見る気配がする。
「いる」
「兄様」
「入ってくるなとは言ったが、来るなとは言っていない」
扉が開く。
テッドがこちらを見る。
「入れ」
クロウは少し迷った。
けれど、入った。
エナ姉は部屋の中で立っていた。
少し困ったように笑っている。
いつもより、少しだけ小さく見えた。
「クロウ」
「うん」
「ごめんなさい」
エナ姉が言う。
「私、嬉しくて、少し先のことまで考えてしまったわ」
少しではなかったと思う。
でも、クロウは言わなかった。
「学校は」
エナ姉はゆっくり続ける。
「一度だけにするわ」
クロウは顔を上げた。
「本当?」
「ええ」
エナ姉は頷く。
「そのあとは、クロウに聞く。行ってもいいか、何をしていいか、抱きしめてもいいか」
最後の言葉で、少しだけ耳が赤くなる。
クロウはそれを見て、胸の奥が少しだけ静かになった。
分かってくれた。
全部ではないかもしれない。
でも、分かろうとしてくれた。
「……ありがとう」
クロウは小さく言う。
エナ姉の目が、少し揺れる。
「こちらこそ」
そう言ってから、エナ姉は両手を少しだけ広げた。
途中で止める。
我慢している。
分かりやすいくらい、我慢している。
「クロウ」
「うん」
「抱きしめてもいい?」
とても真剣な顔だった。
クロウは少しだけ考える。
背骨。
呼吸。
距離。
強さ。
時間。
いろいろなものが頭の中に並ぶ。
でも、今回は、エナ姉が聞いた。
ちゃんと、聞いた。
だから、クロウは仕方なく、一歩近づいた。
そして、自分からエナ姉に抱きついた。
エナ姉が息を呑む。
「……クロウ?」
「少しだけ」
クロウは言った。
「今は」
次の瞬間、エナ姉の顔がぱっと明るくなった。
「ええ!」
抱きしめられる。
やっぱり強い。
でも、さっきより少しだけましだった。
たぶん、かなり気をつけている。
それでも、少し強い。
エナ姉だから。
クロウは目を閉じる。
嫌ではない。
少し多いだけ。
それを、今日は少しだけ許してもいいと思った。
テッドはその姿を見て、苦笑していた。
「結局、抱きつくのか」
「……仕方なく」
クロウがエナ姉の腕の中から答える。
「そうか」
テッドは肩をすくめる。
「仕方なくなら、仕方ないな」
エナ姉は嬉しそうにクロウを抱きしめている。
「クロウが自分から来てくれたわ」
「少しだけ」
「ええ、少しだけ」
エナ姉はそう言いながら、また少し力を入れかける。
クロウはすぐに言った。
「少し強い」
「あ」
エナ姉が慌てて力を緩める。
「ごめんなさい」
「うん」
テッドが小さく笑った。
「練習が必要だな」
「……はい」
エナ姉は素直に頷いた。
しばらくして、クロウは部屋を出た。
廊下に出ると、空気が少しだけ軽く感じた。
さっきまで乱れに乱れていた頭の中が、ようやく少しずつ元の場所へ戻っていく。
学校は、一度だけ。
毎日ではない。
抱きしめる時は、聞く。
少し強ければ、言っていい。
完全ではない。
でも、続けられる形にはなった。
クロウは隣に立つテッドを見上げる。
「兄様」
「なんだ」
「ありがとう」
テッドは少しだけ目を細める。
「珍しいな」
「うん」
「礼を言うほど困っていたか」
「うん」
クロウは正直に頷いた。
テッドは少しだけ黙る。
それから、軽く息を吐いた。
「そうか」
廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。
影は、さっきより少しだけまっすぐに見えた。
クロウはようやく、息を深く吸えた。
その時。
「なら、ついでに」
テッドが言った。
クロウは顔を上げる。
「ついで?」
「ああ」
テッドは何でもないことのように続ける。
「俺からも、ひとつ頼みがある」
クロウの足が止まった。
ようやく整いかけていた胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
「……何?」
テッドは少しだけ笑った。
「アランのことだ」
夕暮れの廊下で、クロウの中の静けさが、ほんの少しだけ形を変えた。




