偶然
光時さまが西の院で犬に咬まれた話は、瞬く間に亀井の家中に広がった。その犬が先だっての捕り物の時に逃げた犬ではないかという話には、二つの反応が生まれた。
一つは捕り物に加わった方々をはじめとした侍衆の反応で、あの盗賊の頭を射殺したのは秀時さまであって、光時さまではなかった。畜生ゆえそばにいた光時さままで一緒に憶えておったのであろう。たわけなことじゃ、間違えられた光時さまはいい迷惑よという反応だった。
そしてもう一つは女子衆の反応で、これは犬とはいえ主人の仇を討とうとして、身をやつして西の院に入り込み、本懐を遂げようとして死んだのは誠に立派なことである、という反応である。言ってみれば犬をおとぎ話の主人公のようにして面白く語っているのだ。
だいたい犬が西の院で飼われることになったのは偶然であって、犬が意図したものではない。迷子の犬として、大滝にも問い合わせが来ていたのだ。その時には、大変よくしつけられた犬だと言ってきたにも関わらず、まさか盗賊の犬だとは、誰も思っていなかったのである。皆、逃げた犬を「たかが盗賊の犬」と見くびっていたのだろう。だが丑吉に渾身の力で縊られた犬は、盗賊の頭がわが身を投げ打ってでも助けたいと思うほどの「よくできた犬」だったのだ。
「まあ、何にせよ、殿の傷が大したことはなくて安堵いたしました。」
「山犬などに咬まれると、熱が出て病みつくなどと聞いたことがありますからのう。」
千代さまと大奥様が、光時さまの部屋で話し合っていた。光時さまはけがをして二、三日は少し腕を腫らしたものの、あとは大したことなく快方に向かっていたのである。
「もうほとんど治っております、母上。大袈裟にしないでください。」
「いけません。のちのち障りが出て、いざというときにお役に立てなかったらどうします。」
「利き腕ではございませぬから。」
光時さまは迷惑顔である。ここ数日、大滝は簑島に八分通り出来上がった屋敷への引っ越し準備であわただしかった。まだ完成はしていない屋敷なのだが、毎日のように簑島まで通う秀時さまがお疲れのご様子で、寝泊まりするだけならば十分と、ご家族より先に移られることにしたからである。皆が忙しく立ち働いておるのに、けが人だからと労わられるのは不本意なのだった。もちろん拙も兄に連絡を入れたり、牛方・馬方の采配をとるなど、忙しく働いている。それというのも、親父殿と大殿が年貢米を銭に替えるために尾張へ出張中だからだ。 あと二、三日で戻ってくるはずなのだが、拙一人ではどうしても至らぬところがあり、藤垣さまなどが加勢してくださらないと、こっちも倒れそうだ。
そんなこんなであわただしくしているところへ、思わぬ知らせが届けられた。光時さまに尾張に滞在中の大殿から書状が届いたのだ。何気なく書状を開いた光時さまから、拙に緊急の呼び出しがかかった。
光時さまの部屋には、すでに大奥さま、おまきさま、お千代さま、そしてなぜか馬で連れて来られたおそで叔母上がそろっていた。何で女子衆ばかり? なぜ呼ばれたのか見当もつかない。
「えーっと、何か急なことだと…。」
拙が恐る恐る尋ねると、
「姫に、一大事が起こった。」
と光時さまがおっしゃった。
大殿様からの書状には、とんでもない話が書かれていたのである。尾張滞在中のなじみの宿に、思わぬお客があった。ご本家の勘定方の小山さまとおっしゃる方である。その小山さまのお話によれば、ご本家の遠いお血筋に「茄子平のご隠居様」と呼ばれるお方がおられる。侍を嫌って乱破者の技を習い、今はその棟梁となっておられる方だそうである。そのお方がいわゆる「女癖の悪い」お方なのだという。仕事のない手下の乱破者を四方の街や村に出して、美女の噂を集めさせ、気に入った女子があればさらってゆくという。
「そのご隠居がな、姫の噂を聞かれたのじゃ。絵心のある手下の者を姫の近くに潜ませて、似姿を描かせたところ、いたくお気に召したそうで。」
「姫さまは人前でお顔を見せられることなどなかったのでは?」
と拙がいうと、おそで叔母上が
「この正月に、姫さまは白山神社へ新年の祝いの曲を奉納されたのじゃが、その時に笛の音を聞きつけた村の者が大勢聞きに集まったのじゃ。姫さまも感じいって、演奏の後で村の者の方を向いてお辞儀をなさった。おそらくその折に姫さまの顔を見たのじゃろう。」
と言った。なるほど。そういった次第では仕方ない。
「それでじゃ、そのご隠居なる者が姫さまに会わせよといっておるそうな。」
「いけません、そのようなこと。」
「姫さまがどれほど怖い目にあわれるか。」
千代さまとおまきさまが異口同音に声をあげられた。
「どういうことじゃな、おまき殿、千代殿?」
大奥さまが尋ねる。
「茄子平の隠居というのは、蜘蛛の十郎兵衛と申す者で、私どもが子どものころには女子をかどわかす悪人と呼ばれておりました。」
当時は十二、三歳ぐらいから二十歳すぎのおなごはどこへ行くにも大人の男の家人がついているようになったほどであったという。それより小さな子どもも、おなごは外で遊ばないようにと言われていた。いつどこから蜘蛛の手下が見ているかわからぬと言って。
「今のご本家の殿様の曽祖父さまが、隠居あそばされて城下にお住まいになられてから、もうけられたお子という話ですが、一度もお城に上がられたことも、お血筋と認められたこともない方だとお聞きいたしました。それを拗ねて近隣の若いきれいなおなごをさらっては、慰み者にしているのだと。」
「そんな悪党ならば、成敗されてしかるべきであろう。」
と、光時さまが言う。
「それが、さらわれたおなごはみな三月ほどで帰ってくるのでございます。戻ってくると、さらわれたときのことはもちろん、何一つ憶えておらぬ。自分がこの三月の間、どこでどうしていたものか、皆忘れてしまっておるのです。乱破者の術をかけられておるのです。故に捕り方も手が出せぬという塩梅で。」
「代々の殿様も、いざというときのために乱破者とは仲たがいをするわけにいかぬと、市井の声には耳を貸してくださらなくて。」
「おなごたちはけがも傷もなく無事に帰って参りますが、かどわかされたというだけで、決まっていた縁談が破談になったり、離縁されたりする者も多く、中には身をはかなんで自害した者もあります。」
それはおなごの身にとっては一大事である。いやはやとんでもない奴がいたものだと、拙はたまげた。
「しかし、その話がまことであるなら、蜘蛛のなにやらという隠居は、もう相当な歳なのではないかえ。今更姫さまに執着なさるとはのう。」
大奥さまがおっしゃる。確かにそうだ。おまきさま、お千代さまがいうには、それはお二人がまだほんの童だった頃の話であって、もうかれこれ十数年近い昔の話、最近は蜘蛛の十郎兵衛の名もめったに聞かれなくなったという。
「けれどわたしたちが知らないだけで、よその町や村で同じことをしていたのかもしれませぬ。」
「どちらにせよ、姫をそんな奴に会わせるわけにはいかぬ。」
光時さまは怒っておられる。だいたい乱破者の術など使われては、こわがりの姫さまに、どんなさわりがあるかもしれぬのである。拙も心配になる。
とりあえず次の書状なり使いなりが来たら、姫は病に臥せっておることにするという取り決めがなされた。何せ相手は乱破者だ。どこへどうやって来るかわからぬのである。姫には申し訳ないが出歩かれるのはやめていただく。とりあえず今日からは西の院に、というか丑吉の小屋に誰か男が泊まり込むということも決まった。昼間は光時さまかその側近の方が必ず付近を警戒する手はずにするという。
「そでどの、卯木さまたちによしなにお話しくだされ。」
大奥さまに見送られ、とりあえず、しまいこんであった脇差を持ちだしてきて、拙が叔母上を送りつつ、そのまま今夜は西の院へ泊り込むことになった。




