010「きれい」
今日も朝日が昇る前に目が覚めた。耳をすませば、鶏の声も聞こえてきそうな気がする。あの「コケコッコー」という声を聴けば、より一層朝だと感じる事が出来るのに。この世界にいるかも分からない鶏に思いを馳せてみる。
この世界では何が空を飛ぶのか。私はまだ空を飛ぶ白い鳥しか見た覚えがない。確か蝶はいた気がする。
図鑑のようなものはないのだろうか。この世界の全てが分かるような本があれば、欲しい。全てと言わず生き物だけでも載っているものが欲しい。
「あっ、」
確かここに、と思いながらベッドサイドにおいてある机の引き出しを開けると予想通り絵本が出てきた。
「あった」
その中には、昨日読んで貰った本もあれば、途中で眠ってしまった為、読む事が出来なかった本もある。その途中の本を手に取る。その表紙を見てみると、様々な生き物が描かれている。
これは写真ではないから正確には分からないけれど、恐らく大きな赤い竜と、森にいそうな動物達がいる。あとは、鳥や魚、角が生えた人間の様なものも載っている。
角が生えた人間の様ものは鬼だろうか。よく分からないけれど、沢山の生き物のこれらは存在しているのだろうか。もし存在しているとなると、竜や鬼も存在しているという事だろうか。それは流石にありえない。だって私は今までにこの世界で、角が生えた人や竜に会った事がない。いくら私が建物の中にずっといるからといって、もし竜が空を飛んでいたとしたら気がつかないはずがない。
それはともかく、時間もある事だし、ゆっくりと絵本を読んでみるのも悪くはない。目もすっかり覚めてしまった事だし。
本を開くと、一番に緑の森が映り込んで来た。
「大地の上で暮らしている動物達は、おいしい木の実を求めて……」
なんだか可愛いお話だ。より一層森の動物達にイメージが近くなった。次をめくると、次は一面青い海で満たされているページだった。
「海に棲む魚たちは、歌声のする方へ向かっていき、……」
気持ちよさそうに泳ぐ魚達がいる。
そして次は一面真っ赤。というより、オレンジ色。
「太陽の下では竜が踊り、」
そして紫色が広がり、
「紫の城には悪魔が宿り、」
水色が広がった。
「空には天使が舞い降りる。」
よく、分からない。
悪魔が出たから怖い話なのだろうか。
この絵本は読みやすくて面白いけれど、もっとこの世界の事が分かる絵本はないのだろうか。例えばこの世界の成り立ちとか、国を仕切ってる人の名前だとか、どういう時代なのかとか、「セイジョ」とは一体どういう存在なのか、など。
何も知らないから知りたい事の方が多い。実際に勉強をして頭に入れろと言われても、身に付かない。勉強は好きではない。知る事は嫌いではないけれど、学ぶ事は嫌いだ。こんな事を言ったら失望されるだろうか。
パラリと次のページをめくると、今度は白黒のページだった。でも、何も文字は書かれていなかった。何か意味があるのだろうか。けれど、私にはその意図を読み取る事は出来ない。
次のページをめくろうとした所で、扉を叩く音が聞こえた。
「聖女様、入るよ」
「はぁい」
絵本を元の場所に戻して、返事をする。
「聖女様は毎日早起きだね」
「早く寝てますから!」
「それもそうだね」
白鴎と挨拶をしながらも手に持つ荷物がやけに多い事に気がつく。白鴎だけではなく、霙も荷物を持っている。
「なんだか今日は多いですね」
浮かんだ疑問をそのままぶつけてみる。
「ああ、うん。今日の為のものだからね」
「?」
よく意味が分からない。二人が用意してくれているものは、いつだってその日の為のものだ。今日に限って荷物が多い事の理由にはならない。
「それがなるんだよ」
白鴎は私の心を読んだかのように言葉を返した。
「?」
それでもやはり意味が分からず首を傾げる。横では霙が一番大きな箱に入ったものを中から取り出す。出てきたのは今までに見た事がないドレスだ。私のドレスは基本的に私の部屋に隣接しているクローゼット兼衣装部屋から取り出している。しかし、今回出てきたそれは今までに見た事がないものだった為、新作だと思う。また新しく彩月が作ってくれたのだろうか。
それにしても、いつもよりフリルなども多く、とてもではないが、普段着には見えない。今まで来ていたドレスも普段着に見えるかと聞かれれば首を横に振るしかないのだが。
「この洋服は?」
霙がドレスを全て取り出し、ハンガーにかけた事で全体の姿が見えてくる。やはりそれは見た事がなく、今までのドレスとは違うように感じた。
今までのドレスはどちらかと言うと可愛いという分類に入るものだった。しかし、今回広げられているドレスはどちらかと言えば綺麗だ。ただし、私が小さいという事も含めると、それはやはり可愛らしいものである事に間違いはない。
「今日は特別だからな」
「特別?」
特別と言うようなものが何かあっただろうか。そこまで考えて昨日の記憶が蘇る。あぁ、そうか。今日は
「お出かけ……」
「言いようによっては間違いではないな」
昨日はあんなに緊張していたというのに、今朝起きてからはすっかり忘れていた。今日はこの国の「コクオウ」という人に会いに行くのだった。恐らくする事はただの顔合わせだと思う為、特に気負う必要はないとの事だった。私は「セイジョ」らしく振る舞えば良いようだ。
「セイジョ」らしいとはどういう事だろうか。そもそも「セイジョ」とは一体何なのだろうか。
「必要以上に何かを考える必要はない。国王の問いかけに、ただ、心のままに感じた事を答えればいい」
「……」
そんな事で良いのだろうか。そんな事で「コクオウ」は満足するのだろうか。相手が何を求めているのが分かった時は、そのように行動すればいい。しかし、会った事もない「コクオウ」という人が一体何を求めているのか、私にどうしてほしいのか、私をどうしたいのかが分からない。分かっていればその通りに動くというのに。
「さあ、着替えるぞ」
私の心の準備が全く出来ていないうちに霙はドレスを抱え、私の寝間着を脱がしにかかった。パジャマを脱がされる事にはもう慣れてきたから、羞恥心も働かない。しかし、私はドレスよりも霙と白鴎が持ってきたその他の箱たちに意識が奪われていた。
「あの箱には一体何が?」
「ああ、飾りだな」
一体どこにつける飾りなのか分からない。話の流れで言うと、私のドレスの飾りか、髪飾りか何かだとは思うけれど、その何かが分からない。考えている間にも上からドレスを被せられる。腕を通して行くと、いつもよりさらに肌触りが良いように感じた。
相変わらずサイズはぴったりだ。
「じゃあ、次はこれを履いて」
用意をされていた靴は真っ白なパンプスだ。ヒールは付いていないのと変わらないくらい低かった。足を通すと、革特有の硬さなどもなく、裏起毛のふわりとした生地に足を支えられた。
「あとは」
白鴎が私の後ろにやってきた。
「?」
何をするのかと思ったら、そのまま脇を抱えられ、鏡の前まで連れていかれた。恐らく髪の毛を結んでくれるのだろう。
柔らかい櫛で髪をとかれる。それすらも気持ちよくて、なんだか目を閉じてしまいそうだ。
「今日は髪を結ばないよ」
「?」
ならば何故ここに連れてきたのだろうか。櫛でとくだけならば、わざわざ鏡の前に来る必要もない。
「結びはしないけど可愛くはしておかないとね」
そう言っ白鴎は私のサイドの髪の毛を少しだけ取り、耳の後ろで結んだ。正面から見ると結び目は見えず、髪の毛を耳にかけているように見える。
「これをつけたら完成」
そして、私の頭部全体を覆うような薄くて真っ白のべールを頭に取り付けた。
「うん、出来た。かわいい」
鏡に映った私は髪の毛以外が真っ白で、まるで、
「一緒……」
「なにが?」
「な、なんでもないです!」
それでも衣装が白いおかげで自分の黒髪が目立つ。バッサリと切り落としてしまいたいぐらいだ。この世界には髪の毛を染めたりする技術があるのだろうか。もしあるのならば、みんなと同じように真っ白に染めたいとすら思ってしまう。私は別に決して黒髪が嫌いな訳ではないけれど、みんなと一緒という事に憧れる。
「すまない、遅くなった」
「大丈夫」
ドアから霙が帰ってきたけれど、私は霙がどこかに行った事にすら気がつかなかった。一体どこに行っていたのだろうか。それよりも問題がある。
「前が見ずらい……」
ベールが私の視界を遮る。目の前に霙がいると分かっているけれど、その霙がぼやけている。声で霙だという事は分かる。
「ほら」
霙が私の目の前を覆っているベールをめくった。視界が広くなった。
「口を開けろ」
「?」
霙の言葉通り、口を開けてみると口の中に何かが放り込まれた。
「あまーい!」
小さくて丸くてコロコロしている何かが口の中を甘さで満たす。噛み砕くには硬すぎて、歯が折れてしまいそうだ。
「しばらく舐めているといい」
「はぁい」
そうか、これは噛み砕くものではなく、舐めるものなのか。舐めているとミカンのような味がしてくる。
「それじゃあいくぞ」
「え?」
霙と白鴎に手を引かれ、部屋の外に出る。
「……もう、行くの?」
「ああ」
お昼頃から行くのかと思っていた。まだ起きてから少ししか時間が経っていない。心の準備が出来ていないが、それを言ってももう仕方がないだろう。
2人に手を引かれ、見慣れた廊下を歩いていく。真っ白な廊下に、今日は私自身も馴染んでいる気がした。2人に手を繋がれているからか、時折体が浮いてしまいそうになる。
長い長い廊下歩いていくたび、この建物の広さを実感する。
「どこまで行くんですか?」
「コクオウ」という人はこの建物の中に来る訳ではないと言っていたが一体どこで会うのだろうか。そもそもこの建物から出るだけで一体どれほど時間がかかるのだろうか。
真っ白な廊下をひたすら突き進むといつもとは違う道に出た。「いつも」と言えるほど、この屋敷をウロウロはしていないが、それでも見た事がない廊下へと出た。真っ白な所から少し茶色がかっている廊下に出た。
「ここは?」
「ここをもう少し真っ直ぐ行ってから角を曲がると出入口に出る」
「出入口……」
という事は、外に出るという事だろう。茶色い廊下から更に濃い茶色の扉がの前に立ちはだかった。
「大きい……」
私の背の何倍くらいあるだろうか。私が5人は軽く通れるかもしれない。
「じゃあ、行こう」
2人に手を引かれながら、開かれた大きな大きな扉を潜り抜ける。1歩外に踏み出した時、私は広い大地と大きな空に圧倒された。
「これが……」
大きな広い空を眺めていると、まるで自分が本当に小さく思えてくる。久しぶりの空はとても明るく、とても輝かしかった。
真っ青に輝く空に、思わず目から雫が零れた。
「どうかしたのか?」
「どこか痛い?」
思わず下に俯くと、青い空ではなく、今度は緑色の大地が広がった。こんなに青々と茂る緑は珍しいものではないだろうか。水をあげたのか、雫がこぼれ落ちる緑は生気に満ち溢れている。
なんて美しいのだろう。
「きれい」
雫が零れ落ちようと、雲一つないそれは変わる事なく真っ青だった。
世界はこんなにも美しくて、こんなにも色に溢れているのか。
今まで見てきた世界とは程遠い鮮やかな色彩に生命が彩られている。
「こんなの、知らない」
知りたくて知りたくて、どうしても憧れて、そして知りたくなかった。
空を飛ぶ鳥はきっと、ずっと前からこの美しさを知っていたのだろう。
「もう大丈夫です」
私が涙を流してしまっていた事から2人に心配をかけてしまった。正直、私自身も驚いた。人は感動で涙を流せるものなのか。
この世界はとても美しく、そして明るいものだと知った。
きっと、私は初めて色の美しさを知った。
この美しさを知れば私はもうきっと逃げられない。逃げたくても、きっと逃げるための足がすくんでしまう事だろう。
それほどまでにこの世界の美しさは暴力的で、破壊的で。
大地の匂いすらも、その美しさは私に伝えてくる。吹き抜ける風も、音を鳴らす大地も、揺れる木々も、踏みしめられてなお力強く芽吹く葉も、きっと全ては自身の美しさを知っている。だからこそこれほどまでに輝いている。
思考を隅におかなければきっと永遠と思い出してしまう。
だが次々と入ってくる情報は私の脳に完結をさせない。
ただただ無言で歩く。
コツコツという靴の音も今はとても心地よく感じる。上を向けばまた雫が頬を濡らす。
いつまでもここにいたい。そう錯覚をしてしまうほどに。
私の心はひどく晴れやかだ。きっとこれが最後の空でも私はもう後悔しないだろう。
芥子色の落ち葉が私の足元に1つ落ちた。
世界の美しさを楽しみ、それにも少し慣れてきた頃。私は2人に疑問を投げかけた。
「所で、どこで会うのですか」
「城だ」
確か城とは、姫様や王子様が住んでいる場所だったと記憶している。そんな所に行けるなんて。
「どうやって行くんですか?」
ここは異世界だから馬車というものもあるのかもしれない。
「あっち」
白鴎が指差す方に目を向けると、大きな大きな建物が二つあった。同じような造りの建物だ。まず一つは私たちが先程までいた建物だ。私はこんなにも大きな建物で暮らしていたのかと、分かっていた事だけれど、改めて驚く。そして、その建物の隣には私の家よりもさらに大きな建物が立ち構えていた。
「大きな建物ですね」
「うん。城だからあれくらい大きくないとね」
これほどまでに近くにそびえ立っているなど想像すらしていなかった。
「ちかいね」
乗り物に乗っていかないと辿り着かないような遠い所にあるからこれほどまでに朝早く出かけたのかと思っていたけれど、どうやら違う様だ。隣にあるのならば徒歩で行っても時間はかからない。こんなに近いのならば、出るのは昼位でも良かったのではないかと思うが、こういうのは早めに済ませておいた方が良い。
2人に手を引かれながら城の入り口まで向かっていく。近いけれど、辿り着くまでに少しの時間はかかる。いくら建物が目の前にあろうと、やはり遠く感じる。これならば歩いていくよりは馬車のような乗り物で行った方が早いのではないかと思う。けれど、私は歩くのはすごく楽しかった。外の景色なんて、こんなにゆっくりと見る機会はないし、天気も良いから気持ちが良い。
時折鳥が鳴いているような声もする。命に満ち溢れているこの世界は、空気がとても軽く感じる。たとえこの世界ならば、空が曇っていたとしても、きっと輝かしいのだろう。
あちこちに興味を示す私に、2人は何も言わずそっと手を繋いでいてくれていた。
あぁ、そういう事だったんだ。と、何かがストンと胸に落ちた。
だから2人はこんなに朝早くから歩いていこうとしたのか。すべて私の為だった。
鳥も花も総てが命に溢れている。一生懸命生きているそれらは、輝かしく、それだけで尊いものだ。表情が無いはずのそれらが満面の笑みを浮かべているような気がする。周りの者に愛されていると、このように輝くものなのか。
「とても綺麗」
まるで私の瞳が入れ替わったかのようだ。
再び視界が潤むが、瞬きをしてこぼれ落ちる事がないように耐える。両手を繋がれている今、腕で拭う事は出来ない。
ゆっくりと歩いている間にも、少しずつ城が近くなってくる。私のこのペースだと一体どれだけの時間がかかるのだろうかと心配していたが、思ったよりも早く着きそうだ。それでも普段運動しない私が長時間歩いた為、足が疲れてしまった。2人にはそれも想定内だったようで、私が疲れかけていたらさっと抱き上げてくれた。そして疲れが取れるとまた再び歩かせてくれる。それを繰り返すうちにとうとう城の前まで来てしまった。
「大きすぎる」
思わずそんな感想が漏れてしまうほどだった。白の城はそれだけで威圧感を与える。神聖な色のはずではあるけれど、大きすぎて恐怖心すら覚える。ベール越しに見る大きな門は、まるで私たちの侵入を拒んでるのようだ。
「ご無沙汰しております」
大きな門の横に立ってる人が、霙と白鴎を見て、そう挨拶した。
「あぁ」
「うん、久しぶり」
親しげに挨拶している事から知り合いだったのだろう。
「お初にお目にかかります、聖女様」
「えっ、あ。こ、こんにちは」
急に挨拶をされて驚いて変な挨拶になってしまった。
「お話は伺っております。……それよりも、歩いてこられたのですか? 馬車を用意する準備は出来ておりましたのに」
「いつも近いからいらんと言っているだろう」
「しかし、今日は聖女様おられるのですよ」
「だからこそだ」
「意味が分かりません……」
予想よりも親しげに話している気がする。主従関係かなと思っていたけれど、どうやらそれよりももっと親しい関係のようだ,そうでなければこんな軽口を叩いたりしないだろう。けれども、そんな軽いやり取りのおかげで、私の緊張していた心が少しだけ和らいだように感じた。
「それよりも入って良いか」
「はい、門を開けますのでお待ちください」
目の前の彼1人では到底開ける事が出来なさそうな門をどうやって開けるのだろうかと観察していた。大きな大きな門は、門番をしている彼が左手ひょいと上にあげた事で、大きな音を立てて開いた。
「?!」
思わず驚き、霙と白鴎の手をさらに強く握る。
「ま、まほう?!」
どうやら門番は魔法使いだったようだ。驚き声あげると2人の笑い声が聞こえた。
「夢を壊してすまんが、魔法じゃない」
「え?」
「合図を見て中にいた人が開けたんだよ」
そう言われ、よく見ると、門の縁に人の手が見える。どうやら彼らが開けているようだった。
「なぁんだ」
勝手に勘違いしたにも関わらず、理不尽に文句を言ってしまう。
大きい門の中は、私が暮らしていた建物とあまり大差はなかった。白くて広い。ただ、城には少しだけ金色が使われている。それだけで少し豪華に見えるのだから、色は不思議だ。すれ違う人はほとんどおらず、私達は門の中に入ってから霙と白鴎が進むままに歩き続けた。私は道がよく分かっていないが、霙と白鴎は分かっている様子だった。恐らく以前も来た事があるのだろう。私の手を引きながらも迷う様子がなく、前だけを見て歩き続けていた。歩いている時に歩調を緩めてくれるのだから、2人の優しさがにじみ出ている。時折現れる不思議な彫刻や絵画を見ながら、廊下を曲がったり上ったりする。
まるで迷路だ。
時折すれ違う人もいない事はないが、気さくというよりは物静かだ。私達が廊下を通る時には何故か端によけて頭を下げている。まるでお姫様にでもなったかの様だ。
いつもより上品で優雅なドレスは、時折、私が走り出そうとするのを邪魔する。
「ここだ」
廊下を進んでいると、一段と大きな扉が現れた。白基調な扉である事は今までのものとは変わらないけれど、どこか豪勢だ。差し色に金色がふんだんに使われているからだろうか。ちなみにここまでの道はよく覚えていない。足は疲労を覚えているが、どこか達成感を感じる。
「国王はおられるか」
「中に」
扉の横に佇んでいた人に霙が声をかけると簡潔な答えが返ってきた。霙はそれに頷き、「コンコン」というよりも「ドンドン」と扉をたたく。扉が分厚いから優しく叩いただけならば気がつかないのかもしれない。
ゆっくりと扉が開いたかと思えば、中から人が出てきた。
「思ったよりもゆっくりでしたね」
この人が「コクオウ」という人だろううか。
「ゆっくりと歩いてきたからな。それよりも、陛下は奥か?」
「ええ」
会話を聞くに、どうやら彼が「コクオウ」では無さそうだ。「コクオウ」とういう人が奥にいるという事だろう。
「聖女様と守護者様が到着されました」
「入れ」
聞こえてきた声は優しさとはまるで無縁の硬く冷たい声だった。声を聞いた途端、私の中の「コクオウ」像とは真反対の人物が思い浮かべられた。
「やっと来たか」
椅子に座り、机に肘をついて、そういった。恐らく彼が「コクオウ」という人だろう。真っ白で長く綺麗な髪と、吸い込まれてしまいそうなほど輝かしい金色の瞳。やはりこの人はこの国の人なのだなと思う。
3人で一緒に部屋の中に入り、彼の前に行く。私の事を見る彼の目は何処となく鋭い。まるで睨まれているようだ。私のイメージをしていた王子様像からは果てしなく遠ざかっている。
霙と白鴎は、部屋に入った途端、まるでこの人を崇めているかのように、膝をつき、頭を下げた。
私もそうした方が良いのだろうかと迷いながらも、状況がよくつかめず、真似をするように膝をついた。そして、頭も下げようとした所で。
「やめろ」
と、冷たい声に遮られてしまった。
「立て」
まるで命令だ。霙と白鴎が座っているのに私は立ったままでも良いのだろうか。横目で霙の方を見てみると、力強い頷きが返ってきた。その頷きは、恐らく立っても良いという事だろう。
恐る恐る膝を地面から離す。
彼は鋭い目線で私の事を見ていた。
温かく厚い生地のものを着ているというのに、今だけは分厚い衣装も心細く感じる。先程まではその衣装が私を守ってくれていたというのに。少しの手の震えを拳を握り耐える。
想像以上に若かった「コクオウ」はその若さを感じさせないほど堂々としていて、優雅だ。
彼はゆっくりと机についていた腰を上げた。そして重い腰をあげるかのようにゆっくりと立ち上がった。まさか近くにでも来るつもりなのだろうか。
「あ、あの、私は」
歩き始めた彼に慌てて自己紹介をしようとするも。
「お前が聖女か」
私が言うよりも早く、「コクオウ」は呟いた。
「はいっ」
「……そうか」
彼は呟いた後、そのまま私の前に立った。
「?」
真っ白な衣装をはためかせながら、まるで鳥が舞うように優雅な足取りで。不思議と彼が歩く姿を綺麗だと思ってしまった。
「お初にお目にかかります、聖女様。この国に現れてきて下さった事、心から光栄に思います」
「えっ、あの?」
先程の雰囲気とはうって変わって、彼は霙と白鴎のように、私に向かって膝をつき、頭を下げた。先程の態度と話し方に差がありすぎて、どうして良いのか分からない。霙たちに助けを求めようにも2人は頭を下げきっていて、もう目線を合わせる事は出来ない。
偉い人が膝をついているのだから、やはり私もそうした方が良いのだろうかと慌ててしゃがみ込もうとする。
「聖女が膝を着くな。頭を下げるな」
しかし、私が膝をつくよりも早く再び彼に注意をされてしまった。最初の彼の態度に戻った事に少し安心しながらも、どこか落ち着かない。
何故膝をついてはいけないのか聞いてはいけなさそうな雰囲気だ。
「……はい」
とりあえず彼に返事は返す。
「用事は済んだな」
「えっ?」
彼はもう用が済んだとばかりに、私の前から立ち去り、机に戻る。
用が済んだという事は、私はもう戻ってもいいのだろうか。
私が振り向いて帰ろうとした所で、霙達からストップかかる。
「まだ話はおわっていない」
「……これ以上何を話せと」
確かに彼の言う事も一理ある。「コクオウ」というのはとても忙しい仕事なのだろう。その証拠に、彼の机には大量の紙が積み重なっている。
「まだ自己紹介すらしていないだろう」
霙はそういうけれど、私は頭にハテナが浮かんだ。彼は「コクオウ」という名前ではないのだろうか。てっきり私はそれが彼の名前だと思っていた。
「……黎翔」
「え?」
「それが私の名だ」
黎翔。綺麗な響きだ。黎翔というのが彼の名前ならば「コクオウ」というのは、役職などの名称かもしれない。
という事は、私は彼を名前で呼んでも良いのだろうか。けれど、彼が率先して私に教えなかったという事は、どちらかというと役職で呼んだ方が良いのかもしれない。
「あの、もう帰っても……?」
恐れ恐るそう聞くと、彼は私の顔を見て眉を顰めた。この聞き方は早く帰りたがっているようで、不快だったかもしれない。
私が言い訳を考えるよりも先に、霙は「否」と否定の言葉を述べた。
「もう少しここにいてやってくれ」
私は全然良いのだけれど、黎翔はそれで良いのだろうか。私の事をあまり気に入っていないようだけれど。しかし、霙が言うならば私に拒否権は無い。
「分かりました」
黎翔はため息をついたけれど、私に出ていけとは言わなかった。どうすれば良いか分からず、佇んでいると黎翔はソファを指さしたので、大人しくそこに座った。硬い革製のソファはツルツルとしといて気持ちが良かった。
「予想より小さいな」
ソファの感触を楽しんでいる私を見ながら黎翔は呟く。予想よりという事は、あらかじめ私が小さいという事は聞いていたのだろう。それよりも実物が小さかったという事だ。恐らく私が小さいのではなく、この世界の基準が大きいのだろう。なぜか私も必要以上に幼い子どもとして見られているようだし。確かにこの身長で15歳と言い張るには無理があるだろう。
「じゃあ、ちょっと出てくるね」
先程まで空気と化していた白鴎が、この部屋から出ていこうとする。どこに行くのだろうかと思い、ついていこうとすると「聖女様はここにいて」と言われてしまった。そう言われてしまっては、この部屋にいるしかない。
「私も仕事を済ませてくる」
そして、何故か霙までも部屋を出ていこうとした。1人ならまだしも2人共出ていくと思うと途端に心細さが増す。
「聖女様を怖がらせるなよ」
「怖がらせてなどいない」
2人は後ろ髪を引かれる事なくあっさりと出ていってしまった。初めての人と二人きりだなんて緊張しかない。
1人残されてしまいどうすれば良いか分からず、そわそわと体を動かす。忙しい彼に話しかけても良い訳もなく、1人で暇を潰そうにも、ここには私が暇を潰せるようなものが何もない。強いて言うならば、この部屋の観察ぐらいならば出来るが、人に部屋をジロジロと見られるのもあまり良い気分ではないだろう。
となれば、座ってじっとしているしかない。出来るとすれば、妄想くらいだろうか。
「……腹は空いていないか?」
ぼーっとしていると、彼から話しかけてくれた。というよりも、彼は忙しいはずなのに、先程から書類に手をつけてはいなかった。私がいるから遠慮しているのだろうか。
「…………甘いの食べたから、大丈夫です」
私の返答の意味が分からなかったのか、再び眉を寄せながら聞いてくる。
「甘いのとは」
「えっと、ちっちゃくて、コロコロしてて、口の中で舐めるやつです。これくらいの大きさの」
「これくらいの」言いながら指で円を作る。大体一口サイズだ。
「あぁ、飴の事か。……、あんなもので腹がふくれるか。おい、軽食をもってこい」
「はい」
先程食べた甘いものは飴というのか。名前通り甘くて小さくて、可愛い。黎翔は廊下に向かって呼びかけたけれど、なぜか廊下からは返事が返ってきた。その声は霙や白鴎のものではなかったけれど、もしかすると誰かが控えていたのだろうか。入ってくれば良いのにとは思うけれど、それが彼の仕事だと考えると余計な事を言う訳にはいかない。
「あの、私、ご飯大丈夫です。まだ我慢出来ます」
腹が全く減っていないかと聞かれると嘘になるが、我慢もう少し出来そうだ。何よりまだ腹はなっていない。鳴ってから本格的にお腹が空いてくるのだと、この間学んだ。
仕事の手を止めては悪いからと気を遣ったつもりだったが、私の言葉を聞いて、彼はまた眉をしかめてしまった。
「……子どもが気を遣うな」
そう言われて、これ以上私に口に出来る言葉はない。私に出来る事といえば、これから来るであろう食事を目の前にして手を合わせる事だけだ。
出会ってほんの数分だけれど、彼の事はなんとなく分かった。彼は私と話すとき、1度だって目をそらさなかった。私の事を見ながら話をしてくれていた。私が彼は怖いと思う理由は、その鋭い目つきだけだ。これに関しては仕方がない。
「あの、国王様……、」
「……なんだ」
沈黙が苦しくて、話しかけてみたけれどそこからの話題が思いつかない。もう一度口を閉ざし、彼の金色の瞳に目を向ける。まるで猛獣のように私を射抜く。それがひどく恐ろしい。眉間に寄った皺さえ、まるで獲物を見定めているかのようだ。
まるで私の一言で、私自身の運命が決まるかのように、存在するだけで圧迫される。これほどの存在に、私は何故、出会ったのだろうか。
だが、彼の手は、とても、白い。それが、酷く私を安心させた。
「あ、えっと。お仕事は大丈夫ですか?……私がいたら邪魔じゃないですか?」
「……今日の分は終えている」
なるほど。今日の分を終えて尚あの量なのか。仕事がこれほど多いのなら、尚更私は邪魔だろう。現に、彼は再び仕事を再開しようと机についている。
「何のお仕事を?」
「……聞いて面白いものでも無い」
会話が弾まない。そもそも私に会話を弾ませるような語彙力も話題もなかった。何より彼とは出会ったばかりで彼がどういった話題を好むのかも分かっていない。
「……聖女」
「はい」
彼の方から話題を作ってくれた事に安堵する。
「普段何をして過ごしている?」
「えっと、ご飯食べてお昼寝したり、おままごとで遊んだり、絵を描いたりしてます」
「そうか」
改めて聞くと、私の生活って食べて寝て遊んで、まさに子どもだ。
「食事は十分にとっているのか」
「はい、お腹いっぱいになるくらい、です」
お陰様で、飢えとは程遠い生活を送っている。美味しいご飯はまさに私の生きがいとなっている。ここのご飯は温かくてついお腹いっぱいになるまで食べてしまう。ご飯の事を考えていたら
ぐぅぅぅぅぅ
お腹が鳴ってしまった。
「……もう少し待て」
「はい」
催促をした訳ではないが、私のお腹の音を聞いて、そう捉えられてしまっても仕方がない。自分自身でもお腹が空いているのか分からなかったけれど、お腹がなったという事は間違いなくお腹が空いているのだろう。
彼は突然座っていた椅子から腰を上げ、机を挟んだ向こう側のソファにどっしりと腰をかけた。
どうやら仕事に手をつけるのはやめたらしい。私は、傍で仕事をしていても気にはしないが、どうやら彼は気を遣ってくれた様だ。
正面に座られてもどうして良いか分からない。会話をしようにも私の方から思い浮かぶ話題はない。それよりも、この国で一番偉いという人にこんなに気軽に話しかけても良いものだろうか。けれど、話しかけない事には沈黙が辛い。それでもやはり、沈黙を遮る為の話題も浮かばない。普段私は初対面の人とどのような会話をしていただろうか。自分の事を話すか、それとも共通の話題や人を探すか。どちらにしろ、この世界に来たばかりの私が思いつくような共通のものはない。
「とるぞ」
そう言って黎翔は私の方へと手を伸ばす。いきなり伸びされた手に目を瞑れば、顔の表面を覆っていた圧迫感が消えた。視界が明るくなった事でベールを取られたのだと理解する。そうして開けた視界の先には、驚いた表情の黎翔の金色の瞳が飛び込んだ。
「お前、は……」
そう言った黎翔は、私を見ているようで、まるで見ていなかった。私を通して一体誰を見ているのか。その正体を突き止めようとも思わないし、出来ないだろう。けれど彼の目の奥に潜む 寂しさや 焦燥を見て見ぬふりをしても良いのかと、少しだけわからなくなった。
彼は直ぐに目を伏せ再び開いた。
そうして黎翔に眺められ興味を失ったかの様に、腕と足を組んでそっぽを向いた。
「お前は……」
話題も思い浮かばず、沈黙を貫いていた所、目を伏せた彼は、おもむろに鋭い目線で私の事を見て話しかけた。
「お前は後悔していないか」
「後悔?」
「この世界に来た事だ」
「……」
「この世界に来た」と彼はいうけれども、私はこの世界に自分の意思出来た訳ではない。気が付いたらこの世界にいた。今までとは、人間関係も環境も歴史も社会も何もかも違う世界。きっと私の今までの常識なんか覆される世界だ。知らない事の方が多い。けれども、私は
「してないです」
そう、答えるしか無いだろう。
たとえ「セイジョ」という役割があったからこそだとしても、私はこの世界で大切にされている。衣食住を保証され、毎日を笑って過ごす事が出来る。好きだった事や、やりたかった事も出来る。この世界に来た事を後悔なんてして良いはずもない。
迷う事なくはっきりと伝える。私の目を見ている彼の瞳を見つめ返し、戸惑う事なく伝える。
どうしてこの世界にきたのが私なのだろうか。私に特別な力なんて何一つない。ただの普通の人間だ。私ではなくても、きっと変わりなんていくらでもいる。きっと私がこの世界に来なくても、代わりにこの世界のためになる誰かが来ていたと思う。それでもこの世界は私を選んでくれた。この世界を愛しいと思う。
「……そうか」
私は、私をこの世界に送ってくれた「何か」にずっと感謝をし続けるだろう。
早くこの世界に馴染んでいきたい。どうすればもっと馴染む事が出来るだろうか。まずはこの世界を知る事から始めなければならない。しかしながら、元いた世界についてもあまり知識を持っていないから違いなどと言われたとしても理解出来ないだろう。私がこの世界で知っている事といえば、ご飯が美味しい事と世界は美しいという事だろうか。
「国王様」
「なんだ」
唾を飲み込み、震える手を握りしめ、口を開く。私の喉からこぼれた声はどこか細く震えていた。
「『セイジョ』って何ですか?」
自分の中でこの国にいる決心はついているけれども、この世界にいる事で私に何が出来るのだろうか。霙達は私はこの世界にいるだけで良いと言っていたが本当にそれで良いのだろうか。私が何かをする事で、反対に世界を不幸にしてしまう事もあるのだろうか。
そもそも「セイジョ」とはどういう存在なのだろうか。いるだけで良いなんてまるで太陽のようだ。いるだけで周りの生き物を明るく照らす。けれども、光は強すぎると周りの者を不幸にする。私も同じような存在なのだろうか。願わくは私のような小さな存在なんかで世界の運命が左右されない事だ。私の存在が世界とか関わっていると知ったからには、何事も軽視出来ない。
「聖女とは高潔な女性の事だ」
「コウケツナジョセイ」
まるで辞書にでも出てきそうな説明文だ。彼の言葉がまるで呪文のように聞こえた。私とは正反対の特徴を持つ女性の事だ。これは遠回しに私の事は「セイジョ」とは認めないと言われているのだろうか。
しかし、黎翔は先程私の事をそう呼んだのだから、気にする必要はないかもしれない。それに彼が私の事を認めていようが、そうでなかろうが結果にそれ程大差はないだろう。
「私は何をすれば良いのですか?」
「何も。ただ、この世界で過ごしていればいい」
「……」
霙達に聞いたものと同じ。やはり私に求められる役割はないようだ。霙達は私を甘やかす為にそういったのかと思っていたが、どうやら違うようだ。役割があった方が、何をすれば良いか分かったかもしれない。
『後悔していないか』
その言葉に少しだけ浮かんだ胸の奥に宿る僅かな想いに、分厚い蓋を被せた。
「失礼いたします。お食事をお持ちしました」
ノックの音とともに美味しそうな香りが部屋の中に漂った。ぐぅぅぅぅぅぅと匂いにつられて大きな音で腹が鳴る。ドアの方を見てみると、食事を持ってきてくれたであろう男の人から黎翔がトレーを受け取っていた。良い匂いがするのだけれど、鍋のようなものに蓋が閉まっている為、中身が何か分からない。小さな鍋だから、スープでも持ってきてくれたのだろうか。
空腹はまだ我慢出来ると思っていたけれど、匂いをかいでしまうと一気に腹が空いて来る。両手を合わせて待っていると、黎翔が私の目の前にトレーごと置いてくれる。
「いただきますっ」
そう叫んで、早速鍋の蓋を取ろうとすると「待て」と言って止められてしまう。彼は私を犬か何かだと思っているのだろうか。けれど「待て」と言われると、手を止めざるを得ない。
「蓋は熱い。触るな」
そう言って鍋の蓋を取ってくれた。
「おうどん!」
中に入っていたのは大きな油揚げがのったうどんだった。私の大好物のニンジン入りだ。視界の端に何か赤いものがうつっている気がするが、それは見ないふりをしておこう。
それにしても用意されていたのが私一人分という事が気になる。
「黎翔様は食べないの?」
私がそう聞くと黎翔の眉間の皺が取れた。
「私は食べたばかりだ」
「そっか」
なら、遠慮をする事はないだろう。彼の前で食べるという事に対して非常に緊張はする。けれども好意で出してくれたものを手もつけず返すという事の方が失礼に当たると感じた。
今度こそいただきます。
備えられていたフォークを使ってうどんを掬う。
つるん
もう一度フォークを使ってうどんを掬う。
つるん
「……」
いつかと同じようにフォークではどうしても滑り落ちて、なかなか掬う事が出来ない。であるならば、刺せば良いと考え、フォークに突き刺すが、
プツン
もう一度。
プツン
うどんがちぎれてしまい、永遠と短くなっていくだけだった。とりあえず、うどんは諦めて上に乗っているニンジンを食べる事にした。ニンジンは問題なく、フォークで掬う事が出来、口の中に入れて美味しく食べる事が出来た。うどんの出汁が染み込んで、いつもと違う味だけれど美味しい。
ニンジンの美味しさに浸っていると
「……ふっ、」
吐き出すような声が聞こえた。黎翔の方を見てみると口元に手を当てて笑いを堪えている様子だった。
「あの?」
彼が何故笑っているのか分からない。
「黎翔様?」
「……なんでも無い」
何でもないと言いつつも、なんだかご機嫌そうだ。先程までの無表情よりは良い。眉間の皺が取れた彼の顔はやはりこの世界の人々に似ていた。
二つ三つと次々ニンジンを口に入れていく。
「おいしぃ」
思わず頬が緩んでしまいそうな心地がする。次は油揚げだ。大きいけれど、これはつかみやすいだろう。フォークで刺して持ち上げる。水分をよく吸っているから、重たいけれど、うどんよりはよっぽど掴みやすい。油揚げからつゆが垂れている為顔を鍋の方に持っていく。一口かじると中からジワリとつゆが溢れてきてやけどしそうになるけれど、その温かさも美味しい。噛めば噛むほど味が出てくる。
その油揚げも全部食べきると残りはうどんだけ。もう一度フォークですくってみるけれど、やはり食べられなかった。むしろここは箸の方が食べやすいのではとすら思う。
「……」
さて、どうしたものか。
「貸せ」
黎翔は私の方に手を出しながらそういった。フォークを差し出せという事だと分かる。素直に従い、フォークを差し出すと、反対の手でうどんが入っている鍋を掴んだ。私が持つと大きな鍋なのに、彼が持つとまるで茶碗のようだ。熱くないのだろうか。
「食え」
命令口調だけれど、1口の量は食べやすいように少ないし、無理矢理口に突っ込む訳でもない。
「……あむ」
黎翔の顔を伺いながら、それでも1口食べてみる。
「うまうまぁ!」
麺がすごく柔らかい。これはフォークが刺さらないはずだ。柔らかいから噛まなくても飲み込めてしまう。
「あーっ」
もう一口欲しくて図々しくも口を開けて待つ。黎翔は嫌な顔をする事なくもう一口食べさせてくれた。
「おいしーっ!」
となると、もう一口欲しくなるのが人間だ。
「あ……」
もう一度、ゆっくりと口を開けると、
「……遠慮するなと言っただろう」
と言ってくれたので遠慮なく口を開く事にする。私は初めてあった人に何をさせているのだろうと思うけれど、霙達にも同じ事をして貰った。
「急ぐな」
つい急いで飲み込もうとしていると、そう言われてしまったので、意図的に噛んでゆっくりと飲み込む。そうだ。急がなくても誰もとったりしない。何より私の食べさしなんて誰も食べない。
黎翔がまた1口分をフォークで掬う。
「おい」
「……」
テンポよく食べていた私だけれど、もう絶対に口を開かない。
「もうお腹いっぱいです……」
「……」
黎翔は今度こそため息をついて「それ」を鍋の中に戻し、再びうどん掬う。
「あむっ」
「腹が膨れたのでは?」
「はっ!」
目の前にうどんが来たので、つい口を開けてしまった。とても美味しい。そして、黎翔は「それ」を掬う。
「こ、今度こそお腹いっぱいです」
「……そうか」
黎翔はもう一度「それ」を鍋の中に戻し、うどんを掬う。
「はむっ!………………あっ」
しまった。また反射的に食べてしまった。
「…………」
黎翔の冷たい目線が刺さる。黎翔が掬った「それ」は私が大嫌いな赤い野菜。
「だ、だって……、これがお鍋に入ってるのも変だし……」
「鍋に入って無かったら食えるのか?」
「……」
黙秘権を行使致します。
「……本当にトマトは嫌いなのか」
あろう事か、鍋の中に入っていた赤い野菜はトマト。最後まで見て見ぬふりをしようと思っていたのに、黎翔は見つけてしまった。
「だって、プチプチする……」
普通に食べるのも嫌なのに、何故それを鍋に入れてしまったのだろうか。余計に食べられなくなるというものだ。鍋に入っていなかろうが食べるつもりは無いが。
「大きくなったら食べれるようになるもん………………、たぶん」
そっと目を逸らして頬を膨らます。何があっても今は絶対食べない。明日もその次も絶対に食べない。
「……食った事はあるのか」
これには自信をもって頷く。
「食ったのか」
「はい……」
あの時の食感を思い出して、きっと私の顔は渋い顔にっていると思う。
「食わず嫌いでないのなら良い」
黎翔はフォークで掬ったトマトをそっとお鍋に戻した。よろしい。さあ、私にうどんを差し出したまえ。
「おうどん、ください」
「……ほら」
「あーんっ!」
白いうどんは、何故この色で生まれてきてしまったのだろうか。
「ごちそお様、でした!」
そのあとも黙々と食べ続けた鍋の中にはトマトだけが残った。絶対食べたくないけど、もったいない。フォークでトマトを突き刺す。
「んっ!」
「……何故私の方に差し出す」
「残すのやだから、黎翔様食べて」
「…………」
良い案だと思ったけれど、黎翔は口を開かない。やはり、人の使ったフォークは嫌だろう。
「あっ、」
もしかすると、黎翔もトマトが苦手なのかもしれない。それならば食べさせるの申し訳ない。
「……今、不名誉な誤解を受けた気がするが、私はトマトを苦手としていない」
「そぉなの?」
「……大人だからな」
「オトナ!」
今の私には魅力的な言葉だ。
「お、大人になったら、トマト食べれるようになりますか?」
「あぁ」
「じゃあ、今食べれなくても大丈夫?」
「……いや、少しずつ慣らしていけ」
「……それ、今日じゃなくてもいーい?」
「まぁ、いいだろう」
黎翔はため息をついて、私が持っているフォークに突き刺したトマトを一口で食べてくれた。
「お、おいしいの?」
「うまい」
黎翔は眉間にしわを寄せる事なく食べた。
「すごい」
「尊敬の眼差しで見られてもたかがトマトだ」
「たかが」
今の私には到底言えるはずもない言葉だ。一口でトマトを食べて、「こんなのたかがトマトよ」と言ってみたい。尊敬の眼差しを向けられてみたい。
「遅くなった」
「ただいま」
2人で咀嚼をしていると、霙と白鴎が帰ってきた。
「おえりなさい」
手に持っていた紙の束を机の上に置き、私達の元へとやって来る。
「ん? 黎翔も何か食べているのか」
「トマトだ」
「あぁ」
どうして霙も、白鴎も、私の方を見て納得した表情になるのだろうか。その眼差しに、誤解は何一つないのだけれど。
「所で本題は済んだか」
白鴎が食器を片付けてくれているのを横目に、霙は私の横に座る。そして、霙は黎翔に話かけた。
「……本題?」
しかし黎翔は何についてか分からないようで、首を傾げている。そして思い出したかのように目を見開いた。
「……忘れていたのか?」
「……」
黎翔は霙の呆れたような目線を受けて目を逸らしている。まるで、先程の私みたいだ。
「今日はその話をするから呼びつけたんだろう」
「……」
なるほど、今日は私と黎翔の顔合わせが主だと思っていたが、他に予定があったのか。
「お話って?」
会話から察するに、私が聞いても大丈夫な内容だろう。
「披露会についてだ」
そういえばそのようなものを開くと言っていた気がする。
「7日後に行う。準備をしておけ」
準備か。私自身が出来る準備といえば、精々心の準備くらいだ。
「はぁい」
「はい」
「!」
白鴎が私の前にコトリとマグカップを置いてくれた。中身を見ると温かそうなココアだった。先程から白鴎がいないと思っていたが、美味しいものを入れてくれていたのか。
「ありがとうございますっ!」
「どういたしまして」
マグカップを手に持つと、ほんのりと温かさが手に伝わってきた。決して熱過ぎず、飲みやすそうだ。
「いただきまぁす」
「どうぞ」
一口目を飲もうとしている私の横で、白鴎は黎翔にも「いる?」と聞いていたけど「いらん、甘い」と断られていた。
コクリと一口飲むと、温かな甘みが口の中に広がったとともに、体中の力が抜けていくのを感じた。
「おいしい」
良かった。今日のココアは美味しい。もしかすると昨日は少し作り方が違ったのかもしれない。絵なんて描いていたから冷めて美味しくなくなったのだろう。
「おいしい」
思わず、もう一度言葉を口にする。そういえば、ずっと昔、誰かが「美味しいと思える事は幸せなんだ」と言っていた気がする。本当にその通りだ。
「おいしいなぁ」
温かさに体の力も抜け、少し眠たくなってきた。隣に座っている霙に抱っこをせがむと、膝の上に抱き上げてくれた。
「……今日は泊まっていくか」
気を遣ってくれたのか、黎翔がそう提案してくれた。素敵な響きだ。しかし、
「ううん、今日は帰るの。みーが独りだから」
「みー?」
「あのね、私の友達なの」
「友達?」
みーは私の大切な友達。今日は連れてくる事が出来なかったから、部屋で一人寂しがっているかもしれない。もし、次があれば、みーも連れてきてあげたい。
「……ぬいぐるみの事だ」
「……そうか。またいつでも来い」
「遊びにきてもいいの?」
「あぁ」
そうか、また来てもいいのか。それならば今日で最後という訳ではない。あぁ、だめだ。睡魔に勝てそうもない。最近どんどん睡眠時間が長くなってきているが、本当に大丈夫だろうか。今まで昼寝なんてしなくても良かったのに。やはり体が小さくなってしまった事が原因だろうか。
「寝てもいいぞ」
「んぅ……」
霙のそんな声がしたけれど、そんな声に反応する事も出来ないくらいには眠たい。
やはり食事は睡眠薬のようだ。食事をすると眠たくなってしまう。
「今日はお疲れさま」
白鴎のこの言葉を最後に、私の意識は途切れた。




