004「こ、これ、遊んでもいいですか?」
4日目の朝、目を覚ますと、まだ暗い闇の中にいるようだった。静かな朝だったけれど、優しい風が窓の外から吹きぬけてくるようで暖かい。起きたばかりなのに今も少し眠たい。だが、しっかり寝れているからか、その眠さの中に気だるさはない。むしろスッキリしている。
目が覚めたからといってもする事はない。とはいえ、昨日のように布団の上で飛び跳ねるといったような失態は犯すつもりはない。霙達に迷惑をかけるような行為はしたくない。ふと気になってみて、自身の額に触れてみるけれど、腫れたような膨らみもなく痛みもない。怪我を気にしていたら、心配をかけるだろう。鏡を見るまでは安心出来ないけれども。
ベッドから降りようとベッドサイドに行くと、なぜか違和感があった。
「……なにこれ?」
違和感の正体はすぐに分かった。ベッドサイドに柵のようなものが施されていた。とは言っても赤子を落ちないように閉じ込めるような柵ではない。似てるけれど、少し違う。色も温かみのあるような薄ピンクだし、なんならレースも飾られていて可愛らしい。ベッドサイドの方には柵があるけれど、足元の方には柵がない。だから、閉じ込められているという圧迫感もない。確かに柵だけれど、これだったら私も好きな時に降りられる。閉じ込めようとしてこのようなものを設置した訳ではないと分かっているから怖くない。ただ、このようなもの、わざわざ準備してくれたのだと思うと申し訳なくなる。それにこの様な物を用意してくれていたというのに、私は全く気付かず眠りこけていたのか。前は少しの物音でも起きていたというのに、緩みすぎているのだろう。
とりあえず柵が施されていない足元の方から踏み台を使って床に降りる。そしていつもの可愛らしいスリッパに足を通し、窓辺まで歩いていく。
「あおい……」
先程までカーテンの向こうにあった空は、カーテンを開けてみると、黒ではなく青だった。薄暗い黒からだんだんと青に染まっていたのだろう。この世界の空は本当に青い。こんなにじっくりと空を見るのは何年ぶりだろうか。空の青なんてもうすっかり忘れていたと思っていたのに。飛んでいる鳥も、明るい太陽も、咲いている草花も全てが明るすぎた。
窓に触れると、その冷たさが肌に伝わる。
「つめたい」
季節はいつ頃なのだろうか。窓の外を見ただけでは、季節感も分からない。けれど、葉の散り様から秋頃だろうかと予想をつける。秋はどのような季節だっただろうか。山菜が美味しいとも聞いた事があるし、読書や音楽、芸術に浸る季節だとも聞いた事がある。つまり、色々な事に興味を示していくような季節なのだろう。私には無縁だったけれど。しかし、普段から私がしていた事と比べると、それはとても魅力的なように思える。
ピアノの音が聞きたい。誰か弾いてくれないだろうか。今までピアノなど触った事がなかったけれど、本当はピアノをやってみたい。ただ、この世界にピアノがあるかどうかが分からないし、私が触れても良いのかが分からない。
絵の才能はどうだろうか。正直、絵は下手くそだと何度も言われていたけれど、今の私はどうやら子ども扱いを受けているようだから、子どものような絵を描いても良いのではないのだろうか。人の顔を描くのは本当に苦手で、特徴を捉えた絵を描く事は本当に難しい。どちらかというと私は、景色の絵を描く方が好きだ。もちろん下手ではあるけれど、自分が見たまま感じたままを自由に描く事が好きだ。けれど、紙なんて手に入るものではなかったから、頭の中で思い描い終わる事の方が多かったけれど。
本を読む事も好きだ。幸いな事に、霙が絵本を毎日選んでくれているから、今の所読むものには困っていない。けれど、絵本なんてすぐに読み終わってしまう。絵本は大好きだから読めるものならば沢山読みたいけれど、小説だって読みたい。私はこの世界の文字が読める様だから、物語なんかも良い。だが、論文の様な内容は絶対に無理だと思う。内容は頭に入れる事が出来るかもしれないけれど、それを理解して刻み込む事は出来ない。昔からそれはずっとずっと苦手だった。私はどうやら覚えが悪いらしい。
勉強は絶対にしたくない。勉強なんて大嫌いだ。特にテストが一番嫌い。自分がどれほど頭が悪いのかを思い知らされるようだから。私は毎日ふわふわと生きていきたい。何も考えずに、ただ転がっていたい日もある。
カーテンを開けたままベッドに戻ると、端っこに転がっていたくまのぬいぐるみを枕に寝かせるように転がし布団をかけてやる。
「……」
子どもを寝かせる母親とは、このような気持ちになのだろうか。トントンと軽くたたいてやると眠るはずもないぬいぐるみが眠ったような気がする。大好きな私の友達をそっと撫でてやると、そのふわふわな毛は肌によく馴染む。抱きしめてやると柔らかさから形が変わってしまいそうだと感じる。この柔らかさは例えるなら何に似ているだろうか。考えてみたけれど、それを当てはめられるようなものは私の知識の中にはなかった。頭が良い人ならもっと何か出てくるだろうか。
不思議な事に、布団に寝転んでいるくまのぬいぐるみを見ていると、私の方が眠たくなってくる。私がまだ小さかった頃、眠たくなった時にはどうしていただろうか。私の周りは何をしてくれていただろうか、唯一思い出すのが記憶の彼方にある、懐かしくささやかな子守唄だ。
「ね~ん、ねん、ころぉり……」
まだ遠い遠い記憶の中、うっすらと残っていたそれは、私の口から出すにはあまりにもか細く、同時に懐かしい。これは私にとって幸せな歌だ。
「……っは!」
本当に眠ってしまいそうになっていた。たった今起きたばかりだというのに。
今はだいたい何時頃だろうか。もう朝日は昇っているようだ。
そういえば、このくまのぬいぐるみを、いつまでもくまのぬいぐるみと呼ぶのは少し、寂しいのでは無いか。名前が無い寂しさは私も、よく分かっている。
名前をつけてあげた方が良いのだろうか。名前がある拘束感と、名前が無い焦燥感。どちらを取れば良いのか。私にはその答えを見つけられない。
それに、私には名付けの才能なんてない。変な名前をつければ、この子はきっと、化けて夢に出てくる。
それでも、私は私の欲に従ってこの子に名前をつけたいと思った。どのような名前が良いだろうか。名前などつけた事がないからどのような名前をつければ良いのか分からない。横文字の名前かそれとも日本人のような名前か。人によっては自分の名前をぬいぐるみに付けたり、製作者の名前を付けたり、好きな人の名前を付けたりするものだと聞いた事があるけれど、どれも釈然としない。自分の名前は嫌だし、製作者も分からないし、好きな人も思い浮かばない。
「……」
私の両親は、どうやって私の名前を決めたのだろうか。1から考えてくれたのか、それとも関連した名前をつけてくれたのか。好きなものから取ってくれたのか。今は聞く事すらかなわない両親に、一度問いかけたくなった。
「好きな…………」
何も思い浮かばない。こういう時に思いつく方では無い。ちらりと窓の外を見てみる。何だか外が曇り始めているみたいだ。これを、なんと言うのだっただろうか。天気が悪くなっている訳ではなく、朝寒い時に出るものだ。たしか、霧と言う。だが、ふと、自身の知っている霧とは少し違うような気がする。霧よりも柔らかくて優しい感じ。
「……あっ」
そうだ、霞だ。私の勝手なイメージだけれど、霧は尖っていて、霞は柔らかい。
「かすみ」
口に出してみるけれど、くまのぬいぐるみには合わない気がする。というよりも霞と目の前のくまの色彩が私の知っているものと異なりすぎて、勝手に違和感を感じる。
そういえば、私の知っている霞と外の霞の色彩も全く違うと何処か頭の片隅で違和感を再度覚える。
「あなたは……、みー」
かすみの「み」からとった。単純だけれど、この方がしっくりくる。私の大好きな友達。
「ずっと……、一緒にいてね」
このぬいぐるみは私が手放さない限りはずっと一緒にいてくれるはずだ。手放す事なんて私の方からは絶対にありえない。私が大きくなってもぬいぐるみを抱くような年齢ではなくなったとしても、きっとこの子だけは大事に大事に取っておく。だって私だけのものだから。この世界に来てから周りの人達は皆優しく温かかった。そしてその中でも一番、私が心を通わせる事が出来るのはきっとこのぬいぐるみだろう。手放さない限り、この子はずっとここにいる。
「あなたは、みーだよ」
名前を呼ぶだけで、少しだけ部屋がやわらかくなった気がした。
可愛いこの子には今度何かをプレゼントしてあげたい。何なら喜んでくれるだろうか。
「あなたは、みー」
私とお揃いの何かはどうだろうか。
「わたしは、」
その先の名前だけ、なぜか続かなかった。
コンコン
「っ!」
突然のノックにみーと一緒に飛び上がる。外からの足音に気が付かないとは、それだけ気が緩んでいるという事だろうか。壁やドアが分厚いから気がつかなかっただけかもしれないが。
壁が分厚い可能性もある為、出来るだけ大きい声で返事をした。入ってきたのは予想通りというか、いつも通りやはり霙と白鴎だった。
「おはようございます」
「おはよう」
とても失礼な事を思うけれど、2人はこの服しか持っていないのだろうか。毎日同じような服を着ている。ようなというよりも、全く同じものだろう。彼ら守護者の制服なのだろうか。それとも本当にこの服しか持っていないのか。正解は分からないけれど、2人は綺麗だから他の服を着ても似合う気がする。
「額の傷はどうだ?」
「もう、痛くないです」
「そうか、ならよかった」
霙は私の額に触れながら、ほっと息を吐く。続いて、白鴎も安心したように、私の頭を撫でてくれた。
「顔、洗っておいで」
白鴎がタオルを渡してくれたので、それを持って洗面所まで向かう。洗面所の前には小さな踏み台が置いてあって、それに乗ると鏡に自分の姿が映る。鏡を見て改めて私は小さくなっているのだと実感する。顔や姿はそのままの私なのに、やはり、サイズだけが小さくなっている。一体この体はどうしてしまったのだろうか。
そして、この場所ではこの姿はとても違和感を感じる。私以外の人は皆白髪金目であるにも関わらず、私だけが黒髪黒目だ。ここでも私は皆と違うと言い聞かせられているみたいだ。黒髪黒目が聖女である証のように言われたけれど、そんな証拠よりも、私は皆と一緒がよかった。
冷たい水で顔を洗うと目がスッキリと覚める感覚がする。少し寒く感じたけれど、やはりこうでもしないと目が覚めない。
目はしっかり覚めていたはずなのに、覚めていない感覚がしているのだから、不思議だ。顔をタオルで拭き、霙達の元へ戻ると2人は布団を整えていてくれた。
「ありがとうございます」
自分の布団を整えさせるのは申し訳ない。そのくらいやれと言われれば自分で出来るのに。言われなくても自分で出来るのに。
「いや、これも守護者の役割だ」
守護者の役割って本当に多岐に渡るようだ。しかし、今までの行動を振り返ってみれば、守護者というよりも完全に私の親の様な世話係だ。
「着替えるか」
霙が持ってきてくれたのは、真っ白のワンピース。
思い返せば、私が洋服を着るのは今日が初めてではないだろうか。今までは洋服を着る機会もなく、パジャマで過ごしていた。一体私はどれだけ怠惰な生活を送っていたのだろうか。けれど不可抗力だから仕方がないと思う事にしよう。
「そして、今日こそ採寸をさせてくれ」
そういえばその予定があったのを忘れていた。この世界に来てて何度も予定として組まれていたけれど、先延ばしになっていた。
「はい」
前と違ってこの体なら、恥ずかしくはない。もちろん全部脱ぐのは絶対に嫌だけれど、下着ぐらいなら大丈夫だ。上はシャツを着ているし、下はかぼちゃパンツだ。霙と白鴎と一緒に入る風呂の事を思えば、これくらいどうって事ない。
「パジャマ脱いで」
白鴎は慣れた手つきで、私のパジャマを脱がせる。私も慣れたようについ手を空に上げてしまう。そして、そのまま万歳をしている手に白鴎は白いワンピースを着せてくれる。
「髪、どうしようか。結ぼうか」
白鴎は少し考えながら私の髪の毛に触れる。私の髪の毛は綺麗ではない。勿論、風呂には入っているから清潔ではあるけれど、艶がない。私は自分の髪の毛があまり好きではない。ずっと髪の毛を切りたかったけれど、その機会もなく先延ばしになってどんどん伸びてしまった。この機会に髪を切ってしまうのも良いかもしれない。別に今すぐ切ろうっていう話ではないけれど、そのうち切って欲しいとお願いしてみようか。そうすれば、髪の毛を洗うのも楽だろうし、結ばなくてもい良いから白鴎達も悩まなくても良いだろう。けれども短い方が髪のセットが大変だと聞いた事もある。結局どちらが良いのだろうか。
白鴎達がやりやすい方にしてくれれば良い。私自身は特にこだわりもない。
「よし、決めた」
白鴎はそう言いながら私の髪の毛を後ろで一つ結びにする。結局結ぶ事にした様だ。
「ねぇ、聖女様」
「?」
「前髪切っても良い?」
確かに今の私の前髪は少し長い。目も隠れてしまっているし、邪魔と言われれば邪魔だ。今まではそのままにしていたり、後ろの髪の毛と一緒に結んでいたから、特に不快に感じなかったけれど。それは私が別に好きで伸ばしていた訳ではないし、切りたというならば私はそれでも良い。
白鴎に向かって頷くと、白鴎は予め用意していたかのように、腰のポーチから鋏と布を取り出した。そして、椅子に座った状態の私に布をかけた。首から下が全て布に覆われてしまい、痒くなった目元を擦る事も出来ない。白鴎は私の前に立った。
「それじゃ、切るね」
「はい」
固く目を瞑ると、額に白鴎の手が触れた。そして、髪の毛を櫛ですかれている感覚もした。そして次には、鋏で髪の毛を切る音がした。目に入る事は無いけれど、切った髪が鼻や頬に当たるのが少し気持ち悪い。
目を開けるのは怖いけれど、少し気になってしまう。それにこの鋏の音がなんだか心地よい。髪の毛を切ってもらうなんて一体いつぶりだろう。しばらくは切っていなかったから覚えがない。店ですら髪を切る事がなかった為、こういう時、目を瞑る以外にどうすれば良いのか分からない。話をすれば良いのか、それとも黙っていれば良いのか。とりあえず、目を瞑るのは正解で良いのだろう。こんなにも近くで目を開けているのは、なんだか恥ずかしいし気まずい。
「もう少し切っても良い?」
「もう少しなら良いんじゃないか」
私の髪の毛なのに、私の意見を聞かずに霙の意見を聞いてる。それに、霙も少し考えながら言ってくれているのが、私の事をちゃんと考えてくれている様で嬉しい。再び鋏で髪を切る音が聞こえたが、しばらくするとまた鋏が止まり白鴎が霙に話しかける。
「もう少し切ったらさすがに短い?」
「短いな。……だが、それはそれで可愛いかもしれん」
一体どれだけ切るつもりだろうか。今どの辺りまで切られているのか分からないけれど、髪の毛が目に入るのが怖くて目を開けられない私にはそれも分からない。
私は特にこだわりはないからそれでも良いのだけれど。あと、あまりにも似合ってない髪型でなければ大丈夫。
「こんなもん?」
「だな」
2人の会話からすると終わったのだろうか。もう目を開けても良いものか分からず、取り敢えず固く目を瞑っていると白鴎から開けても良いという声がかかった。目を開けてみると、目にかかる髪の毛の感覚がなくすっきりしたのが分かる。今までは視界の端に髪の毛が写っていたけれど、今はそれもない。霙は鏡を持ってきてくれたのでその鏡を覗き込む。
「!」
ものすごく短くなっていて驚いた。眉毛よりも短く、眉毛の上で綺麗に切りそろえられている。確かにこれでは周りの景色がはっきりと見えるけれど、その分周りからもはっきりと目を見られる訳だ。これはとても恥ずかしいかもしれない。確かにどんな髪型でも良いと思ったのは私だけれど、だからといって今まで慣れていた視界とは全く異なる視界になった訳だから違和感しか感じない。慣れていけると良いのだけれど。
「これで聖女様の顔がはっきり見える」
恥ずかしいけれど、霙があまりにも嬉しそうな顔でそう言うものだから、私はこの髪型でも良いかもしれないと思ってしまった。我ながら単純だなと思うけど。
切り終わった所で、先程一つで結んでいた髪の毛が解かれた。
「?」
髪を切る為だけに結んだのかと思っていると、白鴎は私の髪の毛を後ろで二つに分けた。そして、そのまま両サイドの髪の毛を片っぽずつ編み込んでいった。そして、編み込んだ下の方は三つ編みで終わり、その先には小さな紅赤のリボンが添えられていた。
白鴎は器用だ。私は自分の髪の毛をこんなに綺麗に結ぶ事は出来ない。もしかしたら妹でもいるのだろうか。
「あり、がと、ございます」
「どういたしまして」
白の新しいワンピースに綺麗に括られた髪と可愛いリボン。まるで生まれ変わったような心地になる。今すぐ色んな所を歩き回って自慢したい。
自分の事を可愛いだなんてうぬぼれた事を思う訳ではないけれど、それでも先程までと比べると、見違えて恥ずかしくない姿になったのではないだろうか。
「採寸、いつからしますか?」
「昼からだからそれまでゆっくりしていると良いよ。ただし危ない事はダメだよ」
「……はい」
これに関しては前科があるからなんとも言えない。昨日みたいなのは私もごめんだ。子ども心は抑えないと。
「今日はみーと遊びます」
「みー?」
そうだ、まだ言ってなかった。
「この子の名前です」
ベッドに横になっているくまのぬいぐるみを胸の前で抱き寄せる。
「名前付けたのか」
「はい。名前ないと……、可哀想だから」
「そうか。良い名だな」
思いがけず褒められてしまった。少しだけ名前の由来も紹介したかったけれど、聞かれていないから、わざわざ言うのもどうかと思い、黙っている事にした。聞かれたら、その時に教えたら良い。
「あ、そうだ。霙、確か倉庫に」
「ああ……、そういえばあったな」
「?」
霙と白鴎は2人で会話し始めた。私では、何の話をしているのか分からなかったけれど、2人の間では分かっている様だった。主語を言わなくても分かるなんて、まるで夫婦の様だ。
「ちょっと待っていろ」
「すぐ戻ってくるから」
そう言い残して2人は部屋を出て行った。2人とも急ぎ足で部屋を出ていった。何の用事なのだろう。直ぐに戻るとは言っていたけれど、何をしに行ったのか気になる。
「………」
手持ち無沙汰だ。待っていろと言われても、いつまでかかるのか分からないし、この場で立って待っていれば良いのか、それとも布団やソファで寝転んで待っても良いものか。みーを見てみるけれど、当然ながら返事があるはずもなく、結局どうすれば良いのか分からないままだ。
何十秒か待ってみたけれど、2人が戻ってくる気配はなかった。諦めてソファに座って待つ事にした。やはりずっと立って待っているのは疲れてしまう。
ソファーに座って力がだらりと抜けた所で、ノックの音が聞こえた。霙と白鴎が帰ってきたのだろうか。
「はーい」
扉の所まで駆けてゆき、ゆっくりと扉を開けると、そこにいたのは、霙と白鴎ではなく績だった。
「績さん!」
「おはようございます、聖女様。おや、髪切ったのですね。お人形さんみたいですごく可愛いですよ」
「!」
出会ってすぐに髪型の変化に気づいてくれるなんて。しかも可愛いと言われてしまった。
「ありがと、ございます」
真正面から褒められると、なんだか恥ずかしくなり、みーの後ろに顔を隠す。
「このぬいぐるみも大事にしてくれているのですね」
勿論。ここに来て最初の贈り物だ。
「あのね、この子に名前つけたの」
「素敵ですね。何という名前を付けたんですか?」
「みー」
「素敵な可愛らしい名前ですね。このぬいぐるみを気に入ってくれたようで私もとても嬉しいです」
立ち話ばかりでは疲れてしまうので、績にソファを勧めた。績は「ありがとうございます」と言って私の隣に座った。
「何が飲みますか?」
何か。今は起きたばかりだから、取り敢えずは大丈夫だ。そう思ったので、とりあえず首を横に振る。
「まだ少し赤いですね」
績は私の額に触れてそう言う。昨日床で打った所だ。私はもう全く痛くないのだけれど。ふと手元にあった手鏡で見たけれど、さっきは全然気がつかなかったよ。確かによく見ると少し赤い気がする。だけれど、本当に全く痛くない。それにしても、治りが予想以上に早い。子どもの姿だからだろうか。子どもは治癒が早いというし。
「痛くはないですか?」
「大丈夫です」
「そうですか……」
私は大丈夫だと言っているのに、何故か績は納得していなさそうな顔だ。本当に痛くはないのだけれど。確かに昨日は痛くて痛くて仕方がなかったけれど、一晩経った為、もう痛みも無い。大体これくらいで痛いと言っていたらこの先怪我をした時にやっていけない気がする。
「そういえば、霙と白鴎は?」
「えっと、よく分からないですけれど、さっきお部屋から出ていきました。すぐに戻って来るって言ってました」
それでもそろそろ戻ってくるのではなかろうか。
「聖女様、今日のご予定は?」
「えっと、今日はお昼から採寸をします」
「……ふむ」
績は私の答えを聞いた後に手を顎に当てて考え込んでしまった。
「?」
何か用事でもあったのだろうか。こんなに考え込まれてしまうと、少し気になる。何か不都合でもあっただろうか。
「績さん?」
「っ、ああ、すみません。つい考え込んでしまいました」
「考え……?」
「ええ、聖女様は何か欲しいものはありませんか?」
「欲しいもの?」
急な問いに思わず首を傾げる。
「はい。何かないですか?」
急に何故そのような事を尋ねるのだろうか。欲しいものなんて、急に出てくるものではない。欲しいもの。例えば、どの様なものだろうか。
食事は貰えるし、ふわふわな布団もあるし、洋服も貰えたし、ぬいぐるみもある。つまり、衣食住はもう揃っている。人が生きていく為には、衣食住が保証されていないといけないと聞くけれど、私はこの世界では既に保証されている。だからこそ、私は満たされている。これ以上望むものなんてあるのだろうか。
績を見てみると、私が欲しいものを言う事を望んでいる顔をしている。
「……」
『欲しいもの』と言われても全く思い付かない。ここにきて何かが無くて困っている事も特にない。もし欲しいものがあるとすれば、暇つぶしが出来るものだけど。そう考えて、ふと1つ思い浮かぶものがあった。
「おえかき……」
描きたい絵を思い描く事は昔から好きだった。ここで絵が描けるならば、それはとても嬉しい事だ。黒一色でも良いけれど、色があるととても嬉しい。
「お絵かきという事は、紙とペンが欲しいのですね?」
績さんの言葉に力強く頷く。
「分かりました。明日までに準備しておきます」
「良いのですか!」
「ええ、もちろんです。」
明日がとても楽しみになった。明日が待ち遠しいという経験をするのは初めてかもしれない。みーを抱きしめてもなんだか落ち着かない。そわそわと動きが止まらない。体がむずむずとする感覚もする。
これはどういう感情なのだろうか。楽しみだとこの様になるのだろうか。
私が1人そわそわしていると、霙と白鴎が戻ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「戻ってきましたか」
「あれ、績がいる」
戻ってきた霙と白鴎は何か大きなものを持っていた。それを取りに行っていたのか。その大きな箱は一体何だろうか。
「遅くなってごめんね。で、早速これなんだけど」
白鴎はそう言って、霙と一緒に持ってきた大きな荷物を、私の前に置いた。
「?」
置いたのだけれど、私にはそれが何か分からない。箱に入っていて中身が全く分からない。
「開けるから少し待ってろ」
霙はそう言いながら、箱を開け始めた。
「……良かった。倉庫に仕舞ってあったから埃っぽくないか心配していたけど、大丈夫だったみたい。」
「だな」
霙と白鴎2人で箱から中身を取り出しているけれど、大きすぎてうまく取り出せないみたいだ。
「手伝いましょう」
私の隣に座っていた績も手伝ってくれる様だ。ここは空気を読んで私も手伝おうとしたけれど「危ないから聖女様は座っていて」と断られてしまった。箱を開けるだけなのに危ないとは。確かに私は小さいから危ないと言われれば危ないのかもしれない。その箱は私の背よりずっと高い。
一体何が出てくるのだろうか。少しわくわくする。
「そっちをひっぱってくれ」
「分かりました。あ、白鴎、下持ってください」
「うん」
手伝えないと分かってはいるけれど、なんだろう、この疎外感は。私も一緒に頑張りたい。でも、大人3人がかりでも大変そうな開封を私が手伝える筈もない。
「そこ、持ち上げて」
白鴎の声に霙が頷き、それを持ち上げると薄い桃色と白色のものが見始めた。想像よりも可愛らしい色に首をかしげる。大人3人の中心にこのような可愛らしい色があるということに違和感を感じ少しの笑いがこみ上げそうになる。そして、とうとう中身が全部見え始めた。
「!」
まるで夢のようだと思った。大きなときめきが私の心臓を貫く。
誰もが一度は望むもの。けれども手に入るはずのないそれは私にとっても夢のまた夢だった。可愛らしいそれは惜しむことなく私に輝かしい色を向けていた。
「おままごと!」
それはとても可愛いらしいおままごとセットだった。私の身長がとても低い事もあり、おままごとセットはとても大きく感じる。実際大きいのだろう。私からすれば、まるで本当のキッチンのような大きさだ。
以前は触れたくても触れられなかったそれにゆっくりと手を伸ばしてしまった。
どうして今さら、現れるのだろう。あんなに欲しかったものに、何故簡単に触れられているのだろう。
流し台も付いているし、コンロもついてる。まな板を置く場所もあるし、引き出しだってある。引き出しを覗いてみると、ボウルやザル、お玉、ヘラなどたくさんのキッチン用具が揃っていた。別の引き出しを覗いてみると、野菜や果物など、沢山の食材が入っていた。
震える手が歓喜に満ちているのだと、自身の興奮を抑え込む。私の年齢を考えればおままごとで喜ぶような年ではないけれど、今だけはそのことを忘れたい。一度捨て去った欲望をまさかこのような形で叶えてしまえるとは思ってもみなかった。きっと、あの時から神様は私のことを見てくれていたのだろう。そう、信じてもいない神に祈りを捧げたくなった。
「こ、これ、遊んでも良いですか?」
「勿論」
「ほんと、ですか?!」
「うん」
白鴎から許しを得て早速ソファーに座っているみーを連れて再びおままごとセットのところまで駆け寄って行こうとする。けれど、走り始めたところで、霙からストップがかかる。
「まずは食事をしてからだな」
「えー……」
遊びたい欲が強く表に出てしまった。自分でも制御が効かず、不満を口に出した。けれどもすぐにそのことに気がつき口を両手で閉じる。
けれども、どうしてもすぐには諦めきれなかった。せっかくこのように素敵なおもちゃが現れたのに。私の為だけの、私が遊べるおもちゃがやっと現れたのに、それを後回しになど出来る筈もない。少しだけでも良いから先に遊びたい。
そう思い霙を見るけど、霙からの許可は降りなかった。諦めて白鴎を見るけれど、白鴎は績に聞いてとでも言うように、績の方を向いた。願いを込めて績を見るけれど「先にご飯です」と言われてしまった。医者にそう言われてしまったら、私は従うしかないではないか。
くうぅぅぅぅぅぅぅ
諦めたところで、私のお腹がしっかりと悲鳴をあげた。
「お腹すいたかもしれないです……」
空腹を感じているという感覚は全くなかったけれど、お腹から悲鳴が鳴ったのだから、空いているのだろう。それにしてもこの様なタイミングで鳴らなくても良いのに。私のお腹はタイミングが悪い。
「当たり前だ。昨日も食事をしていないのだからな」
「……」
そういえばそうだったかもしれない。でも少し食べなくとも別に死んだりしない。そこまで考えた所で績の優しくて鋭い瞳が目に入り、おとなしく食事に向かうことにした。
白鴎が食堂から食事を持ってきてくれたので、諦めるしかない。お腹が空いているのは事実だと思うし。績はどうするのだろうかと思っていると、どうやら績は私の額の怪我の状況を見に来てくれただけの様で、もう帰ってしまった。
「おむらいす!」
今日の食事はなんとオムライス。ふわふわ卵の上に真っ赤なケチャップ。正にお子様ランチの定番と言えるだろう。真ん中に旗が刺さっていないのが残念だけれど。いや、旗が刺さっているのは、チャーハンにだっただろうか。無いものは無いからどちらでも良い。
オムライスは初めて出たけれど、少し大きい。私がここのご飯を完食できる日は一体いつになるのだろうか。
ところで。
「霙さんと白鴎さんは、食べない、ですか?」
「ああ、私達はお腹が空いていないからな」
「そう、なんですね」
やはりこのオムライスは私1人で食べきるしかないのだろう。
「無理はしないでね」
頑張って1人で食べ切ろうという決意を固めていると、白鴎からまるで私の心を読んだかのような言葉が返ってきた。
「はぁい……」
ここの食事は何故こんなにも美味しいのだろうか。何か特別な材料でも使っているのだろうかと思うくらい美味しい。オムライスなんて本当に久しぶりだ。何年振りだろうか。もし私が自分で料理をする事が出来たのならば、自分でも作っていたかもしれないけれど、私には到底料理なんて出来なかったから、自分で作る事もなかった。いや、今まで作ろうとも思わなかった。この世界で、もし私の背がもう少し大きくなったのならば作れたのだろうか。いや、そんな先の事を今考えても仕方がない。
パクリと一口食べる度に幸せが口の中に広がってくる。
この世界のご飯はとてもとても美味しい。それは疑いようがない。
それよりも遥かに嬉しい事がある。霙と白鴎は私と一緒にご飯は食べない。だけれども、私がご飯を食べるとき、ひとりにならないように傍にいてくれる。だから、ここの食事はこんなに美味しく感じるのだろうか。
「おいしい、ね」
美味しいと感じる事はとても幸運な事だと知ってしまった。
「ほら、野菜も食え」
霙がサラダにフォークを突き刺し、私の口元まで持ってくる。
「はぁい」
私は返事をして思いっきり口をあける。最初は何を口に入れたのか分からなかったけれど、少し噛んでみると口に入ってきたのはトマトだとわかった。
「…………」
思わず咀嚼するスピードが遅くなる。トマトはあまり好きではない。食感が嫌ですっぱい。ここで初めて食べた時も感じたけれど、やはり食べられそうではない。ゆっくりと時間をかけて頑張って飲み込む。なんだか一番最初に食べた時よりも苦手に感じるかもしれない。頑張って飲み込んだところで、霙がもう一度フォークをトマトに突き刺し私の方へ差し出してきた。けれどもう一回トマトを食べる勇気は私にはもうなくて、ふいっと顔を逸らす。
「……トマトは嫌いなのか?」
好き嫌いをするのは良くないと分かっているけれど、こればかりはどうしても食べられそうにない。
迷った末に小さく縦に首を振る。
「そうか」
霙は私が嫌いなもの無理やり食べさせるような事はしなかった。それどころか。
「苦手なのによく一口頑張ったな」
と褒めてくれた。びっくりして思わず目をパチリと見開く。一口頑張っただけで褒められるなんて、子どもってすごいと感心する。
霙は先程までフォークに突き刺さっていたトマトの代わりに、サラダの下の方にあったニンジンを私の口元まで持ってきてくれる。ニンジンは大好きだから嬉しいけれど、あまりにも下の方にあった為、ニンジンがある事にすら気づかなかった。今度こそ迷わずに大きな口を開けてニンジンを口に入れる。やはり美味しい。ニンジンに関しては、ドレッシング等、何もかかっていない方が好きだ。できれば生より茹でてあった方が食べやすい。極論としては、ニンジンならばなんでも良いのだけれど。
「おいしいか?」
今度も迷わずに首を縦に振る。
「そうか」
霙があまりにも嬉しそうに笑うものだから、思わず私も笑ってしまいそうになった。
「お腹いっぱい、です……」
オムライスを半分あたりまで食べたところで、お腹が限界を迎えてしまった。朝からよく食べたと自分でも思う。
「……本当にもういいのか?」
「はい」
これ以上食べたら本当に気持ち悪くなってしまうだろう。
「そうか」
それよりも。
「霙さん、白鴎さん、ごちそうさま、しました」
「ん?ああ、そうだな」
「それがどうかしたの?」
もう2人ともすっかり忘れてしまっているのだろう。
「遊んでも、いいですか?」
「ああ、そういう事か。いいぞ。ただし、採寸の時間になったら呼ぶから、その時は来てくれ」
霙からの許可が返ってきた瞬間に、私はみーを連れておままごとセットの方へ駆け出す。採寸という話も聞こえてはいたから、走りながら「はい!」と叫ぶ。
「みーはここに座ってね」
みーを近くにある座布団に座らせる。
まずはどんな調理道具があるのか確認をしよう。フライパンもある。お鍋もある。ミキサーもある。食べ物も沢山ある。
「じゃあ、まずは」
ミキサーの中に、リンゴとイチゴとブドウとバナナを入れてスイッチオン。おままごとセットだから本当に音がなったりしないのは仕方がない。ある程度時間が経ったらミキサーの蓋を開けて用意してあったコップに、果物を入れる。これはもうジュースというよりも、ただのコップに入っている果物だ。これがおままごとだから。
そのコップを二つ持って、私の食べた食事の片付けをしてくれている霙と白鴎の所に持っていく。
「霙さん、白鴎さん !いつも、ありがとぉのジュースです!」
「「!」」
何度も言うが、これはジュースだ。コップの中に果物が入っただけのように見えるが、おままごと的にはジュースだ。そんなジュースとも言えないようなジュースを、霙と白鴎はゆったりと笑いながら受け取ってくれた。
「ありがとう。これは何のジュース?」
「んー、とね。霙さんのはリンゴとバナナのジュースで、白鴎さんのはイチゴとブドウのジュースです」
2人は笑って受け取ってくれただけではなく、なんと、ジュースを飲む振りまでしてくれた。
「美味いな」
「聖女様は料理の才能があるかもね」
「!」
2人とも優しすぎるのではないだろうか。2人がずっと笑いながらこちらを見てくるものだから、恥ずかしくなって照れ隠しのようにみーの後ろに顔を埋める。その時に霙と白鴎に頭をふわりと撫でられた感覚がした。体が軽くなる感じがして力が抜けそうだ。
「私たちは、少し席を外すが、遊んでいて構わない」
「美味しいジュースをありがとう」
急に霙と白鴎がそう言うものだから、少し驚いた。けれども、この部屋から出ていくのは予想がついていったので小さく縦に首を振る。
採寸があるのだから、きっとその時には戻ってきてくれるだろう。
「また、あとで」
そう言って二人はこの部屋から出ていった。私も2人に手を振る。
バタン
扉が閉まる音がやけに響く。でも、今はそんな事は良い。それよりも。
「みー、あそぼ!」
せっかくの新しいおもちゃで遊ぶ方が大事だ。まずは何を作って見ようか。
「おべんと!」
おにぎりと、ニンジンは入れなければならない。キャベツも美味しいから入れよう。他には何があるだろうか。そう思い、食べ物が入っている引き出しの中身をガサゴソと漁る。弁当に入っていそうな気がするものも沢山出てきた。もし弁当の定番のおかずに入っていなくても、ここにあるという事は、食べ物ではあるはずだ。
このパンのようなものも美味しそうだ。そして、ハンバーグに似ている茶色くて丸いものは何だろうか。
弁当箱を3つ用意して選んだ食材をそれぞれに詰めていく。栄養バランスなどは言われてもよく分からない為、とりあえず見た目の色合いだけは綺麗に見えるように考えながら詰めていく。なかなか美味しそうに出来たのではないだろうか。3つが3つとも全部違う弁当にはなったけれど、どれも良い感じになったと思う。思わず満足げに腰に手を当てて胸を張ってみる。ちらりとみーの方を向いてみると、まるで私の気持ちに同意してくれているかのような笑顔を向けてくれていた。
それはともかく、弁当が完成したので、おままごとセットの中に入っていた巾着を3つ取り出し、それぞれの弁当箱を包んでいく。その時にフォークを入れるのも忘れない。
「できた」
この弁当箱は大事に取っておくとして、次は何を作ろうか。今度こそフライパンを使ってみても良いだろう。まずは。
「たまーご」
確かこんこんと叩いたら、割れるんだよね。でも、これは叩いても割れない。
「あった」
卵の代わりに今度は目玉焼きをフライパンの上に乗せる。
「じゅー、じゅー」
自ら効果音を出し、美味しいものが出来上がる事を祈る。
「えーと、しょーゆは……」
先程どこかで調味料を見た気がするのだけれど。いくつかある引き出しを漁れば目当てのものは問題なく私の手元にやってきた。目玉焼きをひっくり返す為のフライ返しを探すが、どうやら目の届くところには置いていない様だ。もう一度いくつかある引き出しをを覗く。そうして見つけた それで、目玉焼きを皿に移して上から醤油を垂らす。
「できた」
目玉焼きの完成だ。
何故だか不思議な達成感がある。単純な作業だけれど やってみるとなかなか楽しいものだ。おままごとは 子どもの遊びだと思っていたけれど、今の私には丁度良いのかもしれない。もう一度子ども時代をやり直せているようだ。
「あとは何を作ろうかなぁ」
と少し考え込んだところで、食事後だからか、わずかな睡魔が襲ってきた。
「みー、とりあえず今はお昼寝をしましょう」
結局、私はおままごとを中断して、みーと一緒に睡眠をとる事にした。ベッドまで行くのが少し面倒だったから、結局ソファで眠る事にした。ソファに寝転がった瞬間、どこか懐かしいぬくもりに包まれて、抗えないまま、まぶたが落ちた。
「聖女様、起きれるか」
「!」
暗闇の中で霙の声を聞いた瞬間、目が覚めた。一体どれくらい寝ていたのかは分からないが、いつ毛布をかけられたのかが分からないくらいにはぐっすり眠っていた。
「おはよう。これから採寸だけど大丈夫か?」
「はい」
むしろ起こしてくれてよかった。流石に今日採寸が出来なければ私は一体何日採寸を先延ばしにするのかという話だ。
「良かった。実は今、その採寸してくれる人が部屋の前でもう待ってる」
「え?」
採寸はてっきり2人がしてくれるものだと思っていたけれど、そうではないようだ。知らない人に会う事を知らなかった為、心構えが出来ていない。そう思ったのだけれど、もう部屋の前にいるのでは仕方がない。あまり待たせるのも申し訳がない。
「入れていいか」
「え、あ、はい」
結局心の準備をする間もなく、許可を出してしまった。霙が白鴎に対して頷くと、白鴎はゆっくりと扉を開けた。
「彼は服飾士の彩月だ」
入ってきたのは、またもや綺麗な男の人だった。ここにはやはり綺麗な男の人しかいないのだろうか。そして、白髪金目も霙や白鴎、績と同じだ。髪型は服飾士というだけあり、お洒落だ。今日の私の髪型の様にサイドを両方編み込み、それを最後に後ろで束ねている。オシャレだけど、邪魔にならないという感じの髪型だ。
「こん、にちは」
大丈夫だとは思っていたけれど、知らない人に対してはやはり少し緊張する。後ろに下がり、近くにいた霙の後ろに隠れる。
「こんにちは、聖女様」
霙の後ろから彼を覗き込むと、目が合う。鋭い目が私を射抜き、どうすれば良いのか分からなくて、再び霙の後ろに顔を隠す。
「やばい」
聞き覚えのない単語が聞こえた。
「やば……?」
耳に馴染みがなくて、聞き返してみると、今度は白鴎の声が聞こえた。
「ちょっと、聖女様に変な知識を植えつけないでよ」
「いや、だって。聖女様があまりにも可愛すぎたから」
「気持ちはわかるけど」
会話を聞いている限り、やばいの意味はよく分からないけれど、悪い人ではなさそうだ。
「あ、そうそう。彼は聖女様の部屋もデザインしてくれたんだよ」
「え?」
あの時はこの部屋をどう準備してくれたのか分からなかったが、あれほどまでの短期間で私の部屋を用意してくれた功労者の1人なのだという事は分かった。
「あ、あの!」
「ん?」
私が話しかけると不思議そうにこちらに顔を向けてくれた。
「あの、素敵なお部屋、ありがと、ございます。すごく、嬉しいです」
「っ! ど、どういたしまして。ところで」
彩月は目を見開いた後に見慣れた優しい顔でお礼を受け取ってくれたが その後に 紡がれた言葉に 私は声が裏返った。
「抱きしめてもいい?」
「ふぇ??!!」
挨拶みたいな気軽さですごい事を聞かれた。私が返事をするより先に、霙と白鴎がパシンと頭を叩いた。
「っ! え、何すんの? 痛いんだけど!」
「こちらのセリフだ。聖女様に何を言っているんだ」
「本当だよ。聖女様も怒っていいんだよ」
「あ、えーと」
このような気軽な会話を経験した事があまり無い為反応に困る。そして、会ったばかりの人に急に抱きしめられるのは遠慮願いたい。霙と白鴎が止めてくれて良かった。
「残念」
全く思っていなさそうな顔でそう呟いた。この人の本音がどこにあるのかわからない。笑っている事から、もしかすると、私の緊張をほぐそうとしてくれていたのかもしれない。お陰で少し緊張がほぐれた気がする。それに、霙と白鴎もこの人に負けてないという事も分かった為、もし不都合な事をされたとしても霙と白鴎がある程度は断ってくれるのかもしれない。私に断る勇気があれば良いのだけれど。
「あ、そうだ。自己紹介がまだだったね。私の名前は彩月といいます」
彩月と名乗った人は先程までとは打って変わって姿勢を正し、仕事モードに変わった。最初に紹介された名前と同じ事を確認する。
「私は主に衣装を作ったり、家具のデザインをしています。聞いているとは思うけど、今日は聖女様の衣装を作る為に採寸させてもらいます」
仕事モードの彩月は正直少し怖い。取り繕っている事が分かる。この優しい笑みの裏には 一体どのようなものが詰まっているのだろうか。 取り繕っていない 顔の方が 親近感が湧く気がする。
「よ、よろしくおねがいします」
「はい、よろしくお願いします」
採寸はそのまま私の部屋で行う事になった。彩月が最初に、霙と白鴎は部屋の中にいても良いか聞いてきた。私としても、いてくれた方が安心する為、提案に同意した。自分にも選ぶ権利があるのだと少し驚いた。
「はい、それじゃあ服を脱いでいきましょうね」
「……はい」
私は子ども。私は子ども。羞恥心はいらない。恥ずかしくない。心中で必死に呪文を唱えながら万歳をして服を脱がせてもらう。幸いな事に、シャツは着ていて良いし、かぼちゃパンツもはいていて良いとの許可が貰えたので、そこまでの羞恥心に見舞われる事はなかった。
「それでは、下から測っていきますので、力を抜いていてください」
「はぁい」
彩月さんは宣言通り下、つまり足元から順番に私のサイズを測っていく。
「そういえば、聖女様はどんな色が好きですか?」
「色……?」
彩月がメジャー を私の腹周りに当てた所で私に問いかける。
特に考えた事もなかった。頭と首を捻るけれど、今すぐにこれと言う色が出てこない。何色を好きと答えれば正解なのだろうか。ただ単に 世間話の一環として聞いているのか、 それとも服のデザインを決める為に聞いているのか。将又、望んでいる答があるのか。
強いて言うならば。
「桃色?」
「ふふ、疑問形という事は、すぐには思いつかないという事かな?」
彩月の言う通りなので、迷わず首を縦に振る。
「それでも、桃色が出てきたという事は、多少は桃色に愛着があるという事かな?」
「?」
自分の事なのに自分がよく分からなくなる。こんな曖昧な返答で申し訳ないと思うけれど、彩月は怒る事なく採寸を進めていく。
私が、好きなものは何だろう。
疑問だけが頭の片隅で燻る。
「それなら、今まで着た服の中でどんな服が一番好きでしたか?」
「えーと」
また、難しい質問が来た。今までどんな服を着ていたのかすら思い出せない。記憶を思い起こそうと頭をつつく。
確か、普段私が着ていたのは――。
思い起こそうとして、嫌な記憶が蘇ってきそうになり、やめた。
そうなると、私の好きな服装とはどのようなものなのだろう。以前の私はどのような服装に憧れていただろうか。
私がなかなか答えない事で、彩月さんは私の中に答えが見つからないと分かってくれたのだろう。
「それじゃあ、聞き方を変えようかな。ワンピースは嫌いですか?」
首を横に振る。
「手足が出るのは大丈夫ですか?」
ふと自分の手足を眺めてみるけれど特に問題は無いように思う。
首を縦に振る。
「ふわふわな生地の服も作っても大丈夫ですか?」
これに関してはよくわからなかったから、素直に首を斜めに傾ける。
「そうだね……。例えば、聖女様が持っているぬいぐるみと同じようにふわふわしている上着とかかな。そんなのはどうです?」
想像してみたら、それはとても暖かそうだった。寒くなったら欲しいと思い、首を縦に振る。
「それじゃあ、最後に。ちょっと難しい質問かもしれないけど、着たくない服装や色はありますか?」
この質問にもこれといって思い浮かぶものはない。脳内にこれという程、私の中に洋服の思い出がない。
今度も首を横に振る。
「分かりました。ありがとうございます。今後は私が聖女様の衣装を作らせて貰うのですが、もし作った衣装を見て、これはどうしても着たくないという事があれば、遠慮なく教えてくださいね」
せっかく作ってくれた服を着たくないなんて、言えるはずもない。そう事思った私の心を読んだのか、彩月は笑って答えた。
「洋服とは、着ているものを幸せにする事が出来るのです」
初めて聞いた。洋服の魔法。だけど、そんな意味不明な言葉をきいて、どこか納得してしまった。
「私は私の洋服を着た聖女様が幸せになってくれる事が嬉しいです」
今着ている服だって、私には不似合いなほど、輝いて見える。
ですから、と彩月は続ける。
「もし苦手な衣装があれば、遠慮なく教えてください。無理に着る必要はありません。衣装だって喜んでくれた方が嬉しいと思いますから。むしろ苦手だった衣装は積極的に教えてくれると助かります」
そうか、と不思議と心にすんなり落ちてきた。人が服を選べるように、服だって着る人を選べる。嫌々着られるのは服も嫌だろう。
それでもやはり、苦手なものを伝えるのは申し訳ない。思わず眉が下がりそうになってしまう。
「好き嫌いは悪い事ではないのですよ」
「え?」
「この世界に、あなたの好きと嫌いを咎める人はいません」
「!」
彩月は出会って数十分だというのに何度も私の核心を突いてくる。
そういえばと思い出すのは、今日の朝の事。私はトマトが嫌いでどうしても二口目が食べられなかった。だが、霙は決して、呆れたりしなかった。むしろ、よく食べたと褒めてくれた。
「好きや嫌いは生きる者全員が持つ個性です。私にだって好きな物や嫌いな物はあります。聖女様にもあって当然です。それを隠す必要もありません。勿論言いたくないのであれば無理に聞き出す事は致しません」
「…………」
口に出しても、良いのだろうか。ここでは居候で無駄飯ぐらいでしかない私が我儘なんて言っても良いのだろうか。けれども衣装を作ってくれるという結果には変わりがないのだから、少しぐらい要望を出しても良いのかもしれない。寧ろ少しくらい要望があった方が作りやすいのかもしれない。
「あ、の」
「はい」
「衣装とはちょっと、違うけど良いですか?」
「勿論です」
彩月は笑って私を肯定してくれた。それでも、すぐに言葉が出ない私を急かすのではなく、いつでも良いという様に採寸をしながら待ってくれていた。もしこれで彩月の手が止まっていて、じっと私を見ていたのならば、私は焦って言葉が出なかっただろう。
喉に引っ掛かりを覚えながら視線を下に逸らす。
「あの、私」
唾を何度も飲み込み、口を何度も開いて閉じ。手を何度も震わせ。そうしてやっと出てきた言葉は、あまりにも小さかった。
「首、凄くぎゅってなるの苦手で……。えっと、ネックレスもきついのは好きじゃなくて……」
「なるほど」
彩月の視線が一瞬だけ鋭くなる。
もしかすると、何か不都合があったのかもしれない。
あぁ、怖い。
目を瞑ってしまいたい。先程の言葉を取り消したい。逃げたい。
採寸はもう終わったのだろう。彩月は先程まで私を測っていたメジャーをしまった。
「あ、あの。無理なら……」
激しい後悔が襲い、そう言おうと思ったけれども。
「こんなのはどうですか?」
彩月はスケッチブックにスラスラと服を描き始めた。それは鉛筆で書かれたものだった為、色などは付いていなかった。けれども、私好みの、可愛らしい姿をしている事だけわかった。そして。
「可愛い……」
首元は柔らかい生地が使われていて、圧迫感は全くなかった。しかも柔らかい生地がふんだんに使われているため、立体感も出ていて、ネックレスなんてなくても十分だ。もちろん、これは絵で見ただけだから、本当に首元に圧迫感がないのかは分からないけれど。
「首元に布がある事自体が苦手だったら、言ってくださいね。その時はまた別に可愛いデザインも考えられますから」
「ありがとうございます。えっと、首に布があるのは大丈夫だと思います。ぎゅっとならなかったら……」
「分かりました。教えてくださってありがとうございます」
どうして、私が礼を言われたのだろうか。礼を言わなければならないのは私の方だというのに。
どうして、言えたのだろうか。そう思わずにはいられない。ただ――。
『好き嫌いは恥ずかしい事では無い』
この言葉が一体どれほど私の心を軽くしたのだろうか。
採寸が終わり、彩月は帰り支度を始める。思ったよりも早く終わった。彩月はこれからデザインをおこしてくれるそうだ。オーダーメイドなんてとても贅沢だと思うけれど、ここには私ほど小さい人はいない様だから、作るしかないのだそう。
外に買いに行けばあるらしいが、私は聖女様という立場らしく、服はここで服飾士が仕立てるものなのだそう。
「彩月さん、ありがとうございました」
「こちらこそ、お話出来て楽しかったです。……あと、今更だけど、その髪型もとても似合っている」
「!」
そう言って彩月は部屋から出て行ってしまった。しかも、最後の最後だけ仕事モードではなかった。やはりこの世界の男性は皆褒めるのが上手だ。日常会話のようにさらりと褒め言葉を使う。私には真似が出来そうにない。
霙と白鴎は、彩月さがいる間、何故か一言も話さなかった。
「なにか飲むか?」
彩月が部屋から出ていってしまい、部屋には私と霙と白鴎だけが残された。だから私も気が抜けてしまい、ついソファに寝転んでしまった。それを疲れたと捉えられたのかもしれない。しかし、喉が渇いているのは事実なので、遠慮なく、飲み物をお願いする。
「初対面の人にもだいぶ慣れてきたな」
「そう、ですか?」
霙の言葉に心の中では全否定をする。全く慣れる様子がないと、自分自身で思う。もし先程の場所に霙と白鴎がいなければ、私は逃げ回っていたかもしれない。逃げ回るというのは大袈裟かもしれないが、話をするまでに時間がかかっていただろう。そう思うと一番最初に出会ったのが霙と白鴎で良かった。2人は私の事を大切にしてくれると思う。その2人が信頼している人達は、きっと信頼出来るだろうと感じた。もちろん緊張はするけれど、逃げ出したくもなるけれど、拒絶反応とまではいかない。
「お待たせ」
白鴎が3人分の飲み物を持ってきてくれた。
「疲れた時は甘いものだよね」
白鴎がコップをそれぞれの前に置いてくれる。甘いものと言っていたが、甘い飲み物とは何の事だろうか。コップの中を覗き込んでみると、茶色のような黒いような飲み物が注がれていた。
「これなぁに?」
「ココアだよ。……もしかして、知らないの?」
ココア。聞いた事がなかった為、首を縦に振る。
「これはね、チョコレートを飲み物にしたようなもので、……チョコレートは知ってる?」
チョコレートというものも聞いた事がなかったので、首を横に振る。もしかすると聞いた事があるのかもしれないけれど、私の記憶の中にはない。
「んーと。なんて言えばいいかな……。とりあえず甘くて美味しい飲み物だから飲んでみて。口に合わなければ無理しなくてもいいから」
甘くて美味しいというのが想像つかない。今まで甘い物に触れる機会は少なかった。甘いものを思い浮かべてみるけど、いくつか浮かんだ中に少し思い出が苦くなった気がした。そうしてここで食べた事のある甘いものを思い返し、ニンジンが浮かんで幸せな気持ちになった。
「いただきます」
こくりと小さく一口だけ飲んでみたけれど、正直よく分からない。口の中に温かい物が広がったのは感じたけれど、味まではよく分からなかった。少なすぎたようだ。けれども、飲めなくはない事は分かった。今度は思い切って一口飲んでみる。
「!」
「どう?」
口の中に広がる甘さ。決して嫌な感じではなく、寧ろ
「ふふ、気に入ったみたいだね」
「だな」
温かいときめきが、静かに私の心に宿った。
心も体も温かい。美味しくて幸せな感じ。こんなに美味しい飲み物は初めてだ。私が花を飛ばしている間に霙と白鴎はもう飲み終わった様。私も急いで飲もうとする。
「時間はあるからゆっくり飲めばいい」
そう言ってくれたので、遠慮なくゆっくり飲む事にする。白鴎が丁度良い温度で持ってきてくれた為、急いで飲んでも火傷はしないけれど、せっかくだから味わいたい。
「そういえば、勝手に柵を設置したりしてすまない」
霙がベッドを見て思わずと言ったように呟く。
「あ、いいえ! 寧ろありがとうございました!」
あれほどまでに可愛い柵なら、本当に圧迫感もないし私が落ちる事もないと思う。多分、普通にベッドから転がり落ちただけだと、あれほどまでの怪我はしないはずだ。今回はふざけ過ぎただけだと思うから、次からはきっと大丈夫。
勿論もう落ちる気はないけれど。
ココアをゆっくり全部飲みきると、霙がコップを片付けてくれた。
「今日はもうすぐ夜が来るから風呂に入って寝ようか」
「え、もうですか……?」
もうそんな時間なのだろうかと驚いて窓の外を見ると、もうすっかり山吹色だった。寧ろだんだんと暗くなり始めている。
「夜だ……」
ここに来てから一日がとても早く感じる。それはとても良い事のように思えるけれど、同時に少し寂しく感じる。
いつものように二人にお風呂に入れられた。上がってからいつも水分補給をしている為、今日は少しお願いしてみる。
「あの、ココア……」
「ココアが飲みたいのか。気に入ったんだな。だが、一度に沢山飲むのは良くない。代わりにホットミルクを入れてやろう」
「ほっと、みるく?」
否定の言葉が浮かび、すぐにそれを飲み込んだ。
温かい牛乳の事だと思う。温かい牛乳とは美味しいのだろうか。
霙はキッチンの方まで歩いていき、冷蔵庫から牛乳を取り出した。いつの間に冷蔵庫に牛乳なんて入っていたのだろうか。そして、戸棚から鍋を取り出し、牛乳をその中に入れ、コンロの火をつけた。
霙はキッチンの鍋で牛乳を温めてくれている。その様子が見たいのに、背が足りなくてうまく見れないのが悲しい。いくら飛び跳ねても見られそうにない。諦めて、霙の服を引っ張る。すると、霙は不思議そうにこちらを見てきたので、両手を広げて抱っこをねだるポーズをする。それと、霙は少し笑いながらも私を片手で抱き上げてくれた。
「あつくないか?」
首を縦に振る。落ちるのも嫌で霙の服をしっかり掴む。
「この中に砂糖と蜂蜜を入れる」
「おさとうと、はちみつ?」
「ああ、そうすると甘くなる」
「……」
温かい牛乳の中に砂糖と蜂蜜。味の想像がつかなくて、思わず涎が垂れそうになる。砂糖と蜂蜜が入った牛乳は、少しもったりしてきたような感じもする。
「落ちるなよ」
霙の注意で思わず鍋の方に近寄っていた体を元に戻す。今更だけれどよく片手で料理が出来るものだ。そして、よく片手で私を抱っこ出来るものだ。
「もう少し、か」
鍋の中を見ているのも楽しい。料理をしている所というものを見る機会はあまりない。自分でも料理など出来なかった。
「そろそろか」
霙はそう呟くと、鍋を傾け、コップに注いだ。使い終わった鍋はシンクに入れ、水を注いだ。今は洗わない様だ。私を抱っこしたままそのコップを持ち、ソファの方へ歩いて行った。もう料理は終わったのだから、私も歩くのだけれどと思いつつも、流されるままになってみた。
そして、そのまま座ったのは何故か霙の膝の上。不思議に思いつつも、わざわざホットミルクを作ってくれたのだから拒否するのも申し訳ない。ホットミルクを、霙の膝に零しませんように、とだけ願っておく。
「ほら」
霙からホットミルクを受け取り、一口飲むとココアとはまた違った甘さが口の中に広がった。
「おいしい」
思わずびっくりと目を見開く。私の知っている牛乳はこれほどまでに美味しいものではない。蜂蜜と砂糖が入るだけでこんなにも変わるのか。蜂蜜も全くしつこくない。寧ろおいしい。蜂蜜と砂糖の美味しさが溶け合って。
私も溶けそう。
全部飲み終わる頃には私の睡魔が夢の世界へと私を誘ってくれていた。コクリコクリと沈みそうになる意識を何とか現実世界に留めた。その誘いを何とか断りつつも最後までホットミルクを口の中に流し込む事に成功した。コップは落とさないようにか、霙も支えてくれていた。あとは意識を手放すだけだ。そう思ったのに。
「まて、歯磨きをしてからだ」
霙からストップがかかる。
「はぁい」
私がゆっくり歩くので、霙は思わず見かねたのか、最後の方には抱っこして連れて行ってくれた。だが、抱き上げられるとそこで寝そうになってしまう。霙もそう思ったからこそ最初から抱き上げてくれなかったのだろう。それでも結局、私は意識がなくなりそうになりながらも頑張って立って、霙が磨いてくれた。
歯磨きが終わったらもう寝るだけだと思えば、私の意識はそこで途切れた。
願この幸せの日が続けばいいと祈らずにはいられない。
窓は空いていないはずなのに、少し冷えた指先に夜の冷たい風が差し込んだ気がした。




