002「霙さんがぎゅっと抱き締めて、白鴎さんが手を握ってくれているなら、頑張ります」
そして翌朝。これは夢では無いかもしれないと思い始めた。
目が覚めて周りを見渡してみると、最初は知らない所のようで驚いたけれど、すぐにあの夢の世界だと気がついた。と同時に、何度目が覚めても夢の中から覚める事はない。という事は、これは現実なのではないだろうかと考え始めた。こんな素敵な世界が現実だと考えると、とても喜ばしい事のようには思うけれど、そんな都合の良い事が起きるだろうか。
桃色の可愛らしい部屋と可愛らしいパジャマは黒髪黒目の私にとってはアンバランスで似合っていないようにすら感じる。まるでこの部屋にいる事自体が違和感だ。だって、此処は私の部屋ではないから。正確には私の部屋だけれど、まだ自分の部屋だという認識がない。まだ昨日部屋になったばかりだから仕方がないのだろう。
「あさ……?」
ベッドに寝転んだまま窓の外を見てみるけれど、カーテンが閉まっている部屋はまだ薄暗く、光が差し込んでくる様子もない。恐らくまだ明け方前という所だろう。私は普段いつも早起きだから、この時間に起きる事は不思議ではない。むしろ夢の中、いや、現実だろうか。此処でもいつも通りに起きれた事に安心した。私は私のままであると感じた。いつも朝から私を起こす動物の鳴き声が聞こえないのは違和感があるけれど、それでもこの時間に起きれたという事は体に染み付いているという事だろう。ゆっくりとベッドから起き上がってみると、いつもより体がとても軽く感じる。体が小さくなった事と、こんなにふわふわなベッドで眠った事が影響してるのだろう。こんなふわふわのベッドで眠ったら嫌でもぐっすり眠れる。おかげで起きるまで夢を一切見ずに眠る事が出来た。
「よいしょ……」
踏み台を使い、ベッドから足を下ろすと、踏み台のすぐそこに可愛らしい桃色のスリッパが置かれている事に気づいた。サイズとかわいらしさからすると、これは恐らく私のもので間違いはないだろう。普段スリッパなんて履かない為、裸足でも全然気にならない。いや寧ろ裸足の方が好きなのだけれど、用意されているのだから、履いた方が良いと思う。スリッパを履いたまま洗面所があるだろう方向へ向かっていくけれど、昨日霙さんは1人でしないようにと言っていた気がする。それはキッチンの事だったか、お風呂の事だったか洗面所の事だったか忘れたけれど、勝手にするよりは待った方が間違いないと思う。一応場所だけ確認しておこうと思い、風呂場があるだろう方向へ向かっていく。きっとこちらにあると思う。
「あった……」
洗面所は風呂場へと続く扉を開けた所にあった。ちなみにこの扉も部屋に入る扉と同じように私サイズのドアノブが設置されていた。そして、トイレは風呂場や洗面所がある扉のすぐ横にある扉だった。キッチンなどは、扉はなく、部屋の端っこの方に設置されていた。アパートのようだ。アパートよりもはるかに広いけれど。これが私の部屋だなんて、すごく贅沢。部屋の探検をするのはすごく面白くて、スリッパを履いたまま部屋の中を歩き回ってみる。
多分キッチンは1人で使うなと言われていたと思うけれど、そんな事を言われなくても私の背ではキッチンに届かないから料理なんて出来ようもない。冷蔵庫は1人でも開ける事が出来そうだ。一番下の引き出しを開けてみると、レモンが一つだけ入っていた。きっと此処は野菜庫だろう。下から2番目の引きだしを開けてみたけれど、私の背では中身を見る事が出来なかった。考えた末、ベッドサイドに置いてあった踏み台を冷蔵庫まで持ってきて、それで覗き込んでみる事にした。しかし、中をのぞき込んで見ても何も入っている様子はなかった。そっと手を入れてみた所、とても冷たかった為、きっと此処は冷凍庫だろう。そして一番上の引き戸を開けてみると、中に入っていたのは昨日の夜、霙が入れてくれたレモン水が入ったボトルと、水が入ったボトルだけだった。ほとんど冷蔵庫の中に何も入っていないのは仕方がないだろう。何しろこの部屋は昨日、急遽作られたものだ。それに私はまだ小さい子どもらしい為、料理なんて出来るはずがない。きっと材料があったとしても、使う人がいないから入れるだけ無駄だと思ったのだろう。
「こっちは?」
冷蔵庫の隣に置いてある木の棚も覗いてみる事にした。引き出しの方にはスプーンやフォークが沢山入っていたが、上の方の引き戸にはコップが沢山入っていた。皿は少ししか入っていない。そして、スプーンやフォークも柔らかいプラスチックのようなもので出来ていた。しかもデザインがなんだか子どもらしい。この部屋を用意してくれた時間は、たった数時間のはずなのに、こんなに細かな所まで配慮してくれていたという心遣いが嬉しい。でも私の心は子どもではない為、少し複雑な気持ちもある。でも、傍から見たら私は完全な子どもだから、この心遣いは間違ってはいないのだけれど。
次はどこを覗こうかと思ったけれど、あとは特に気になる所もなかった為、もう一度布団の上に戻る事にした。私が大の字になっても、ベッドからはみ出る事がないほど大きなベッドだ。この部屋はなんだか面白い。もともと大人である聖女が来る事を予想されていたのか、基本的にどの家具も大きい。霙や白鴎が言っていたように、私は本当に小さいらしく、この部屋を用意してくれた人も大変だっただろう。さすがに数時間で小さい家具を作る事は難しかったかもしれないけれど、それでも小さい私でも生活が出来るような配慮がたくさん見られる。部屋中に広がるこの可愛らしい桃色もきっと私が好むだろうと思って用意してくれたのだろう。
何か出来る事があればと思ったが、掃除も洗濯もしなくても良いとの事だったので、この時間を何に使えば良いか分からない。
取り敢えず、布団の上でゴロゴロとしてみるけれど、こんなふわふわな布団でゆっくりするなんて、久しぶりだからどう過ごして良いか分からない。
「あ、そうだ」
確か此処の引き出しに、と思い引き出しを漁る。昨日霙が出してくれた絵本を見つけた。昨日は途中まで『かぐや姫』を読んだ為、今日は『かぐや姫』の途中からと、『白雪姫』を読もうか。けれど、絵本を手に取ろうとして、ふと気づく。これは私が勝手に触っても良いものだろうか。私の為に用意をしてくれていたものかもしれないけれど、霙のものだ。暇だから読みたいと思ったけれど、勝手に選んではいけないものならば、やはりそっとしておくのが良いかもしれない。だが、やはり霙さんはそんな事で怒るような人ではないと思う。読むか読まないか。すごく迷いながら、布団の上に3冊の本を並べてみる。思わずその絵本の前に正座をして考え込んでみる。読むか読まないか。読んでも良いものか。迷いながらも恐る恐るかぐや姫を手に取り、読んでみる。昨日途中まで読んでもらったけれど、睡魔が襲ってきており実はあまりよく覚えてない。途中まで読んでもらっていた記憶はあるけれど、最初から読んでみる。昨日読んでもらってる時に思っていたけれども、此処で使われている絵本の文字は全部日本語だ。この世界の文字が日本語を使っているのかもしれないし、この本は以前来た聖女様が書いたものだから、日本語が使われているだけかもしれない。けれど、どちらにしろ今このお陰で私は1人で絵本を読む事が出来ている。
思わず夢中になって本を読んでしまっていた。『かぐや姫』を読み終わった私は、気が付けば2冊目の『白雪姫』を読んでいた。だからこそ、ノックの音にも、2人が入ってきた事にも気が付かなかった。
「おはよう」
「?!」
思わず飛び起きてしまった。気が付けば、私は寝転んで絵本を読んでしまっていたのだ。最初は座って読んでいたはずなのに。行儀が悪かったのだろうか。
「お、おはよう、ございます……」
そろりそろりと寝転んだ体勢から正座に戻る。目線をすーっと逸らす。怒られはしないとは思うけれど、少し反応が怖い。呆れられたりしないだろうか。チラリと白鴎と霙を見てみると2人はなんだか笑っていた。
「怒って、ないですか?」
「全く。寧ろ、用意していた本に興味を持ってくれていて嬉しい」
「そうそう。」
良かった。やはり怒ってない。
「あのね、これ。面白かったです」
霙さんに『かぐや姫』と『白雪姫』を見せる。
「そうか。気に入ってくれたなら良かった。それにしても、小さいのに文字がもう読めるんだな」
そういえばそうだ。小さい年齢だと文字が読めるのは変だろうか。元々は15歳である為、文字が読めるのは普通だったけれど、今の私は一、二歳児の見た目だ。
「勉強したから」
私は此処で嘘か本当かもよく分からない言葉を言ってみる。勉強したと言えばしたし、してないと言えばしてない。
「この年で勉強したのか。勉強熱心だな」
納得してくれたのだろうか。霙が傍に来て、絵本を片付けてくれる。けれども、その絵本を片付けながら、霙が発した言葉に私は少し驚いてしまった。
「自分で本が読めるのなら、絵本の読み聞かせなんていらなかったな」
「え?」
驚いたというより、少なからずショックだったのかもしれない。私は確かに読んでもらわなくても、絵本はよめる。けれども読んでもらうというのはそれだけで特別感がある。私は今まで絵本を読んでもらうという経験が滅多になかった。
「あの……」
これからも沢山読んでほしい。そう言おうと思ったけれど、絵本の読み聞かせというのは面倒なものではないのだろうか。私だって何度も何度も絵本を読むのは大変だ。それに、ふと、自分の精神年齢を思い出した。
「何でもないです」
そんな事よりも、もう朝だ。すっかり絵本に夢中になってしまった。
「それじゃあ、まずは」
白鴎がそう言って私を抱き上げた。白鴎は初めて私を抱き上げたけれど霙とは違う。だけどとても優しい。やはり暴れたら落とされてしまうだろうか。本当は自分で歩きたいけれど、我儘を言うのは良くないかもしれない。
わざわざ部屋から出て何処に行くのだろうか。確かこっちが霙の部屋でこっちが白鴎の部屋だ。それだけは覚えている。風呂の場所も本当は覚えていないけれど、きっとこれから何度も行く場所だから覚えるだろう。風呂も1人で入りたいのだけれど。どうやったら自分の風呂に1人で入れるだろうか。私の身長を伸ばすのが一番の方法だけど、身長は直ぐに伸びるものではない。
私を抱き上げた白鴎の後ろに、霙が付いてくる。
「どこに行くんですか?」
「ん? んー、」
白鴎は私の質問を有耶無耶にしたまま、答えてくれない。答えないという事は聞かない方が良い質問という事だろうか。霙の方も見てみるけれど、霙も目を逸らして全くこちらを見てくれない。一体どこに行くのか気になるけど、聞いてはいけないような気がする。
それよりも私は起きたままの格好、つまりパジャマのままだ。こんな格好でも良いのだろうか。誰ともすれ違わないのだったら別に良いのだろうけれど。私は今は大人ではないし、パジャマでいたとしても問題はないと思う。霙も白鴎も全く怒らない。それを良い事に白鴎に抱き上げられたまま足を前後に揺らしてみる。
そういえば、靴も履いていなかったのだなとその時に思う。足を揺らして、時折右足と左足が当たるとパチンと音がする。やはり此処は寒い。靴や靴下を履いていなかった事もあり、足と足が当たると真っ赤になりそうだ。
「此処だ。」
「ここ?」
白鴎と霙が部屋の前に立つ。やはりこの部屋のドアも他の色と同じように真っ白だ。けれど、よく見るとドアの中心辺りにあるプレートに文字が書いてある。知らない文字のはずなのに、ゆっくりならば読める。日本語ではないけれど、不思議と文字が読める。やはりあの絵本が特別だっただけで、この世界にはこの世界の文字があるようだ。
「い、む……、しつ?」
私が読めた事で此処が何の部屋か分かる。嫌な予感をひしひしと感じながらも、
「ここで、何をするんですか?」
と聞いてみる。
「健康診断だね」
それを聞いた途端、私は白鴎の腕の中から逃げ出した。
私は自分自身がこのように行動的だなんて思ってもいなかった。本当に自分でも驚いたが今は何より見つからない事が大切だ。
「医務室」「病院」「診断」「検査」「治療」
それらの言葉が苦い記憶を刺激する。実体験と印象に基づくそれは必ず避けて通らなければならないものだ。
そこまで考えて、一層恐ろしい考えに支配される。
彼らの庇護がなければ生きていく事さえ難しいこの世界で、彼らを刺激する恐ろしさを。
背中に冷たいものが走る。
だからといって自分から表に出る事も私の経験上憚られる。
見つからないように出来る限り小さくなる。けれども、白い世界で私の黒は異常だ。この白い空間で自分の黒が見つかってしまわないように、着ているパジャマを頭まで持ち上げてみる。傍から見たら物凄く格好悪いけれども、そのような事を気にしてはいられない。今は見つからない事が大事だ。
狭い場所で膝を抱え、必死に見つからないように隠れる。近くで足音が響くたびに息が止まりそうになりがらも声を殺す。震える手が、壁に当たり音が漏れそうになるが、手を握りしめて見ない振りをする。
こういうかくれんぼは慣れている。きっと見つからない。
「いたか?」
「いや、いない」
とうとうこの部屋の中まで入ってくる足跡と声が聞こえた。
霙と白鴎が私を探している声がするけれど、決して出ていく訳にはいかない。どれくらいここで篭れるだろうか。夜まで隠れきれば、健康診断などしなくても良くなるだろうから。絶対に行きたくない。
「ここか?」
霙の静かな声が先ほどよりも大きくなる。私が今いる場所は自身の部屋の風呂場である。今まで一人では足を踏み入れた事が無いからこそ、気付かれないと感じて隠れた。なにより、私の小さな世界では、知っている場所や入れる場所など限られている。
私はベッドの横に置いていた踏み台を持って風呂場まで来た。そしてその踏み台を浴槽の側に置き、その踏み台を使って浴槽の中に入っていた。私がここにいるという証拠を隠すためには、その踏み台もどこかに持っていくべきなのだろうけど、そんな余裕も方法もなかった。
見つかりたくない。その思いを胸に声を必死に押し殺し、気配を消す。
「いた」
「……っ!」
声が聞こえて思わず上を向いて見ると呆れた顔をした霙と白鴎が私を見下ろしていた。
「ほら、いくぞ」
こちらに差し出される手さえ、とても冷たく鋭いものに見える。霙が私のパジャマを元に戻してから私の脇を掴んで持ち上げようとする。
「い、いやっ!」
必死に浴槽の縁にしがみつき抱き上げられないよう抵抗する。けれども子どもの力と掴みにくい浴槽の縁では成す術もなく足が宙に浮く。呼吸が浅くなり、次々と零れる涙が頬を濡らしていく。
「やだっ!」
行きたくない。怖い。
思い出すだけで嫌な思い出が増えていく。
病院や医者は嫌い。無理矢理連れていく人も嫌い。
「我儘を言うな」
「や、」
いやだ。
そう言おうとして改めて気づく。ここには、縋れるものが何も無い。
昔なら大好きなものに縋れたがここには私のものは何も無い。我儘。そう言われて気づいた。そうだ。これは我儘だ。
「……」
ここには、私しかいない。分かりきっていた事だ。今も昔も変わらない。私がここで知ってるのは、霙と白鴎だけ。その二人に、見放されたら。
2人の話を聞かなければ私は生きていけない。この世界で頼れるのは2人しかいない。大丈夫。痛くても生きていける。近くにいた霙に手を伸ばせば、霙は先程の呆れた表情とはうって変わって痛ましい顔をしていた。その表情の理由を理解できないまま、私は足を宙に浮かせた。霙に抱き上げられた事で白鴎の顔とも距離が近くなり、白鴎の表情を視界に入れる。霙と同じような表情をしていた。何故そのような顔をしているのだろう。
そして、私は、どのような表情をしているのだろう。
「大丈夫」
泣きそうな声で白鴎がそう言った。何度も何度も、その言葉を繰り返した。私の両目から流れる涙を2人はぬぐってくれた。
「すまない。そこまで医者が怖いとは思わなかった。だが、私達では聖女様が健康か分からない。……医者でないと分からない。」
「痛い事をするつもりはないんだよ」
「……?」
今、白鴎の口から驚くべき言葉が聞こえた。私の常識を覆す言葉だ。
「痛くない?」
「ああ」
「絶対に」
痛くない。その言葉を複数回口の中で唱える。医者とは怖い目で怖い事をしてくるという印象だった。それは、私の中の常識で。
「怖いのと、痛いのはない?」
「ない」
ない、のか。ならば。
「がん、ばる」
恐怖は全く消えていない。指先が冷えたままだ。これが、彼らが私を騙そうとする言葉だったとしても、私は驚かない。私が了承の返事を返すと、霙はほっとした顔をして歩き出した。
怖い事は嫌いだ、ずっとずっとそうだった。
痛い事も嫌い。ずっとずっとそうだった。
私はずっとずっと我慢してきた。此処でも一緒だ。だけど、少しだけ感じた。此処は向こうとは少し。ほんの少しだけ、違うのかもしれない。
「…………」
再びあの医務室へと辿り着いた。医務室と書かれている扉の前に3人で立つ。本当はとても嫌だけれど、出来る事ならば今に出も逃げ出しそうなほど意識は長い廊下に向かっているけれど、痛くないと言っていたから。霙がゆっくりと扉を開ける姿を見て、まるで地獄の門を開けるようだと感じた。
「…………っ」
この医務室独特の匂いが鼻につく。嫌な思い出が蘇る。近くに白鴎がいた為、白鴎の足に力を込めて縋る。部屋に入った瞬間、中に人影が見えた。霙と白鴎と同じ白髪に金の瞳。引き込まれそうな金に見てしまうと、目が合ってしまうと逃げられない。今まで見た、どんな人より鋭い瞳が恐ろしくて、
「こんにちは」
優しかった。
彼が医者だろう。白衣を着ている姿が見えてしまった。この挨拶は私に向かってしてくれている。優し声が彼は怖い人ではないのかもしれないという感情と、余計に恐ろしいという感情をせめぎ合わせる。
「こん、に……ちは」
「おや。挨拶が出来て良い子ですね」
まさか、挨拶をしただけで褒められるとは思ってもいなかった。私は声を出しただけで白鴎の後ろからは一切出てない。それでも褒めてくれるのか。
「僕はお医者さんの績です」
「…………」
だからといって、白鴎の足の後ろから出ていけるかと聞かれれば、それはまた別問題だ。績は優しそうな目をしているけれど、優しそうな目をした人ほど怖い本性が隠れているものだ。
「お顔を見せてくれませんか?」
白鴎が私の背中にそっと手を添えてくれるけれど、それでも私の勇気は出ない。我儘は良くないと分かっているのだけれど、それでも染み付いた恐怖は簡単には拭えない。
「い、」
「はい?」
口を開きかけて閉じた私を不思議に思ったのか、績が静かに言葉を待ってくれている気配がする。
「いたいの、ない?」
霙と白鴎から痛い事や怖い事はないと聞いていたけれど、それでも不安だ。2人からすれば痛くないけれど、私からすると痛いかもしれない。だからこそ、医者に聞くのが一番だ。
私は痛い事も怖い事も慣れているはずだった。泣かずに耐えられるはずだった。
だが、今はどうしても耐えられそうにもない。それはこの体が小さくなってしまったからだろうか。体だけでなく心まで幼くなってしまったのだろうか。私は私のはずなのに、まるで私ではないように感じる。別人になったように感じるのならば、私から痛みや恐怖などが消えてくれれば良いのに。そうすれば、こんなにも怯える事もない。
足元の床が無くなる幻覚に襲われながらも白鴎の足に縋る。いっその事私から痛みや恐怖などが消えてくれればいいのに。そうすれば、このように怯える事もない。染み付いた恐怖が記憶から消えてなくなればいいのに。
「痛い事はありませんよ」
績は再び優しく、でも、力強い声ではっきりとそう言った。
「ほんと?」
「ええ」
完全に信頼した訳ではないけれど、痛い事がないと医者が言うのだから、恐る恐る白鴎の後ろから、績を見てみる。
「おやおや、目が真っ赤ではありませんか」
私の視界にはっきりと映り込んできた績はやはり白鴎と霙と同じ容姿をしていた。私達日本人が黒瞳黒髪で生まれる人が多いように、この世界では白髪金眼が多いのかもしれない。績が私の方に手を伸ばそうとするけれど、恐ろしさから固く目を瞑り、もう一度白鴎の後ろに隠れる。
「ふふ、白鴎は懐かれていますね」
私が隠れても績は全く嫌な顔をする気配がない。寧ろ、感心したように笑っている。
「聖女様。霙と白鴎の事が好きですか?」
績は私にそう聞く。霙も白鴎も昨日会ったばかりで、まだ2人の事は全く知らない。けれども、私がこの世界で頼る事が出来るのは2人しかいない。だから、此処は敢えて頷く。でもそっとこれは全くの嘘のつもりはない。2人はとても優しい。決して嫌いにはなれない。
私の返答に績も微笑んで頷く。そしてその足で何処かに行ったと思えば。
「これをどうぞ」
そう言ってベージュ色のくまのぬいぐるみを差し出した。ふわふわで可愛らしくて、私には似合わない。こんな素敵なものを貰っても良いのだろうか。白鴎に抱きついたまま視線を上に向けて目で問いかけてみる。白鴎は私の方を見ながら頷き微笑んだ。これは貰っても良いという顔だろう。白鴎の後ろから出て績が持っているぬいぐるみに手を伸ばす。
「くまさん、好きですか?」
「……うん、ふわふわ。すき」
触ってみれば、予想を超える柔らかさに喜びを感じる。
「ふわふわ……」
可愛い。このような可愛いものをくれるなど、医者とは大変なのだと医者について分かった新たな知識を頭に入れる。これが医者の常識ではなかったとしたら、績は優しすぎる。医者とは体を見てくれる人ではあるけれど、このような可愛いぬいぐるみをくれるような人では無いはずだ。
「聖女様はお医者さんが怖いかもしれませんが、このぬいぐるみと一緒に頑張ってみませんか? 痛い事は何もありませんので」
「……」
痛い事は何も無い。再び伝えられたそれに唾をのみ込む。それが信用できるのかは分からないけれど、今は可愛いぬいぐるみを抱きしめていれば多少の痛みは耐えられそうな気がする。
痛い事があっても今度こそ逃げられない。けれども、この世界にいる限り、私には逃げる選択肢なんて残されていない。状況を理解し、こくりと、ひとつ頷く。
績だけでなく、霙と白鴎もほっとしたようにため息を零した。
医者は嫌い。けれど、績は私に選ばせてくれた。
「では、最初は、身長体重などを測らせてくださいね」
最初から痛い事が待ち受けてると思っていた為、この言葉に驚く。奥の方から、績が体重や身長を測る機械を持ってくる。その姿形は日本で見るようなものと全く同じで、確かにこれならば痛いと感じる事はないだろう。
「さぁ、此処に乗ってみてください」
績が最初に指さした方に乗ると少しひんやりはしたけれど、身長も体重も無事に測る事が出来た。ついでに胸囲も測られた。
「さあ、お口を開けてください。喉の奥を見ますね」
「はぁい」
績が私の喉の奥にぐっと棒を突っ込む。それをされると気持ちが悪くて変な声が出そうになった。績が「あーって声出してみてください」と言った為吐き気を耐えながら「あー」と声を出してみると、「可愛い声ですね」と褒められた。
「じゃあ次は心臓の音を聞きますね」
「はぁい」
これも知っている。心臓の音を聞く聴診器というやつだ。これはなんだかひんやりしていてくすぐったかった。
「それでは、次に少し血液をいただきますね。」
「血液……?」
血液という言葉に若干の気味の悪さを感じつつ、声を潜めた。じりじりと、績から離れるべく後ろに後ずさり、ぬいぐるみの毛を握りつぶす。そんな私を見つけた績は、少し苦笑いをしながら、正面へ向き直る。
「お約束したでしょう? 痛い事はしませんので大丈夫ですよ」
そういえばそのような事を言っていた。績の事を完全に信頼している訳ではない。嘘はつかない人だという確証もない。けれども人を見る目はあると拳を握る。
「血液、どうやってとるの?」
「これで取りますよ」
績が出したのは、日本でもよく見られた注射針だ。
「……」
思わず期待していた私の感情が、地の底まで下がっていくのを感じた。これは間違いなく痛いだろう。注射針を使って血液をとるのに、痛くないなどという事が起きるはずもない。思わず腕の中にいるぬいぐるみを抱きしめ後ろに後ずさりをする。
「大丈夫ですよ、絶対に痛くありませんから」
これに関しては本当に績を信じられない。
「頑張ったら美味しいご飯を食べましょうね」
「!」
脅しのような卑怯ささえ感じる一言に唇を噛みしめる。果たして績の言葉にそこまでの意図があったのかは分からないが、私の心には十分に突き刺さった。
また、あの美味しいニンジンが食べたい。頑張らなければ、いつまでもご飯が貰えない。逃げたら逃げただけご飯が食べられない。
逃げたいという気持ちと一種の諦めが、脳内で衝突を繰り返す。
そのうちやらなければならないって事ならば、早めにやってしまった方がよいだろう。
「み、」
「はい?」
このような事をお願いしても良いのか分からないけれど。注射針から目が離せないまま、そっと口を開く。
「霙さんがぎゅって抱き締めて、白鴎さんが手を握ってくれているなら、…………頑張ります
絞り出したその一言に思わず涙目になってしまうのは仕方がない。大っ嫌いな注射針を刺さなければならないのだから。
「私は構わない」
「俺もだよ。聖女様の可愛いおねだりだからね」
霙と白鴎は早速私が望んだように抱きしめて手を握ってくれた。
出来る事ならばもう少し心の準備をしたいのだが、そうもいかないだろう。私の心情とは別に、績は私の左手を取った。
「はい、それじゃいきますよ」
「……」
恐怖から白鴎の手を握る私の手とぬいぐるみを抱きしめる腕が震えるけれど、績は待ってくれない。これを恐怖と言わず、なんと言うのだろうか。
そして何より恐怖を掻き立てるのが、績は「いきますよ」と言っているにも関わらず、一向に始める気配が無い。目を強く閉じ、研ぎ澄ませたくもない神経に意識を集中させる。
思わず涙目になっていた瞳からぽろぽろとこぼれてしまう。
「……っ、ひぅ」
嗚咽がこぼれ落ちようとも、霙が私を抱きしめる腕と白鴎が私の手を握る力は緩む事がない。そして、私の左手に添えられた績の手もなかなか離れる事はないし、注射を打ち始める様子もない。霙がしっかりと私を抱きしめているから、私は針の方を見る事も出来ない。見たくもない為、霙の胸にしっかりと顔をうずめる。一体いつまで耐えなければいけないのだろうか。
もしかしたら績は今、血液をとる準備をしているのだろうか。それならばそうと言ってほしい。「いきますよ」と言ったのだから来て欲しい。本当は来て欲しくないけれど、怖い時間が続く方が嫌だ。若干の腕の違和感に呼吸が浅くなり、ぬいぐるみを握る力が強くなる。
針が抜かれてもしばらく、自分の腕を見る事ができなかった。
くまのぬいぐるみを抱く指先にだけ、まだ強く力が入っている。痛みが遅れて来るのではないかと身構えていたけれど、思っていたような鋭さは、どこにも訪れなかった。
「終わりましたよ」
績の言葉に私から手を離した。
「おわっ、た?」
恐る恐るそう尋ねると、績は小さく笑って頷いた。
「ええ。よく頑張りましたね」
頑張った、という言葉が何に対して向けられたものなのか、一瞬よく分からなかった。喚かなかった事だろうか。それとも逃げずにここにいた事だろうか。褒められるような事をした覚えは無い。ただ、言われた通りにしただけだ。
それでも、誰も次の痛みを用意する様子がない事に少しだけ肩の力が抜けた。白衣の袖が動くたびに身構えていた身体も、漸く呼吸の仕方を思い出していく。ふわふわのくまを胸元へ寄せると、その柔らかさだけが妙に現実味を持っていた。こんなものを抱いたまま医務室にいる自分が、少しだけ不思議だった。
「聖女様、えらかったね」
白鴎の声が頭上から降ってきて、次の瞬間、また身体が軽く浮いた。抱き上げられたのだと気づいても、今度は先程ほど抵抗する気になれなかった。
逃げようと思えばまだ逃げられるかもしれない。そう思ったのに、腕の中のくまを落とさないよう抱え直す事の方が先だった。
思わず自分の左手を腕を見てみると、そこには小さなテープが貼られていた。
「これは?」
「ここから血液を取ったので、血が出てしまわないように、テープを貼ってるのですよ。」
「血液を取った?」
「ええ」
呆然と眺める目に力が入らない。
「ね。痛く無かったでしょう?」
績の言葉にゆっくりと一度首を縦に振る。驚く事に多少の違和感はあったが、本当に痛くはなかった。これは績が上手だからだろうか。どちらにせよ、私にとっては嬉しい誤算だ。
「あのね、全然痛くなかったの」
「それは績が医者として優秀だからな」
今後績以外の医者の診察を受ける事に抵抗感を抱きつつも、績に視線を向ける。ぬいぐるみを返そうとして少し、迷う。
誰も怒らなかった。逃げても、泣いても、叫んでも。
そう思えば、多少の我儘は許される気がした。
「……これ、持ってていい?」
ぬいぐるみの耳を撫でる。
「勿論」
績は柔らかく笑い、「聖女様に差し上げたつもりでした」と言う。
こんなものを貰ったのは、いつぶりだっただろう。
「それでは、結果が出るまでご飯でも食べてらっしゃい。もうすぐお昼ですからね」
績の言葉に、体に住む虫が悲鳴を上げた気がした。
医務室を出る時、思わず一度だけ後ろを振り返る。白い部屋も、白衣も、薬の匂いも、やはり好きにはなれそうになかった。けれど。
「……ほんとうに、いたくなかった」
誰に聞かせるでもなく零れた声に、前を歩く霙の肩がほんの僅かに揺れた。
医務室を離れてもしばらく、刺された腕だけは妙に意識の中に残っていた。痛みというほどではない。ただ、そこだけが薄く脈打っているようで、何度か袖の上から指先で確かめてしまう。
けれど、廊下を進むにつれて漂ってきた温かな匂いに、少しずつそちらへ意識が引かれていく。胸元には、医務室で渡されたくまのぬいぐるみがある。返す機会を失っただけだ、と自分に言い聞かせながらも、手放してしまうと何か落ち着かない気がして、結局そのまま抱えた。
「お腹、空いただろう」
霙の声に、漸く昼である事を思い出した。
食堂に入ると、昨日よりははるかに少ないような食事が用意されていた。安心した。昨日と同じ量を出されたら絶対食べきれない。それでも今日用意されていたものは遥かに私の食事量よりは多いけれど、種類も少なくなっているから、選びやすい。あの場で言われた「終わったら美味しいもの」という言葉を、半分ほどしか信じていなかった自分に気づいて、少しだけ視線を伏せる。
「……ほんとうに、ごはんでた」
思わず零れた声に、霙が一瞬だけ目を細めた。
「嘘はつかない」
短い返事だった。けれどその言葉は、不思議と医務室で聞いたどの慰めよりも静かに胸へ残った。
席に座り匙を持つ。
一口目は熱く、すぐには飲み込めなかった。口の中に広がる温度に戸惑って、しばらくそのまま止まる。
食べてよいものなのか、まだ少しだけ迷っている自分がいる。
誰も取り上げない。
急かしもしない。
その事実を確かめるように、もう一口だけ運ぶ。
「……おいしい」
言った後で、自分の声が思ったより掠れていた事に気づいた。霙は何も返さなかったが、盆を置く手がほんの少しだけ緩んだ。
器の底が見える頃には、腕の熱もほとんど気にならなくなっていた。代わりに、窓の外がわずかに白ずんでいる事に気づく。窓の隙間から差し込む光はまだ淡く、色までは分からない。
その頃にもまだ、自分はここにいるのだろうか。
食べ終わったスープの器を端に寄せ、サラダの入ったボウルを近くに寄せると、青菜の影に紛れていた橙色の欠片が見えた。
「ニンジンだ……」
口の中で確かめるように呟く。その一片だけを先に口へ運ぶと、ほろりと崩れて、わずかな甘みが舌に残った。昨日食べた中で一番美味しかった。ドレッシングが付いていても、ついていなくても、あんなに甘くて美味しい野菜は他にないと思う。きっと料理を作ってくれた人が私が昨日ニンジンを沢山食べていたのを見て、今日も出してくれたのだろう。昨日よりは少し柔らかいけれど、それでも甘味は全然失われていなくて、とても美味しい。
「本当にニンジンが好きなんだな」
好き、と言ってよいものか分からない。けれど否定する理由も見つからず、小さく頷いた。
「……たぶん」
昨日と同じく曖昧な返事になった。
「明日は少し多めに入れてもらおう」
その言葉に、手が止まった。明日。当然のように明日を口にされる事に、まだ慣れない。
けれども胸元のくまを抱え直した指先は、さっきより少しだけ力が抜けていた。
それからは、おにぎりを1つと卵焼きを1つを食べてご馳走様をした。これで十分お腹いっぱいだ。
「もういいの?」
「うん、お腹いっぱいです」
ぽっこりと膨らんでる腹部を見て自身で軽蔑した。これ以上食べたならば腹痛を訴える事になるだろう。
「そっか、やっぱり少食だね」
「だな」
などと言っているけれど、これを少食という2人は一体どのような胃袋をしているのだろうか。
ご飯を食べた後に医務室の方に向かっていたけれども、ぼんやりと視界が滲んで、廊下の花がやけに近く見える。もう少しで着くというのに、まぶたが重かった。眠い、と自覚するより先に首が小さく落ちる。慌てて持ち直そうとしても、今度は足の力まで抜けてしまった。その途中でふらふらとしてしまって、気がつけば、霙の足に頭をぶつけていた。けれど、霙は予測していたようで、私が倒れ込んできてもなんなく受け止めた。
「……眠いのか」
遠くで声がした気がした。廊下を歩く靴が一段と大きな音を立てた。けれど返事をする前に意識がゆっくり沈んでいった。気づかれないように霙の袖を少しだけ掴んだ。
ほんの少しの腕の違和感に目が覚めた時、視界に映ったのは朝に目が覚めたような私の部屋ではなく、真っ白なレースのカーテンが引かれたベッドだった。
「?」
ここは一体どこだろうか。鼻の奥に残る、少しだけ薬品の匂い。嗅ぎ覚えのある匂いがするけれど、見覚えのある景色ではない。寝かされているのは、医務室の簡易な寝台だった。薄い毛布が胸元まで掛けられている。
「霙、さん、はくおーさん……」
1人でいる事は心細い。今までは誰かが傍にいたり、知ってる場所だった。でも今は誰もそばにいない。起き上がってキョロキョロと見回してみると、視界にベージュ色のくまが映った。知ってるものが近くにある事に安心した。そのクマをぎゅっと抱きしめると落ち着いてきた。このクマがここにあるという事は、きっと霙が私をここに連れてきてくれたのだろう。
「目を覚ましましたか」
ベッドのカーテンを開けて入ってきたのは績だった。
「おはよぉ、ございます」
「はい、おはようございます。ちゃんと挨拶ができてえらいですね」
また、挨拶をしただけで褒められてしまった。自分でも驚く事に、績の顔を見て安心している自分がいた。
「ごめんなさい、寝ちゃって……」
意図せず眠ってしまった事への謝罪を伝えれば、「疲労がでたのでしょう」と首を振られる。
この世界で信用出来るのは、霙と白鴎だけだと思っていたけれど、績の事も少しは信頼してよいのだと感じる事ができた。この短時間で私が信頼に値する人間が3人も増えるなんて自分でも驚きだ。彼らは何か特別なものを持っているのだろうか。
「霙と白鴎もこちらに居ますから、一緒にいらっしゃい」
こくりと1つ頷いてから、績が差し伸べてくれた手を取り、ベッドから降りて霙と白鴎の元に一緒に向かっていく。どうやら私が今寝ていた所は医務室の隣の部屋のベッドだったらしい。
「霙さん、白鴎さん!」
いくら績の傍に安全性を見出し始めたからといって、私が最初に出会った霙と、霙と同じくらい一緒に居てくれた白鴎と離れるのは少なからず不安だったようだ。霙と白鴎の姿を見ると、驚く事に思わず駆け出してしまった。
けれども、いきなり抱きつく勇気はなくて、目の前で止まる。そうすれば2人は頭をゆっくり撫でてくれた。
私がソファに座った所で績は話を始めた。
「まず、大きな病気はありません」
その言葉に私だけでなく、霙や白鴎も息を吐く。安心という感情が最も近い。けれども績の言葉を脳裏で反芻した時、「大きな病気」という言葉が引っかかった。
「大きな病気ではないものは?」
霙も私と同じ所が引っかかったのか、績に問いかける。
績は胸元を抑える私と、霙、白鴎を交互に眺めながら、私が予想していた答えとは別の問いを返した。
「聖女様は今何歳でしたか?」
「えっ? えっと、15歳です」
「そう、ですか」
績は少し考えながら呟いたけれど、それがどういった意図を持っているのかわからない。私が15歳と言った事を疑われているのだろうか。この姿形を見れば更に幼く思われても仕方がない。
「自分の歳が分かっていて偉いですね」
先ほどの表情とはうって変わる。実年齢は15歳である為、覚えていて当たり前だけれど、褒められた事に悪い気はしない。績は私の頬に手を伸ばしてきた。思わず肩が強張る。けれど手が止まった先が頭だと分かって、そっと力を抜いた。そして優しい手つきで私の頭をゆっくりと撫でてくれた。なんだか頭がムズムズするような不思議な感覚だった。
「夜、眠れていますか?」
その言葉は疑問形になってはいるものの、確信をついた物言いだった。責めるような響きはないのに、なぜか視線を逸らしたくなる。昨日はよく眠る事が出来たように思うが、今までを思えば素直に頷く事は難しいように思える。
夜は長く、日が出る朝はあっという間に思える。そういうものだと、知っているから。疲れた日はよく眠れる事も知っている。
「ね、むれて、ますよ」
結局目線を逸らしながら績にそう答える。績はそれ以上追求せず、手元の紙に視線を移した。
「年齢の割には身長と体重が少し見合っていませんね」
遠回しに体重が軽いと言われているのだろうか。15歳の女の子としては体重が軽いと言われても嬉しいだけなのだが。けれども、医者の績が言うのだから、決して褒められた事ではないのだろう。
自分の腕を見つめる。男性であり、身長が全く違う績と比べるのは違うとは思うが、手首は確かに細い。これが当然と思っていたが、そうでないという事を考えた事がなかった。
「ここのご飯は食べられそうですか?」
昨日と先程の食事を思い出してみる。ここの食事は以前の聖女様が伝えてくれたのか、日本で食べられているような食事が出てきている。なかには私が食べた事がないようなものもあったけれど、日本で食べられているものであるから、きっと私の口にも合わない事はないだろう。そう思ったので迷わず首を縦に振る。
「そうですか。それは良かった」
安心したようにそっと息を吐く績。
「しばらくは少しずつ食べる量を増やしましょう。一度に無理をすると、かえって具合が悪くなりますから」
食事の量が足りていないと言いたいのだろう。私は満腹になるまで食べているつもりだが、まだまだ食べたほうが良いという事か。
美味しい物を沢山食べられるようになるのは楽しみだ。一番美味しいのはニンジンだけれどね。
「……ニンジンも、ですか」
少しずつと言う言葉を聞いて、ニンジンを沢山食べる事は叶わないのかと思い問いかける。
績が一瞬だけ目を瞬く。それから、薄く笑った。
「ええ。ニンジンもです」
白い部屋の中で、その返事だけが妙に柔らかく聞こえた。
「先程、霙達に言いましたが、血液検査の結果、問題はなかったので、今はご飯をしっかり食べてよく眠ってくださいね」
「はい」
次の瞬間、績は紙の一番下へ視線を落とす。
「それと、もう1つ」
その声音だけが少しだけ変わる。まだ終わりではない事にどきりと心臓が音を立てる。
「少し、気になる数値があります」
異常を、訴えられるのだろうか。
私が腕の中にいるぬいぐるみを抱きしめた所で、績が言い淀む。
「採血の結果には、これといった問題ありません。ただ――」
績の言葉がそこで止まった。
「回復が少し、遅いですね」
意味が分からず、瞬きをしてその言葉を繰り返す。
「本来なら、もう少し脈が安定していても良い頃です」
脈と言われても、何が違うのか分からない。
「無理を続けると、倒れやすいかもしれません」
そう言われて、漸く、何となくではあるが意味を理解する。績の声はひどく穏やかだったのだが、どこか冷たく感じた。
「もう1つ、不思議なのは」
二枚目の紙を捲り、そこを注視する。
「この程度の疲労で、ここまで数値が乱れる人は珍しい……」
小さな声で呟く績はいつになく真剣な表情で私の不安を煽る。
「……績、さん?」
私の声にハッとして笑顔をとりつくる。
「いえ、なんでもありません。診断はもう大丈夫ですよ」
績にここまで言われてやっと安心する。終わったのだと思えば全身の力が抜けていく。であるならば一刻も早くここを立ち去りたい。医務室は怖いものが沢山あるから。この独特の匂いも苦手だ。この部屋はどうやったって、好きになれない。
績は紙を閉じたまま、少しだけ窓の方へ視線を向けた。窓から差し込む光はまだ白く淡い。
「……今日は、早く休んだ方が良いでしょう」
静かな声だった。けれども、そのあとに続いた一言だけがわずかに引っかかる。
「月が、欠け始めますから」
なぜそこで月が出てくるのか分からず、顔を上げる。
「体調を崩す人が時々いるんです。特に、疲れている日は」
それだけ言って、手に持っていた紙を机の上の紙と合わせ、揃え始めた。体調と月が結びつかないまま、窓の向こうへ目を向けた。まだ昼の明るさは残っている。それでも、昨日は月が丸かったと、記憶を蘇らす。
「じゃあ、部屋に戻るか」
霙の言葉に首を縦に振る。
「つむぐさん、ありがと、ございました」
績のお陰で血液とるのも怖かったけれど痛くはなかった。
「また来てくださいね」
「…………つむぐさんに、会いに来ます」
「ええ、是非そうしてください」
遠回しに医務室には来たくないと言うけれど、績的にはそれで満足みたいだ。何故此処にぬいぐるみがあったのかは分からないが、貰えるものは貰っておこう。私以外の小さい子ども用のものかもしれないけれど。
「何かあれば呼んでください。明日は……、少し様子を見ます」
明日。またその言葉が胸に残る。明日があるように言われるたび、まだ少しだけ不思議だった。
部屋に戻ると、やっと帰ってこられたのだと力が抜けた。ベッドに飛び込みたい気持ちを抑えつつも、霙と白鴎がいる為、ソファに座る。私が座ると霙と白鴎も向かいのソファに座った。まだ何か用事があるのだろうかと思案するが、正直今日はもう何もしたくない。
「今日はこれから聖女様の採寸を……、と思ったのだが、今日は辞めておこうか」
冒頭を聞いて思わず顔を顰めてしまいそうになったが、直ぐに表情を元に戻す。績からも休むように言葉を貰った訳でもあるし。
「風呂に入るぞ」
「はぁい」
返事をして、自分専用の風呂に向かっていく。
「こら。違うでしょ」
「あう……」
白鴎に抱き上げられ、止められてしまった。今日こそ1人で風呂に入れると思ったのに。1人は危ないと分かっているけれど、気持ちと行動は別物だ。私は1人で入りたい気持ちを訴えると、「せめて俺たちの胸あたりまで身長が伸びたらね」と言われた。
それは一体何年後になるのだろうか。自身の成長に疑問を残す。
僅かな羞恥心を残しながらも心休まる空間に息を漏らした。
「そろそろ寝る時間だ。」
「はぁい」
白鴎は風呂を堪能しているようで、今日もここにはいない。昨日のように挨拶をしたかったけれど、ここは現実だと思うから、「さよなら」ではない。
だから別に焦る事はないのだろう。
布団へ入ってからも、腕のあたりに熱だけが残っていた。けれど痛みは思っていたほど続かず、代わりに胸元のぬいぐるみの柔らかさばかりが気になる。このぬいぐるみを返すべきだったのか、それとも持っていてよかったのか、よく分からない。
「あ、あの」
「ん?」
白鴎がいない代わりに今日はぬいぐるみに抱きつく。
「絵本……」
「絵本がどうかしたか?」
絵本が入っている引き出しに目を向ける。今日の朝に入っていた絵本は3冊。そのうち1つは既に読んでしまった。
「あ、えっと……」
図々しいとは承知だが、言うならば今しかない。
「絵本、読んで、ほしいです」
力が入った腕の中で、ぬいぐるみが姿を変える。
「自分で読めるのではなかったか?」
その言葉で、俯く顔に力が入る。読めはする。
「そう、です……。けど」
読んでもらうのが特別だと、そう思ってしまう。震える指を隠すように拳を握りしめた。
少し時間をおいて、霙が口を開いた。
「何を読んで欲しいんだ?」
そう言って引き出しから絵本を取り出した。見た事がないような絵本が入っていた。私がその話を知らないだけかもしれないけれど、日本語ではなかった為、恐らくこの世界で考え、描かれた絵本だろう。
私がまだ読んでいない『シンデレラ』はそのまま入っていたが、既に読んだ絵本はもう新しい絵本と取り替えられていた。
「……」
読みたいと思っていた本が無い事を寂しく思いながらも、新しい本に視線を向ける。
絵本のタイトルを見てみるとなんとなく読めた。表紙に綺麗な夕方が描かれた『ゆうがた』に興味を示されたけれど、なんとなく『おとなりさんのりんごばたけ』を手に取る。
「霙さんは、ゆうがた好き?」
「嫌いでは無いが、朝の方が好きだな」
「そっか……」
私が手に取った絵本には綺麗な朝焼けに照らされたりんごが光っている。私もだんだんと暗くなっていく夕方よりも、明るくなっていく朝の方が素敵だと思う。朝の方が、私は好きだ。夕方よりも遥かに。
「読んでやるから、横にはなっていろ」
夜更かしを禁止され、布団に横にならされる。腕の痛みはもうほとんど残っていなかった。
絵本を子守唄代わりに眠りにつけるのならば、これほど幸せな事は無い。
綺麗な朝陽に照らされたりんご畑は、光輝き、艶を増した。夕方になるとりんご畑は段々と光を失い、暗闇に落ちていく。けれども、また朝になると、りんご畑は光に照らされ、水に輝き、反射する。
そうやって美しく照らされていった。霙の声が遠くなるころには、本をめくる音も止んでいた。
「おやすみ」
だんだんとしていく視界の中で朝が輝き、夕が黒く染まっていく気がした。明日になれば、空にも色が戻るのだろうか。




