【断罪された側】知らなかった令嬢は、黙っていた令嬢は、言わせた令嬢は
独立した三部作の一作目です。各作それぞれ完結しますが、初読は【断罪された側】→【親友の側】→【悪女の側】の順がおすすめです。
「アデール・フォルタン。お前との婚約を、本日この場をもって破棄する」
建国祭の夜会、王太子レナルド殿下はそう宣告した。
大広間の音楽が止まり、三百人分の視線が私に刺さった。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「理由を言う必要を認めない」
殿下の声は張りがあって、よく通った。場違いなことに、私はまるで朗読のようだと思った。十年隣にいて、殿下がこれほど滑らかに話すのを初めて聞いた。
殿下の斜め後ろに、男爵令嬢のミレーヌ様が立っていた。
噂は知っていた。近ごろ殿下が入れ揚げている、商家上がりの令嬢。
勝ち誇った顔を覚悟して、私は彼女を見た。
違った。彼女の目は、勝っても、蔑んでもいなかった。強いて言えば、荷物の重さを確かめる目だった。あの視線の意味を、私は長く考えることになる。
「以上だ。下がってよい」
十年が、二言で終わった。
拍手をする者はいなかった。囁きだけが、さざ波のように広がっていく。私は背筋を伸ばした。伸ばし方だけは、教育のおかげで体が覚えていた。
人垣が割れて、真っ先に駆け寄ってきたのは親友のソレンヌだった。彼女は何も言わず私の手を取り、出口へ歩いた。まるで、あらかじめ道順を知っていたかのように迷いがなかった。
扉の手前で、ミレーヌ様とすれ違った。
その一瞬、袖口へ、紙を差し込まれる感触がした。
振り向くと、彼女はもうこちらに背を向け、殿下の方へ戻っていくところだった。横顔には、悪女の笑みが貼りついていた。
馬車の中で確かめると、それは封蝋もない小さな手紙だった。開く気力はなかった。捨てる気力も、なぜか、なかった。
向かいの席で、ソレンヌはずっと私の手を握っていた。
「今夜は、考えないで。考えるのは明日からでいいわ」
「……ソレンヌ。私、何を間違えたのかしら」
「何も」
彼女は即答した。あんまり早かったので、私は少しだけ笑ってしまった。笑えたことに、自分がいちばん驚いた。
◇◇◇
翌日から、世界は私の予想と逆に動いた。
醜聞で沈むはずの実家には、見舞いと支持の手紙が山になった。理由を示さぬ一方的な破棄は、その沈黙ごと、全ての非を王家の側に置いた。賠償の申し入れは異例の速さで届き、父は私の頭へ手を置いて言った。
「お前の名誉には、傷ひとつ付いていない。誰も、お前を責められない」
誰も私を責めない。
けれど同情は、味方の顔をした重さでもあった。気の毒な令嬢の見舞いと称して、屋敷には客が絶えなかった。私は完璧に微笑み、完璧に礼を言い、客が帰るたびに長椅子へ沈んだ。傷ついた顔も、平気な顔も、どちらも務めになっていく。
ソレンヌだけが、客の絶えた夜に、何も聞かずに菓子を焼いた。焦げていた。おいしかった。
それでも私は、夜ごと自分を責めた。何を間違えたのか。どの挨拶が、どの笑い方が、あの二言を招いたのか。
答えの出ない問いは、体を先に削っていく。
思い当たる節は、たった一つだけあった。
いつかの夜会の帰り、珍しく酔った殿下が、ぽつりと言ったことがある。
「婚約というのは、大人が子どもの名前で結ぶ借金だな」
翌朝には、いつもの殿下に戻っていた。私もあの一言を、聞かなかったことにした。あれが何かの前触れだったのかどうかは、今も分からない。
やめたい、と思ったことがないと言えば、嘘になる。けれど、あの婚約は、私一人のものではなかった。両家を繋いで立っている柱を、自分の疲れを理由に引き抜くことなど、できるはずがなかった。
だから、真面目に務めた。真面目に務めるほど、やめる道が消えていくことには、気づかないふりをした。
私は殿下の執務を陰で支えてきた。式典の根回し、来賓の家系の暗記、殿下が忘れる約束の管理。婚約者の務めと呼ばれていた仕事の束を、私は殿下の侍従へ引き継いだ。
引き継ぎには、半日かかった。
北の使節には冬の献上品の話題を振らないこと。大聖堂の老司教は、式次第を大きな字で刷り直すと喜ぶこと。殿下は三月の第二週に、必ず風邪をひくこと。
帳面を受け取った侍従は、その厚みを確かめて、少しだけ絶句していた。
「これを……お一人で、なさっていたのですか」
「婚約者の務め、と呼ばれていましたから」
「その……なんと申し上げれば」
「大丈夫よ。もう、私の仕事ではないので」
自分で言って、驚いた。もう、私の仕事ではない。
その夜、十年ぶりに、夢を見ないで眠った。
◇◇◇
春、私は王都を出た。
行き先は、南の丘にある祖母の家。幼い頃、夏だけ過ごした古い家だ。逃げたのではない。父にはそう言った。半分は本当で、半分は強がりだった。
同行を申し出てくれたのはソレンヌだった。
「侍女は連れて行くのでしょう。なら私は、口うるさい友人枠で」
彼女は本当に口うるさかった。食べなさい、眠りなさい、今日は庭まで歩きなさい。
言われるまま食べて、眠って、歩いた。
祖母の家は、記憶より小さく、記憶より明るかった。
台所の柱に、子どもの背丈を測った古い傷が残っていた。八歳の夏の私の高さを、指でなぞる。この家にいたのは、王太子妃候補になる前の、ただの孫娘だった。
村の市場では、誰も私の家名を呼ばなかった。
「丘の上のお嬢さん、今日は卵がいいよ」
八百屋のおかみさんは、三度目からそう呼んだ。家名のない呼び名は、軽くて、あたたかかった。
ひと月が過ぎた頃、屋根の修理のついでに、私は職人へ妙な注文をした。
「屋根を、青くしてください」
「青、ですか。この辺りじゃ見ない色ですが」
「ええ。雨の日でも、遠くから家が分かるように」
なぜそう言ったのか、自分でも分からない。ただ、雨の日に道に迷う誰かのことを、そのとき考えていた。
青い屋根の下で、私は絵筆を握り直した。
水彩は少女の頃の道楽だ。王太子妃教育が始まった十二の年に、時間の無駄だと取り上げられた。
二十二の私は、誰にも断らずに絵の具を買った。
画材屋で筆を選んでいたら、ソレンヌが横から一本足した。
「大きい筆も要るでしょう。空を塗るんだから」
「まだ空なんて描けないわ」
「描くのよ。壁に貼る場所は、もう決めてあるの」
最初の一枚は、ひどい出来だった。二枚目も。十枚目で、ようやく丘の緑が緑に見えた。ソレンヌは十枚全部を居間に貼った。趣味が悪いと言ったら、検品は私の仕事よと返された。
体重が戻り、笑い方を思い出し、夜が怖くなくなった。
夏の終わりには、庭の隅に小さな畑を作った。土いじりは初めてで、最初の大根は指ほどの太さにしかならなかった。
「これはこれで、絵にすると味があるわね」
「食べる話をしているのよ、私は」
ソレンヌと笑いながら、細い大根の絵を描いた。大根は煮たら消えるほど小さかったのに、絵は残った。残るものを自分で選べることが、こんなに嬉しい。
時折、王都の母から手紙が来た。復縁を望む声があること。殿下の評判が落ちたままであること。読んで、暖炉のそばに置いて、返事には庭の花の話だけを書いた。
戻らない、と決めた瞬間は、たぶんなかった。朝の卵と、昼の絵筆と、夜の紅茶を足し続けていたら、戻る理由の方が先に消えていた。
回復とは、劇的な朝ではなく、こういう地味な足し算なのだと知った。
◇◇◇
一年が経った雨の日、片付けものをしていて、旅装の鞄の底から、あの手紙が出てきた。
封蝋のない、小さな手紙。
悪女の置き土産。開けば嘲笑が書いてあるに決まっている。そう思って一年、捨てられなかった。捨てられなかった理由を、私はもう、認めてもいい頃だった。
あの夜の、荷物の重さを確かめるような目。あれは、私を笑う目ではなかった。
膝の上で、手紙を裏返す。宛名もない。一年のあいだ鞄の底で、角だけが丸くなっていた。
ソレンヌを呼ぼうかと思い、やめた。これは、ひとりで読むべきものの気がした。
窓の外の雨音を聞きながら、封を開けた。
便箋一枚。短い、几帳面な字だった。
『あなたは、何一つ悪くありません。
どうか、奪われたのではなく、お返ししたのだと思ってください。
……いつか、傘のお礼をさせてください』
三度、読んだ。
傘に、覚えはなかった。あの方に傘を貸した記憶など、どこを探してもない。
分からないことだらけだった。誰が、何を、どこまで――問いは百もあった。
けれど、便箋の一行目だけは、まっすぐ胸に届いた。
あなたは、何一つ悪くありません。
一年前、三百人の前で欲しかった言葉を、私は青い屋根の下で受け取った。差出人は、世界中が泥棒猫と呼んだ人だった。
私は泣いた。声を上げて泣いて、それからソレンヌに紅茶を淹れてもらった。
泣きながら、あの夜のことを初めて、順番に思い出せた。
朗読のような台詞。荷物の重さを確かめる目。迷いのない足取りで駆けつけた親友。裏口に回っていた馬車。
全部が、ばらばらの偶然ではなかったのだとしたら。
考えて、やめた。組み立てるには、私は材料を持たなすぎる。ただ、一つだけ確かなことがある。あの夜、私は一人ではなかった。それも、思っていたより、ずっと。
真相は、分からないままだ。
それでも、今日のところは、これで十分だった。私は、悪くなかった。誰かがそれを、一年前から知っていてくれた。
「ソレンヌ。私、お礼状を書こうと思うの。……宛先、分かるかしら」
ソレンヌはティーポットを持ったまま、少し黙った。
「……ええ。探せるわ、たぶん」
たぶん、と言ったくせに、その声には、探す人の迷いがなかった。そのことに、そのときの私は気づかなかった。
◇◇◇
雨上がりの午後、私は村へ買い物に出た。
帰り道、また降り出した。にわか雨だ。パン屋の軒先に、学校帰りの子どもが一人、途方に暮れて立っていた。
私は自分の傘を、その子の手に握らせた。
「おうちまで、まっすぐ帰るのよ」
「おねえさんは?」
「あなたが濡れていると、私が寒いの」
子どもは、変な理屈だという顔をした。私は胸を張った。
「大丈夫。私、走るのが得意なの」
嘘だった。走るのは昔から苦手だ。濡れて帰って、ソレンヌに叱られた。
「あなたねえ、傘は自分のために持つものよ」
「ええ。次からはそうするわ」
「嘘おっしゃい」
ソレンヌは呆れて、それから、なぜか少し泣きそうな顔で笑った。タオルを私の頭に載せる手つきだけが、やけに優しかった。
着替えながら、ふと考えた。こういうことを、私は今までに何度しただろう。思い出そうとして、思い出せなかった。傘なんて、覚えているほどのものではないのだ。渡すときは、いつも。
窓の外の、雨の丘を見渡す。
遠くから来る人には、この家の青い屋根だけが、明るく浮かんで見えるはずだ。
いつか誰かが、迷わずに、ここへたどり着けるように。
(了)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
本作は、独立した三部作の一作目です。明日の夕方に二作目【親友の側】、明後日の夕方に三作目【悪女の側】を投稿予定です。同じ一件を、あの夜、別の場所に立っていた人の目で描きます。アデールが知らなかったことの答えも、そちらにあります。
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作者は普段、「前世が地方公務員だったので普通の行政で領地を立て直す」といった、専門職の主人公が異世界の問題を地道な実務で解決するお仕事ファンタジーや、SF短編を書いています。よろしければ、作者ページものぞいてみてください。
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