経済
親父どのと大殿様が尾張からお帰りになって、亀井のお館と家中一同はかつてない幸福な春を迎えていた。まず、ご家中のすべての家に米俵が一俵ずつ運ばれた。これでおなご衆が、年末に晴れ着用の反物を買ったことに次いで、二回目の大喜びをした。とりあえずは食うに困らなくなったからだ。もっとも親父殿に言わせれば、
「配ったのは全部大滝で取れた米じゃ。簑島の太った米に比べたら七割ほどの値しかつかなんだわい。たわけらしくなったのでな、持って帰って食うことにしたのよ。」
ということだった。上納金は無事幕府に収められたことが、もう大奥様のご実家からの文でわかっている。証文に書かれた去年までの大滝の収穫量すべてよりも高い金額に、拙は目を丸くした。それでもその何倍もの米が簑島の兄の所と、秀時さまの新しいお屋敷に蓄えられているのだ。米俵の大盤振る舞いは、今までかろうじて武士の体面を保っている程度でしかなかった亀井の家中みんなに対する初めての臨時収入だった。長年の苦労に報いてやりたいという大殿さまのお慈悲である。
「これからが大変だね、おまえさん。大滝と簑島と両方で別当をやってくわけだから。」
おっ母さまが言う。
「ふん、息子が二人おるのじゃ。何とかなるわい。」
親父どのは上機嫌だった。主だった御家来衆のところへは尾張で買ってきた酒も配ったのだが、その余りを役得でせしめたので、ほろ酔いなのである。祭りでも正月でもないのに酒を飲む亭主に、おっ母さまが文句ひとつ言わないのは、実は我が家には簑島の米が入った米俵がもう一俵あるからなのだ。こっちは簑島の兄と、その義父となった簑島の別当からの贈り物である。上納金に関わるあれこれを簑島の分まで親父どのが代行したお礼だ。親父どのが帰ってくるより先に、引っ越しをしている秀時さまの荷物の移動に紛れて送られてきた。
「親父どの、西の院にも米俵は運ぶのか?」
「もちろんじゃ。いちおう光時さまの所へ運んだ分の数に入っておる。あそこから一俵持っていけばええ。」
大殿様のお館の物置(蔵、と呼べるほど上等なものでは決してない)には、まだ余分の米が残っている。一応あれは兵糧米と呼ぶことにしている。盗人対策だ。今まで貧乏で通してきた亀井家は、盗賊もあきれて近寄らなかったほどだが、これからはその警戒もしなくてはなるまい。まあ、それは大殿さまとか光時さまの考えることだ。
「乱破者だの盗賊だの、暮らしに余裕ができたらできたで、大変だなぁ。」
と拙が独り言を言ったときである。
「そういえば、弥太、聞いたぞ。姫さまが寝込んでおるそうじゃの。」
「あ、うん。ご本家のお城で、乱破者の頭領に対面させられて、それが、何と言うか変な奴で…。」
拙があらましを親父どのに話すと、親父どのは少し考えてから言った。
「それで、向こうは姫さまを気に入ったのか。」
「気に入ったかどうかは知らないけど、眼福じゃ、とか言って数珠を渡してたよ。」
「その数珠、見せてもろうたか。」
「いや、姫さまがすぐ倒れちゃったから…。もともと袋に入っていたし。」
「どんな袋じゃ。」
「えぇ? よく見てないよ。」
何で親父どのがそんなことを根掘り葉掘り聞くのか、よくわからない。単なる酔っ払いのこだわりとはどうも違うようだ。親父どのは、
「ふん、仕方あるまい。大殿に相談じゃな。」
とかぶつぶつ言っていた。
床上げをした翌日、光時さまにきちんと対面して、改めてお礼を申し上げた。先日と同じように二間を使って、奥にわたし、縁側に近いところに光時さまに座っていただいて、対面したのである。もう簾だの屏風だのは使わない。ただ二人の間は二間以上離れている。
毎日のお見舞いにお礼を言った後、次のようにお話した。
「このたびのことといい、いつもお気遣いばかりしていただいておりますのに、頼りないわが身が嘆かわしいばかりでございまする。ご本家のお殿様には失礼ではなかったか、とても心配しておりまする。わたしの不甲斐ない様子が光時さまの不評にならねばよいのですが。」
いつもはほんの一言二言、必要最低限しかしゃべらないわたしが、あらかじめ練習したとはいえ、ここまで長い話をするのを聞いた光時さまは驚いたようだった。もっともしゃべったことは大部分わたしが愛読している物語から抜き出した台詞だったのだ。昔の貴族のおなごは、こんなことばかり殿御に言っていたらしい。
「いや…。そのようなことを姫がお気にかける必要はござらん。」
光時さまはそうおっしゃったが、その後しばしの沈黙があった。わたしがしゃべったことをどうとらえるべきなのか、お分かりにならなかったのかもしれない。昔の物語に造詣がある人ならともかく、光時さまにはあれが物語を音読しているに等しいなんて思いもよらないのだろう。でも、しゃべった内容はわたしの本心に近いのだ。そして、思い出したように、こう続けられた。
「まずは、お元気を取り戻されたこと、安心し申した。実は、今日は姫に一つお願いがあって参ったのじゃ。」
「どのようなことでございましょう。」
と一呼吸開けて卯木が問い返す。こういうその場の流れで話を続けるのは苦手なのだ。ついつい卯木に頼ってしまう。
「あの乱破者からもろうた数珠を見せてくれぬか。」
卯木がすぐに立っていって、あの妙な者に渡された袋を持ってきた。光時さまは受け取ると、中の数珠を検められた。丸い透明な、子どもの指先ほどの珠が連ねられた数珠だ。きれいで高価な品物なのだろうが、御所では珍しいものではない。水晶の透きとおった玉は涙のしずくに例えられており、お葬式や仏事には必須の品物だ。実を言うと、お母さまが亡くなった時に形見としてもらっていたので、すでにわたしは持っている。坊さんもお経も大嫌いなので、普段はしまいこんで見もしないのだが。
光時さまはしげしげと見ておられたが、やがて、ふと袋の方に目をやられた。
(この紋所は、土岐様の…!)
たくさんの色糸で織り出された錦の布の模様の中に、光時さまは見覚えのあるものを見出された。
「卯木どの、姫さま、これをしばらくお貸しいただいてもよろしゅうござるか。」
そういうなり、光時さまは挨拶もそこそこに、数珠を袋ごと持って出て行ってしまわれた。わたしたちは呆然とした。
「あれに何かあったのでしょうか。わたし、よく見ていなかったのだけれど。」
と、卯木に尋ねたが、卯木にもよくわからなかったらしい。




