レナ様のお茶
朝食のあと、クロウは食堂に残っていた。
皿を下げる。
小皿を重ねる。
ナイフとフォークを分ける。
グラスの位置をそろえてから、マーサが運びやすいように盆へ置く。食卓は、食べ終わったあとの方が乱れやす
い。
ブレッドのくず。
少しずれた皿。
傾いたカップ。
使い終わったナイフ。
そういうものを、ひとつずつ戻していく。
食事が終わったあとにも、ちゃんと終わりの形がある。
クロウは、そういう作業が嫌いではなかった。
「クロウ坊ちゃま、いつも助かりますよ」
厨房の方から、マーサが顔を出した。
手には空いた籠を持っている。
「今日もきれいにまとめてくださって」
「うん」
「モーリスさんも助かるって言っていましたよ。うちは人手が多い家ではありませんからねえ」
サザ子爵家は、貴族家としては使用人が少ない。
屋敷の中を主に見ているのは、執事のモーリス。メイドのプラム。それから、料理人のマーサくらいだった。
だから、クロウが食卓を手伝うことは珍しくない。それに、クロウはこういう作業が好きだった。
置く。
そろえる。
確かめる。
ほんの少し直す。
それだけで、胸の奥が少し静かになる。
「無理はしなくていいんですよ」
マーサが笑う。
「でも、坊ちゃまが並べると、本当にきれいですからねえ」
「……ありがとう」
「こちらがお礼を言うところですよ」
マーサはそう言って、空いた皿を受け取っていった。
クロウが最後のカップを盆に置いた時だった。
「クロウ」
静かな声がした。
振り向くと、レナ様が立っていた。
黒髪をきれいにまとめ、いつもの穏やかな顔でこちらを見ている。
「レナ様」
「今日も手伝ってくれたのね」
「うん」
「ありがとう。とても助かったわ」
「マーサにも言われた」
「そう」
レナ様は少しだけ目を細めた。
「では、私からもお礼をしなくてはいけないわね」
「お礼?」
「ええ」
レナ様はやわらかく微笑む。
「お茶を飲んでいかない?」
「今?」
「ええ。今」
強く言われたわけではない。
けれど、もう決まっている声だった。
クロウは少しだけ迷う。
でも、食卓を手伝ったお礼だと言われると、断る理由が見つからなかった。
「……うん」
「よかった」
レナ様は嬉しそうに頷いた。
レナ様の部屋は、静かだった。
布と糸。
小さな裁縫箱。
窓辺の椅子。
丸いテーブル。
そこには、すでに茶器が並んでいた。
カップ。
ポット。
砂糖壺。
小さな菓子皿。
スプーン。
全部、ちょうどいい場所にある。
近すぎず、遠すぎず。
クロウはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
こういう整え方をされると、落ち着く。レナ様は、それを知っているような顔で言った。
「座って」
「うん」
クロウが椅子に座ると、レナ様は紅茶を注いだ。
音が静かだった。
細く、揺れずに、カップの中へ落ちていく。
「食卓を手伝ってくれるの、助かっているのよ」
「そう?」
「ええ」
レナ様は紅茶をクロウの前に置く。
「マーサも喜んでいるわ。モーリスも、あなたが手伝うと食堂の片づきが早いと言っていたし」
「好きだから」
「そうね」
レナ様は微笑む。
「好きなことで誰かを助けられるのは、とても良いことだわ」
クロウはカップを見る。
紅茶の表面が、少しだけ揺れている。
熱すぎない。
香りも強すぎない。
ひと口飲むと、胸の奥が少し落ち着いた。
「こちらもどうぞ」
小さな皿が、すっと前に出された。
焼き菓子だった。
丸くて、端が少しだけ香ばしい。
表面に砂糖が薄くかかっている。
「マーサが焼いたものです」
「……おいしそう」
「ええ。おいしいですよ」
レナ様はやわらかく言った。
クロウはひとつ取って、口に運ぶ。
さくり、と軽い音がした。
甘すぎない。
でも、ちゃんと甘い。
香ばしくて、少しだけバターの匂いがする。
「おいしい」
「よかった」
レナ様は嬉しそうに微笑む。
その顔を見ると、クロウは少しだけ安心した。
レナ様は優しい。
そう思った。
「もうひとつどうぞ」
レナ様が、別の小さな皿を寄せた。
今度は真ん中に赤い果実のジャムがのった焼き菓子だった。
「……もう?」
「ええ。小さいものですから」
たしかに、小さい。
一口で食べられそうな大きさだった。
クロウは少し迷った。
けれど、レナ様が出してくれたものを残すのはよくない。それに、きれいに皿へ置かれている。食べるために、そこにある。
「ありがとう」
クロウは受け取った。
甘い。
さっきより、少し甘い。
でも、おいしい。
「クロウは、食べ方もきれいね」
「そう?」
「ええ」
レナ様は静かに言う。
「急がないし、こぼさないし、お皿の上も乱れない」
クロウは少しだけ目を伏せた。
褒められている。
静かに。
大きくない声で。
でも、ちゃんと届く。
それは少し嬉しかった。
「こちらも」
また、小さな皿が出された。
今度は薄く焼いた菓子だった。
端がきれいに丸い。
「……レナ様」
「なあに?」
「もう、けっこう食べた」
「あら」
レナ様は優しく目を細めた。
「これはとても軽いものですよ」
「軽い」
「ええ。さくっとしています」
それは、軽さの種類が違う気がした。
でも、レナ様は本当に優しく微笑んでいる。
クロウは菓子を見る。
小さい。
食べられない量ではない。
ただ、少しずつ積み重なっているだけだ。
「……食べる」
「ええ」
レナ様は満足そうに頷いた。
クロウは薄い菓子を食べた。
さくり、と音がする。
軽い、たしかに軽い。
でも、お腹には入る。
紅茶も注ぎ足された。
「これで最後にしましょうね」
「うん」
クロウは紅茶を飲む。
口の中の甘さが、少しだけ薄くなる。
お茶はおいしい。
菓子もおいしい。
レナ様は優しい、たぶん。
「クロウ」
「うん」
「残してもよかったのですよ」
レナ様は、今さらのように言った。
クロウは皿を見る。
もう何も残っていない。
「……食べたあとに言う?」
「ええ」
レナ様はにこりと微笑む。
「クロウは、残さないと思ったから」
クロウは黙った。
見抜かれていた。
最初から、たぶん。
レナ様は穏やかに微笑んでいる。
優しい。
けど、逃げ道を塞がれていた気もする。
それでも、お茶はおいしかった。
菓子もおいしかった。
褒められたことも、少し嬉しかった。
だから、困る。
「お腹は?」
「いっぱい」
「そう」
レナ様はとても満足そうだった。
「よかった」
「よかった?」
「ええ。食卓を手伝ってくれたお礼ですもの」
「……うん」
クロウは立ち上がる。
少しだけ、体が重い。
お腹がいっぱいだった。
かなりいっぱいだった。
「部屋まで戻れる?」
「戻れる」
「無理はしないで」
「うん」
無理をさせたのは、少しレナ様ではないだろうか。そう思ったけれど、言わなかった。
レナ様は優しい、思う。
クロウはそう考えることにした。
部屋を出る。
扉が静かに閉まる。
その直前、レナ様が少しだけ口元を緩めているのが見えた。
にこにこ、というより。
少し、にやにやに近かった。
クロウは立ち止まりかける。
けれど、お腹が重い。
考えるより先に、足が自分の部屋へ向かった。
部屋に入る。
扉を閉める。
ベッドを見る。
クロウはそのまま、ぽすん、と倒れた。
甘い匂いが、まだ口の中に残っている。
食卓は、きれいに片づいた。
レナ様のお茶も、きれいに整っていた。
菓子もおいしかった。
レナ様は優しい。
多分優しいはず。クロウはそう思いながら、しばらく天井を見ていた。




