父の音が、少しだけ
――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸・音楽室――
その日のチェロは、少しだけ違っていた。
音楽室から流れてくる音は、いつものように低く、静かだった。
けれど、どこかに細い揺れがある。
音が外れているわけではない。
乱暴でもない。
ただ、弓が進むたびに、ほんの少しだけ迷いが混ざる。
クロウは廊下で足を止めた。
父様の音だ。
でも、いつもの父様の音ではない。
音楽室の扉は、少しだけ開いている。
中を覗くと、父様がいた。
ケイン・ザザ。
チェロを抱え、いつもの椅子に座っている。
その前には、母様とレナ様がいた。
二人とも黙って音を聴いている。
母様は膝の上で手を重ねていた。
レナ様は静かに背筋を伸ばしている。
けれど、二人とも同じような顔をしていた。
不思議そうで。
少しだけ、不安そうな顔。
やはり、気づいている。
クロウはそう思った。
母様も、レナ様も、父様の音をよく知っている。
いつもの音なら、もっと肩の力が抜けている。
けれど今は、二人とも何かを探すように聴いていた。
曲が少しだけ強くなる。
その瞬間、母様がクロウに気づいた。
「クロウ」
小さな声。
クロウは中へ入る。
母様の隣に座ると、すぐに手を握られた。
やわらかい手。
でも、少し冷たい。
クロウはその手を見る。
母様が手を握ってくる時は、だいたい不安な時だった。
母様は笑っている。
でも、指先は少しだけ力が入っている。
「……父様、どうしたの?」
クロウが小さく聞く。
母様は首を振った。
「分からないの」
レナ様も、静かに頷く。
「朝から、少しだけ音が違います」
少しだけ、そう言ったけれど、レナ様の声はいつもより低かった。
父様は、自分の気持ちをあまり言葉にしない。
そのかわり、音に出る。
嬉しい時も。
考えている時も。
誰かを落ち着かせたい時も。
そして、たぶん。
何かを抱えている時も。
クロウは、もう一度音を聴いた。
低い音の奥に、細いひっかかりがある。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと、面倒で。
避けたいけれど避けられないものを前にした時の音。
クロウは静かに立ち上がった。
「クロウ?」
母様が不安そうに見る。
「少しだけ」
それだけ言って、クロウは壁際へ向かう。
ヴィオラを取った。
十歳の身体には、まだ少し大きい。
けれど、持てる。
弓を構える。
すぐには入らない。
父様の音を聴く。
どこが揺れているのか。
どこに触れていいのか。
どこは触れない方がいいのか。
父様のチェロは、低く続いている。
クロウはその下ではなく、横でもなく、少し上に、細い音を置いた。
ヴィオラの音が、チェロに触れる。
父様の弓が、ほんの少しだけ遅れた。
でも、止まらない。
クロウはもう一音、重ねる。
強くしない。
尋ねるように。
そこにいる、と示すように。
父様の音が、少しだけ向きを変えた。
クロウは息を整える。
父様が何を抱えているのかは分からない。
けれど、音の中にある揺れは分かる。
揺れているものを無理に押さえると、音は固くなる。
だから、少しだけ隣を歩く。
チェロが低く進む。
ヴィオラがそっとつく。
時々、父様の音が沈む。
クロウの音が待つ。
父様の音が戻る。
クロウも戻る。
会話より、分かりやすい。
言葉にすると、きっと遅れる。
音なら、今のまま触れられる。
しばらく、二つの音だけが部屋にあった。
母様は黙って聴いている。
レナ様も、何も言わない。
窓から入る光が、床の上で少しだけ揺れている。
やがて、父様の音が静かに落ちた。
クロウも弓を下ろす。
音が消える。
けれど、さっきまであったひっかかりは、少しだけ薄くなっていた。
父様が、ようやくクロウを見る。
「入ってきたな」
「うん」
「まだ少し早かった」
「……うん」
「だが、悪くない」
クロウは少しだけ息を吐く。
それだけでよかった。
それだけで、十分だった。
クロウはヴィオラを下ろし、父様を見る。
「何かあったの?」
父様はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を横へ向ける。
机の上に、一通の手紙があった。
封はすでに開いている。
けれど、紙は裏返しに置かれていた。
「……手紙?」
「ああ」
「誰から?」
父様は短く息を吐いた。
「カデリオン殿下だ」
伯父様。
皇太子カデリオン・リラ=クラルディア。
母様の兄。
とても偉い人。
そして、かなり母様を可愛がっている人。
祖父である皇帝もそうらしいけれど、伯父様も同じくらい、今でも母様を大事にしている。
だからこそ、父様への当たりが強い。
クロウはそれをなんとなく知っていた。
母様を連れていった人。
母様を皇宮から遠ざけた人。
そういうふうに見られているのだと思う。
「来るの?」
「ああ」
父様は答える。
「極秘で、だ」
「母様には?」
「まだ言うな、とある」
クロウは少しだけ黙った。
それは、父様の音も乱れると思った。
伯父様が来る。
しかも、母様に内緒で。
つまり父様は、母様に言えないことを抱えたまま、母様の前でいつも通り弾かなければならない。
それは、かなり難しい。
クロウは手紙を見る。
封蝋の形はきれいだった。
けれど、置かれ方が少しだけ斜めだった。
父様らしくない。
「……それで、少し」
「少し?」
「音が、乱れてた」
父様は黙る。
それから、ほんの少しだけ口元を動かした。
「お前にも分かるか」
「うん」
「そうか」
父様は手紙を裏返したまま、指先で端をそろえた。
「面倒なことになる」
「伯父様が?」
「ああ」
「母様が知ったら?」
「喜ぶ」
父様は即答した。
クロウは少しだけ考える。
「なら、もっと面倒?」
「そうだ」
父様の声は、いつも通り低い。
けれど、さっきより少しだけまっすぐだった。
「でも、父様」
「なんだ」
「さっきより、音は戻った」
父様はクロウを見る。
それから、小さく頷いた。
「そうだな」
クロウはヴィオラを片づけた。
「母様に、大丈夫って言ってくる」
「余計なことは言うな」
「言わない」
「本当だな」
「たぶん」
「たぶんはやめろ」
クロウは少しだけ頷いた。
音楽室を出る。
廊下には、母様とレナ様が立っていた。
母様はすぐに近づいてくる。
「クロウ」
「うん」
「ケインは?」
クロウは少しだけ考える。
手紙のことは言えない。
伯父様のことも、まだ言えない。
でも、音は少し戻った。
だから。
「大丈夫みたい」
母様の表情が、少しだけほどけた。
「そう」
小さく息を吐く。
「ありがとう、クロウ」
母様はそう言って、クロウをそっと抱きしめた。
強くない。
ちょうどいい。
レナ様も静かに微笑む。
「助かりました」
「僕は、少し弾いただけ」
「それが必要だったのです」
レナ様はそう言う。
クロウは何も言えなかった。
少しだけ、耳が熱い。
しばらくして、音楽室からまたチェロの音が聞こえてきた。
今度は、乱れていない。
低く。
静かで。
いつもの父様の音だった。
母様の肩から、力が抜ける。
レナ様の表情も、いつもの穏やかなものに戻る。
気づけば、廊下の端にミアがいた。
黒猫を抱えて、じっと音楽室の方を見ている。
「ミア」
クロウが呼ぶと、ミアはにこりと笑った。
「今の音、好き」
母様も微笑む。
「ええ。私も好き」
レナ様も静かに頷く。
「落ち着きますね」
四人で、しばらくその音を聴いた。
父様のチェロ。
いつもの音。
乱れを叱らず、押さえつけず、ただ元の場所へ戻していく音。
クロウは目を閉じる。
少し前まで揺れていたものが、ゆっくりほどけていく。
何が起きるのかは、まだ分からない。
伯父様が来る。
母様には、まだ内緒。
きっと、また少しだけ屋敷の音は揺れる。
でも今は。今だけは、戻っていた。
クロウは廊下で、母様の手の温かさと、父様の音を同時に感じていた。
それだけで、屋敷はまだ大丈夫だと思えた。




