乱破《らっぱ》者
翌朝、拙はいつものように夜明けに目が覚めたが、乙次郎殿に
「われらは頑丈にできておるからよいが、姫はそうはいかんじゃろう。十分にお休みになっていただかねば。」
と、物音を立てぬよう動けと言われた。なるほどちがいない。大きな屋敷とはいえ、一つ屋根の下に姫さまがおいでになるのだ。足音を忍ばせて顔を洗いにいき、牛や馬の様子を見に行った。牛も馬も小屋に入れられて、十分飼葉を貰っているようだ。よしよし。不思議なことに、台所にはもうわれらの人数分の朝餉の膳が用意してあったのだが、それなのに昨日あれだけ大勢いた宿の者が一人もいない。首をひねっているところへ、光時さまが起きて来られた。
「おはようございまする、光時さま。」
「うむ、今日もよい日和だな。」
春らしい霞のかかった空だ。このあと姫さまと登城するという大事が待っているので、緊張のあまり、天気の心配など全くしていなかった自分に気がつく。
「朝餉は姫さまがお目覚めになってからで、よろしゅうございましょうか。」
突然声をかけられてびっくりして振り返った。いつのまにか何人かのおなごが台所を出入りしている。どこから来たんだ!?
「そうだな。一度姫さまのお付きの者たちに聞いて来てくれ。我らが顔を出すわけにはいかんからな。」
「かしこまりましてございます。」
姿形はそこいらの百姓家のおばさんだが、言葉遣いがとてもていねいだし、話し方も堂々としている。しばらくぼうっと見ていると、ふいに光時さまから、
「気づいたか?」
と小声で聞かれた。
「あれらは皆、乱破者じゃろう。」
ええっ。びっくりして大声をあげそうになり、とっさに自分で口を押えた。小声で訊き返す。
「本当ですか、おなごですよ。」
「乱破者にはおなごもおるそうな。戦場など男が近づいては誰彼構わず敵じゃとみなされて近づけないところも、おなごが逃げ遅れた態でうろついておるのは放っておかれる。結果として役に立つものだそうな。その証拠に、弥太、お前後ろに寄って来た時、気づかなんだじゃろう。」
「ああ、はい。」
「足音や気配を消したまますばやく動くのは、乱破者の技じゃ。」
「へえぇ、そうなんですか。」
つまり、あのおばさんがその気になれば、拙は後ろからグサリとやられていたわけだ。ひえっ、別当の後継ぎに決まっててよかった。とても拙は侍にはなれそうにない。
朝餉の後、姫さまが笛のおさらいをしてから出たいとおっしゃられたので、結局出立は昨日と同じ五つすぎになった。もっとも城下町まではあと二里あまりなので、急がなくても昼前には登城できるだろうとのこと。
拙は初めてご本家のお城を見て、遠くからでもわかるその大きさに驚いてしまった。元が小山だったところを利用しているとはいえ、石垣でかため、櫓を建て、門を作り、その上に館があるのである。ふもとから館までの道は徒歩でないと上がれない。光時さまや佐久衛門どのは案内の男とともに先に登って行った。拙は乙次郎殿と姫さまの後ろをついていった。乱破者に対する用心だということだが、今朝のことがあるので、拙が用心棒になれるかどうかは心もとない。
館に着くと、玄関で女の人が出迎えてくれた。
「姫さま、皆さま、遠路ようこそおいでくださいました。」
「これはお方様、お出迎え痛み入り申す。皆の者、このお方はご本家の殿の奥方、あやめ様じゃ。」
と乙次郎どのが紹介してくださった。こういうとき、ものの数には入らない下っ端の拙はただ頭を下げるのみである。あやめ様は拙のおっ母さまと千代さまの間くらいなお年であると見た。
「あやめ様、本日はお招きありがとうございまする。わたしは姫さまの乳母で卯木と申す者でございまする。こちらが奏子姫さまでございまする。」
初対面の人の前では口のきけない姫さまは、いつも通り卯木さまに紹介してもらって、被着のまま、これもお辞儀だけなさった。
大広間に通されると、すでに光時さまは席に着かれており、拙らの分も円座が用意してあった。我らは正面に向かって右に、姫さま方は正面にお座りなさる。姫さまの席だけは見たこともないようなきれいな布でできた敷物が敷かれていた。後でああいう布を錦というのだと教えてもらった。
姫さまが着席なさると、上座正面に堂々とした武士が一人、入って来て座った。皆が一様に頭を下げる。この方が本家の殿様、加藤治矩さまなのだろう。大殿よりだいぶお若いが貫禄がある。
「今日は呼びつけてすまなんだのう、光時。茄子平の隠居はわしの父上の囲碁友達での、断れなんだのじゃ。」
「いいえ、殿。いつかはご挨拶せねばならなかったのでございますから。」
話しながら、光時さまは姫さまの顔色をうかがった。姫さまは下を向いたまま固まっていらっしゃるが、少し顔色がよくない。無理もない。おのこ二人が目の前で声をはりあげて話しているのだから。姫さまの斜め後ろに座っている卯木さまが、少し膝行って姫さまをいたわる様になさる。
「おっと、これはいかん。ご隠居、早う来てやってくれぬか。姫君が困っておられるぞ。」
殿様は、なぜか上に向かって呼びかけられた。
すると。
天井から何か黒いものが降ってきた。かなり大きなものなのに物音一つ立てない。それはついと立ち上がってこちらを向いた。黒の小袖、黒の軽衫袴のやせた老人であった。老人というのは顔のしわとわずかに残った白髪からわかったもので、身のこなしは軽い。現に音もたてずに飛び降りてきても平然としている。老人はにやにや笑いながら殿の隣の円座に座ると、
「多助、お前の目は節穴じゃの。」
と言った。姫さまが思わず耳をふさぎそうになったほど、どすのきいた声だった。あの細い体のどこからあんな声が出る物やら、と思ったら、我らの正面にあたるところにいつの間にかすわっていた案内役の男が、
「何故でござるか。」
とたずねた。すると、隠居は
「おお、そうじゃった。」
と言って、左手でポンと自分ののど元を叩いた。
「…ふむむ、これならばよいかの、奏子姫。」
突然、老人の声がおなごのそれに変わった。一同は目を白黒させた。姫さまさえ思わず顔を上げて、老人の方を見たほどであった。老人はおなごの声のまま続けた。
「お前、姫君はほんの小娘じゃとわしに報告したよな。のすり、お前はどう見た?」
のすり、と呼ばれたのは、今朝がた宿で出会ったおばさんだった。これもいつのまにか多助と呼ばれた男の隣に座っていた。
「おそれながら、姫さまは身の丈がお小さいことと、世間の荒波にもまれることなきお育ち故、お顔立ちや立ち居振る舞いがたいそう幼いところがおありでございます。ですが体つきやお言葉からは立派に大人のおなごであるとわかりまする。」
「そういうことじゃ、多助。もっと精進せい。いかに見てきたままに絵が描けても、本性を見抜くことができねば、物の役には立つまいぞ。」
「ははっ。精進いたしまする。」
男は平伏した。




