一度だけ、のはずだった
――帝国暦三五〇年・春中頃 帝国人民学校・地方分校――
その日も、教室ではエナ姉の話が出た。
「なあ、クロウ」
ガイが机の横に来る。
まただ。
クロウは、顔を上げる前から分かった。
「見学の人のことなんだけどさ」
やっぱりだった。
クロウは小さく息を吐く。
「……うん」
「聞いてくれた?」
「まだ」
「まだかあ」
ガイは残念そうに肩を落とした。
エドが横から笑う。
「いや、でもそろそろ頼むって」
「無理なら無理でいい」
ルークが言う。
「ただ、可能性があるのかだけでも知りたい」
サムも小さく頷く。
「もう一回だけでも」
クロウは机を見る。
朝、きれいに置いたはずの筆記具が、少しだけ斜めになっている。誰かが触ったわけではない。
たぶん、自分が置いた時から少しずれていた。
でも今は、その少しが気になる。
エナ姉の話が始まると、教室の音が変わる。
授業前の声も、休み時間の笑いも、誰かが椅子を引く音も、少しずつ違う方向へ向く。
最初は、少し待てば戻ると思っていた。
噂は、時間が経てば薄くなる。
別の授業があって。
別の遊びがあって。
別の失敗があって。
教室の空気は、また元の位置に戻る。
そう思っていた。
けれど、戻らなかった。
むしろ、少しずつ悪くなっている。
見学の人。
金髪の人。
森の方のお屋敷。
エナ姉。
レオエナ。
姉なのか。
違うのか。
その話題が、朝にも昼にも休み時間にも戻ってくる。
クロウが何かを言わないから、余計に残っている。
クロウが曖昧にしているから、みんなが確かめたがる。
それも、分かる。
分かるから、余計に困る。
工作室へ行けば、少し戻る。
音楽室へ行けば、まだ落ち着く。
トムとリラの前なら、息がしやすい。
でも、教室は毎日少しずつ斜めになっている。
このままでは、学校そのものが安住の地ではなくなる。
クロウは、そう思った。
エナ姉を呼びたいわけではない。
本当は、呼びたくない。
学校に家の音を入れたくない。
エナ姉が悪いわけではない。
でも、エナ姉が来れば、空気は変わる。
柔らかくなる。
明るくなる。
そして、少しだけ重くなる。
それを知っている。
知っているからこそ、呼びたくない。
でも、このままずっと、こういう気持ちで学校に来るくらいなら。
一度だけ、きちんと来てもらった方がいいのかもしれない。
見て、終わる。
会って、納得する。
騒ぎが一度大きくなって、それから静かになる。
そうなってくれるなら。
クロウは顔を上げた。
「……一度だけ」
ガイの目が丸くなる。
「え?」
「一度だけ、来てもらえるように頼んでみる」
その瞬間、周りの空気が跳ねた。
「本当か?」
「マジで?」
エドが身を乗り出す。
ルークも少しだけ目を開いた。
「無理にとは言わない。ただ、頼めるなら助かる」
サムは黙って、少しだけ頭を下げた。
ガイも慌てたように姿勢を正す。
「頼む」
エドも両手を合わせた。
「頼む、クロウ」
クロウは少しだけ身を引く。
頭を下げられるのは、やっぱり少し重い。
でも、今は仕方ない。
「来るとは言ってない」
「それでもいい」
ガイはすぐに言った。
「頼んでくれるだけで、ありがたい」
「……うん」
クロウは筆記具の向きをそっと直した。
少しだけ、机の上が戻る。
けれど、教室の空気は、まだ跳ねたままだった。
跳ねたまま、元には戻らなかった。
クロウは、その音を聞きながら思った。
やっぱり、自分ではもう整えられない。
だから、呼ぶしかない。
一度だけ。
一度だけなら、きっと。
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
帰宅してから、クロウはまっすぐエナ姉の部屋へ向かった。
廊下の角を曲がる。
エナ姉の部屋の前で止まる。
一度、息を整えた。
言うことは決まっている。
一度だけ。
学校へ見学に来られるか。
ただし、一度だけ。
その後は来ないでほしい。
言い方は難しい。
でも、言わないといけない。
クロウはノックした。
「エナ姉」
返事はなかった。
けれど、部屋の中で足音がする。
次の瞬間、扉が開いた。
「クロウ!」
金の髪が揺れる。
そして、そのまま抱きしめられた。
「エナ姉……!」
背骨が、静かに悲鳴を上げた。
やわらかい。
あたたかい。
でも、やっぱり強い。
どうしてこんなに力があるのか、クロウにはいまだに分からない。
エナ姉は細い。
小柄で、外では聖女のように見られる。
なのに、抱きしめる力だけは、なぜかかなり強い。たぶん、守りたい気持ちが腕に入りすぎている。
「どうしたの? クロウから来てくれるなんて」
エナ姉は嬉しそうに言う。
腕はまだ離れない。
「話がある」
「ええ。なあに?」
「その前に」
「うん?」
「少し、弱く」
エナ姉の腕が、ほんの少し緩んだ。
「こう?」
「もう少し」
「こう?」
「……うん」
まだ近い。
でも、息はできる。
クロウはそのまま話すことにした。
離れてもらうには、もう一つ交渉が必要になりそうだったから。
「学校で」
「学校?」
「この前、エナ姉が見学に来たでしょう」
「ええ」
エナ姉の声が、少し明るくなる。
「あの時、クロウがいたわね」
「僕の学校だから」
「そうね」
エナ姉は嬉しそうに頷く。
クロウは少しだけ嫌な予感がした。
「それで、みんなが」
「みんな?」
「エナ姉に、もう一度来てほしいって言ってる」
エナ姉の腕が止まった。
少しだけ、空気が変わる。
「私に?」
「うん」
「学校へ?」
「うん」
「クロウの学校へ?」
「……うん」
エナ姉の瞳が、ぱっと明るくなった。
よくない。
クロウはすぐにそう思った。
「そうなの」
エナ姉は嬉しそうに微笑む。
「それなら、明日から一緒に行きましょう」
クロウは固まった。
「……明日から?」
「ええ」
エナ姉は当然のように言う。
「朝、一緒に登校して、授業を見て、お昼も一緒に食べて」
「待って」
「放課後は、クロウの工作室や音楽室も見られるのかしら」
「エナ姉」
「いいわね。私、学校に行ってみたかったの」
クロウの背中が、抱きしめられているのとは別の意味で冷える。
「学校に?」
「ええ」
エナ姉は少しだけ声を落とす。
「私、家庭教師ばかりだったでしょう」
クロウは黙る。
それは知っている。
エナ姉は学校に通っていない。
良家の子女として、屋敷で教育を受けている。
「だから、クロウと一緒に勉強したり、お昼を食べたり、廊下を歩いたりしてみたかったの」
エナ姉はそう言って、少し照れたように笑った。
「ちょうどよかったわ」
ちょうどよくない。
全然よくない。
クロウの頭の中で、教室の音が一気に跳ねた。
ガイ。
エド。
ルーク。
サム。
女子たち。
トム。
リラ。
工作室。
音楽室。
全部が、エナ姉の明るい声に巻き込まれていく。
「一度だけ」
クロウは言う。
「え?」
「一度だけ、見学に来てくれればいい」
「でも、みんなが来てほしいと言ってくれたのでしょう?」
「一度だけ」
「一度では、ちゃんと見られないわ」
エナ姉は真面目に言う。
「学校って、授業だけではないのでしょう? 休み時間も、昼食も、放課後もあるわ」
「あるけど」
「なら、全部見ないと」
「見なくていい」
「どうして?」
エナ姉は不思議そうだった。
本当に分かっていない顔だった。
悪気はない。
むしろ、嬉しそうですらある。
「学校は」
クロウは言いかけて、止まる。
学校は、学校だから。
家じゃないから。
エナ姉が毎日来たら、学校が学校でなくなるから。
そう言っても、たぶん伝わらない。
エナ姉にとっては、クロウと一緒にいられる場所が増えるだけだ。
でも、クロウにとっては違う。
学校は、少し息がしやすい場所だった。
家の強い音から離れられる場所だった。
そこにエナ姉が毎日来たら。
それはもう、学校ではなくなる。
「……毎日は、やめてほしい」
クロウはようやく言った。
エナ姉の瞳が揺れる。
「来てほしくないの?」
その声が、少し弱くなる。
クロウは胸の奥が引っかかった。
違う。
そうではない。
でも、そう聞こえる言い方だったのかもしれない。
「嫌いじゃない」
「でも、来てほしくないの?」
「学校は」
言葉が詰まる。
整わない。
うまく、置けない。
クロウは小さく息を吸う。
「学校だから」
エナ姉は首を傾げる。
「学校だから?」
「……うん」
伝わっていない。
クロウにも分かる。
エナ姉は優しい。
でも、優しさが近すぎる。
今は、その近さが言葉まで押してくる。
「それなら」
エナ姉は少しだけ考えたあと、明るく言った。
「まず一日、行ってみましょう」
「一日?」
「ええ。一日過ごしてみれば、きっと分かるわ」
何が分かるのか。
たぶん、エナ姉が分かるのは学校の楽しさで。
クロウが分かるのは、学校が戻らなくなることだ。
「エナ姉」
「大丈夫よ。私、邪魔はしないわ」
クロウは、黙った。
邪魔をするつもりがない人ほど、強く残ることがある。
それを、クロウはよく知っている。
エナ姉の腕の中で、背中がまた少しきしんだ。
音が揃わない。
言葉も揃わない。
頭の中まで、少しずつ散らかっていく。
「……少し考える」
クロウは言った。
「ええ」
エナ姉は微笑む。
「私も準備しておくわね」
準備。
よくない言葉だった。
「準備は」
「持ち物は何が必要かしら。お弁当もいるの?」
「まだ」
「制服はないわよね。見学だから、いつもの服でいいかしら」
「エナ姉」
「楽しみね」
楽しみではない。
少なくとも、クロウは。
けれど、エナ姉はもう嬉しそうだった。
クロウはようやく腕から抜け出し、一歩下がる。
「僕、行く」
「ええ」
エナ姉はにこにこしている。
「またあとでね、クロウ」
クロウは頷くこともできずに、部屋を出た。
廊下に出る。
静かなはずの廊下が、少し歪んで見えた。
壁の絵。
花瓶。
絨毯の端。
全部、少しずつ気になる。
クロウは足を止めた。
このままでは、だめだ。
一度だけ来てもらうつもりだった。
それで話題を少し落ち着かせるつもりだった。
なのに、毎日一緒に登校する話になりかけている。
学校が、安息の地でなくなる。
工作室も。
音楽室も。
トムとリラとの時間も。
全部が、家の音に飲まれる。
クロウの中で、音が乱れに乱れていた。
落ち着け。
そう思う。
でも、落ち着かない。
こういう時、父様なら音で整える。
母様なら、やわらかく抱きしめてくれる。
レナ様なら、静かにお茶を出して、気づけば逃げ道を塞いでいる。
でも、今必要なのは、たぶんそのどれでもない。
言葉だ。
エナ姉に届く言葉。
クロウの言葉では、足りなかった。
なら。
クロウは顔を上げた。
テッドだ。
兄様なら、言える。
エナ姉に、毎日学校へ来るなと。
できれば、クロウをあまり傷つけない形で。
かなり難しいかもしれない。
でも、他にない。
クロウは廊下を歩き出した。
足音が、少しだけ乱れている。
それでも、止まらない。
テッドの部屋へ向かう。
この乱れを、自分だけでは整えられないと思いながら。




