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第六話 鹿島月子

 暗い、暗い泥の中に沈んでいく。「自分」というものを急速に失いつつあることは理解しながらも、それをどうこうしようとは思えない。


「そうか。私、死んじゃったんだ」

 月子は声無き声を上げた。月子は死に、鹿島月子という人間は失われる。それは世界の理であり、どんな人間にも覆すことのできない絶対だ。それが水が乾いた大地に染み込むように理解できる。


「かずちゃん…」

 視界が消えて、音が消えて、体にまとわりつく泥の感覚もなくなって、月子はなお一也のことを想った。赤ん坊の頃からずっと一緒にいて、時には遊び、時にはケンカをしながらも、それでもずっと月子は一也の隣を歩いていた。一也を男の人として意識したことはない。月子が一也に抱く想いはそんなものを超越している。


 月子にとって一也は家族だ。手のかかる弟であり、ピンチの時に頼りになる兄であり、月子が辛い時に抱きしめてくれる父であり、そして手を引いてあげないと迷子になってしまう息子だ。隣にいて当たり前。死ぬまでずっと一緒。そう思っていて、結局月子が死んだ時、一也は近くにいた。

「かずちゃん…」

 ポロポロと月子の中から心(感情)が抜け落ちていく。全ての感覚がなくなって感情が消えて、やがてこの想いも消えてしまうのだろう。


「嫌だな」

 だけど欠落は止まらない。月子は月子ではなくなっていく。彼女はやがて彼女ですらなくなって、ただの人間になるまで漂白されてそして。


 声が聞こえた。誰かが「私」を呼ぶ声。

「誰?」

 「私」の目の前に、失われたはずの視界の中に純白に輝く光が見えた。手を伸ばせと誰かが言う。そして「私」に想いを伝えてくれと。

「私は⋯⋯」

 「私」は、月子はそれに向かって手を伸ばした。抜け落ちていった月子が再び集まりだす。月子が月子になっていく。


 そうして月子は冷たい泥から抜け出した。耳朶を舐めるように「ごめんな」とかすかな声が聞こえた。

 瞼を開ける。薄暗い迷路の中。月子は涙で顏をゆがめた一也に抱かれていた。一也はよかった、よかったとしきりに言う。


「かずちゃん」

 違うんだよと、言わなければならない。月子は生き返ったわけではない。月子は死んだ。死んだ人間は生き返らない。それは絶対不変の真理であり、今この時間は夢幻のようなものなのだ。

 だけど、それを言う勇気は月子にはなかった。


   *


「水を差すようで悪いがな鹿島。鹿島月子は生き返ったわけじゃない」

「え⋯⋯?」

 月子を横穴に避難させると同時に月子は目を開けた。一也は月子が生き返ったのだと思ったけれど、昇太はそれは違うと言う。

「時間がない。鹿島月子がそうしていわれるのはせいぜい10分が限度だ。それ以上はもたない。言いたいことがあるならさっさと言え」


 一也は昇太の言っていることが理解できなかった。それは確かに今胸に抱いている月子は息をしていないし、傷も塞がっていない。首元から胸にかけて狼にひどくえぐられた傷はそのままだ。だけど血は流れていないし、喋れてる。だから…。

 呆然としたままの一也に昇太は大きく舌打ちした。尻尾狼の遠吠えや人の悲鳴が聞こえたからまさかと思ったが、それは案の定一也たちでしかも月子の方はすでに死んでいると来た。タイミングが悪すぎる。


「鹿島月子。あんたは現状を理解しているな?」

 一也を無視して昇太は月子に声をかける。月子はうなずいた。

「そうか。さっきも言ったがもって10分だ。それ以上は無理。…今のうちに何か伝えたいことはあるか?俺への頼みでもいい。遺言は聞く主義だ」

 月子は昇太の言葉を聞いて数秒ためらう素振りを見えた後、昇太の耳元に口を寄せる。そして一つの頼み事をした。


「…さい。お願いします」

「また面倒そうなことを…。だが引き受けた。後はそこで棒立ちになっている馬鹿と話でもしているといい」

「小鳥遊さん?」

「露払いだ」

 昇太は目線を横穴の外に向けた。横穴の外には数匹の尻尾狼があたりをうろついていた。


 面倒なことを引き受けてしまった。あの女も容赦ない。

 横穴から飛び出した昇太は彼女の遺言を聞いてため息をつきそうになる。だが遺言とはその人が世界に最期に願うとても大切で美しいものだ。遺言を語れないであろう自分だからこそ、遺言はちゃんと聞かなければならない。


 そしてその言葉を邪魔するモノは排除しないといけない。相手は尻尾狼の群れ。数は7匹。

「多いな」

 尻尾狼の群れとしては大規模と言っていいだろう。だが昇太の敵ではない。真正面から飛びかかってきた狼の頭に向かって『射撃』。透明な霊力の弾丸が狼を襲う。

「ヘッドショット」

 昇太の放った弾丸は狼の眉間を貫いて、狼はそのまま塵になった。その中から一振りのナイフが出現する。塔から産出する遺物だ。


「E級だな」

 出てきたナイフは何の変哲もないただのナイフ。魔法的価値皆無のガラクタだ。だが昇太は出現したそれを空中で拾い上げ『強化』で霊力を込める。切断力の上がったナイフを投擲して遠くから様子を伺っていた狼の心臓を破壊する。

「これで2匹。残りは5」


 一連の流れはほんの数秒にも満たない。その事実に狼たちは警戒心を強くする。警戒心が強くなれば動きは固くなる。昇太はその隙を待っていた。

「魔法陣を展開。発動」

 残った狼は全て動きを止めている。昇太は水魔法を使って5つの水球を作りだした。地を這うようにしてそれらは狼に迫り、逃げる間も与えず彼らを包み込んだ。狼を内包した水球はフワリと空に浮かんで狼たちを逃がさない。狼の尻尾も爪も手ごたえのない水を掻くばかりだ。


「話は聞かないでおくから、残りの時間を大事にしろ」

 これでひとまずはうるさくないだろう。とらえた狼たちを闇魔法で縊り殺しながら昇太は横穴の外の壁にもたれて苦しむ狼たちの様子を眺め始めた。


   *


 あまりにも鮮やかな昇太の戦いで、ようやく一也は現実を認識することができた。

「…月子」

「うん」

「ごめん!」


 一也は謝った。彼は悔いていた。自分の愚かさを、弱さを。もっと自分が思慮深ければ月子を連れて塔に行くことはなかった。もっと自分が強ければ月子を守ることができた。

「ふふ。気にしなくていいよ」

 そんな一也の心からの謝罪を月子は笑って受け止めた。


「どうして…」

「かずちゃんについて行くって決めたのは私。かずちゃんは頑張って私を守ろうとしてくれた。なのに私は何もできなくて、それで…」

「違う!俺、俺が…」

 涙をボタボタこぼしながら一也は自分を責める。月子にできることはそんな一也の頭を撫でながらそれを否定することだけだ。

「違うのはかずちゃんだよ。…もうこの話はやめよう?私は最期になってまでかずちゃんとケンカしたくない。…覚えてる?」

「…何を?」

「小学校に入学したころさ…」

 そうして二人は色んな話をした。小学生の時の話。夏休みの話。一也が『防壁』ができたと喜んで、月子が水魔法を取得して一也が悔しがった話。いつも一緒にいた二人の話題は全部共有している。話題は尽きない。しかし二人に与えられた時間はあまりにも短かった。


「ねぇ、かずちゃん」

「なんだよ」

「私ね。ずっとかずちゃんと一緒にいると思ってたの」

 月子は一也のことを兄であり、弟であり、父であり、そして息子あるように思っていた。


「俺もだよ」

 一也にとっても月子は頼れる姉であり、弱虫な妹であり、包み込んでくれる母であり、手のかかる娘だった。一也と月子は家族で、互いに言い合うでもなくずっと隣にいるものだと、信じて疑わなかった。


「だけど私、死んじゃった。私はもうかずちゃんの隣にいられない」

 月子の声に涙が混じる。死は絶対だ。超えられない壁がもう二人を遮って、ともにあることを許してくれない。

「そう⋯⋯だな」

 鼻の奥が熱い。枯れたはずの涙がまた出てくる。一也は零れる涙もそのままに、この奇跡のような一時をかみしめる。


「後追いなんかしたら駄目だよ」

「分かった」

「でも私とかずちゃんはずっと家族だから」

「分かってる」

「よぼよぼのおじいちゃんになっても私のこと忘れないでね」

「当然だろ」

「無茶なことはしたら駄目だよ」

「心に刻んでおくよ」

「布団はちゃんと被らないと駄目だよ」

「月子は俺の母親かよ」

「そうだよ。私はかずちゃんのお母さんで、娘で、お姉さんで、妹で。そしていつかは⋯⋯」

「嫁になった、ってか?」


 一也は泣き笑いの表情を見せる。月子はうなずいた。月子と一也は家族だ。だけどそれは精神的なものだけで、形のあるものではなかった。二人が形のあるものを求めようと思ったら、それはきっと夫婦の形に落ち着いたと思う。


「俺も、そう思ってたよ」

「以心伝心だな」

「当然でしょ」


 そうやってふたりして笑う。互いが互いの大切で、想いは通じ合っていて、隣にいるのが当然で、二人はそうやって人生を歩んでいくものだと信じて疑わなかった。

 サラサラと砂の流れるような音が聞こえてくる。タイムリミットだ。

「かずちゃん」

「月子」


 想いの重なった二人は同時に、全く同じ言葉を口にした。


「愛してる」

「愛してる」


「さよなら」

「さよなら」


 一也の腕から重みが消えた。人一人分の重み。月子は塵になって消えた。

「月子」

 溢れる涙は止まらない。ついさっきまでそこにいた月子はもういない。残ったのは砂のような塵と衣服の類だけ。


 一也は泣いた。月子のことを想って泣いた。想いの重なっていたたった一人の家族のことを想って泣いた。泣いて、哭いて、ないて。一也はただひたすらに声を上げて泣いていた。


   *


 その声を横穴の外で聞きながら昇太はふぅと一つ息をついた。彼の目の前にはもう狼の姿はない。彼らはすでに昇太の魔法で消滅させられた。昇太は月子の遺言を思い出す。

『ならこれからかずちゃんのことを守って、助けてあげてください。お願いします』

 守ってほしいとはいつまでだ。助けてあげてほしいとはどの程度だ。昇太は面倒ごとは嫌いだが、遺言だけは最大限手伝うようにしている。それが昇太が自分自身に決めたルールだ。


 …な自分だから。

「まぁできるだけのことはするさ」

 ひとまずこれからのことはここを出てから考えようと昇太は決めた。


 物語において、主人公は大事なものを失って強くなる。そういうものだと思います。

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