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西の院の姫君  作者: 竹宮 潤
盗人

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迷子

 そいつに初めて気がついたのは、丑吉だった。薪割りをしているときに何かがじっと自分を見ていることに気がついたのだという。

 やせた黒っぽい犬だった。目が合うと尾を振って近寄ってきた。山犬は吠えたてたり跳びかかったりしてくるので、用心に斧を握っていたのだが、その犬は触っても鳴き声一つ立てなかった。猟師の犬が山ではぐれてしまったのだろう、と思って、朝餉の汁の残りを小屋から取ってくると、喜んで食べた。腹が減っていたらしい。食べ終わるとまたどこかへ行ってしまった。

 翌朝もやってきた。その翌朝も。汁だけでは足りるまいと、母屋の台所にあった残り物を出してやると、それもむさぼるように食べた。どこかに飼われているわけではなさそうだと気づき、やっとそでに見せた。

「ほう、迷子の犬かの。あまり鳴かぬのう。」

 そのころには背中に傷跡があることもわかっていた。山で狩りをするときに連れていく犬だ、と手ぶりで伝えると、そでは目を丸くした。

「しつけられた犬ならば、飼い主が捜しておるやも知れぬの。」

 そでは出水の村長に尋ねに行った。倉野山とは方角違いだが、念のためと亀井のご家中にも問い合わせてみた。どちらからも犬を見失った者はない、と返事が来たそうだ。村の者も何人か見に来たようだが、皆見たことのない犬だと言ったらしい。

「ならば、簑島かの。とはいえ簑島には伝手がない。」

 不憫なのでしばらく飼ってやろう、ということになって、やっとわたしはその犬を見ることになった。おそるおそる縁先に出ると、犬は首に縄をつけられ、縄の先は丑吉がしっかりと腕に巻き付けて握っていた。犬はわたしや卯木たちをじっと見ていたが、鳴き声はたてなかった。

「見知らぬ者を見ても吠えぬということは、番をする犬にはなりませんね。」

と茜が言うと、そでが

「狩りに連れていく犬だそうです。やたら吠えては獲物が逃げてしまうので、吠えぬようしつけられておるのじゃとか。」

と言った。犬というものはけたたましく吠えるものだと思っていたから、そういうおとなしい犬もあるのかと、わたしは初めて知った。吠えないのならばあまりこわくはない。

「吠えぬといっても、姫さまのおそばで飼うわけにいきませぬ。丑吉のところで飼いなされ。念のためにこちらへは来させぬように。」

 卯木が言った。こうして睦月の終わりに、犬はわたしたちの家族になった。丑吉の小屋の近くに太い杭を打って、そこに長い縄で犬をくくりつけておいた。犬は丑吉から餌をもらい、丑吉の小屋の土間で寝起きした。持ち主が現れた時に狩りの勘が鈍っていては困るだろうと、時々は丑吉が山へ連れて行ってやっていた。


 拙が光時さまに普請の報告に行ったのは、二月に入ってからだった。春めいた暖かい日が何日もあり、皆の気分も浮かれてきたころである。

「もう、屋根を作っているのか。よし、一度見に行ってみるか。」

拙の家と同じように、簑島は惣領の秀時さまが、大滝は光時さまが治めるということになる、と正月に話があった。今まで次男でどことなく肩身の狭かった光時さまが、最近はなんだか少し大きく見えるようになった。やはり小さくても自分の所領が持てるということは、人物を大きく見せるようになるらしい。

 さっそく馬を連ねて普請場まで出かけた。施主に当たる光時さまが見に来られたとあって、大工の頭が挨拶をし、作業の進み具合を話した。

「そうか、梅雨までに壁塗りが終わるか。ならば秋には住めるようになるか。なるべく早くこちらへお迎えしたいものじゃ。」

 大工の頭は頭を下げて、励みまする、と答えた。よしよし。頭が仕事に戻ると、光時さまは普請場のあちこちを見回られた。

「いい出来じゃ。銭は足りておるのか。」

「まあ、今のところは大丈夫です。田植え前に一度仕事にきりをつけねばなりませんから、手伝いの者にはそこで銭を支払ってやります。そこまでは何とか、計算通りです。」

 田植えは稲刈りと並んで最も人手が必要になる仕事だ。その期間は普請の手伝いなんぞしている暇はなく、百姓衆は老人から子どもまで総出で田植えにかかりきりになる。だからその前に普請場の仕事は一度終わりにせねばならないのだ。光時さまは少し笑って、

「ついでに姫の所にも、久しぶりにご機嫌伺いに行ってくる。千代にそう伝えておいてくれ。」

と言って、さっさと行ってしまわれた。よかった。西の院への遠駆けは、いい気分転換になるだろう。


 お天気がよくて暖かそうなので、わたしはいつものように散歩に出ようとしていた。着物を歩きやすく、短く着なおしていると、馬の足音が聞こえてきた。亀井の家からのお使いかしら、と思ったら、そでが、

「姫さま、光時さまがおいででございます。」

と言った。まあ、急いで着替えなおさないと、と思っていたら突然それは起こった。

「ウー、ウオンオン、ウー、ウオン、ウオン、ウオン…」

犬が吠え始めた。わたしは耳をふさいでうずくまった。こわい。うずくまって、身体を縮めて、耳にぎゅっと手を押し付ける。それでも犬の吠える声は止まない。

「姫さまっ、大事ございません、どうか気を確かに。」

「ああ、おいたわしい。なんということ。」

 最初に八条が、次に卯木がやってきた。そして後からきたそでが縁側に出ると、

「丑吉、丑吉、どこにおる。早う犬を鳴き止ませるのじゃ。」

と声を上げた。すると、わずかな時間、犬は吠えるのをやめた。わたしは恐る恐る顔を上げた。

「どうして犬がおるのじゃ。」

と光時さまが尋ねている声がする。相手は先に外へ出てわたしと散歩に行こうとしていた茜だろう。茜が何か返事をしていたようだったが、急に

「きゃあぁー!」

と悲鳴を上げた。驚いた八条が、とっさに隣の部屋との境の戸を開けた。隣の部屋は縁側に続く障子が開け放たれていて、縁側に立っているそでと、庭にいる茜と光時さまが見えた。

 あの犬が光時さまの腕に、食らいついていたのだった。

 一目見て、わたしは気を失った。


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