忠義者
この章は暴力表現が含まれています。動物虐待に当たる内容もあります。
あらかじめお断りさせていただきます。
犬は死んでしまった。
大急ぎで駆けつけてきた丑吉は、犬の首にまだ残っていた縄をつかんで引き離そうとしたが、犬は己の首が絞めつけられても、咬みついた口を離そうとはしなかったという。結果として死んでしまった犬の口をこじ開けて、光時さまは助けられた。
袷の着物を着ていた上から咬まれたことで、大きなけがにはならなかった。それでも茜が急いで傷を洗い流し、そでがけがに効くというヨモギの葉を摘んできて手当をした。
「しばらくは腫れて痛みまするが、ご辛抱を。」
卯木は青くなっていた。自分たちが勝手に飼った犬のせいで光時さまにけがを負わせてしまったからである。
「殿さま、ご無礼をいたしました。なんとお詫びを申し上げてよいやら…。」
「よい。幸いなことに利き腕ではないからな。」
光時さまは布の巻かれた腕を振ってみてから、着物を着なおした。犬の牙の跡が、着物の袖に小さな穴になって残っている。
犬は縄を引きちぎってまで駆けてきて、わざわざ光時さまを襲ったのだ。何が起こったのか、皆わけがわからなかった。つい今朝までは吠えることもめったにない、おとなしい犬だったのである。
犬の由来の話を聞いて、光時さまは、ふと、犬をしげしげと見た。
「こやつ、…ひょっとしてあの盗賊の犬か? 丑吉、こいつはどっちから来たか、憶えておるか?」
丑吉は指をさした。おおざっぱに温泉へ行く山道の方向だ。
「ふむ、だとすれば得心が行く。こやつは匂いで、自分の元の飼い主を殺した者だとわかってわしを狙ったのじゃろう。犬ながら仇を討とうとは、あっぱれな奴じゃ。」
それから、聞かれるままに光時さまは捕り物の時の話をしてくださったという。盗賊の頭が犬を守るべくわが身を投げ出した話を聞いて、そでと八条は涙をこぼした。
「盗賊ながら、犬には情をかけておったのでございますね。」
「きっと、犬もその者になついておったのでございましょう。かわいそうに。盗賊などに飼われておらねば、こんなことにはならなんだでしょうに。」
八条は動かなくなった犬をじっと見つめて涙をぬぐった。
「忠義者だったのでございますなあ。」
「まあ、考えようによってはそうじゃな。丑吉、こいつを目立たぬところへ埋めてきてやってくれ。姫を怖がらせてはいかんからな。ところで、姫の具合はどうじゃ。」
「まだ、目を覚まされませぬ。」
光時さまは黙って縁側から室内に上がった。夜着をかけられて横たわっているわたしの横にすわられる。
「何もせぬ。ただ顔を眺めていたいのじゃ。こんなに近くで姫の顔を見られることなどなかったからな。」
そでや卯木は目を見かわして、戸を閉めた。
人目がなくなると、光時さまはけがをした方の腕をかばいつつ、そっと髪に手を触れてみた。手入れされた髪はつややかで夜に流れる水のようである。
(今、目を覚まされたら、どうなさるじゃろう。)
そう考えるとひどく胸が高鳴る。同時に自分が非道なことをしておるような気分も感じられる。耳が敏く、男の声がこわいというご気性でなければ、身分と言い美貌と言い、とても自分のような者とは不釣り合いな貴女なのである。並みのご気性ならば、きっと幕府の要職にあられるお方かそのご子息に嫁され、お姿と同じくらい華やかで安泰な生涯を送られたに違いないのだ。
(それを思うと、ご不憫なことじゃ。縁とは申せ、こんな片田舎で、わしのような者の妻として一生を送られるとは。)
(そうじゃ、母上が申された通り、このお方は我が家の福の神なのじゃ。神ならば人の手が触れてはならん。)
そう考えると、ぎゅっと目を閉じて立ち上がった。静かに戸を開けて外へ出る。
「わしは帰る。明日、また使いをやろう。」
「殿さま、どうぞお怪我の腕、お大事になすってくださいませ。」
「何のお構いもできず申しわけございませぬ。」
卯木やそでの口々の挨拶を背に、光時さまは馬にまたがった。
わたしは皆が中食を終えた頃に目覚めた。しばらくぼぅっとしていたが、頭が少しはっきりすると卯木を呼んだ。
「卯木、卯木、光時さまは? 大事なかった?」
「お目覚めですか、姫さま。ああ、よろしゅうございました。茜、姫さまに白湯を。」
ぱたぱたと足音が近づいた。茜の差し出す湯飲みを受け取るのももどかしく、私は重ねて
「光時さまは大丈夫なのですか。」
と尋ねた。
「腕に犬の歯の跡がついて、少し血が流れましたが、大事ございませなんだ。着物の上から咬まれましたので。」
「そでがけがに効くという草を摘んできて、手当をいたしました。」
「ああ、よかった。ご無事だったのですね。
わたしは白湯をゆっくり飲んだ。ほっと息をつく。
「それから、姫さま。犬は死にました。」
「光時さまが成敗されたの?」
「いえ、咬みついておるのを引き離そうとして、丑吉が首につけていた縄を引っぱったものですから。」
「まあ、かわいそうに。」
その後、八条が犬は簑島を騒がせた盗賊の頭の犬だったらしいこと、その頭は犬を助けようとして身代わりに死んだこと、犬は盗賊の頭を討ち取った光時さまの匂いを感じて、仇とみなして襲いかかったことなどを話してくれた。
「おとなしい犬だと思ったら、そんなに賢い犬だったのね。」
光時さまにけがをさせたのでなければ、もっと良い犬だったのにとわたしは思った。




