二 宇宙の招待(1)
八月四日、金曜日、晴天。
八月の初週といえば、一年で一番暑い時期かもしれない。連日の猛暑日に、熱中症の患者者はどんどん膨れ上がっている。
だが、たとえうだるような熱気だとしても、文明の生み出す力はすごい、と薫は思った。
エアコンの利いた部屋の中には、せんべいをかじる音が響き渡っていた。
三兄の宇宙が居間のソファでごろごろとくつろいでいる。
ここは福岡県福岡市の東にある、海沿いの静かな街。薫の母方の祖父母の家だった。
漁港が近いため魚が新鮮でとても美味しい。青魚が苦手だった薫だけれど、こちらで食べた鯵の刺身のおかげで克服したくらいだ。
宇宙はこの家から大学に通っているが、通学時間が一時間以上と長すぎるとのことで、すでに一人暮らしをしたいと愚痴っている。だが、千葉から都内の大学に通うのとさほど変わらないじゃないかと、母に言いくるめられて今に至る。
薫は、この兄が一人暮らしをするのはとても無理なのではと思うので、母の選択は正しいと思っている。
ゴミ箱がすぐそこにあるのにせんべいの袋が床に落ちている。さっき鼻をかんでいたけれど、その残骸もソファの下に落ちている。つまみ上げてゴミ箱に入れるが、彼は何度言っても整理整頓が苦手で、二階にある子ども部屋は三兄のスペースだけぐちゃぐちゃだった。
三兄は兄弟の中では一番奔放な自由人。人の言うことを聞いているようで実はまったく聞いていない。馬耳東風という言葉は宇宙のためにあるのではないかというのは親兄妹、全員が言っていることだった。
その兄が珍しく人の話を興味深そうに聞いている。
瑛太の成績が下がって、そして上がった話だった。
「で、学年二位? やるなあ~。四泊五日の九州旅行っていう餌に釣られた? ここに一緒に来たかったんだ?」
そうなのだ。瑛太は期末テストで見事に成績を上げ、自己最高記録を打ち出した。文句を言わせないと見せつけるようだった。
「まあ。夏休みは遊びたかったから」
と無難な答えを返すけれど、なんとなく瑛太に遊びという言葉は似合わない。
彼の目的はあくまで『神様の名前探し』だ。ここにやってきたのは遊ぶためではなく――。
薫は今回も持たされた、例の旅行計画ノートを密かに開く。
目的地は大きく二つ。天神――太宰府天満宮と、それから八幡――宇佐八幡神社だった。
「遊びねー。いいねえ、女子と旅行! 青春! 俺もそんな高校時代過ごしたかった!」
宇宙はそう言いながら瑛太の肩に手を回してニヤニヤしている。ちなみに瑛太のほうが背が高いのもあって、瑛太のほうが兄っぽい。態度も落ち着いた瑛太のほうが兄っぽい。
(宇宙兄はなあ……なんかチャラいんだよねえ)
ただし、不思議と修造や小島先輩に感じるような嫌な感じはしないが。単に慣れの問題かもしれない。
宇宙は歳が近いのもあって、瑛太を本当の弟のようにかわいがっている。今回も「せっかくだから瑛太を連れてこいよ」という宇宙の言葉もあって、瑛太はこうやって同行することになったのだ。
体育祭のときに告げた宇宙の誘いに、瑛太はすぐに食いついた。試験が終わるなり、航空券を手配したいから日程を教えてくれとメールが来たのだ。
収入源が基本小遣いのみという貧乏高校生の旅となると、まず問題になるのは旅費だった。
だが、夏休み限定でと条件をつければ、ある程度時間に融通がきく。
なにしろ平日の移動が可能。お盆を避ければ格安航空券を利用して、往復一万円ちょっとで成田から福岡への旅も可能なのだった。
といっても薫の場合は、福岡に住む祖母が薫を招待したための旅なので、援助が期待できた。だから瑛太のことだけが心配だった。
二ノ宮家の小遣い制度から考えて、旅行代金がもらえるとは思えない。彼は貯金を切り崩すことになるはずだった。
「瑛太ってさ、お金、大丈夫だったの?」
そう尋ねたら、瑛太は少々不愉快そうな表情で言った。
「この間のお祓いでバイト代、ちょっと多めにもらったし。それに……金は、ある。使いたくないだけで」
「え、どのくらいあるわけ?」
「小学生の時からずっとお年玉とか小遣いとか貯めてたし、あとは親から支給されるバイト代プラス昼飯代文具代服飾代。必要最低限しか使ってないから」
言われて瑛太の普段の生活を想像してみる。
自分で作ったお弁当持ちで学校に来て、服は擦り切れるまで着ているし、髪も年に四回しか切らないのだ。浮いたお金はどのくらいあるのだろう。
(弁当代として一日五百円を貯金するって考えても……え、平日だけで一年間十二万くらい……!?)
よくよく考えるとけっこうな額でぎょっとする。さらに彼はバイトもしているし、他に切り詰めているものを考えてもやはりかなり貯蓄をしているように思えた。
「前から思ってたけど、お金って貯めてどうするわけ?」
「……いつか必要になったときにのために貯めてるだけ」
「いつか?」
「大事なものを諦めないための金だ」
瑛太はそう答え、薫は目を瞠る。もしかしたら理由があって守銭奴なのかもしれないと思える。だとしたら、ここで散財してかまわないのかを心配してしまう。
不安が顔に出てしまったのだろうか。瑛太は小さく笑った。
「とにかく、この交通費は必要経費だからしょうがない。心配ない」
「そりゃあ、彼女と旅行できるんなら安いもんだよなあ。前も二人っきりで京都行ったって言ってたろ? 羨ましい」
宇宙が茶々を入れ、薫はさっきから気になっていたことを問う。
「宇宙兄、なんか勘違いしてない? 彼女って何。いちいちからかうの止めて。鬱陶しいから」
このところ『彼女』とか『幼馴染』とか、関係を表すような言葉に、薫は妙に敏感になっていた。触発されて『この間のこと』が蘇りかけて慌てて頭を振る。
忘れようとはするのだけれど、時折その記憶は急に浮上しては薫の心臓を跳ねさせる。瑛太の手がすごく大きかったこととか、振り払えないくらいに力が強かったこととか。
なにより、あの鋭くてどこか甘い眼差し。
(だああああ! 違うって、あれはカミサマ!)
わたわたとしていると、宇宙がニヤニヤと瑛太に話しかける。
「勘違いじゃないよなー? なぁ瑛太」
「…………宇宙兄は、彼女いないの?」
瑛太は単なる冗談だと気にしていないのだろう。答えずに逆に問いかける。
「いるいる、たくさん」
「それって……彼女じゃないんじゃ……」
瑛太は遠い目をしているが、まあ、宇宙はもてるだろうなというのは何となくわかる。顔立ちは兄たちと同じく整っているし、なにより気さくで人当たりがいいのだ。そういえば、バレンタインもチョコレートをたくさんもらっていた。
長兄は年齢イコール彼女いない歴、次兄は小学生からの一途なおつきあい、そして三兄は奔放――。兄弟でここまでバラエティに富むものなのかと薫が呆れていると、宇宙はニッと楽しげに笑った。
*
「ほんと、あの子は仕事仕事って可愛い孫に何年会わせんつもりね。お盆は帰ってくるって言いよったけど、また一日泊まったくらいで帰ってしまうんやろ」
ぷりぷり怒りながら、薫の祖母――浜田みよ子が食事を運んでいる。
薫は祖母が作った大量の料理を座卓に運ぶ。
広い居間の真ん中にドカンと置かれた大きな座卓には、大皿が三枚。鯵と鯛の刺し身の二種類と、筑前煮。ポテトサラダにコロッケもある。
薫の好物ばかりが並んでいた。
「瑛太ちゃんは何年ぶりかね~」
祖母はころっと機嫌を直して、にこやかに笑う。
「ここには小学生のときに一度お邪魔しました。それからみよ子おばあちゃんが、二年前に千葉にいらした時にもお会いしました」
「そうやったかね。えらい大きくなったけん、びっくりやね――あ、ホームラン!」
祖母の目がテレビに向かう。
ここでは夕食時にはいつだってプロ野球がついている。祖父が大好きだったのだが、五年前に他界した。いなくなった今でも祖母はこうして食事をとるのだろうと思うと胸がきしんだ。
広い家にぽつんと一人だった祖母を思うと、宇宙がここに来てくれてよかったと思う。
通学が多少困難でも居候させた母の気持ちがわかるし、ブツブツ言いながらも宇宙がここに居候しているのは、祖母が心配だからなのだろうと思う。
母は四人姉弟の長女だが、叔父叔母たちは父の兄弟と同じく全国各地に散らばっている。それぞれに同居を申し出ているらしいけれど、祖母は住み慣れたこの街から離れるのを嫌がっている。
母は時折「博多がなつかしか」と呟くことがある。父が定年退職したあとは、祖母のためにもこちらに戻りたいと思っているようだ。
「しばらくお世話になります、よろしくお願いします」
瑛太は正座をすると改めて頭を下げる。
「相変わらず礼儀正しかね。宇宙、あんたちっとはみならいんしゃいよ」
ソファで雑誌を読んでいた宇宙が「はぁい」と返事をしつつにやっとわらう。だがすぐに雑誌に目を落としてしまう。雑誌のタイトルは日経サイエンス。薫の兄たちは揃って理系である。
「瑛太ちゃん、神社に興味があるって? 宗像大社に行くんね? 世界遺産に登録されたし」
祖母が尋ね、薫は否定する。
「あー、えっと、まずは太宰府天満宮と、宇佐八幡宮」
「大宰府はわかるけど……宇佐? 大分やないね? どうやって行くんね?」
「JRで小倉から出てる特急がありますよね」
「ソニックだろ。陸が喜びで発狂しそうなデザインのやつ」
宇宙が口を挟む。そう言えば陸は今回の九州旅行にもついてこようとした。平日だったので会社を休めず断念したが。
「でも八幡様なら、筥崎宮があるやんね」
祖母が不思議そうに問う。
「え? 筥崎宮って八幡なの?」
筥崎宮というのは祖母の家から車で十五分ほどのところにある、大きな神社だ。
「正式には筥崎八幡宮だな。大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡宮とあわせて、日本の三大八幡宮だ」
瑛太が静かに言う。
「祭神は応神天皇。元寇の際に、亀山上皇が『敵国降伏』を祈願して、そのおかげで神風が吹き、元寇を乗り切ったって逸話がある。それもあって、勝利の神様って言われてるな」
流れるように出てくる薀蓄に薫は苦笑いをする。
「ほんと、瑛太って神社オタクだよね」
「いやこれ……教科書か資料集に書いてあったけど。元寇の項目」
「俺でも知ってる~」
宇宙が薫に冷たい視線を送ってくるが、この二人を基準にしてもらいたくないと思った。
瑛太が頭がいいのは置いておいても、宇宙は兄弟の中で一番頭がよかった。上二人も努力型の秀才ではあるけれど、三兄だけは天才肌で、難関大学に一発合格するくらいには優秀なのだ。薫とは頭の出来が少々違う。
「さすが神主さんの孫やねえ」
祖母が千葉に遊びに来たときに、二ノ宮神社に参拝した事がある。氏神様にご挨拶しとかんと、というふうに言っていただろうか。そのときに母が瑛太のおじいちゃんを紹介したのだ。
祖母は昔から信心深い。母がそうではないので、不思議な気持ちになる。
「筥崎宮やったら、明日にでもつれてっちゃるよ。どこに行くにしろ、まずは氏神様にごあいさつせんと」
記憶の中の言葉が重なって、思わず苦笑いが出た。
祖母はあっさりと筥崎宮に行くことにしてしまったらしい。瑛太は僅かに困ったような顔をしつつも、「お願いします」と言っている。
予定を優先させたいのが本音だろうけれど、祖母が嬉しそうだったので断るのが悪いと思ったのかもしれない。
「んじゃあ、俺が運転してく。その足で太宰府まで連れて行ってやろうか?」
薫はぎょっとする。そういえば春休み中に合宿で免許を取りに行くと言っていた。つまりは――免許取りたてだ。
「やめとかない……?」
「初心者の方が注意して運転するけん、かえって安全やろ。でも大宰府はやめときんしゃい。あっこは車多いし、道狭いし危ないけんね」
祖母が後押ししたため、翌日の予定はあっさり決まってしまった。