005「おいしい」
朝、霙と白鴎が新しい服を持ってきてくれた。それはパジャマでも、真っ白の服でもなかった。今まで私が見た事がない服。出どころを聞くと、どうやら彩月が新しく作ってくれたようだ。昨日、私の採寸をしてから作ってくれた様で、サイズもぴったりと合っていた。
採寸をしたのは昨日の昼過ぎだった為、そこから今朝までの短時間で服を作ったのかと驚いた。霙曰く「小さい子ども用の服は縫う場所が少ないからすぐに作れる」と言っていたらしい。けれど、私は小さい子どもの服ほど手がかかると聞いた事があるけれど、それは違ったのだろうか。どちらにせよ、私が着る服が手に入った訳だから、今度会った時に、彩月には礼を言わなければならない。パジャマも2着、普段着も2着ある訳だから、毎日同じ服を着続けなくても良い。
いつも通り顔を洗い、彩月から届いた服を着て座っていると、白鴎が私の後ろに来て、昨日のように髪の毛を結んでくれる。私は特にこだわりはない為「どんな髪型がいい?」と聞いてくれた白鴎には何も言葉を返す事が出来ない。結局、白鴎に全て任せてしまった。
髪型は、昨日は三つ編みと編み込みだったけれど、今日は、2つの団子だ。耳下で作られている団子は、どうしたらこのような形になるのだろうかと疑問に思うほど綺麗だ。これほどまでに可愛く結んでくれて感謝を言いたい。そして、団子の根元には、昨日も付けてくれた紅赤のリボンが滞在している。髪を結ぶと少し首元がスースーするような気もする。しかし、髪の毛を結ぶというのは目にかからないし、首元にもかからないから邪魔にならなくて動きやすい。それに昨日前髪を切ってくれているから、前髪が目にかかる事もない。そう思うと、髪を結ぶのも良いものだと感じる。髪の毛を結ぶのはお洒落の為でもあるけれど機能性も重視しているのだと思った。
「うん、今日も可愛い」
「ありがとうございます」
私も大きくなれば自分でこのような可愛い髪型をする事が出来るだろうか。ちらりと自分の手を見てみると、今この手では到底無理だろうと少し凹む。
これ程までに可愛い髪型にしてくれたという事は、今日は何かあるのだろう。
「あの、今日の予定は……」
「今日は特に予定は無いよ。聖女様はまずこの世界に慣れる事が第一だから、やりたい事をしたら良いよ」
何かがある特別な日だから、可愛くしてくれた訳ではないらしい。白鴎に頼んだら、また、可愛くしてくれるのだろうか。
白鴎の言葉に少し考えこむ。
「やりたい事を……」
この世界について分からない事の方が多いから、やりたい事と言われてもすぐには何も出てこない。強いていえば、おままごとやお絵かきがしたいと思うくらいだけれど、それは別に今すぐでなくてもいい。
そういえば昨日績と絵の話をした気がする。何故そのような話になったのだっただろうか。あぁ、そうだ。績が私に欲しいものを聞いてきたんだ。それで私は思わず絵が描きたい事を言ってしまった。今思えば、日常生活で必要な物を言えば良かったかもしれない。だが、それも特に思いつかない。日常で必要なものは揃っている。これ以上望むのは贅沢というものだ。やりたい事といえば。
「ココア……」
昨日飲んだココアが飲みたい。
「本当に気に入ったんだな。でもまずは食事にしないか?」
本当は今すぐココアが飲みたい気分だけれど、先にご飯と言われれば仕方がない。けれども、あの甘いココアをもう一度早く飲みたい。寧ろあれがご飯代わりでも良いと思う。良くないとは思うけれど、そう思ってしまうほど本当に美味しかった。自分の中ではニンジンと良い勝負かもしれない。
「はぁい」
ニンジンはあるだろうか。
「今日やりたい事も食事の後に考えよう」
「はい」
霙の言葉に従って、まずは食事だ。白鴎が取ってきてくれる様で、私はのんびりと部屋で待っていれば良いみたい。椅子に座って足をぶらぶらしながら白鴎を待っている。ちなみに霙は、そんな私を見て「行儀が悪い」と怒る事なく、足に毛布を掛けてくれたり、カーディガンを着せてくれたりした。とても温かい。むしろ暑い。
しばらく待っているとなんとなく良い匂いがしてきた。
「?」
何の匂いだろうか。食事の匂いである事は確実なのだけれど、その正体が分からない。甘い匂いではないから、デザートではないと思う。
「おまたせ」
鼻をクンクンしていたら、白鴎が食事が乗ったトレーを持って帰ってきた。白鴎が部屋に入った事で、匂いがより一層強くなる。これは何の匂いだろう。嗅いだ事がある匂いだ。何と言っただろうか。たしか。
「ハンバーグ?」
「よく分かったな」
よかった、合っていた。
知ってる匂いのはずだ。ハンバーグは初日に食べた。食べたと言っても一口しか食べられなかったけれど。あの一口を食べてから、ずっと、もう一度食べたかった。
白鴎がトレーを私の目の前にある机にそっと置く。本当に、ハンバーグだった。私の鼻は優秀かもしれない。
ハンバーグは食べやすいように一口サイズの可愛らしい形になっている。 これなら食べやすくて嬉しい。なんだか、最近この形をどこかで見たような気がする。何だっただろうか。
ハンバーグの他には、おにぎりが1つとトマトのパスタとサラダ。あと、何かのスープ。しかもそのサラダは私の大好きなニンジン入りだ。美味しいものが多いので、思わず頬が緩みそうになってしまう。
「いただき、ます」
両手を合わせて挨拶をする。霙と白鴎を見ると2人とも頷いてくれたので、フォークを持って食べ始める。まず最初はハンバーグ。フォークで刺すと汁のようなものが出てきた。なんだか熱そうだ。3回ほど息を吹きかけてから食べる事にした。けれど、失敗だった。3回など大した回数ではない。もう少し冷ますべきだった。少し火傷したような気がするけれど、味覚に問題はない。前回と同じく味は絶品だ。思わず口の中にまだ入っているというのに2つ目にフォークを突き刺す。早くこれを口の中に入れたいというのに、今口の中に入っているハンバーグが邪魔をしている。早く食べようと思うけれど、なかなか飲み込む事が出来ない。飲み物で流し込む事も考えたけれど、せっかく美味しいものを食べているのだから、勿体ない事は出来ない。漸く1つ目のハンバーグを飲み込み、2つ目のハンバーグを口に入れようとした所で気づく。また火傷してしまう所だった。今度こそ、沢山息を吹きかけないと。さっきより少し多く息を吹きかけてから2つ目のハンバーグを口に入れる。今度は火傷をする事もなかった。ただただ美味しい味が口いっぱいに広がった。そして三つ目のハンバーグにフォークを突き刺した所で
「これも食え」
霙が口元におにぎりを持ってくる。おにぎりは嫌いではない。むしろ好きな部類に入るけれど、今はハンバーグが食べたい。思わず眉を寄せてしまった。
「ハンバーグは3つしかないだろう。美味しいものは最後に取っておくのも1つの手だぞ」
「……」
なるほど。そういう考え方もあるのか。今までは好きなものを先に全部食べてしまっていたから考えにも及ばなかった。でも、どうして最後に美味しいものを取っておくのだろうか。別にいつ食べても味は変わらないというのに。
「ほら」
口元まで持ってきてくれているのだから、食べるしかない。霙が持っているおにぎりにかじりつく。
「!」
ハンバーグとご飯の相性が想像していたよりも遥かに良い。どうして私は今までこの組み合わせを知らなかったのだろうか。お肉とお米のコンビ。侮りがたし。これはハンバーグだけ食べた時には味わえない相性の良さだ。ハンバーグを食べるのを止めた霙には文句を言いたかった所だが、これでは文句どころではない。むしろ賞賛を送りたい。
おにぎりを食べるのは2回目だけれど、おにぎりだけを食べるよりもずっと美味しい。しかも、お米がすごくおいしい。もっちりというのだろうか。水分を沢山含んでいて、柔らかい。おにぎりだけを永遠に食べられそうだ。霙が持っているおにぎりにどんどんかじり付く。
「!」
おにぎりに齧り付いていると、途端に味が変わった。中から、薄ピンクの何かが出てきた。美味しいのだけれど、これは何だろう。辛くはない。お米にとても合っている。でも、その正体だけが何かわからない。お肉、ではないと思うけれど。
「どうかしたのか?」
おにぎりを食べるペースが止まった私を見て霙が聞いてくれた。
「これ、なあに? 真ん中のピンク色の」
「ん? ああ、これか。これは焼き鮭をほぐしたものだ」
焼き鮭とは、名前からすれば、鮭を焼いた物という事だろうか。そんな料理の仕方もあるのか。私はそのまま霙が持っているおにぎりに一口、もう一口とかじりついていく。思わず口いっぱいにおにぎりを頬張る。
「気に入ったみたいだな」
霙はそう言って私が齧り付いていたおにぎりを遠くにやった。
「……」
思わず口の中に入っているおにぎりを噛む事を忘れ、霙が持っているおにぎりを目で追ってしまう。
「とったりしないから安心しろ」
そのような心配をしたつもりはないが、そのように見えたという事だろう。
「ほら、次はこっち」
白鴎は私が握りしめていたフォークを手からスルッと奪い取り、今度はサラダを私の方に近づけた。サラダには私の大好きなニンジンが入っていたのだった。白鴎もそれを心得ているのか、最初にニンジンをフォークに突き刺して口元まで持ってきてくれた。今日のニンジンは茹でられていない様で、噛んだら音がする。最近は茹でられているニンジンばかりを食べていたから、たまには硬いのも良い。噛むのに少し時間はかかってしまうけれど、野菜本来の味がして美味しい。噛み終わって口を開けると、今度はキャベツを口に入れられる。キャベツはどうやら茹でられている様で、柔らかい。
そして、今度はトマト。白鴎が私の口元にトマトを持ってきてくれる。ここに来た初日も昨日もトマトを食べたけれど、あまり好きではない。甘くて美味しいような気もしたけれど、あの食感がどうしても好きになれない。そう思えば、トマトを前にして口が開かなくなる。
私は開こうとしているのだが、口が開いてくれない。
「あ、トマトは嫌いだっけ」
白鴎が確信をついた言葉を投げかけてきたが、気まずさからか、顔を背けてしまう。
「じゃあ、次はこれかな」
白鴎は無理矢理食べさせたい訳ではなかったのか、トマトを皿の端において、今度はサラダに入っていたキュウリを口元まで持ってきた。キュウリなら食べられる。今度は迷わずに大きな口を開けてキュウリを口の中に入れる。予想通り、ポリポリと音がする。
所で、私はどうして食べさせられているのだろうか。自分で食べられるのに。寧ろ昨日まで全部自分で食べていたのに。白鴎が持っているフォークを奪い取ろうと手を伸ばすけれど、持ち上げられてしまい取る事は叶わなかった。
「……」
思わずフォークを見つめてみるけれど、私の元に戻ってくる事はなかった。
「だって、聖女様、好きなものばっかり食べちゃうでしょう? いつも野菜を食べるから心配はしていないけど、でもバランスよく取らないといけないよ」
好きなものを中心に食べる事の何がいけないのか分からない。
「野菜ばっかり最初に食べて、お腹いっぱいになっちゃって、他ものが食べれないっていう事よくあるでしょ?」
全くもってその通りだけれど、それは仕方ないと思う。野菜は美味しいし、腹も膨れる。すぐに満腹になるのはこの体のサイズが小さいからだろう。食事量が少ないからどうしようもないんだ。最後に待ち望んでいたハンバーグを口に入れて、食事は終わった。
少しずつでも食事量は増えるだろうか。
「ココア!」
食事が終わったから、今度こそココアを注文する。
「分かった、分かった」
白鴎は呆れたように笑いながら、キッチンに向かう。鍋に牛乳を入れたかと思えば、その中に何か茶色い粉を入れていた。
「その茶色いのなあに?」
「ココアの粉だよ」
ココアの粉。それを入れるだけでココアが出来るのだろうか。今鍋の中がどうなっているのかわからない。白鴎は粉が入っている瓶とスプーンを持っている為、両手が塞がっている。
「霙さん!」
キッチンから先程座っていた場所まで戻っていき、霙に手を伸ばす。
「だっこ」
「!」
霙は先程食べていた食事を片付けてくれていたが、私が手を伸ばすと笑って抱っこしてくれた。
「あっち、あっち」
白鴎がいるキッチンの方を指差すと、霙はそちらの方に向かってくれた。霙の腕の中から鍋を覗き込むと、白い牛乳の中に茶色い粉が溶けている所だった。
「どうして茶色い粉が溶けてるの?」
「ココアの粉は温かいものの中にいれるとよく溶けるんだよ」
「へぇ」
実験の様だ。あんなにも美味しい飲み物が、元々はこんなに茶色い粉だったなんて驚きだ。見た所、作り方は簡単そうだから、私にも作る事が出来そうだ。問題があるとすれば、私のこの低い身長だろう。これでは鍋を覗き込む事はおろか、火にかける事も出来やしない。
「はい、出来たよ」
真っ白なマグカップの中にココアを入れ、それを机まで持って行ってくれる。ソファに座り、マグカップを持って匂いを嗅ぐと甘くて良い匂いがする。昨日と同じ、あの甘い匂いだ。一口目を飲もうとしたけれど、白い湯気が出ていて、熱いのが分かっているから、何度も息を吹きかけて冷ます。熱い方が美味しいという人もいるかもしれないけれど、私はまだその境地にたどり着けていない。
少し冷めた所で一口目を飲み込むと、昨日と同じ甘さが口の中に広がった。思わず顔が蕩けそうになる。やはり自分で作れるようになりたい。そうすれば、霙達に作ってもらわなくても、いつでも美味しいものが飲める。
マグカップを両手で持っていると、手にまで暖かさが染み渡ってきて、冷えた指先が綻んでいく。今は寒いけれど、こういう温かいものを温かいと感じられる事を、幸せというのだろう。
四葉のクローバーを見つけた時の、あの嬉しい感覚と似ている。
霙達には少し慣れてきた気がする。今の所、私がこの世界で会った事があるのは4人だけだけれど、皆とても優しいと思う。特に霙と白鴎はずっと一緒にいてくれるから、怖い人ではないという事も分かった。少し無愛想だったり、言葉が乱暴だったりするかもしれないけれど、そんなのはもう慣れている。それにそんなのは重要じゃない。
中身が優しいかどうか、私にとってはそれだけだ。優しい人にこそ、裏があるという言葉を聞くけれど、きっと大丈夫だと思う。目の前の霙と白鴎をチラリと見ると、やはり少し寂しい気持ちが浮かび上がってくる。早く飲み終わらないといけないかなと感じるけれど、2人とも優しい目で見てくれているから、急がなくてもいいと思う。
「この後は何かしたい事はあるか?」
「……」
急に話しかけられたので、ココアを飲み込みながら考える。考えた末に出てきたのが
「おままごと」
だった。考えても、絵本とおままごと以外にやりたい事はない。というよりも、出来る事がない。この世界に何があるのかも分からないし。この部屋にないものをねだるのも申し訳ない。
「分かった。私達は別の部屋にいるから、もし何かあれば呼んでくれ。そこにある鈴を鳴らせば私と白鴎に聞こえるようになっている」
霙が指さした方向を見てみると、見覚えのない鈴が私のベッドサイドの机の上に置かれていた。白色の鈴は私の部屋のインテリアと妙に合っていて、違和感を感じさせない。だからこそ今まで気が付かなかった。もしくは、朝食の準備をしている時に置いたのかもしれない。鈴を鳴らせば、どんなに離れていたとしても聞こえるのだろうか。一般的に、鈴を鳴らしても、この部屋の外には聞こえないと思うのだけれど。不思議だけれど、霙が言うのだから、きっと聞こえるのだろう。
「分かりました」
洗い物くらい自分でと思うのだが、身長的に不可能だったので、結局食事だけでなくカップの片付けまで任せてしまった。
誰もいなくなった部屋で、遠慮なくおままごとを広げる。取り敢えず、前に作った弁当箱3つを取り出す。自分では色とりどりで素敵な弁当だと思うけれど、実際にこういう弁当を食べてみたい。弁当だなんて、どこかに行く時にしか食べる事はない。弁当を食べるとしたら、どこかに行って食べてみたい。部屋にいる時はわざわざ弁当を作る必要もないし。庭で弁当なんかも良いかもしれない。
弁当3つ全部蓋を開けると、中から2つだけ、自分が知らない具材が出てきた。昨日入れた時も何か分からずに入れたけれど、お陰様で、色合いはとても良いと思う。
「あ、でもこれ……」
2つのうちの1つは、もしかすると
「ハンバーグ?」
かもしれない。確証はないけれど、今日の食事で食べたハンバーグによく似ている。こんな小さなハンバーグを見た事が無かったから、昨日の時点ではこれがハンバーグとは分からなかったけれど、色も形も一緒だ。ただほんの少し、今日食べたハンバーグの方が大きいような気もする。でも、本当にそっくりだから、これはもうハンバーグで良いと思う。丸くてコロコロしている。
「これ、なんだろ?」
それは分かったとしても、もう1つがどうしてもわからない。白いこれはパンだろうか。その中にキャベツや肉のようなものが挟まっている。色がとても綺麗だったから、思わず弁当に入れたけれど、これは食べれるだろうか。こんな食べ物は今までに見た事がない。形も変な三角の形だ。
「そうだ、」
今度、このパンの様なものを食べてみたいと言ってみたらどつだろうか。もしかすると、作ってくれるかもしれない。そうしたら、どんな味かも分かると思う。それに、美味しいかどうかもわかる。
作っていた弁当の中身を1度全部出し、他の食材が入っている箱に一緒に入れる。そして、再び食材が入っている箱をガサゴソと漁ると、下の方から、ニンジンの輪切りのようなものが出てきた。両手で持って見つめてみると、色も形も間違いなくニンジンだ。
「……美味しそう」
お腹が減っている訳でもないにも関わらず、涎が出てしまいそうな程本物に近い。
「……はむ」
先を少しだけ齧ってみた。
「なあんだ」
味はない。分かっていたはずだけれど、少し期待していた。でも期待はずれだ。あまりにも本物の様だから、このニンジンも本物かと思ったけど、そんなはずはなかった。
いや、まだ希望はある。もしかすると、他の食材なら味がするかもしれない。先程の小さなハンバーグのようなものを探し出して、それも口に入れてみる。
「味、しない……」
やはり味はしない。お腹が減ってる訳では無いのに、どうしてこんなにも口に入れたくなってしまうのだろう。飲み込んだら危ないからもうやめておこう。万が一霙達に見られたら心配かける。変な事をしていると捨てられても困るし。
それから30分ほど1人で遊んでいると、だんだんと視界がぼやけてきた。
「これが、トマトで……、んぅう、これ、は、」
おにぎりを持った所で手から力が抜けてしまい、皿の上に落ちる。
「おにぎりは、……こっち」
落としてしまったおにぎりを、もう1つの皿の方に置く。不思議だ。先程から視界がおかしい。視界はぼやけるし、床に置いている皿が大きくなったり、小さくなったりしている。これは私の顔が皿に近づいているのかな。
脳は動いているのに、その意思に反して、私の視界はどんどん狭まって黒くなっていく。
「ねむたく、ないもん……」
私はまだ遊びたいから眠たくない。そう思うのに、頭がだんだんと下に下がっていく。そして、暗くなった視界の中で最後に感じたのは、おでこの痛みだった。
くうぅぅぅぅぅ
犬の鳴き声のような変な声で思わず目が覚めた。
「おはよう」
「目が覚めたんだね」
まだ目は開かないけれど、霙と白鴎の声がしたのは分かった。どうやら私はいつの間にか寝ていたらしい。いつ眠ったのか全く記憶がない。しかもベッドに入った記憶すらないのだから、きっと霙か白鴎がベッドに連れて来てくれたのだろう。
「ぅあい」
どちらの手か分からないけれど、ゆっくりと私の頭を撫でているのを感じる。そんな事をされてしまったら、余計に眠たくなってしまいそうだ。額に少しの痛みを感じながら目を閉じたままゆっくり起き上がってみると、なんだかいい匂いがしてきた。
「いいにおい」
甘い匂い。今まで嗅いだ事のない匂いだ。思わずクンクンと鼻を動かす。
くうぅぅぅぅぅ
匂いを嗅いでいると、私が起きる原因となった犬の鳴き声のようなものがした。けれど、ここまでくるともう何の鳴き声かは分かる。
まごう事なき私の腹の音だ。食事をしたばかりだというのに、この腹はどうなっているのだろうか。全く図々しいやつだ。先程沢山食べたというのに、まだ何かを欲している。本当に贅沢なやつだ。先程まで全く主張しなかったというのに良い匂いを嗅いだ途端に主張を始めるだなんて、食いしん坊にも程がある。
などと、自分の腹に文句を言ってみる。
そろりと目を開けてみると、すぐ傍に霙達の姿が映った。目の前の霙達だって、犬の鳴き声の原因を分かっているのか、私の方を見ながら笑っている。かろうじて声を出していないし、口元を手で覆っているが、あれはもう間違いなく笑っている。
「むう」
笑われたのが悔しくて思わず両頬を膨らましてみる。すると白鴎が私の両頬を潰すものだから、「ぶぶっ」と空気が抜けた変な音がしてしまった。怒りたい所だけど、私を布団まで連れて行ってくれたのだろうから怒るに怒れない。しかも先程まで散らかしていたままごとも綺麗に片付けてくれた様だ。更に怒れなくなってしまった。
「腹が減ったか」
「……はい」
恥ずかしくて目を逸らしながら答える。腹が鳴ったのは、美味しそうな甘い匂いがしたからだ。それを求めてお腹が鳴っただけだ。これは不可抗力というもので、私の意思ではない。
「何か食べたいです!」
ここまでくれば、開き直るのも大事だと思う。
「緑弥が聖女様にとお菓子を作ってくれている」
「おかし?」
緑弥というのは誰だろう。料理人だろうか。私がまだ会った事がない人という事だけは分かる。その内きっと会わせてくれるだろう。
どのようなお菓子を用意してくれたのか。お菓子といってもレパートリーは沢山あるし、私が食べた事のあるお菓子なんてほとんどない為、イメージがつかない。私としてはスナック菓子も食べてみたい所だけど、この世界にそれがあるのかは分からない。どちらかというと洋菓子が出てきそうだ。この世界に誰か日本人が転生していてくれたら、和菓子も出てくる可能性があったかもしれない。
だが、和食が出てくるのだから、和菓子の可能性もあるのではないだろうか。
白鴎がドアの近くに置いてあったトレーを机まで持ってきてくれる。カバーが掛けてある為、中身は見えないけれど、甘くて美味しそうな匂いが漂ってくる。早く開けてくれないだろうかと思うけれど、霙がキッチンの方で何か飲み物を準備してくれている様だから、そわそわしつつも大人しく待つ事にする。
霙のほうを見てみるけれど、鍋の中で何かを温めている事しかわからない。ココアを作ってくれているのではないかと期待するけれど、匂いで少し違うような気がする。それにココアは先程飲んだ。もしかするとホットミルクだろうかと思うけど、それもどうやら違う様だ。鼻に届く香りは今まで嗅いだ事のない匂いだ。
「待たせたな」
霙が3人分のコップを持ってこちらに来る。どうやら一緒におやつを食べてくれるようだ。コップの中身を見てみると、なぜか私だけ違う飲み物だった。
「これなんていう飲み物ですか?」
「ん? ああ、飲んだ事がないのか。これは紅茶という飲み物だ。聖女様の分にはミルクを入れておいたから、甘くておいしいと思う」
通りで先程ミルクの匂いがしたはずだ。独特な匂いがするけれど、果たして私はこれを飲めるのだろうか。飲んだ事がないものを飲むのは、ドキドキするけれど、試さないと美味しいかどうかもわからない。
「今日のおやつはこれだよ」
飲み物が揃った所で、白鴎がトレイにかかっていたカバーを外してくれた。中から出てきたのは私も知っている食べ物だった。
「これ知ってます! たしか、くっきーですよね? 甘くておいしいって皆言ってました」
「食べた事ないのか」
「ないです!」
クッキーは多くの材料を使うし、高いから頻繁に食べられるものでもない。いつかは食べてみたいと思っていた。
出てきたクッキーは、丸い形で側面にはキラキラと光っている粉が付いていた。多分だけれど、砂糖だと思う。よくある白いクッキーだけではなく、茶色のクッキーや薄桃色のクッキーもあった。一体どんな味なのだろうか。
「いただきます」
一番手前にあった定番の白いクッキーを手に取ると、思った以上に柔らかくて力を入れると崩れてしまいそうだ。口に入れてみると、まず、砂糖の甘さが舌に届いた。砂糖だけ食べるのは甘すぎて気持ち悪くなると聞いたけれど、全然そんな事はなかった。むしろ甘くて美味しくて、もっと食べたくなる。多分少量だからそう感じたのかもしれない。口に入ったクッキーを歯で噛み締めると予想した通り、柔らかくて簡単にホロホロと崩れていった。
「おいしい」
美味しい味がする。思わず そう言葉に漏れてしまいそうだった。
口の中に広がる甘さは、今まで想像していたクッキーの味とは全然違った。違ってすごく美味しかった。思わずぽつりと呟いた後、手に残っているクッキーを迷わず口の中に入れる。
「気に入った?」
まだクッキーが口の中に入っていた為、白鴎の問いかけに迷わず首を縦に振る。これはニンジンと良い勝負かもしれない。ココアとも良い勝負。こんなに美味しいものが、私の口に入っているだなんて信じられない。ニンジンの時も、ココアの時も感じたこの感覚はもう忘れる事なんて出来ない。それほど強く残った。
「うまいな」
霙もクッキーを口の中に入れて呟く。その後に紅茶を飲んでいるのを見て、私も飲み物があったのだと思い出す。少し熱いから息を吹きかけて軽く冷ました後、一口目を口に含んでみると、これまた予想以上の甘さが口の中に広がった。けれどもそれは決して嫌な甘さではなく、むしろほっとするような暖かさを心に届けてくれた。
それから茶色と薄桃色のクッキーを1つずつ手に取る。まずは薄桃色の可愛いらしいクッキーを口の中に入れてみる。白いクッキーと同じように柔らかい噛みごたえでホロホロと崩れていく。多分これはイチゴの味だと思う。味も匂いもほんのりとイチゴが漂う。これも間違いなく美味しい。そしてイチゴとは反対の手に持っていた茶色いクッキーに目を向ける。見慣れなくてなんだか食べるのに勇気がいる。美味しいのだろうか。でも、霙と白鴎は美味しそうに食べている訳だから、きっと味は美味しいのだろう。
「はむっ!」
勇気を絞ってパクリと一口で食べてみると、間違いなく美味しかった。
「! これ、ココアです!」
しかも、私が大好きになったばかりのココア味だ。言われてみれば、クッキーの色とココアの色は似ている。あの粉は飲み物にとかすだけではなく、お菓子にも入れ込む事が出来るのか。何とも有能な粉だ。
「おいしい」
思わず二枚三枚とどんどん食べ続けてしまう。白いクッキーや薄桃色のクッキーも美味しかったけれど、ココアのクッキーはそれ以上だ。やはり私はココアが好きだ。むしろココア味だったらなんでも良いのかもしれない。
美味しすぎてどんどん食べてしまった事もあり、いつの間にかクッキーも紅茶も空っぽになっていた。
今までで一番美味しい。ニンジンの方がもっともっと好きなはずなのに、今までで一番美味しく感じる。それが何故か分からないけれど、また味わいたいと思うほどに、とても幸せで美味しかった。でも結局の所、私はクッキーじゃなくても満足したと思う。
そして今日も風呂に入る時に感じた事は。
私ハ子ドモ。羞恥心イラナイ。




