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第二十三話 『雨』

 気分の悪くなるかもしれない描写があります。読まれる際はご注意ください。

 ポツリと〈動物園〉の中に降るはずのない雨が降った。広間の上を見ても雨雲は存在しない。ただ雨だけが降っている。ポツリ、ポツリと最初は涙雨。或いは山雨。昇太は傘を差して微動だにしない。


 ポタリと、武者小路の肩に雨粒が乗った時、変化が起きた。

「あああああああ!」

 武者小路の絶叫。雨粒のふれた肩が金属化した。黒く輝く金属となった彼の肩はまるで鎧のように彼の体にまとわりつく。身もだえし、今度は雨粒が左手に触れた。手はベキベキと音を立て、獣のように体毛を生やす。


「俺、オレボアァ…」

 舌に雨が触れた。武者小路の舌は長く伸び、そのからまた別の口が生える。

「おらkdlf」

「ばるあっぶらおl」

「しふぁlしゃ。h」

「あshふぁんsksづfk」


 それらは意味不明な言葉を垂れ流すばかり。武者小路は大粒の涙を流して未だ無事な右手の銃を昇太に向ける。

 ためらうことなく発砲。昇太は避けることすらしなかった。傘を差して棒立ちの昇太の顔面を銃弾が貫いた。

「うそうだおじょあさfpふぁ」

「なsdなけなfかねあ」


 しかし昇太は倒れない。銃で撃たれた昇太の顔を見た武者小路は、異形へと変わりつつあるその顔に驚愕を浮かべる。

 銃で貫かれたところを中心に昇太の顔もヘドロのような形に変形していた。それはグジュリグジュリと音を立てて昇太の顔を元の形に戻していく。

「悪いな。今の俺にはどんな攻撃も効かねぇよ」

「なsdfなヶはℓ」


 銃にも雨が触れ、異形に変形する。もう銃は使えない。武者小路は雷魔法を使う。放たれた雷光は昇太の肉体を破壊するが、すぐさま元の形へと変化してしまう。

「8層の雨。これは触れたものに不可逆で制御不可能な変化を与える。抵抗するにはそれこそ【準英霊級】でも持ってくるか、よほど特殊なカテゴリーエラーでもいないと駄目だな。だがこれは俺が作りだした『雨』。だからこの不可逆の変化を俺だけは制御できる」


 その声はいくつも重複し重なり合うようにして聞こえた。どうしてと自分に問いかける必要はない。耳が体のあちこちから生えた。それだけだ。

 雨は次第に激しさを増していく。微雨は小雨に、そして大雨、豪雨に。もうその雨から逃れることはできない。上から下へと降り注ぐ死。昇太は傘を差して変わりゆく「それ」を沈黙のまま見ていた。


 金属へと変貌した肩は鎧と化し、その鎧は真っ白な綿毛になって空を舞い始める。その綿毛もやがて赤い花を咲かせて消滅する。獣と化した手は毛の一本一本が針のように硬質化し武者小路の体を傷つける。しかしそこから流れるのは血ではない。緑色をした粘着質な物体がドロリとこぼれ、それも雨に触れると虹色に輝く眼球へと変貌した。

 伸びきって増殖した舌は水晶の聖母像になり、それは真ん中から二つに割れて触手にまみれた異形の生命を生む。その生命体は救いを求めるように触手をあちらこちらに伸ばす。


「…!…!…」

 かつて武者小路と呼ばれたそれはもはや人の形を為していなかった。鈍色の金属と石が入り混じった肉体に虹色の眼球を生やし、ところどころに獣のような毛皮を生やしている。背中があった部分には赤い手が何本も生えていて、手の平からは真っ黒な骨をのぞかせている。頭だったところは紫色の触手に覆われ、時折亀裂が走り、そこから黄色の液体を噴出する。


 人ではなく、生物とすら思えない異形の何かに武者小路は変貌した。最期に「それ」は金色に輝く大きな目をギョロリと生やし、昇太のことをにらみつけた。そしてその眼球の方へ向かってグチャン、ビクンと鳴らしながら肉体が収縮していく。


 コツンと音がして、全てを収めた眼球は淡く輝く黄金色のガラス玉になって床に落ちた。それはコロコロと昇太の方に転がっていき、パキンと音を立てて砕け散った。

「そうか。それがお前の本質か」

 砕け散るそれを見て、そっと昇太はつぶやいた。


   *


 ガチガチと歯を鳴らす。武者小路の変貌。それを3人は目撃した。人が人ならざるものへと変貌する。命が金属へ。植物が石へ。液体が化け物へ。そんな異常な世界の中で、最も異質な昇太だけが正常だった。だがその正常こそが恐ろしい。


「うっ…」

 とうとうこらえきられなくなって、こころは道の隅に吐いた。淡いクリーム色の液体と固形物が混じった吐瀉物。それすらあの異形と比べればまともに見える。

 やがて武者小路だったものは一個のガラス玉になって砕け散った。それで雨は小降りになる。一也たちは広間に入る前の小道にいて、そこまでは雨は降っていない。だから萌はそこから足を踏み出すことができなかった。踏み出せば死よりも恐ろしい変貌が待っている。


萌はあんな風にはなりたくなかった。


「そうか。それがお前の本質か」

 昇太はつぶやき、視線を一也たちへ向けた。その目にあるのは虚無と孤独。死と静寂に満ちた世界で、昇太はただ一人立っていた。

「ふざけんなよ」

「鹿島…?」


 その姿を見て、一也が感じたのは怒りだった。

「いつも面倒臭いって言うくせに勝手に助けて、魔法を教えて、編纂機を寄越して、それなのに月子の遺言だからって俺に何もやらせねぇ。お前は…」


 一歩。一也は足を踏み出す。雨の降る広間と降っていない小道との境目まであと一歩。


「渡すばかりでもらうもんははねのける。今もそうやって俺たちのことを突っぱねる。自分のことをちっとも話さないくせに変ににおわせやがる」

 たった一度会っただけの一也と月子のために、昇太は塔に来た。一也の命を助け、月子との時間をくれた。クラスに編入してきた。魔法を教えてくれた。可能性を示してくれた。今だって昇太がいなければ全員怪物たちの腹の中だ。


 それは力のあるものの気まぐれだったのかもしれない。暇つぶしだったのかもしれない。しかしそれでも、一也にとって昇太からもらったものは大きい。もらうだけもらって後はさようなら、なんてできるはずがない。


「鹿島…」

「鹿島君」

「俺は!」

「待て!」

 一也は一歩踏み出し、そして雨の降る広間の中に入っていった。


「馬鹿か!」

 昇太は雨の魔法を制御して雨を止めようとする。しかし雨の魔法はすぐに止むことはない。一也の体に雨粒が触れる。

「鹿島!」


 一也は雨粒に触れた。体の中の何かが渦巻く感覚がする。肉体をそうでない何かに作り変えようとする力が一也を脅かす。だがそれと同じくらいに一也のことを守ろうとする力を感じた。

「月子…?」


 ポタリと雨が手を垂れる。しかし一也の手は手のままで、異形へと変貌することはなかった。月子が助けてくれたのか?そんなことを想った。だけどそんなはずはない。月子は死んで、もうこの世のどこにもいないのだ。

 なら昇太が助けてくれたのだろうか。そう思って昇太の顔を見る。昇太は今まで見たことがないくらいに驚いていた。だとすればこれは昇太のおかげではない。


「馬鹿な…」

 そんな言葉が昇太の口からこぼれた。一也は全身に不可逆の変化を与える雨を浴びている。だというのに一也は一也のままだ。異形へと化していない。

「ったくよぉ」

 一也は広間の中央で立ちすくんだままの昇太に近づいていく。そして彼の肩を叩いた。


「鹿島…」

「少しは俺にも何かさせろよな」

 一也の中で渦巻く感覚は消えない。むしろそれは一也の中で確固とした形をなそうとしていた。それが何かは分からない。だがそんな感覚の中、一也は気を失った。前に倒れようとする一也を昇太はとっさに受け止める。


 霧雨の降る暗い広間の中央で、昇太は何かが始まるのを感じた。


   *


 雨が止み、広間は元の姿へと戻る。昇太の雨は塔を異形へと変えることはなく、武者小路だけを別の何かに変えた。


 昇太は気を失った一也を背負い、萌たちのいる通路へと向かう。萌とこころは恐怖と不安とそれから別の感情をにじませていた。だが昇太から逃げる素振りはない。

「俺のことが怖くないのか?」

 そう問いかける。萌は軽く苦笑した。


「怖いっちゃ怖いけどさ。小鳥遊のその顔見たら何とも言えなくてさ」

「顔?」

「鏡があったら見せてやりたいくらい」

「あ、私鏡持ってるよ」


 こころが『収納袋』の中から小さな手鏡を出した。鏡に昇太の顔が映る。黒い瞳にボサボサの黒髪。そしてその表情は泣き笑いのような、しかし頬の緩んだどうしようもなく喜びがにじむ顔をしていた。


「ははっ。これは」

 確かにこんな顔をしていれば怖いものも怖くないだろう。親の見つけた迷子のようだ。

「なんていうかさ。全部教えてよ。あんたのこと。それでこのことはチャラ」

 萌はそう言って微笑んだ。



「…俺が生まれたのはこの塔の上層8層なんだ」

 帰路の途中。一也は未だに目を覚まさない。不安になるが、今までの疲労と雨を浴びたことによる弊害だろう。姿が変化していないから雨による不可逆の変化は起きていないのが安心できる理由でもある。

「8層って…。ちょっと待って今の最高到達層って6層じゃないの?」

「表向きはな」


 未だ20世紀だった頃、まだ塔に挑戦する者が少なかった頃の話だ。ある夫婦がいた。その夫婦は魔法に天才的な才を持ち、魔法を使うためのあらゆる道具を開発することで有名だった。

 そんな彼らが再現不可能な遺物を産出する塔に目を向けたのは必然だった。二人は同じく塔を昇ろうとする仲間を集めて島に渡った。


「まぁその夫婦ってのが俺の両親であり、編纂機の開発者だったわけだ」

「待って待ってよ、本当。それって何年前の話よ。ていうかあんた何歳よ」

「…71歳になるかな」


 絶句。齢を取らないのは『刻まぬ懐中時計』の力だという。あの遺物は所有者の外見年齢を止める力もある。

「そのおかげで俺はよぼよぼの爺さんにならずに済んだわけだ」


 閑話休題。それで小鳥遊夫婦は当時の優れた魔法使いたちとともに塔へ挑戦を繰り返した。その中には学校の理事長。塔ノ守冴子の姿もあったという。

 その時はまだ3層までしか踏破されていなかった塔だが、小鳥遊夫婦たちはこれまでと比べれば破竹の勢いで塔を攻略していった。有史以降中層の壁を超えられなかった人間はわずか20年で中層7層までを踏破した。しかし塔を昇っていく中で何人もの魔法使いたちが命を落としていった。中層7層を超えた時点で20人以上はいたはずの仲間はたった6人にまで減っていた。


「それが1998年のことだ。塔の入り口に貼ってある地図の黒い部分な、あれは塔が踏破されたかどうかを示している。俺の両親たちは何とか7層まではクリアできた」

「いわゆる知られざる真実ってことね」

「そうなるな」

「でも、そんなにすごい人達ならどうして8層で止まっちゃったの?」

 純粋なこころの疑問。そしてこころは思いだした。


「あっ…」

「そういうことだ。中層7層と上層8層。そこにはあまりに大きな隔たりがあった。上層8層にはあの雨が降っている」

「人を異形に変えるあの雨が」


 上層8層〈雨が降る街〉。そこには1層のような怪物は一切いない。ただただ広い街並みが広がるだけの層だ。ただしそこには降りやむことのない雨が降っている。あらゆる生命を異形に変える雨が。


「まず雨にやられて6人の内2人やられた」

 雨の中でもは高い内包霊力と対抗手段があれば進むことができる。小鳥遊夫婦と後の二人は異形と化した二人を見捨てて近くの建物の中に入った。8層に入ってほんの数分。だというのに仲間の3分の1がやられた。雨に侵された二人は異形の怪物となり果て、8層を徘徊するようになる。

「偶然と言っていいのか、その建物には雨が降っていなかった。だが雨から生まれた水蒸気は存在する。魔法でそれを払っても払っても入ってくる。挑戦者たちは即時撤退が求められた。だがここである問題があった」


 建物の中にたどりつくことができたのは4人。小鳥遊夫婦と塔ノ守冴子を含む二人の【準英霊級】だけだった。そして小鳥遊夫婦は【特一級魔法士】ほどの実力があったが、これまでの逃避行でこれ以上雨を浴びれば異形へと変貌する直前まで来ていた。

 2人の【準英霊級】は決断に迫られる。ここに留まり続けることは危険だ。しかし小鳥遊夫婦にはもう雨の中を進む方法がない。リーダーを見捨てて撤退するか、一緒に留まるか。答えはもう決まっていた。


「俺の親父が置いて行けと言ったらしい。その代わりにこれを世に広めてくれと言ってな」

「まさか、それが編纂機?」

「そうだ」

 その編纂機を持って二人の【準英霊級】は涙を呑んで撤退した。再びここに帰ってくると誓って。編纂機を持って逃げたのだ。


「それでしばらくして…俺が生まれた」

 そこでなぜか昇太が悲しそうな顔をした。

「俺の両親は8層から出られなくなった。だが二人とも感知系のカテゴリーエラーを持っていてな。俺は8層の雨に対して抵抗力があることが分かった」


 つまり家族の中で昇太だけが、塔を降りることができる可能性がある。昇太は8層の建物の中で成長し、10歳になった頃。

「二人が限界に達した」

 8層の空気に含まれる雨の要素。それに脅かされ続けた結果、二人の体は半ば異形と化していた。


「それで、どうしたの?」

「殺してくれと頼まれた。塔から出るといい、とも。だから」


 殺した。そして昇太は塔を降りる決断をした。

「何度も死んだよ。8層の雨は何ともないが、戦ったことのないガキの初挑戦が7層だ。死んで死んで、17の時に『刻まぬ懐中時計』が手に入って外見年齢が止まった」


 それから奇跡的に7層の入り口に到達できて、6層へ。5層へと昇太は塔を降りていく。


「下に行くほど楽になった。おかしな話だけどな」


 1層から出口に出る10年かかった。その時の受付嬢の驚いた表情は忘れられない。何せ入れたはずのない少年が塔から出てきたのだ。昇太はすぐさま捕縛され、冴子のところへ送られた。

「あの時は泣かれたよ。泣かれたし、謝られもした。…そんなところか。俺の話は」


 昇太たちは1層の入り口に辿り着いていた。道中、大田と涌井の姿がなかったから、怪物にやられていなければ塔を出られたのだろう。


 彼らの目には塔の出口が、夜なのに明るく輝いて見えた。

 武者小路はこれにて退場です。書いている時に改心して仲間になる展開も考えたのですが、やっぱりやめました。

 残りの二話はエピローグです。

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