隠居
「さて、前座は終いじゃ。呼びつけてすまなんだのう、奏子姫さま。わしのことは聞いておるかな。」
姫さまはうつむいたまま、小さく首を振った。
「そうか、こわがらせまいとなさったか。お優しいのう、光時殿。」
「はっ、恐縮至極にございまする。」
光時さまはかしこまって頭を下げる。
老人は音もなく素早く立ち上がって、そのままはっしと跳んだ。そうして一跳びで姫さまから二尺ほどのところまで近づき、そこに座った。姫さまは固まったままだ。
「わしは十郎兵衛と申す、乱破者の頭領じゃ。何、姫さまをどうこうしようとは皆目思うてはおらぬよ。ただ評判の高貴な美人のお姿を一目見てみたくての。懇意にしているここの殿に、わがままを聞いてもらったのじゃ。」
そう言って老人は姫さまの顔をのぞき込んだ。覗いても豊かな黒髪が隠しているので、姫さまのお顔が見えるわけではない。だが、袖口からわずかに見える姫さまのこぶしが強く握りしめられているのを、老人は見た。するとまたまた音もたてずに飛び退り、後ろ向きのままほんの数歩跳んで、先ほどまでいた円座の上にもどった。
「弱ったのう。昔やんちゃをしたつけがこんなところで回ってくるか。仕方ない、一つ昔話でも聞いてもらおうかの。」
隠居はおなごの声のまま、長い話を始めた。
「わしは、ここにおわす殿の大叔父という生まれじゃが、母親は乱破者での。何、そのころの頭領がここの殿の首枷にしようと、わざとうちの部族の娘を送り込んだのよ。首枷と言うてはわからぬか。要は人質じゃ。五つの歳に父親の家から乱破者の村に送り込まれて、修行を始めさせられた。なに、部族の子どもはみなそうするのが習いじゃ。乱破の技は身につけるまでに、それはそれは厳しい、わが身を削るがごとき過酷な修行をする。運が悪ければ、修行の途中で命を落とす。たいていの者は一生のうち一つ二つは会得できるが、その代わりにたいてい何かを失うものなのじゃ。そこののすりは左手の指を一本失くしておるし、多助の弟は水遁の術の修行中に、おぼれて死んだ。わしは子種を失くした。」
かすかに座がざわめいた。あの次々と美女をさらっていった蜘蛛の十郎兵衛に、子種がないとは!
「わしは若いころどうしても我が子が欲しゅうての。次から次へおなごをさらってきてはためしたものじゃが、ひとりもわしの子を孕むおなごはおらなんだ。それでわが身は子種を失くしたことがわかったのじゃ。いや、あの頃はここいら一帯から怖れられたものよ。若い娘をさらう鬼蜘蛛じゃとな。ちゃんと返してやったはずなんじゃがの。」
さらってきたおなごを三月で返していたのは、それだけの期間があれば子を孕んだかどうかが判定できたからだろう。戻されたおなごたちの運命が変わってしまったことなど、考えもしなかったのだ。乱破者は世間一般の人たちとは考え方が違うのだろう。
「そのうちにあきらめたよ。何も乱破者の次の頭領が、わしの血を分けた子でなくても、皆はいっこうにかまわんようだと気づいたのでな。血筋なんぞにこだわるのは侍の考え方じゃ。乱破者には、技量のあることがすべて。技量のある者だけが生き残って、次の世代に技を伝えていく。わしが頭領なのはここの殿様の血筋だからではない。わしが乱破者の技を研ぎすまして、戦場やなんぞを生き抜くことができたからなのじゃ。」
まるで職人のような考え方だなと拙は思った。土器作りの職人などは、一番良い腕がある弟子が師匠の名や店を受け継ぐことになっているそうだ。兄弟子だろうと師匠の子だろうと、腕が悪い者はいつまでもただの弟子なのだ。
「わしにとっておなごは眺めるものになった。仕事で出かける先々で、美女の噂のあるおなごを眺めたよ。眺めるだけで、わしには着物の下の体の様子が手に取るようにわかるからの。都で評判の美女も見に行ったことがある。舞を見せる遊び女じゃったがな。だがさすがに奏子姫のような高貴なお生まれの美女には会うたことがない。一度拝んでみたかったのじゃよ。」
隠居が言葉を切ると、少し座がしんとなった。ふと、思い出したように光時さまがおっしゃった。
「姫、笛をご披露してはどうじゃ。」
八条が預かっていた笛を姫さまに持たせた。笛を持つと、姫さまに少し生気が戻ったようだった。
姫さまは笛を前に置くと、丁寧にお辞儀をなさった。目はまっすぐ上座のお二人を見ている。
そのまま、姫さまは笛を奏で始めた。御所や白山神社で演奏した新年を祝い、豊年を祈る曲である。ゆるゆると、朗々と笛の演奏は響いた。その間、凛と背を伸ばした姫さまのお姿を、隠居はうっすらと笑みを浮かべて眺めていた。
「いや、眼福であったぞ、奏子姫。」
「目だけではなかろう、ご隠居。耳にも十分な福であったぞ。」
「ふん、わしは最近歳のせいか、いささか耳が遠うての。眼福だけで十分じゃよ。」
そういうと隠居は懐から、錦の袋を取り出した。
「この隠居からのささやかな眼福のお礼じゃ。水晶の珠の数珠よ。受け取ってくれい。」
隠居があごをしゃくると、のすりと呼ばれたおばさんがするすると隠居に近づいて、袋を受け取り、それを恭しく姫さまに渡した。
「ありがとう思いまする。」
姫は小さな声でお礼を言うと、丁寧にお辞儀した。
「声も玉を転がすようじゃな。」
殿様が感心する。
「いちいち癪に障ることを言うのう。わしは聞こえぬと言うておろうが。」
一瞬はらはらしたが、お二人はたわむれておられるのだとすぐにわかった。ご本家の殿も、父上たるご先代の殿も、きっとこの隠居のことを大切な友のように考えておられるのだろう。
その時、つと卯木さまが光時さまに寄ってきて、耳打ちされた。
「姫さまが、もう…。」
光時さまはあわてて、上座のお二人に申し上げた。
「殿、ご隠居様、申し訳ありませぬが、姫にはここまでの長旅の疲れが出ておられるご様子。なにとぞこれにて下がらせていただきたく。」
「おお、そうか。退出を許すぞ。」
「達者での、姫。」
本当に間一髪だった。立ち上がられた時、姫さまはもう一人では歩けないのではないかと思うくらいのご様子だったのだ。控えの間に入られると、姫さまは倒れこむように横になられた。




