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楓は、王弟レオンに会うために動き始めていた。


密談を偶然聞いて以来、彼の言葉——「困ったときは、王弟に相談を」——が頭から離れなかった。


(今、話さなければ。閉じ込められる前に、何かを変えなきゃ)


だが、王宮は静かに、確実に彼女を囲っていた。


最初に試したのは、講義の合間。教師が退出する直前、廊下の奥にレオンの姿が見えた気がした。楓は立ち上がり、扉へ向かおうとした——が、すぐに護衛が前に立ちはだかった。


「朝霧様、次の講義室はこちらです」


笑顔は丁寧だが、動きは遮るようだった。


次に試したのは、神殿への移動中。馬車の窓から、王宮の中庭を見下ろすと、遠くに軍服姿の人物がいた。楓は侍女に声をかけた。


「少しだけ、外を歩いてもいいですか?」


「申し訳ありません。陛下のご指示により、移動は馬車のみとなっております」


(……“ご指示”って、いつの間にそんな制限が)


三度目は、夜の回廊。侍女が湯の準備に下がり、護衛が交代のために一瞬だけ廊下を離れた。楓は扉をそっと開け、足音を殺して歩き出した。


だが、角を曲がった先で、別の護衛が待っていた。


「夜のご移動は危険です。お部屋へお戻りください」


その声は、もはや“丁寧”ではなかった。


──


数日間、楓は諦めずに試みた。講義の隙、侍女の不在、護衛の交代、回廊の影——だが、結果は変わらなかった。むしろ、監視の目はさらに厳しくなっていった。


(……どうしても、話せない。誰にも、何も伝えられない)


そして、ついに王からの呼び出しが届いた。


「陛下が、朝霧様と直接お話になりたいとのことです」


楓は一瞬、言葉を失った。


(今、呼ばれたら終わる。あの“部屋”に入れられる)


「……体調が優れません。今日は、控えさせていただけますか」


侍従は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに頷いた。


「かしこまりました。では、後日改めて」


その言葉に、楓は背筋が凍る思いだった。


(この言い訳は、もう通用しない。次は、逃げられない)


──


その夜。楓は窓辺に立ち、鍵のかかった窓を見つめていた。外には護衛の気配。扉の前にも人影。


(……どうすれば、ここから抜け出せる?)


そのときだった。


カチリ、と小さな音がした。窓の鍵が、静かに外された。


楓は息を呑み、身を固くした。誰かが入ってくる。護衛か、それとも——


月の光が差し込み、影が現れた。


黒い外套。鋭い目元。その姿は、楓が何度も思い描いた人物だった。


「……レオン殿」


窓から差し込む月光の中、レオンは静かに立っていた。黒い外套に身を包み、声を発することなく楓を見つめている。


楓は息を呑みながら、ゆっくりと近づいた。


「……どうして、ここに?」


レオンは窓の鍵をそっと閉めながら答えた。


「君が動こうとしていたのは、見ていた。だが、王宮の目は君に向けられている。接触の機会は、君には与えられない」


楓は目を伏せた。


「……何度も試しました。講義の合間、神殿への移動、夜の回廊。でも、誰にも近づけない。あなたにも」


レオンはわずかに頷いた。


「それが、今の君の立場だ。“鍵”として扱われる者に、自由はない。君がセランと接触したことは、王にとって“制御すべき事態”だ」


楓は顔を上げた。


「……セランは、反逆者なんですか?」


レオンは少しだけ目を細めた。


「王宮の人間にとっては、そう見えるだろう。だが、彼は民の声を集め、現実を語っているだけだ。君が見たものは、嘘ではない。だが、王宮にとっては“見せてはいけないもの”だ」


楓は拳を握った。


「じゃあ、私は……このまま閉じ込められるんですか?」


レオンは一歩、楓に近づいた。


「それを避けるために、今ここに来た。君がこの国の真実を知った以上、王は君を“管理”しようとする。表向きは療養。実際は、外部との接触を断つための隔離だ」


楓は言葉を失った。


「……逃げるしかない。今夜、ここを出る。私の協力者が王宮内にいる。君を安全に外へ出す手筈は整えてある」


「本当に、逃げられるんですか?」


「保証はできない。だが、ここに留まれば、君の意思は消える。“鍵”として扱われるだけで、君自身は失われる」


楓は窓の外を見た。月は高く、静かに輝いていた。


(このまま閉じ込められるくらいなら——)


「……行きます。私の意思で、ここを出ます」


レオンはわずかに微笑んだ。


「よし。では、静かに。声を出さず、足音を殺して」


楓は外套を羽織り、窓をくぐった。その先には、レオンの協力者が待っていた。


王宮の回廊を抜け、影の中を進む。扉の向こうには、まだ知らない世界が広がっていた。


そして、楓はその一歩を踏み出した。自分の意思で、自分の足で。






王宮を抜けた楓は、レオンと協力者たちに導かれ、夜の王都を静かに移動していた。影の中を進み、誰にも気づかれずに辿り着いたのは、王都の外縁にある古い倉庫だった。


扉が開くと、そこにいたのは——セランだった。


「……無事だったか」


彼の声は、以前と変わらず静かで、どこか安堵が滲んでいた。楓は頷いた。


「レオン殿が、助けてくれました」


セランはレオンに目を向け、短く礼を述べた。レオンはそれに軽く頷き、すぐに本題へと入った。


「予定より早いが、今夜、動く。王を討つ」


楓は息を呑んだ。


「……今夜?」


「王は、異界の者を“鍵”として囲い込もうとしている。それは、民の希望を奪う行為だ。そして、君が王宮を脱したことで、王は焦る。今なら、隙が生まれる」


セランが地図を広げ、王宮の構造と兵の配置を説明する。協力者たちは黙って耳を傾けていた。




レオンが楓に向き直った。


「君には、ここに残ってもらう。この戦いに巻き込むわけにはいかない。君は、この世界の外から来た人間だ。そして、戦力にはならない。それは、君の責任ではない」


楓は目を伏せた。


「……人質になる可能性もある。私が捕まれば、あなたたちの動きが制限される」


セランが静かに頷いた。


「だからこそ、君には安全な場所で待っていてほしい。この国が変わる瞬間を、見届ける者として」


楓はしばらく黙っていた。胸の奥には、何かがざわめいていた。


(戦えない。でも、見届けることはできる。この世界に来た意味が、少しずつ形になっていく)


「……わかりました。ここに残ります」


レオンはわずかに微笑んだ。


「ありがとう。君の決断は、正しい」


その夜、楓は倉庫の奥にある小さな部屋に身を隠した。外では、準備の声が静かに響いていた。


そして、夜が深まるにつれ、革命の火は静かに灯り始めていた。






王宮へ向かう馬車の中、レオンは静かに目を閉じていた。外套の下で拳を握る。手のひらに爪が食い込むほど強く。


(兄上を討つ。……それが、今夜の目的だ)


胸の奥に、重いものが沈んでいた。兄を止められなかった罪。民の声を聞こうとしなかった王宮の傲慢。そして、楓を“鍵”として囲い込もうとした愚かさ。


(あの時、もっと強く言えていたら。もっと早く動けていたら)


だが、後悔は剣にはならない。王宮が腐りきった今、誰かが終わらせなければならない。


(ならば、俺がやる。弟としてではなく、軍を預かる者として)


馬車の外では、武装した市民たちが静かに進軍していた。彼らは革命軍。セランが率いる民の意志。


一部の軍人と市民は、教会制圧のために別行動を取っている。神殿は王権の象徴。そこを抑えることで、王の支配力を断ち切る。


(セランが動いてくれている。ならば、俺は王宮を落とす)


王宮の門が見えてきた。レオンは馬車を降り、集まった兵と市民たちを見渡した。


「……今夜、我々はこの国を変える」


声は静かだったが、確かな力があった。


「王は、民を見ず、力に溺れた。だが、我々は違う。剣を振るうのは、怒りではなく、希望のためだ」


兵たちは頷き、市民たちは剣を握り直した。レオンは剣を抜き、門へと歩み出た。





その頃、教会では





教会の白い石壁が、夜の闇に浮かび上がっていた。セランは数人の軍人と市民兵を率いて、静かに正面扉を押し開けた。


抵抗はなかった。神官たちは武器を持たず、ただ怯えた目でこちらを見つめていた。彼らにとって、セランは“外から来た者”だった。


「武力行使はしない。だが、通してもらう」


セランの声は低く、冷静だった。神官たちは道を開けた。誰も逆らおうとはしなかった。


(祈りだけでは、国は守れない。今夜、それを証明する)


長い回廊を進み、祭壇の奥へ。神官長の部屋は、教会の最も奥にある。


扉を開けると、そこには神官長がいた。白い法衣をまとい、机の上には神託の石板。その顔には、威厳ではなく、明らかな困惑と警戒が浮かんでいた。


「誰だ。ここは神の領域だ。無断で踏み込むとは何者か」


セランは一歩、部屋に踏み込んだ。


「民の代表だ。今夜、教会の責任を問うために来た」


神官長は眉をひそめた。


「民の代表? 教会は王に仕える場だ。民の声など、神託には関係ない」


セランは机の上の石板を見下ろした。


「その“神託”を盾にして、異界の者を召喚し、王に差し出した。その結果、彼女は閉じ込められ、民の声を遮断された」


神官長は立ち上がった。


「神の意志に従ったまでだ。政治に関与する立場ではない」


セランは剣の柄に手をかけた。その動きに、神官長は一歩後退した。


「ならば、退け。今夜、教会は民の手に渡る。君には、神官長としての責任を果たす資格はない」


「誰がその資格を決めるというのだ。君か?」


セランは振り返り、同行していた若い神官を前に出した。彼は教会の末端で働いていたが、民の声を聞く者だった。


「この者が、暫定の神官長を務める。神託は、王のためではなく、民のためにある」


神官長は言葉を失い、椅子に崩れ落ちた。その目には、敗北ではなく、理解できないという混乱が浮かんでいた。


セランは部屋を出ると、神殿の中央に立ち、神官たちに告げた。


「教会は、祈りを守る場であるべきだ。今夜から、それを取り戻す」


神官たちは沈黙の中で頷いた。誰も剣を抜かず、誰も逃げなかった。


──


制圧は、思った以上に静かに終わった。セランはすぐに馬を用意させ、王宮へと向かう。


(レオンが動いている。俺も、遅れるわけにはいかない)


夜の王都を駆け抜ける風の中、セランの目は鋭く光っていた。祈りの殻は割れた。次は、玉座の影を断ち切る番だった。











王宮の門が開かれた瞬間、空気が変わった。石畳を踏みしめる音。武装した市民たちの息遣い。そして、玉座の間へと続く回廊の前に立ちはだかる、近衛兵と貴族軍人たち。


「王弟殿下、これ以上の進軍はお控えください」


近衛兵の隊長が剣を抜いた。その背後には、金の刺繍を施された軍服を着た貴族軍人たち。彼らの目には、忠誠ではなく保身が宿っていた。


レオンは一歩前に出た。


「道を開けろ。これは命令だ」


「申し訳ありません。陛下の命令により、異常者の侵入は——」


その言葉が終わる前に、レオンの剣が閃いた。鋭い一閃が、隊長の剣を弾き飛ばす。


「俺は異常者ではない。軍を預かる者だ」


近衛兵たちが動いた。だが、レオンの動きは無駄がなかった。一人目の剣を受け流し、柄で顎を打つ。二人目の突きをかわし、足払いで倒す。


「下がれ。命を奪うつもりはない。だが、止めるなら容赦はしない」


貴族軍人の一人が叫んだ。


「王弟が反逆を起こしたぞ! 止めろ!」


だが、周囲の兵たちは動かなかった。レオンの背後にいる軍人たちは、彼の指揮を信じていた。市民たちは、剣を握りしめながらも、彼の言葉を待っていた。


「この国を腐らせたのは、王ではなく、黙っていた我々だ。今こそ、剣を振るう時だ。民のために」


その言葉に、兵たちが動いた。近衛兵は次々と剣を下ろし、貴族軍人たちは後退した。


レオンは玉座の間への扉を見据えた。


そのとき、伝令が駆け込んできた。


「教会、制圧完了! 神官長は退陣、新たな神官長が任命されました!」


レオンは一瞬だけ目を閉じ、深く頷いた。


(セランがやった。祈りの殻は割れた。王の象徴は、もう崩れている)


彼は剣を高く掲げ、兵たちに向かって叫んだ。


「聞け! 教会はすでに民の手に渡った!王の支配は、今この瞬間、崩れ始めている!」


兵たちの目が変わった。貴族軍人たちは後退し、近衛兵の列が揺らぎ始める。


レオンは前へと踏み出した。「進め! 玉座の影を断ち切る!」






玉座の間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。重厚な扉の向こうには、沈黙と冷気が満ちていた。


王は玉座の前にへたり込んでいた。冠は傾き、マントは床に広がり、だがその目だけは——虚ろではなく、なおも高慢だった。


「……レオンか」


その声には、震えと怒りが混ざっていた。


「反逆者が、玉座まで来たか。民を煽り、秩序を壊し、何を得るつもりだ」


レオンは剣を下ろし、兄を見つめた。


「兄上。あなたは、王としての責任を果たさなかった。民を見ず、神託を盾にし、力に溺れた」


王は鼻で笑った。


「民など、王が導くものだ。彼らに選択を与えれば、国は崩れる。この国は、私のものだ。私が築き、私が守ってきた」


レオンは一歩、玉座へと近づいた。


「守った? 何を。民の声を封じ、異界の者を囲い、災厄を言い訳にして搾取を続けた。それが“守る”ことだと?」


王は立ち上がろうとしたが、足元がふらついた。それでも、玉座に手をかけ、顔を上げた。


「お前にはわからぬ。王とは孤独だ。誰も信じられず、誰にも頼れず、それでも国を背負わねばならぬ。だからこそ、私がすべてを握る必要があった」


レオンは剣を構えた。


「その孤独を、誰かに語ったか。民に、弟に、誰かに。語らず、閉じ込め、支配し続けた結果が、今だ」


王は目を細めた。


「……この国は、私のものだ。誰にも渡さぬ。たとえ弟であろうと」


レオンは静かに頷いた。


「ならば、弟としてではなく、軍を預かる者として——終わらせる」


剣が振るわれた。鋭く、迷いなく。


王は声を上げることもなく、玉座の前に崩れ落ちた。その目は、最後まで、国を手放していなかった。


だが、玉座の背後に差し込んだ月光は、もう彼を照らしていなかった。



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