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たぶん、僕じゃない

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸――


 朝、テッドからアランの話を聞いた。

「最近、あまり体調がよくないらしい」

 食後の廊下で、テッドがそう言った。


 手には本がある。

 帝国法の本。

 いつもより、少しだけ閉じ方が硬かった。


「アランが?」

「ああ」

「外にも出ていないの?」

「しばらくは控えると言っていた」

 クロウは少しだけ黙る。


 アランは、清潔で丁寧な人だった。

 話をちゃんと聞いてくれる。

 音を合わせる時も、こちらが入る場所を待ってくれる。元気がないところは、あまり想像しにくい。


「……治る?」

「分からない」

 テッドは短く言う。

 でも、その声は少しだけ硬い。


「ただ、今は休ませるべきだ」

「うん」

 クロウは頷いた。


 気になった。

 けれど、今できることはない。

 無理に触れると、余計に乱れるものもある。それは、少しだけ知っている。


 学校へ行く前に、庭の端で短い稽古をした。プラムはいつも通り、黒髪をきれいにまとめて待っていた。


 訓練用の剣を受け取る。

 構える。

 足を置く。

 肩の力を抜く。


「本日は、よろしいです」

 プラムが言った。

 クロウは少しだけ顔を上げる。


「よろしい?」

「はい」

 プラムは礼儀正しく頷いた。

「なかなか筋がよろしいかと」


 褒められた。クロウは一瞬、胸の奥が少しだけ浮くのを感じた。

 悪くない。

 むしろ、少し気分がいい。


 けれど、浮きすぎると足の位置がずれる。

 クロウはゆっくり息を吐いた。

 嬉しい。

 でも、そのままにしない。

 少しだけ冷やす。

 少しだけ戻す。

 そうすると、胸の奥がすっと整った。


「……ありがとう」

「事実です」

 プラムは淡々と言う。

 褒める時も、やはり礼儀正しい。

 クロウはそれも少し良いと思った。


 稽古を終え、屋敷を出る。

 今日も馬車では行かない。

 歩いて学校へ向かう。


 朝の道は、まだ騒がしくない。

 街へ向かう人の足音。

 遠くの馬車の音。

 店の戸が開く音。


 それぞれが、少しずつ離れた場所にある。

 クロウはその中を歩いた。

 アランのことが少し気になった。


 プラムに褒められたことも、少しだけ残っていた。


 それでも、学校が近づくと、胸の奥が軽くなる。


 門をくぐる。

 靴を脱ぐ。

 生徒用の靴箱を見る。

 右の靴が、一足だけ斜めに入っていた。

 通るのに困るほどではない。

 でも、目に入る。


 クロウはそっと手を伸ばし、向きを直した。ついでに、隣の靴も少しだけ奥へ戻す。


 右。

 左。

 少しだけ揃う。

 それでいい。

 教室へ向かった。


 教室は、いつもより少しだけ弾んでいた。

 クロウが入る前から、声がしていた。

「だからさ、絶対そうだって」

「手を繋いでたんだろ?」

「え、何それ」


 クロウは扉の前で足を止める。

 話題の中心が、少しだけこちらに寄っている気がした。


 中に入る。

 教室は、いつもより少しだけ弾んでいた。

 クロウが入る前から、声がしていた。


「だからさ、絶対そうだって」

「手を繋いでたんだろ?」

「え、何それ」


 クロウは扉の前で足を止める。話題の中心が、少しだけこちらに寄っている気がした。


 中に入る。

 トムがすぐに気づいた。

「おはよう、クロウ」

「おはよう」

 いつもの挨拶。

 それだけで少し落ち着く。


 トムは少しだけ困ったように笑った。

「なんかさ」

「うん」

「クロウの話で盛り上がってるみたいだよ」

「僕の?」

「うん」


 クロウは席に荷物を置く。

 机の端に触れる。

 冷たい。

 まだ大丈夫。


「お姉さんと買い物に行ってたって」

 トムが言う。

 クロウは少し考えた。

 エナ姉とは、たまに買い物へ行く。

 頼まれることもある。

 荷物を持つこともある。

 けれど、それが話題になる理由は、あまり分からない。


「いつのことだろう」

「そこまでは知らない」

 トムは肩をすくめる。

「ガイたちが聞いたらしい」

 その声に反応したように、ガイがこちらを向いた。


「クロウ」

 少し楽しそうな顔。

 後ろには、エドとルークとサムもいる。


「姉さんと買い物行ってたらしいじゃん」

「姉さん?」

「金髪の小柄な人」

「エナ姉?」

 クロウは少しだけ首を傾げる。


「買い物には、行くけど」

「やっぱり」

 エドが笑う。

「しかも手を繋いでたって」

 クロウの手が止まった。


「手?」

「うん。手を繋いで歩いてたって」

「……エナ姉と?」

「違うのか?」


 ガイが身を乗り出す。

 クロウは少し考えた。

 エナ姉と買い物に行くことはある。

 でも、手は繋がない。


 エナ姉は近い。

 近いけれど、買い物の時はたいてい荷物か商品を見ている。手を繋いで歩いた記憶はない。


 では、誰だろう。

 金髪で小柄な人。

 買い物。

 手を繋いでいた。


 母様。

 そう思いかけて、クロウは止まった。

 母様とは、たまに手を繋いで街を歩く。

 金髪で小柄で、遠目にはエナ姉と姉妹のように見える。でも、それをここで言うと、また話が別の方向へ転がる。


 母様のこと。

 屋敷のこと。

 元皇女のこと。


 そういうものが、学校の机の上に乗ってしまう。それは、あまりよくない。


 それに、クロウ自身も、その日がいつのことなのかは分からなかった。


 エナ姉とも買い物には行く。

 母様とも行く。

 金髪で小柄な人は、屋敷に複数いる。

 だから、断定しない方がいい。


「それ、本当に僕?」

 一瞬、場が止まる。

「え?」

「見たの?」

 クロウはガイを見る。

 ガイは少しだけ視線を泳がせた。


「いや、聞いた」

「誰から?」

「街の人」

「その人は、僕だって言った?」

 ガイが黙る。

 エドも少し笑いを引っ込めた。


「いや……そこまでは」

「金髪の小柄な人と、子どもが手を繋いでたって」

 ルークが確認するように言う。


「場所は?」

「エルベの近く」


 クロウは少しだけ目を伏せた。

 エルベ。

 ジャムの店。

 母様も行く。

 エナ姉とも行くことがある。

 だから、やっぱり分からない。

 分からないことにした方がいい。


「多分、僕じゃない」

 クロウは短く言った。

「でも、エルベだろ?」

 ガイが言う。

「知らない」

 クロウは席に座る。


「少なくとも、僕はエナ姉と手を繋いで買い物には行かない」

「じゃあ違うのか?」

「たぶん」


 軽い沈黙。

 エドが頭をかく。

「なんだよ、違うのか」

「でも、金髪で小柄って……」

 ルークが少しだけ考える。


 サムが小さく言う。

「森の方のお屋敷、金髪で小柄な人、複数いるんだろ」

 その言葉で、話が少しだけ別の方へ転がりかけた。クロウは机の端に置いた筆記具を、そっと揃える。


「授業、始まる」

 それだけ言う。

 ちょうど教師が教室に入ってきた。

 空気が少し戻る。


 椅子の音。

 紙の音。

 朝の流れ。


 ガイたちはまだ少しだけ何か言いたそうだった。でも、話はそのまま立ち消えになった。


 クロウは黒板を見る。

 今日も、学校は平和だった。

 少なくとも、昼までは。


 放課後も、悪くなかった。

 トムと少しだけ工作室へ行き、リラと音楽室で短く合わせた。


 アランのことは少し気になったけれど、トムもリラもいつも通りだった。


 学校の音は、大きく乱れなかった。

 だから、今日も平和だったと言っていい。

 屋敷に帰るまでは。


■サザ子爵邸、屋敷


 帰宅してすぐ、クロウは作業小屋へ向かった。昨日から直していた小さなオルゴールがある。


 歯車の噛み合わせを戻し、軸の動きもよくなっていた。あと少しで、音が繋がるはずだった。


 扉を開ける。

 机の上を見る。

 オルゴールはそこにある。

 けれど、蓋が開いていた。

 部品がひとつ、机の端に転がっている。

 そして、エナ姉が困った顔で立っていた。


「クロウ」

「……エナ姉」

「ごめんなさい」


 クロウは机を見る。

 オルゴールを見る。

 外れた部品を見る。

 胸の奥が、すうっと静かになる。


 静かになる時は、だいたいあまりよくない。でも、クロウはすぐにはオルゴールに触れなかった。先に、エナ姉の手を見た。


「怪我は?」

「え?」

 エナ姉が目を瞬かせる。

「指。切ってない?」


 クロウは近づいて、エナ姉の手元を見る。

 細い指。

 白い手。

 少しだけ慌てた跡はあるけれど、血は出ていない。

 傷もない。

 クロウは小さく息を吐いた。

「……よかった」

 エナ姉は、しばらく黙っていた。

 それから、少しだけ頬を染める。


「クロウ」

「うん」

「オルゴール、壊してしまったのに」

「うん」

「私の心配をしてくれるの?」


「怪我したら、困る」

 クロウは短く言った。

 それは当然のことだった。

 オルゴールは直せるかもしれない。

 部品も、たぶん探せる。


 でも、エナ姉の指が切れていたら、そちらの方が先だった。エナは、両手を胸の前でぎゅっと握る。


「……そう」

 声が少しだけ揺れている。

 泣きそうな声ではない。

 嬉しそうな声だった。


「クロウは、優しいわね」

「違う」

「違わないわ」

「オルゴールは、あとで見る」

「ごめんなさい」

「うん」


 クロウはようやく机の上を見る。

 蓋。

 外れた部品。

 少しずれた歯車。


 さっきまで繋がりかけていた音は、また遠くなっている。


 胸の奥は、少しだけ痛い。

 でも、エナの指は無事だった。

 それなら、まだいい。


 クロウは部品をそっと拾い上げる。

 エナはその横で、申し訳なさそうにしながらも、どこか嬉しそうにクロウを見ていた。


 学校は平和だった。

 今日は、たぶん平和だった。

 クロウはそう思うことにした。


 屋敷に帰ってからのことは。

 まだ、数えないことにした。

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