学校が学校でなくなる
――帝国暦三五〇年・春中頃 帝国人民学校・地方分校――
朝の教室は、少しだけ浮いていた。
椅子の音。
机に鞄を置く音。
誰かの笑い声。
いつもの音のはずだった。
けれど、そこに昨日から続く話題が混ざっている。
「やっぱりさ」
ガイの声が聞こえた。
「あの見学の人、クロウの姉なんじゃないか?」
クロウは教室の入口で足を止めた。
まだ、自分の席までは少し距離がある。
でも、話題だけはもう届いていた。
「エナ姉って言ってたしな」
エドが言う。
「レオエナさん、だったよな」
ルークが確認する。
「エナ」
サムが小さく言った。
「繋がるといえば、繋がる」
クロウは少しだけ目を伏せる。
まただ。
また、余計な噂を拾っている。
昨日、話は立ち消えになったはずだった。
少なくとも、そう見えた。
でも、消えたわけではなかったらしい。
机の上に残った薄い傷のように、話題だけが残っていた。
しかも、昨日より形がはっきりしている。
見学の人。
エナ姉。
レオエナ。
姉。
言葉が、少しずつ一本の線になっている。
その線の先にあるのは、たぶん正しい。
たぶん、エナ姉だ。
けれど、それをここで認めると、別のものまで繋がる。
森の方のお屋敷。
猫を抱いた小さい子。
奥様みたいなお嬢様。
サザ家。
家のものが、学校の机の上に並べられていく、それは、あまりよくない。
「クロウ」
ガイがこちらに気づいた。
教室の空気が、少し寄る。
クロウは席へ向かう。
鞄を置く。
机の端に触れる。
冷たい。
でも、今日は少しだけ落ち着かない。
「なあ」
ガイが机の前に立つ。
「やっぱり、あの見学の人ってさ」
「……うん」
クロウは短く返した。
「お前の姉さんなんじゃないか?」
周りの声が、少し小さくなる。
聞いていないふりをしている生徒も、耳だけはこちらへ向いている。
クロウは少し考えた。
否定する。
そうすれば、ひとまず止まるかもしれない。
けれど、ミアがもう来ている。
街で噂も拾われている。
名前も、ほとんど出ている。
ここで下手に否定すると、かえって別の形で残る。
だから、クロウは質問を返した。
「もし、そうだったとして」
ガイが瞬きをする。
「うん?」
「どうしたいの?」
教室が少し止まる。
ガイは考えていなかったような顔をした。
「どうって……」
エドが横から笑う。
「確かに、どうしたいんだよ」
「いや」
ガイは少しだけ目を逸らす。
それから、少し照れたように言った。
「また来てほしい」
軽い声。
けれど、そこには少しだけ熱があった。
クロウの胸の奥が、小さく沈む。
「また?」
「ああ」
ガイは頷く。
「もう一回くらい、見たい」
「見たい?」
「変な意味じゃなくてさ」
少し慌てたように付け加える。
「なんか、すごかっただろ。空気が変わるっていうか」
それは分かる。
クロウにも分かる。
エナ姉が来ると、空気は変わる。
やわらぐ。
ほどける。
でも、少しだけ重さも残る。
学校の空気には、あまり混ぜたくない重さだった。
「俺も」
サムが小さく言った。
クロウはそちらを見る。
サムは少しだけ気まずそうに視線を落とした。
「もう少し、見てみたい」
サムが言うのは、少し意外だった。
いつもなら、踏み込みすぎない。
けれど今回は、そうではなかった。
「いや、俺も」
エドが軽く手を上げる。
「気になるし」
ルークも少しだけ考えてから言った。
「もし可能なら、もう一度話を聞いてみたい」
「話?」
「あの人が普段どういう勉強をしているのか、とか。家庭教師がいる良家の子女なら、学校と違う学び方をしているはずだろう」
ルークらしい理由だった。
でも、やはり方向は同じだった。
もう一度。
もう一度、来てほしい。
クロウは机を見る。
自分の机。
学校の机。
家の机ではない。
そこに、エナ姉の話が乗っている。
少しずつ。
少しずつ、場所が変わっていく。
「頼む」
ガイが、少しだけ頭を下げた。
エドも笑いながら両手を合わせる。
「な、ちょっとだけ」
ルークは真面目な顔で言った。
「無理なら無理でいい。ただ、聞けるなら」
サムは黙って、小さく頷いた。
クロウは動けなかった。
頼まれることは、悪いことではない。
失礼でもない。
むしろ、きちんとしている。
でも、こんな学校は、クロウの考える学校ではなかった。
授業があって。
靴箱があって。
工作室があって。
音楽室があって。
トムがいて。
リラがいて。
たまにガイたちが騒いで。
それで十分だった。
そこに、エナ姉が混ざる。
エナ姉だけではない。
森の方のお屋敷。
猫を抱いた小さい子。
奥様みたいなお嬢様。
サザ家。
そういうものが、教室に入ってくる。
エナ姉のせいではない。
エナ姉は、悪くない。
けれど、ずっとエナ姉の話題ばかりだった。
それは、家の中にいる時と少し似ていた。
少しだけ、居心地が悪い。
「……考える」
クロウは短く言った。
ガイが顔を上げる。
「本当か?」
「聞くとは言ってない」
「考えるだけ?」
「うん」
ガイは少しだけ不満そうだった。
でも、強くは言わなかった。
「じゃあ、考えてくれ」
「うん」
教師が入ってきた。
話はそこで切れる。
黒板に文字が書かれる。
チョークの音がする。
授業が始まる。
でも、クロウの机の周りだけ、まだ少しだけ音が斜めだった。
放課後。
クロウは工作室にいた。
机の上には、小さな歯車と、トムが持ってきた細いばねが並んでいる。
リラは窓際の椅子に座り、楽譜を膝に置いていた。今日は音楽室へ行く前に、少しだけ工作室で過ごす日だった。
いつもなら、それだけで落ち着く。
けれど、今日はまだ教室の声が残っていた。
「クロウ」
トムが歯車を布の上に置く。
「朝の話、気にしてる?」
クロウは少しだけ手を止めた。
「少し」
リラが顔を上げる。
「見学の人のこと?」
「うん」
トムは椅子に座り直した。
「みんな、また来てほしいって言ってたね」
「うん」
「どうするの?」
クロウは歯車を見る。
小さな歯が、ひとつだけ欠けている。
でも、使えないほどではない。
置く場所を選べば、まだ動く。
「……たぶん」
クロウはゆっくり言った。
「姉だと思う」
トムは少しだけ目を丸くする。
リラも静かにこちらを見た。
「思う?」
「うん」
クロウは歯車を見たまま頷く。
「でも、そう言うと都合が悪い」
「なんで?」
悪意のない問いだった。
クロウはすぐには答えられなかった。
なぜ?。
エナ姉が嫌いだからではない。
ガイたちが嫌だからでもない。
学校に誰かが来ること自体が悪いわけでもない。
でも、クロウは歯車を指先で触った。
欠けたところを、なぞる。
「学校が」
クロウは小さく言う。
「学校でなくなるから」
トムは首を傾げた。
リラも、少しだけ考えるように黙る。
「学校が学校でなくなる?」
トムが繰り返す。
「うん」
「どういう意味?」
クロウは歯車を布の上に戻した。
「家の話ばかりになる」
それは、小さな声だった。
「エナ姉の話とか、ミアの話とか、屋敷の話とか、母様の話とか」
リラが静かに聞いている。
トムも、からかわない。
「ここは」
クロウは続ける。
「学校だから」
その言葉は、自分でも少し変だと思った。
学校は学校だ。
そんなことは、言わなくても分かる。
でも、クロウにとっては大切な言葉だった。
「家じゃないから」
トムは黙った。
リラも、すぐには何も言わない。
工作室の中に、外の声が少しだけ入ってくる。
遠い、いつもより遠く感じる。
「そっか」
トムが、ようやく言った。
分かった、というより。
分かろうとしてくれる声だった。
「クロウは、ここが家みたいになるのが嫌なんだ」
クロウは少しだけ考える。
「うん」
「家が嫌ってことじゃなくて?」
「違う」
すぐに答えた。
「家も、嫌じゃない」
エナ姉がいる。
ミアがいる。
母様がいる。
父様の音がある。
レナ様の糸がある。
テッドの言葉がある。
嫌ではない。
でも、強い。
家は強い。
学校は、それより少しだけ息がしやすい。
「家は、強い」
クロウは言った。
「ここは、そうじゃない方がいい」
リラが少しだけ目を伏せた。
「それは、分かる気がする」
クロウはリラを見る。
「分かる?」
「全部ではないけど」
リラはやわらかく言う。
「音楽室が、急に別の場所みたいになるのは、少し嫌かも」
トムも頷く。
「工作室が、変な噂話ばっかりになったら嫌だしな」
「うん」
クロウは小さく頷いた。
少しだけ、息が戻る。
完全には伝わっていないかもしれない。
でも、二人は否定しなかった。
それだけで十分だった。
「じゃあ」
トムが言う。
「どうする?」
「引き延ばす」
クロウは言った。
「たぶん姉だと思う。でも、都合が悪い。そう言う」
「都合って?」
「都合」
「便利な言葉だな」
「うん」
リラが小さく笑った。
「クロウがそう言うなら、そうなんだと思う」
「何が?」
「都合が悪い、って」
クロウは少しだけ目を伏せる。
「悪い」
「うん」
リラは頷いた。
「なら、無理に言わなくていいと思う」
トムも歯車を拾い上げる。
「じゃあ、ガイたちには俺からも言っとくか。あんまり聞くなって」
「いい」
クロウは首を振った。
「言うと、増える」
「あー」
トムはすぐに納得した顔をした。
「それはある」
「だから、少しだけ」
クロウは歯車を布の上に戻した。
「少しだけ、時間を置く」
話題は、時間が経てば少し薄くなる。
別の授業がある。
別の遊びがある。
別の失敗がある。
そうやって、教室の空気は少しずつ戻る。
全部を押し返す必要はない。
少しだけ待つ。
少しだけ、触れない。
たぶん、それでいい。
リラが楽譜を閉じる。
「じゃあ、今日は音楽室に行く?」
「うん」
クロウはすぐに頷いた。
トムが笑う。
「工作室から音楽室」
「順番だから」
「大事だな」
「大事」
三人は立ち上がる。
工作室の机に、歯車を戻す。
布を畳む。
椅子を直す。
少しだけ、整える。
それから廊下へ出た。
教室の方からは、まだ少しだけガイたちの声が聞こえる。
けれど、ここまでは届かない。
音楽室へ向かう廊下は、静かだった。
クロウは小さく息を吐く。
学校が学校でなくなる。
たぶん、うまく説明はできない。
でも、守りたいものがある時。人は、少しだけ変な言葉を使うのかもしれない。
クロウはそう思いながら、音楽室の扉へ手を伸ばした。




